投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-09-16 22:59:27 (31 ヒット)
デボーションの友

2018/9/17 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:7-9 賛美 新聖歌 238
 7節においてイエスは「わたしは羊の門である」と語られる。イエスはまた「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ14: 6)と語っておられる。ぺトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と語っている。この箇所についてジョン・C・ライルは「イエスが宣言されたことは、ご自身が門であり、羊も羊飼いも神の囲いに入ろうとするなら、信仰によってこの門を通らねばならないということである。『もし神の群れに加わろうとするならば、すべての羊は例外なく私を通らねばならない。また神の群れの牧者のなろうとする者は誰でも、わたしを見てその職務につかなければならない。』(ライル福音書講解ヨハネ2P472聖書図書刊行会1987)」と述べている。
 イエスを信じる以外に救いはない。イエスを知るだけではなく、イエスを信じる信仰によって救いの恵みの内を歩もう。

2018/9/18(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書37:1-10 賛美 新聖歌282
37章からゼデキヤ王の時代に入るが、この時からエレミヤがエジプトに連れて行かれるまでの彼の苦難が客観的に記されている。バビロン王ネブカドレツァルによって王に据えられたゼデキヤはエレミヤの預言を聞く耳を持ち、二人の高官を送っている。当時バビロン軍は南からの支援軍であるエジプトを見て一時エルサレムの包囲を解いた。一時的に好転した状況でエレミヤに二人の使者を送ったゼデキヤ王は見通しの明るい預言を聞くことを期待していたかもしれないが、神は一時的に好転した様な状況が続くことはないと語られた。
 人は目の前の刻々と変わる状況に一喜一憂し、少しでも状況が好転すれば神の裁きが撤回されるという楽観的で根拠のない肯定的な期待を持つ。しかし裁きはそれによって変更されない。重要なのは刻々と変わる戦況ではなく、心からの悔い改めである。神の前にへりくだって罪を悔い改めることを神は求めておられる。

2018/9/19(水) 担当 高谷清師 ヨハ10: 7-9 賛美 新聖歌 252
 イエスは更に「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」と語られる。この箇所についてジョン・C・ライルは「「わたしは神に近づく道である。すべてわたしによって父のもとに来る者は、牧者であれ信徒であれ、わたしを通して平安と自由を見出し、魂のために尽きることのない食物を得ることができる。」(中略)「出入りし」という表現は、住居として自由に用いるという慣習を表しており、囲いを家のように使っていることを示す。これがヘブル人の考え方である。それは言うなれば、真の信者が喜びとする、キリストとの絶えざる交わりを美しく描写しているものと言える(ライル福音書講解ヨハネ2P475−476聖書図書刊行会1987)」と述べている。イエスを通って、イエスを信じて神のもとに行くとき、神との深い交わりに入れられ、神の満ち満ちる祝福に与ることが出来るのである。

2018/9/20(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書37:11-16 賛美 新聖歌165
 カルデヤ軍、すなわちバビロン軍がファラオの援軍を見て一時的にエルサレム包囲を解いて撤退した時、エレミヤには少しの自由が与えられた。郷里で必要な手続きをするために出かけて行ったエレミヤはすぐさま捕えられてしまう。これがエレミヤを捕えるための言いがかりだったのか、本当に彼が敵に投降することを恐れての措置であったのかは語られていない。しかし監禁されたエレミヤが受けた扱いは厳しいものであった。高官たちに痛烈な批判をしてきたエレミヤに、彼らは今敵意を露わにして彼を長期間拘束した。
 私たちは「神はどうしてエレミヤを即座に救出されず、苦しみの中に放置されているのか」と問いたくなる。たとえ神に従っている人であっても、神はこのような苦しみの状況にしばらく置いておかれることもある。神に従うことは常に人が求める最高の安全が約束される道ではない。それでも神に対して忠実であり得る秘訣は神への信頼である。

