投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-04-16 02:52:33 (33 ヒット)
デボーションの友

2018/4/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:1-11 賛美 聖歌 260
 イエスが朝早く神殿の境内で民衆に教えられているところに、律法学者たちやファリサイ派の人々の一団がやってきた。彼らは恥辱にうなだれ、恐怖におののく一人の婦人を引き立てていた。イエスの前に来ると律法学者たちやファリサイ派の者たちは訴えて言った「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と。これはイエスを陥れるための悪意に満ちた問いであった。律法学者たちやファリサイ派の者たちは、イエスが「赦せ」と言われたならイエスを「律法を否定する者」として告発することが出来る。一方、「律法に従って石で撃ち殺せ」と言われたならローマ法に反する者として告発することが出来る。またイエスの「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ 19:10)と言う言葉に矛盾するからである。沈黙されるイエスにしつこく問い続ける律法学者たちやファリサイ派の者たちにイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と答えられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って行ったのである。自らを省みることが大切である。

2018/4/17(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書25:1-14 賛美 新聖歌185
 ヨシヤの子ヨヤキムの第四年といえば、紀元前605年である。この年エジプト軍がバビロン軍と戦い、敗北した。それによってエルサレムの脅威は南からではなく、北から押し寄せることになった。エレミヤが預言し続けてきた「北からの敵」が具体的に目の前に迫って来る敵として現れた。この状況においてこれまでに語られてきた預言が再度強調されている。さらに、敵が「バビロン王ネブドレツァルが率いる北の諸民族」(25:8)と名指しで指摘されている。これらの敵が押し寄せた理由は一貫している。民が神の言葉に聞き従わなかったからである。
 既に神の裁きが決定的なものとなっている状況において、預言者はなお民の罪を指摘する。驚くべきは、この切羽詰まった状況においてもなお、民が悔い改めるならば主はイスラエルの地を守ってくださる、裁きを下されないと語られていることである(25:5)。罪びとに対する神の厳しさと同時に、最後まで人々の悔い改めを待って赦そうとされる神の愛の深さを知る。これが自分以外の「罪びと」に向けられた言葉として聞き流すのではなく、自分を省みて神に従おう。

2018/4/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:1-11 賛美 新聖歌 214
 訴える者たちが去った後、イエスは身を起こして「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と言われた。女が、「主よ、だれも」と答えると、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と。これこそ、赦しの宣言である。短文であるが、神の御子が人となり、世の罪を負い、十字架に架かり、血を流し死んでくださった、比類なき贖いの御業に立った宣言である。その御業は愛によって成し遂げられた。この女は贖いの御業はまだ知らない。しかしこのイエスの言葉によって恥辱と恐怖から解放され、喜びと平安と感謝に満たされたのである。ヨハネは「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(汽茱4:18)と述べている。

2018/4/19(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書25:15-38 賛美 新聖歌325
 神の裁きについて続けて語られている。神の裁きを受けるのはエルサレムだけにはとどまらない。神はここですべての国々に対して神の怒りの杯を飲ませると語られる。17節から26節に列挙される国々の名を見ると、エジプトからバビロンに至るイスラエルの周辺諸国が含まれていることが分かる。神はイスラエルの神であると同時に世界を治める神である。神は全地を統べ治めておられるがゆえに、すべての民が神に背く人々に対して注がれる神の怒りの杯から逃れ得ないのである。
 私たちは日々の生活に精いっぱいで、全世界を見渡す目を持てないことがある。また世界に目を向ける時、真の神があらゆるところを治めておられるとは思えないようなことがある。しかし神は確かに全世界を治めておられ、正しい統治をなさることを覚えて主に信頼して歩もう。

2018/4/20(金) 担当 高谷清師  詩 37:14-15 賛美 新聖歌 438
 この箇所についてA. ヴァイザーは「敬度な人々に対するどのような罪の企みもそれ自体のうちに没落の萌しを含んでおり、自ら崩壊せざるをえない。これが彼の揺るぎない確信であり、信仰の見地からいっても当然の確信といえよう。罪そのものがすでに審きなのである。罪の武器は罪人自身に向けられ、自分自身の手中にあって彼を破滅させる。」(ATD旧約聖書註解詩篇上P415ATD・NTD聖書註解刊行会1983))と述べている。ヨハネは「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハ 3:17-19)と述べている。福音を信じないで、「先祖代々の宗教でないから・地域社会の宗教でないから」と、信じる者に反対する人々は、それ自体が彼の裁きとなっているのである。