2018/9/21(金) 担当 高谷清師  詩 38:22-23 賛美 新聖歌 233
 ダビデは「主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。わたしの救い、わたしの主よ/すぐにわたしを助けてください。」と祈る。彼は自らが犯した過ちの故に神に打たれ、負わされた傷は膿んで悪臭を放っていた。そのような彼を、愛する者も友も避けて立ち、彼に近い者も、遠く離れて立つ有様であった。このような状況のなかでも彼は神に近付き、神の助けを求める。この箇所についてルターは「神は捨てられた者でないと、受けいれない。病人でないと、健康にしない。盲人でないと見えるようにしない。死人でないと、生かさない。罪人でないと、救わない。愚者でないと、賢者にしない。要するに、神は悲惨な者でないと、あわれまない。不遇のうちにいる者でないと、恵まない。それゆえ高慢な聖徒や賢者、あるいは義人は、神の仕事の材料になりえない。彼らは神のわざを自分のうちに受けいれないで、自分自身のわざにとどまり、自分自身を、外観上の、偽りの色づけをして捏造した聖徒、すなわち偽善者にする。」(マルティン・ルター 詩篇講解抄P187新教出版社1961))と述べている。真実に悔い改め、自らを低くする者を神は受け入れられる。

2018/9/22(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 21:20-23 賛美 新聖歌 337
死から復活された主は弟子たちに会い、三度「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。ぺトロが主に従って行き、振り向くと、共に主に仕えてきたエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えたので「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言いました。これに対して主は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われました。私たちが信仰生活を送っていくとき、周りの人のことがいろいろ気になります。あの兄弟はなぜ集会を休むのか、あの姉妹はなぜ奉仕をしないのか・・・。しかし主は「あなたは、わたしに従いなさい。」と言われます。周囲の人々に関係なく、自分と主との関係において全身全霊をもって主に従いましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-09-09 23:13:03 (30 ヒット)
デボーションの友

2018/9/10 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:1-6 賛美 新聖歌 389
 ファリサイ人たちが「我々も見えないということか」と言ったのに対してイエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と語られた。それに続いてイエスは「はっきり言っておく。」と言って語り始められる。この言葉を口語訳は「よくよくあなたがたに言っておく。」と訳しており、新改訳は「「はっきり言っておく。」と訳している。イエスが重大な事柄を話される時に語られる言葉である。この箇所では羊飼いと盗人・強盗についてである。当時のユダヤにおいては、牧羊は日常見られる光景であった。羊飼いたちは自分の羊を大切にし、一匹一匹名前を付け、朝、羊を囲いの門を通って連れ出し、先頭に立って導き、草を食べさせ、水を飲ませ、その間、あらゆる危険から守り、夕べには囲いの中に導き帰した。羊飼いたちは羊があらゆる危険から守られ、豊かに命を得る為に必要な、あらゆることを行ったのである。これが真の牧者の姿である。

2018/9/11(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書36:11-20 賛美 新聖歌436
 エレミヤ書を読んでいると同時代の真の預言者が命を奪われたり、エレミヤ自身も歓迎されなかったりということからエレミヤが完全に四面楚歌の状況にあったという印象を受ける。確かにエレミヤ自身、敵対する人々から様々な迫害を受けたり、語ることを妨げられたりするということを経験した。その中で、今日のテキストは驚くべき状況を伝えている。バルクがエレミヤを通して与えられた神のメッセージを聞いた高官の中に、この言葉を真剣に受け止めて王に伝えようとした人々がいた。更に彼らはエレミヤとバルクに危険が迫ることを予測して二人の安全を確保しようとした。
 これを読む時、最悪の時代、最悪の状況で真実を語ることについての一つの希望を見出す。誰一人神の言葉を真剣に受け取らないような状況、いやそれどころか真実を語ることによって身の危険にさらされるような時代でも、神が言葉を伝えようとされるならばそのために立てられた奉仕者が守られ、神の言葉が確かに聞くべき人に向けて語られる。私たちもこのことを信じてたゆまず福音を伝えて行こう。