2018/4/21(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 19:1-10 賛美 新聖歌 340
 ザアカイは徴税人の頭で金持ちでした。しかし、友も無く孤独で寂しい生活を送っていました。そんなある日、イエス様がザアカイの住んでいる町を通られ、彼の家にお泊りになりました。イエス様との親しい交わりの中で悔い改めに導かれ、ザアカイの心は変えられました。強欲一点張りであったザアカイが「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と告白したのです。これを聞いてイエス様は「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と言われました。イエス様こそ、友なく、孤独に悩む人を救ってくださるお方です。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-04-08 23:28:59 (30 ヒット)
デボーションの友

2018/4/9(月) 担当 高谷清師 ヨハ 7:51-52 賛美 聖歌 501
 イエスを殺そうと図る議員やファリサイ派の人々は、ニコデモの「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」と言う抗議に対して「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」という言葉をもって一蹴する。ミカ書には「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(ミカ 5:1)と記されている。更にマタイは「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」(マタ 2:1)と述べている。もっとも、この時点においてはマタイによる福音書は存在しなかった。しかし、議員やファリサイ派の人々は、神に聴かず、イエスの真実を把握せず、断罪したのである。私たちも同じ危険に直面している。常に御言葉と聖霊の導きに心を注ごう。

2018/4/10(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書24:1-10 賛美 新聖歌170
 旧約聖書では「捕囚」についてしばしば語られる。捕囚と言えば、エルサレムが紀元前586年にバビロンに滅ぼされた時に捕虜として連れて行かれ、その先で定住した人々だと考える。しかし実はこの10年前にもエホヤキン王と指導者たちがバビロンに捕囚として連れ去られている。エルサレムに残った人々は最初の捕囚となった人々が神の裁きを受けて滅びる者たちであるのに対して、自分たちは神の裁きを免れ、神の好意と祝福をエルサレムで受け続ける思い、自分の生活が安泰であると考えていた。しかしこの時、神はエレミヤに二つの籠に盛られた無花果を示して、連れ去られた人々が裁きを受けたのではなく、彼らこそが神に選ばれた者であると言われる。
 私たちの周りに起こる状況を自分の都合良く解釈していないだろうか。最初の捕囚を免れた人々が、自分は助かったと考えたことは人間的に理解できる。しかし、神はそうではないと言われた。日々私たちの周囲で起こる出来事を私たちの視点からではなく、神の視点から見て、神の御心を理解しつつ歩めるよう、霊の目を開いて祈り続けよう。

2018/4/11(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:1-11 賛美 新聖歌 397
 この箇所に新共同訳聖書は「わたしもあなたを罪に定めない」と言う見出しを付けている。この箇所について内村鑑三は『是は如何見ても一幅の画である。而かも画家の想像に成りたる画でない。事実を示さるゝにあらざれば如何なる画家と雖も如此き名画を画くことは出来ない。其趣向が全然超人的である。「未だ此人の如く言ひし人あらず」である(七章四六節)。茲にイエスの為人が明かに画き出されてある。イエスは如此き人であつたと言ひて、之を読む何人も驚き且嘆賞せざるを得ない。新約聖書は多数の小福音書より成る福音書であるが、此一編の如き之を全福音の縮写として見ることが出来る。もし此編丈けが存つてゐたとして、イエスの感化は永久に消えない。之を基礎として我信仰を其上に築く事が出来る。』(内村鑑三全集第32巻P224−225 岩波書店1983)と述べている。比類なきイエスの真の姿を見る。

2018/4/12(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書24:1-10 賛美 新聖歌202
 民の予想に反して、主は最初に捕囚として連れ去られた人々が「良し」とされて、彼らに恵みを与え、彼らに目を留め、彼らを約束の地に連れ帰ると言われた。罰を受けたように見えた人々が、実は恵みを受けていたということ自体も驚くべき逆転である。しかしそれ以上に神が彼らを「建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。」(24:6)として、エレミヤ1章10節と同じ表現を用いて神の変わらぬ真実を示されたことが驚きであった。さらに民は自分では神を知ることができなかったにもかかわらず、悔い改めてもいない人々にただ一方的な神の決断により新たに神を知る心を与えて、再び契約を結ばれるという。罪に沈む人々に対する最大の神の愛、無条件の赦しと、神の再創造による関係の回復が与えられる。
 どこまでも民を求め、関係の回復を求められる神の愛と赦しが驚くべき方法で示されている。改めてただ神の恵みにより罪を赦され、生かされ、神との交わりの内に歩ませていただいていることを感謝しよう。

2018/4/13(金) 担当 高谷清師  詩 37:12-13 賛美 新聖歌 361
 詩人は「主に従う人に向かって/主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが、主は彼を笑われる。彼に定めの日が来るのを見ておられるから。」と詠う。エジプトの国で奴隷となっていた民を、神はモーセを立てて数々の力ある業をもって導き出された。民が去った後、ファラオは心を変えて民の後を追い、葦の海のほとりに宿営している民に迫った。前方を海に阻まれ、後方からは訓練され、装備を整えたエジプト軍に迫られ、民は進退窮まった。その時、先頭に立って民を導いていた雲の柱は後方に移り、エジプト軍が民に追いつくことを阻んだ。更に神は前方の海の水を退かせ、民はそこを渡った。民が渡り終えると神は水を元のとおり流れ帰らせ、民を追って海に入ったエジプト軍を滅ぼされた。
 権勢を誇り、主に従う人に向かって牙をむく者の最後を、神は見ておられる。主に従う人々、主を仰ぎ見、信仰によって歩もう。

2018/4/14(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 8:1-3 賛美 新聖歌 438
 主イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、旅を続けておられました。その宣教の旅には十二人の弟子たちのほかに、悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たちやヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも同行していました。彼女たちは信仰と献身によって主の宣教の働きを支えたのでした。彼女達の働きは地味な、陰の部分の働きでしたが、不可欠のものでした。私たちも、与えられた働きが目立つ働きであれ、目立たない働きであれ、心を込めて仕える者になりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-04-01 23:28:38 (35 ヒット)
デボーションの友

2018/4/2(月) 担当 高谷清師 ヨハ 7:45-52 賛美 新聖歌 344
 下役たちの「今まで、あの人のように話した人はいません」と言う答えに対してファリサイ派の人々は「律法を知らないこの群衆は、呪われている。」と言っている。「下役たち」と言われている人々は当時「地の民」と呼ばれており「律法を知らない、呪われている人々」とされていた。一方、祭司長たちやファリサイ派の人々は、律法を正しく知っており、行い、それによって自からの義を主張していた。彼らの考えによればメシアは「メシアの律法をもたらす者であると同時に、イスラエルを異国による支配のくびきから解放し、自ら世界統治の座にすえられるべき強大な王」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書P229 NTD新約聖書註解刊行会1975)でなければならなかった。彼らの知識が、救い主を正しく知ることを妨げたのである。
 今の時代を生きる私たちにとって神について学ぶことは大切である。それは光の天使に偽装した悪魔による霊的な誤りへの誘惑から私たちを守る。一方、神は自由に働かれるお方である。神についての知識に固執すれば祭司長たちやファリサイ派の人々と同じような誤りに陥る危険を伴う。私たちに求められるのは、神について学ぶと共に、常に祈り、聖霊に導かれ、神の御心をわきまえ、従うことである。

2018/4/3(火) 担当 ラウジー満世師 )エレミヤ書23:30-32 賛美 新聖歌373
 エレミヤの時代の預言者は互いに言葉を盗み合い、その言葉を託宣と称して―すなわち神のことばでない言葉を神のことばとして語り―、神の民を惑わした。神のことばを与えられた者と自称して、神の権威を利用して自分の夢を語り、民を惑わしている。大変厳しい言葉である。この様な預言をしていた者が自身の欺瞞を自覚していたか否かは分からない。しかし神はご自身の権威を歪めて悪用し、自己の欲求を満たし、民を偽りへと導く自称預言者達をしっかり見ておられた。そしてこの短い箇所で三度も彼らに「立ち向かう」と宣言されたように、神は彼らを放ってはおかれない。
 自らが神に仕えているという立場を利用して神の権威を悪用していないだろうか。クリスチャンであることを口実にして人々を自分の都合に合うように偽りの道へと導いていないだろうか。神に仕えること、神のメッセージを取り次ぐこと、証しすることのめぐみと同時に責任の重さを認識しつつ、主の導きによって語る者であるようにと祈り求めよう。