2018/9/12(水) 担当 高谷清師 ヨハ10:1-6 賛美 聖歌 501
 一方、この箇所では盗人であり、強盗である者の姿も描かれている。彼らは門を通らないでほかの所を乗り越えて来る。彼らの目的は、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするため、つまり、羊の利益のためではなく、自分の利益のためである。イエスは羊について「ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」と言われる。ヨハネは真の羊飼いと盗人であり、強盗である者の見分けについて「しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。」(汽茱2:20)と述べている。ジョン・C・ライルは「真のキりスト者は霊的な直観力を持っており、それによって真の教えと偽りの教えとを識別することができる。彼らは健全でない教えを耳にすると、「これは間違っている」という内なる声を聞き、真理が語られる時には、「これは正しい」という声を聞くのである。鈍感な世の人々は、それぞれの牧師たちや説教に、どのような違いがあるかはわからない。これに対して、一般に、どんなに愚かなキリストの羊であっても、なぜ違うのかその理由は説明できないとしても、「違いを識別する」ことができるであろう。(ライル福音書講解ヨハネ2P459−460聖書図書刊行会1987)」と述べている。常に聖霊の証に耳を傾け、聖霊の導きによって歩もう。

2018/9/13(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書36:21-32 賛美 新聖歌389
 王に仕えていた役人たちの中にはエレミヤの預言を真剣に受け止めて王に伝えた人々がいた。しかしようやく王の耳に届いたこの言葉も王の心に届くことはなかった。王はこの言葉を聞きながら、読まれた巻物を破り、火に焼いた。これは王がどれほど神の言葉と神ご自身を軽んじていたかを雄弁に物語っている。王は書き記された言葉が成就するわけはないと侮っていたのだろうか。あるいは巻物を燃やすことによって語られた絶望的な将来が取り消されると考えたのであろうか。しかしどれほど人間が神の言葉を拒んだところで神の言葉はその力と権威を失うことはない。主は巻物を燃やしてしまった王に対してさらに具体的に彼自身の死と子孫についての災いを告げられる。そしてそれが歴史において成就する。
 人が何を企てようとも、神が権威をもって語られた主のことばはそれによって廃止されることはない。神の言葉は必ず成就するのである。怖れと真実をもって神の言葉に聞き従おう。

2018/9/14(金) 担当 高谷清師  詩 38: 17-21 賛美 新聖歌 394
 ダビデは「わたしは今や、倒れそうになっています。苦痛を与えるものが常にわたしの前にあり、わたしは自分の罪悪を言い表そうとして/犯した過ちのゆえに苦悩しています。」と告白する。この箇所についてカルヴァンは「信仰者が世俗的な人間と異なるのは、逆境を通じてみずからの罪咎を知らせられると、へりくだって、神のさばきの座に出頭する点にある。かくのごとく、しるしと結果とによって原因を思い見て、ダピデはふたつの事柄を一緒に包括する。すなわち、打ち倒され・転倒して、禍の重荷のもとに足が滑るということ、しかして、これらの災厄は正当な処罰であるということ、のふたつをひとつに結びつける。(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑16新教出版社1971)」と述べている。それに対して敵対者たちは、この機会をとらえて、強大になり、偽りを重ね、善意に悪意をもってこたえる。このような状況にあってダビデは「わたしの足がよろめくことのないように」祈る。
 この時点のダビデのような境遇に立たされると人は敵対者たちを非難し罵り彼らの不当を暴き、非難しょうと言う思いに駆られる。しかしダビデは神の御心を受け入れ、祈り、御手に委ねる。これが信仰者の道である。