2018/4/4(水) 担当 高谷清師 ヨハ 7:47-49 賛美 聖歌 196
 議員やファリサイ派の人々は、イエスが安息日に「ベトザタ」と呼ばれる池のほとりで行われた癒しと、それに続いて語られた「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」という言葉によってイエスを殺そうと図るようになった。そして仮庵祭の時にイエスを捕らえるために下役たちを遣わした。しかし下役たちはイエスを捕らえることが出来ず、空手で帰ってきた。議員やファリサイ派の人々は下役たちを「律法を知らないこの群衆は、呪われている。」と罵った。その時、ニコデモが議員やファリサイ派の人々の矛盾を指摘して「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」と言った。律法を知っている議員やファリサイ派の人々が律法に反することを行っていたからである。今日、「聖書は誤りなき神の言葉であって、信仰と生活の唯一の規範である」と告白しながら、実務において聖書をないがしろにする指導者が無きにしも非ず、である。しっかりと御言葉に立って見極めよう。

2018/4/5(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:33-40 賛美 新聖歌361
 ここでは新共同訳聖書に示されているようにヘブル語の語呂合わせを用いた厳しい言葉が語られている。主の託宣(マッサ)は何かと問う人々に対してこの民こそが重荷(マッサ)だと答えられる。この強烈な皮肉を聞くと私たちは驚く。この皮肉は人々を驚かせるためだけに用いられたのではない。それに続く神の裁きが重要である。自分勝手に神のことばを作り出して自分の思いを神のメッセージとして脚色して語る人々は、神にとって喜びではありえない。そしてこの重荷となる人々を神は投げ捨てることもおできになる。偽りの神のことばを語る者が預言者であれ、民であれ、祭司であれ、その立場に関わりなく神の御心に従ってその罪に対する裁きを受ける。
 今日でも軽々しく神のことばを自分に与えられた取り次ぐべきメッセージとして語ろうとする人々は多い。その時に預言をすることに対する憧れによって動機づけられて簡単に語ってはならない。本当に神からのメッセージであるかどうか、神の前にへりくだって祈り、聖霊の臨在の中で確認し、語ることに対する神に対する責任を自覚しつつ語るべきである。

2018/4/6(金) 担当 高谷清師  詩 37:9-11 賛美 新聖歌 225
 神を信じない人々について主は「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」(ルカ 13:34-35)と語っておられる。またパウロは「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)と述べている。彼らは滅びに定められているのである。にもかかわらず、彼らが繁栄の道を歩んでいることについてぺトロは「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(競撻 3: 9)と述べている。神を信じない人々が繁栄の道を歩んでいるのは、彼らの滅びを悲しまれる神の忍耐によるのである。それ故、わたしたち求められるのは彼らを愛し、彼らのために祈り、救いの言葉を伝えることである。

2018/4/7(土)担当 高谷由紀子師 マルコ 16:9-11 賛美 新聖歌 127
 復活の主はまずマグダラのマリアに御自身を現されました。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人です。悪霊から解放されたマリアはその後、復活された主に最初に出会ったのです。イエスを拝したマリアはすぐに、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせました。マリアは復活の主を拝した時に、その事実を自分の心のなかだけにとどめず、他の弟子たちに伝え、復活の証人となりました。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-03-25 23:12:25 (57 ヒット)
デボーションの友

2018/3/26(月) 担当 高谷清師 ヨハ 7:45-52 賛美 新聖歌 242
 イエスを捕らえるために遣わされた下役たち空手で帰って来た時、祭司長たちやファリサイ派の人々は、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。マルコは、イエスがカファルナウムで安息日に会堂に入って教えられた時「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マコ 1:22)と記している。これに対してファリサイ派の人々は「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」と言った。「祭司長たちやファリサイ派の人々」は聖書を学び、「聖書を知っている」と自認する人々であった。彼らはイエスの前に自分の知識を持って立った。一方、「群衆・人々」は「深い知識」を持たず、虚心にイエスの前に立った。ヨハネは『イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。』(ヨハ 4: 44)と記している。御言葉の前に立つとき、虚心坦懐な心をもって聞こう。