2018/9/15(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 18:18-23 賛美 新聖歌 427
 金持ちの議員は財産も地位もあり、この世においては不測の無い、豊かな生活をしていました。しかし、自分の内で何か足りないものを感じていました。そこで主を訪ね、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。財産はこの世の生活においては安全と快楽をもたらすでしょう。道徳は栄誉と信頼を得させるでしょう。しかし、それらは永遠の命を受け継ぐ保証とはならないのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハ 14:6)と言われた主を信じる信仰だけが私たちに永遠の命に得させるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-09-02 23:08:01 (156 ヒット)
デボーションの友

2018/9/3 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:39 賛美 新聖歌 282
 イエスは「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と語られる。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハ 3:16-17)と述べている。それに続いて「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:18)と述べている。イエスは世を裁くために来られたのではなく、世が救われるために来られた。しかし、イエスの御名が伝えられる時、彼を受け入れる者に救いを得させ、拒む者を死に定める。私たちの宣教はこのように重大な意味を持つ。故に、宣教においては、御名以外に、十字架以外に躓きとなるものがあってはならない。

2018/9/4(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書36:1-4 賛美 新聖歌35
 36章にはエレミヤの言葉がどのようにして書き記されたかが記録されている。これが書き記されたのはヨヤキムの第四年、すなわち紀元前605年であった。この年にはパレスチナの支配権が南のエジプトから北のバビロンに移った。エレミヤにとっては最初から語り続けてきた「北からの敵」が姿を表してきたという時であった。神の言葉の実現が目に見えて迫ってきたときにエレミヤは危機感をもって神の指示の通りにこの言葉を書き記した。神が既に語ってこられた言葉をあらためて記録し、人びとに読める形で伝えられたことには明確な期待と目的があった。それはこの災いの預言を聞いた人々がそれぞれの悪の道から立ち帰ることへの期待であった。
 神の言葉は迫り来る危機を神が取り除くことによって人々の恐怖を拭い去ることを目的として書かれたのではなく、人びとの罪の結果としての避け得ない裁きを告げられた時に、自分の罪を認識して立ち帰る―悔い改める―ために書かれている。義に導くのに有益な神の言葉(競謄皀3:16)である聖書をこのようなものとしてもう一度読み直したい。

2018/9/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:40-41 賛美 新聖歌 38
 39節のイエスの言葉を受けてファリサイ派の人々は、「我々も見えないということか」と言った。それに対してイエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と言われた。ファリサイ人たちは、律法とその知識に精通していることを誇り、それをもって十全とし、謙虚に真理に耳を傾けることが出来なくなっていた。それによって彼らは「見える」と主張しながら盲目になったのである。
 20世紀から現代にいたる時代は科学万能の時代である。20世紀半ばに少青年時代を過ごしたわたしは、科学が発達した時代においては科学によって証明されないものは無いと考え、神秘的なもの、霊的なものはすべて迷信として退けた。科学によって、人間の知恵・知識によっては解決できない問題に遭遇するまでは。
 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」これは現代に対する神の警告の言葉でもある。

2018/9/6(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書36:5-10 賛美 新聖歌38
 エレミヤの預言がバルクの手で書かれた時、エレミヤはバルクにそれを主の神殿で朗読するように命じた。朗読の日は断食が布告される日であった。この日にはエルサレムの住民だけではなく、ユダの町々の民も神殿に集まっていた。神の言葉は一部の祭司たちやエルサレムの限られた人数の人々のためにだけ朗読されたのではなかった。多くの人々が読み上げられた神の言葉を聞くことができるようにこの日が選ばれた。そしてこの断食の日に読み上げられたということは断食の日が示す通り、これを聞いた人々がそれぞれこの言葉に応答して立ち帰り、悔い改めることが期待されていたのであった。
 神の言葉は解釈されて宣言された説教を通して人々に届けられ、また、記された文書、書物を読むことによって人々に届けられる。限られた権力者にだけ伝えられるものではなく、すべての人に語られ、それを聞いた人々に言葉への応答を促すものであった。私たちも主の御言葉に応答して主と共に歩もう。