2018/3/27(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:23-24 賛美 新聖歌154
 神と私たち人間との適切な距離とはどのようなものだろうか。クリスチャンである私たちは日々神との親しい関係において、主の臨在を感じながら歩みたいと願う。祈りや賛美を通して神の御前に出る。さらに私たちの内に住まわれる聖霊によって日々変えられている。それと同時に神は天と地を満たす方であることもみ言葉を通して知っている。今日、聖霊の働きについて強く語られる時代にあって、私たちは神が近くにおられることを感謝しつつ歩んでいる。この中で忘れてはいけないこともある。それは、私たちは神に近く歩む恵みを与えられているが、神と本質的に同じ存在ではない、私たちは神ではないということである。エレミヤが体験したように、預言者として語る言葉は外側から彼を捉え、彼に言葉を与えて語らせる。エレミヤ自身の思想を夢に見て語ったわけではない。
 神と近く歩ませていただいている大きな恵みを感謝しつつ、天地を満たしておられる神の偉大さを知り、人間である私たちとは本質的に異なる神のことばを真摯に受け止めてそれを取り次ぐ者でありたい。

2018/3/28(水) 担当 高谷清師 ヨハ 7:47-49 賛美 新聖歌 181
 下役たちの「今まで、あの人のように話した人はいません」という報告に対して、ファリサイ派の人々は「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」と言った。ファリサイ派の人々はイエスをメシアと信じない根拠として、第一に、議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいないことを挙げている。今日、日本において福音が伝えられる時それを拒む理由として多くの日本人が挙げる点である。主は「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタ 7:13-14)と教えている。救いに至る道は多数決ではない。神の啓示と聖霊の導きである。

2018/3/29(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:25-29 賛美 新聖歌366
 エレミヤの同じ時代の預言者に対する彼の厳しい批判は続く。当時多くの自称預言者達が夢に基づいて神のことばとしての預言を取り次いでいた。驚くことにエレミヤはこのような夢の解き明かしの預言をする者たちを、彼らは欺き偽る預言者だと批判し、彼らこそが民を惑わしていると述べる。真の神は言葉をもって預言者の生涯に介入し、人びとに迎合する言葉ではなく、必要に応じて焼き尽くす火のように罪と汚れを清めるための悔い改めを促す言葉を語るとエレミヤは述べる。
 今日でも「預言をする」ことは人々の心をつかみ、憧れを起こさせる。しかし神のことばを託されて人々に語るということは、自分の思いを投影した夢や幻を安易に解き明かして語ることではない。もちろん聖書において夢や幻の解き明かしを通して神の御心が明かされることはあり、それを全否定するのもまた間違いである。しかし、なお、神と人間の本質的な違いを聖霊の導きにおいて正しく認識し、預言を語る時に畏れと大きな責任をもって語らなければならない。

2018/3/30(金) 担当 高谷清師  詩 37: 7 賛美 新聖歌 222
 詩人は「怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。」と語る。神を信じないで悪を行う人を見て怒り、憤ってはならない。怒りや憤りは人を罪に導くからである。私たちが日常生活を送る世は、サタンの支配下にあり悪に満ちている。私たちはそのような罪の世に在って罪の生活を送り、死んでいた者であったが、神の憐れみと恵みによりキリストの血によって義とされ、世に対してキリストの救いを伝える使命を与えられた者である。主は「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタ 5:43-45)と教えておられる。宣教の業は愛によってのみ、可能である。

2018/3/31(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 23:39-43 賛美 新聖歌 32
 イエス様が十字架に架かられた時、イエス様と一緒に二人の犯罪人が十字架に架けられていました。そのうちの一人は自分の罪を悔い改めることをせず、議員たちと同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と、イエス様を罵っていました。これに対し、もう一人の犯罪人は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」とたしなめ、更に「この方は何も悪いことをしていない。」と言い、イエス様に向って「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。それに対してイエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。
 この記事から、私たちが御国に受け入れられるために求められるのは悔い改めと信仰であることが分かります。罪を悔い改め、信仰によって歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-03-18 23:22:52 (63 ヒット)
デボーションの友

2018/3/19(月) 担当 高谷清師 ヨハ 7:40-44 賛美 新聖歌
 イエスの語られたことを受けて、「イエスは誰か」と言うことについて群衆の間に対立が生じた。ある人々は「この人は、本当にあの預言者だ」と言い、ある人々は「この人はメシアだ」と言い、またある人々は「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」と言って、イエスがメシアであられることを否定した。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰12:3)と述べている。イエスをメシアと認めることが出来るのは聖霊の働きによるのである。イエスをメシアと認めることが出来なかったのは不完全な自らの知識に頼った人びとであった。
 聖書はイエスが再び来られると述べている。その時、不完全な自らの知識に頼ってイエス様を見誤ることが無い様、常に目を覚まして祈り、聖霊と共に歩み続けよう。