2018/9/7(金) 担当 高谷清師  詩 38:14-15 賛美 新聖歌 279
 16節を新改訳(15節)は「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。」と訳し、カルヴァンは「なぜならば、主よ、わたしはあなたを待ち望むからです。わが主、わが神、あなたはわたしに筈えられるでしょう。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑14新教出版社1971)と訳している。逆境に立たされたダビデを見て、彼を避けて立つ愛する者、遠く離れて立つ近親者、命をねらって罠を仕掛ける者、欺こう、破滅させよう、と決めて一日中それを口にする者、ダビデに災いを望む者達を前にしてダビデは沈黙を守った。ダビデが沈黙を守ることの出来た力の源泉は、神がダビデの祈りに答えてくださると言う信仰であった。神は「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩 50: 15)と約束しておられる。またパウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:3-5)と述べている。主に信頼して歩もう。

2018/9/8(土)担当 高谷清師 マタ 8:5-10 賛美 新聖歌 347
 一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。これを聞かれたイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。これに対して百人隊長は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と答えた。この答えを聞かれたイエスは感心して「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と言われた。
 主は「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタ 7:21-23)と語っておられる。神の求められる信仰は御言葉を聞いてそれを行うことである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-08-26 23:22:16 (41 ヒット)
デボーションの友

2018/8/27 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:34 賛美 新聖歌 404
 この段落はファリサイ人が「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出したことによって閉じられる。神は、律法をイスラエルが神との関係を正しく保ち、命に歩むために与えられた。しかし、ファリサイ人たちは律法の真意を無視し、文字にこだわり、自己を絶対化し、外形的に律法を守り得ない者を罪人として排除した。このようなファリサイ人に対して主は「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」(マタ 23:13)と述べておられる。明治の時代、当時の教会の状態について厳しく批判し、警告を発した人物がいた。しかし当時の教会はその批判を光として自らを吟味するのではなく、自己保身欲から彼を異端者として退けた。当時、この批判に真摯に向き合っておれば、日本社会における今日ほどの教会の凋落は避けられたのではないだろうか。パウロは「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」(フィリ 2:21)と述べている。謙って自分を捨て、イエス・キリストを求めよう。

2018/8/28(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書34:8-22 賛美 新聖歌396
 債務奴隷の処遇を巡っての出来事が記されている。律法によって同胞であるイスラエルの奴隷を時が満ちたら解放しなければならないと定められていた。この神の命令を民は蔑ろにした。一旦心からの悔い改めをもって解放すべき奴隷を解放したにもかかわらず、態度を翻して再び彼らを奴隷としている。これは神に背く罪であった。神は契約に背く人びとを死に引き渡すことによって解放すると言われる。
 神に従うということは一時の気分によって気が向く時だけ言うことを聞くというようなものではない。生涯かけて従い通すということである。当然そこには心から自発的に従うという姿勢が伴わなければならない。形式だけ整えた、一時的な従順で神の御心に適う者となることはできない。

2018/8/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:35-38 賛美 新聖歌 427
 彼が会堂から追い出されたことをお聞きになったイエスは。再び彼に出会い、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は既にイエスを預言者として(17節)、癒し主であるとして(32節)、神のもとから来られた方であるとして(35節)認識していた。そのような彼にイエスは「あなたは人の子を信じるか」即ち「人となられた神」を信じるかと問うておられる。それに対して彼は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と答えている。するとイエスは「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と答えられた。すると彼は「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた、即ちイエスを神と信じ、礼拝したのである。ヨハネは第一の手紙において「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(汽茱5:5)と述べている。私たちの信仰はイエスを神の御子、唯一の救い主と信じることである。