2018/3/20(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:13-15 賛美 新聖歌206
 預言者は神のことばを人々に伝える者である。神に従って歩む人々を導く立場の預言者が、ここでは明確にその罪を指摘されている。預言者自身の生活が姦淫という悪に染まり、彼らは偶像の名によって預言を行う。そして預言者こそが人々を罪と汚れに導いていると言われる。
 本来神の前に正しく人々を導くべき指導者の間に悪が満ちているという状況は大変衝撃的である。しかし今日でもこのような状況が起こり得ることを無視してはならない。指導者として立てられた人々も人間である限り罪に陥る可能性がある。それゆえ神に召されて仕える人々は、常にみ言葉に従って正しく歩んでいるかと自分を省みなければならない。また、教会も指導者が正しく主の前に歩むことができるように祈らなければならない。主の憐れみと導きによって教会が正しく歩むことができるよう、祈ろう。

2018/3/21(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:44 賛美 新聖歌 206
 イエスの言葉を聞いた者たちの中にはイエス捕縛のために使わされた祭司長たちやファリサイ派の下役たちがいた。彼らはイエスを捕らえようと思ったが、手をかけることが出来なかった。マタイは、イエスが語られる時の様子について「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マタ 7:28-29)と記している。イエスは神から遣わされた御子であり、神の権威をもって語られた。それ故、時が満ちて神の御心、贖いの御業の成就のために自らを委ねられるまでは何人もイエスに手をかけることはできなかったのである。
 社会生活においてキリスト者ゆえに不当な扱いを受けることがあるかも知れない。困難に直面することがあるかも知れない。しかしイエスは「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタ10:29)と語っておられる。すべては神のみ手の中にあることを覚え、信仰によって歩もう。

2018/3/22(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:16-22 賛美 新聖歌21
 エレミヤはここでも激しく預言者達を批判している。なぜ預言者の言葉を聞いてはいけないのか、あるいはどのような預言者の言葉を拒否すべきだというのだろうか。エレミヤは預言者達が人々に空しい望みを抱かせていると述べている(23:16)。すなわち、人びとが神のことばである律法に聞き従わないで罪の中を歩んでいるにもかかわらず、彼らに平和を保証するような言葉を語る者は真の預言者ではないと語っている。本来神の救いは人々が神のことばに従い、神に背いていたことを悔い改めるときに与えられる。それがないままに平和と救いを約束する言葉は神から出たものではありえない。
 神のことばが語られるとき、常にその内容が聖書に従って吟味されなければならない。またそれは聖霊の導きに従ってなされなければならない。

2018/3/23(金) 担当 高谷清師  詩 37:7 賛美 新聖歌 458
誠実に神に従う者が苦難の歩みを強いられ、悪事を謀る者や不正を行う者が繁栄の道を歩むのを見る時、誠実に神に従う者の心に「主よ、何故ですか」との問いが起こり、悪事を謀る者や不正を行う者が悠々と繁栄の道を歩むのであれば、「自分もそのように」との誘惑が忍び寄る。ここで悪事を謀る者や不正を行う者の理不尽な行いによって苦難の歩みを強いられながら勝利を得た詩人が「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。」と教える。A. ヴァイザーは「静かに神を待ち望む姿勢は棚ぼた式に与えられるのではない。それは人間的な自我の主張に対する自分との苦闘を通して得られる勝利の栄冠である。・・・信仰によって静かに神を待ち望み、自己を克服することを学んだ者にとっては、策略をめぐらす敵たちの成功ももはや全く気にかからない。」(ATD旧約聖書註解詩篇上P414 ATD・NTD聖書註解刊行会1983)と述べている。御言葉に立ち、聖霊に教えられ、導かれ、助けを得て勝利の道を歩もう。

2018/3/24(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 12:13-21 賛美 新聖歌 315
 金銭は人が社会生活をしていくうえで必要不可欠なもの一つであり、生活を快適にするものの一つでもあります。それ故、お金さえあればどんなことでもできると思い、金銭至上主義の生活をする人が現れて来ます。
 イエス様は「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」とお願いした人の願いを取り上げ「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」と語り、畑が豊作だったある金持ちの例を取り上げて、人に命を得させるもの、本当に大切なものについて教えられました。世の富ではなく、神の国の富を求めて歩みましょう。


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