2018/8/30(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書35:1-19 賛美 新聖歌388
 ここでは突然レカブ人が登場する。主はエレミヤを通して彼らが父祖の命令を守るか否かを試された。エレミヤが彼らの父祖から受け継いできた教えを破るような申し出をしたときに、彼らは躊躇なくエレミヤの申し出を拒んでいる。またその理由も、これまで忠実に守ってきた父祖の教えをバビロンの攻撃を受けてエルサレムに避難しているという非常時においても例外なく守るためであるとはっきりと述べている。突然言及されているこのレカブ人を通してユダの人々は自らの神に対する態度を問われる。レカブ人が父祖の教えに対して忠実である一方、ユダとエルサレムの住民は主である神に従わない、不忠実な者だと示され、災いを告げられる。
 神があらゆる事態において、その民に求めておられるのは「従順」である。神の民やクリスチャンというタイトルを持つことだけでは不十分である。日々神の恵みに応えて神の言葉に従う生き方を選び取っていくことを私たちは求められている。

2018/8/31(金) 担当 高谷清師  詩 38:14-15 賛美 新聖歌 444
 逆境に立たされたダビデを見て、彼を避けて立つ愛する者、遠く離れて立つ近親者、命をねらって罠を仕掛ける者、欺こう、破滅させよう、と決めて一日中それを口にする者、ダビデに災いを望む者達を前にしてダビデは「わたしの耳は聞こえないかのように/聞こうとしません。口は話せないかのように、開こうとしません。わたしは聞くことのできない者/口に抗議する力もない者となりました。」と語る。逆境に陥った時、彼に背を向け、彼の言葉を無視し、陥れようとするのは世の常である。ダビデはこの時、一切聞かず、口を開かず、神に委ねた。イザヤは主イエスについて「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」(イザ 53: 7)と預言している。マタイは裁判の席における主イエスについて「そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」』(マタ 26:62-63a)と記している。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12:19)と述べている。逆境の時、試練の時も主を信頼し主に委ねよう。

2018/9/1(土)担当 高谷清師 マタ 24:36-39 賛美 新聖歌 372
 主はご自身が再びおいでになる時について語られる。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」それはノアの時と同じであると言われる。神は、地が神の前に堕落し、不法に満ちているのをご覧になって、洪水をもってこの地を滅ぼすことを決意し、ノアに箱舟の建造をお命じになった。ノアは神の命令に従い、命令通りに箱舟を建造した。そして人々に警告し、箱舟に入るように勧告した。しかし人々にはノアの勧告はたわごとにしか響かず、人々は肉欲のままに生活した。一方、ノアを通して語られた神の警告は確実に実現し、箱舟に入ることを拒んだものはすべて滅ぼされた。主が再び来られる時もそれと同じであると言われる。それ故、私たちは今日も神のみ言葉に忠実に歩もう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-08-19 23:18:23 (36 ヒット)
デボーションの友

2018/8/20(月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:26-29 賛美 新聖歌 345
 イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたユダヤ人たちは、癒された元盲人に対して再び「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」と尋ねる。それは15節においてファリサイ派の人々が発した質問であり、その時癒された盲人は「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」と答えている。ユダ人たちが再び同じ問いを発したのは、癒された元盲人に対し自分たちの主張に沿って「イエスは罪人である」と言わせ、神に栄光を帰させないためであった。しかし元盲人は「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。」と答え、更に「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」と語る。ファリサイ人たちは神がモーセに語られたことに基づく宗教的権威を振りかざしてイエスの御業と栄光を否定しょうとする。それによってイエスにおける神の自由な恵みの御業を受け入れることが出来ないのである。しかし神は生きておられるお方であり、自由に働かれるお方である。権威と伝統は重んじなければならないが、それは聖霊による神の自由な恵みな働きを否定するものであってはならない。

2018/8/21(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書33:14-26 賛美 新聖歌247
 将来における神の回復の業が述べられている。ユダの崩壊という差し迫る現実を目の前にしている中で語られたダビデの家が絶えることがないという約束である。これは天地の造り主である神の約束であるがゆえに力がある。しかし厳しい現実の中にある人びとには信じがたい宣言であった。それゆえに19節で、神ご自身が語られた回復を確実に与え、民を憐れむと宣言されている。具体的な神の救済の宣言を信じたくてもなかなか信じることができないほど厳しい現実に直面している民がどのようにして信仰を奮い立たせることができるだろうか。それは現実を見ることや同胞に頼ることにはよらない。そのような中で信仰を奮い立たせる根拠はただ神がどのようなお方であるかというこの一点に尽きる。神はかつて契約を結ばれた神であり、天地万物を創造された神である。だからこそ希望のない現実の中で救いを大胆に語ることがおできになる。
 私たちの信仰が試されるとき、ただ神が創造者であり憐れみ深い神であることを知る時に、疑うことなく再び信仰を奮い立たせることができる。日々神との関係を建て上げ続けたい。

2018/8/22(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:30-34 賛美 新聖歌 346
 ファリサイ人たちの「あの者がどこから来たのかは知らない。」という言葉に対し癒された元盲人は「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。」と答え、更に「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。」と語っている。神は罪人の祈りはお聞きにならない。その罪によって神から断絶しているからである。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きくださる。彼は自分の癒しをイエスの祈りが神によって聞かれた結果とし、更にそれはイエスが神の許からこられたお方の証であると語る。
 主は「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハ14:11)と語っておられる。イエスの御業を通してイエスを神の子と信じるのである。

2018/8/23(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書34:1-7 賛美 新聖歌315
 当時ユダは北方のバビロンと南のエジプトという二つの大国の間でどちらに頼ることが有利であるか画策していた。この時、ユダのゼデキヤ王はエジプトの援助を当てにしてバビロンの支配から逃れようとしていた。しかしバビロンの脅威はユダに差し迫り、ユダの要塞の町々が陥落していった。エルサレムにまで危機が迫る中でエレミヤは主のことばをゼデキヤ王に伝えている。それは気休めの慰めと平穏を語る言葉ではなかった。王自身はバビロンに連行される。しかしその中でも悲惨な死を遂げるとがないという、かすかな憐れみが語られている。この現実的な裁きにおいて、預言者はなお神に主導権があることを伝えており、王が神に服従し、正しい道を歩むよう励ましている。これによって最悪の結末を免れるかすかな希望を与えている。
 神は気分に任せて民に対する裁きと恵みを与えられるわけではない。いかなる時にも神を信じる人びとが神に従い、正しく応答することによって神の憐れみが示されるのである。日々神の前にどのように歩むかが大切である。

2018/8/24(金) 担当 高谷清師  詩 38:12-13 賛美 新聖歌 205
 ダビデは「疫病にかかったわたしを/愛する者も友も避けて立ち/わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。わたしに災いを望む者は/欺こう、破滅させよう、と決めて/一日中それを口にしています。」と訴える。ダビデが順風満帆の時には彼を誉めたて、周囲に集まってきた者たちも、一旦逆境に陥ると彼らはダビデから距離を置くようになり、親族さえも離れて立つようになったのである。そればかりではなく、今まで鳴りを潜めていた敵対者たちは罠を仕掛け、破滅させようと日夜談合を繰り返すのであった。このような状況は世の常であり、今日も変わることはない。しかし、主は「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハ14: 18)と約束しておられる。いかなる時にも主は信じる者と共にいてくださるのである。

2018/8/25(土)担当 高谷由紀子師 マコ 2:13-17 賛美 新聖歌 311
 イエスは通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。この招きに応じてレビはイエスに従った。ある日、レビはイエス様一行を招いて食事の席を設けた。そこにはイエスと弟子たちと共に、レビの同僚であった徴税人や罪人が席に着いていた。これを目にしたファリサイ派の律法学者は、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。世の人々は自分の正しさを示すために罪人との交わりを断とうとする。しかし主は罪人を招いて悔い改めさせ、義とするために来てくださった。イエスに来る人はすべて彼によって義とされるのである。


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