投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-11-04 22:52:52 (29 ヒット)
デボーションの友

2018/11/5 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:18 賛美 新聖歌 127
 「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。」と語られたイエスは「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」と語られる。この福音書の2:19においてもイエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と語っておられる。また使 2:24-32においてはキリストの復活が父なる神の業に帰されている。更に汽撻3:18 は「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」と述べて、キリストの復活が聖霊なる神の業に帰されている。ジョン・C・ライルは「これらすべてから結論できることは、キリストの仲保者としてのすべての働きの場合と同様に、復活も三位一体の各位格の共同のわざであるということである。(ライル福音書講解ヨハネ2P498聖書図書刊行会1987)」と述べている。イエスは命を捨てることもでき、それを再び受けることもおできになるのである。

2018/11/6(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:18-22 賛美 新聖歌390
 さらに強い言葉でエジプトに行ってはならないと警告されている。主のことばは明確である。神の言葉に従わず、またもやエジプトに頼ろうとするならば、今度はエルサレムの陥落を経てそこに住むことを許されたこの残された人々もまた二度とエルサレムを見ることがなくなると言われる。彼ら自身が主へのとりなしの祈りを求め、主のことばを求めたにもかかわらず、また主のことばに聞き従おうとしない。うんざりするほど不従順な姿である。しかしこれが現実であった。
 同じ過ちを私たちも犯していないだろうか。口では主のことばを求めると言いつつ、自分の意に沿わない御心が示されたならば絶対に主に聞き従おうとしない。そこに待ち受けているのは死である。神を侮るうわべだけの信仰者になってはならない。主を求めるということは主に聞き従うという姿勢があってこそ、私たちを主にあって成長させる信仰の歩みとなる。

2018/11/7(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:19-21 賛美 新聖歌 316
 ヨハネは「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。」と記している。ある者たちは「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」と言い、ほかの者たちは「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」と言ったのである。イエスは「「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(マタ 10:34-36)と語っておられる。真理が掲示される時、その真理にどう応答するかについて人びとの間に対立が生じる。私たちは、たとえそれが少数派であっても、真理の言葉にアーメンをもって応答する者でありたい。聖霊の導きと助けを祈る。

2018/11/8(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書43:1-7 賛美 新聖歌185
 主のことばが伝えられた時、民はこれに聞き従わなかった。彼らは神の言葉を真っ向から否定する代わりに、預言者が神の言葉を受け取ってはいない偽預言者だと非難した。どれほど人びとの心が罪深いかと、驚かされる。しかし既に自分たちの思いに従ってエジプト行きを決定した民は、決してもう一度立ち止まって注意深く考え、本当の主のことばを吟味することをしなかった。影響力の強い指導者の言葉に引きずられるように民は神の言葉を蔑ろにしてエジプトへ行った。
 神の言葉に従うことの難しさがここにも見て取れる。神の愛を知り、神に罪赦され、神に感謝し、賛美して歩む,神を信じる人びとが、この神の言葉に喜んで従うことはごく自然なことである。にもかかわらず現実にはやはり多くの場合、人は神の導きよりも自分の都合を優先する。本当に神の言葉を聞き分ける者をも否定し、攻撃し、排除してまでも。そのような状況に陥らないために、私たちは日々聖霊の導きを謙虚に求めて主と共に歩ませていただかなければならない。

2018/11/9(金) 担当 高谷清師 詩 39:13-14 新聖歌 458
 自らに降りかかった艱難が自らの罪咎によるものであり、それが神から出たものであることを知った詩人は、「わたしは御もとに身を寄せる者/先祖と同じ宿り人。」と告白し、先祖たちと同じように、永遠者の前には、自らが儚い存在であることを告白する。「あなたの目をわたしからそらせ/立ち直らせてください/わたしが去り、失われる前に。」と祈る。この箇所についてA. ヴァイザーは「この信仰の苦闘を物語った貴重な証言が重苦しい気分を残すのは、僅かな例外を除いて旧約聖書の考え方が死の壁という制約を持っていることからきている。作者もこの制約を越えて展望することはできなかった。(中略)われわれにとってはこれこそキリストの死と復活による全き救いの必然性を示す、沈黙の、しかも雄弁な証なのである。キリストの復活を通して初めて人間は、罪と死の力からの解放を与えられたのである。」(ATD旧約聖書註解詩篇上P433ATD・NTD聖書註解刊行会1983))と述べている。恵みの時代に生かされていることを感謝し、堅く立って信仰の歩みを全うしょう。

2018/11/10(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 17:11-19 賛美 新聖歌 172
 イエスがエルサレムに上って行かれる途中、ある村に入られた時、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言いました。イエスは彼らを見て「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。彼らは、そこへ行く途中で清くされました。自分がいやされたのを知った彼らのなかの一人が、大声で神を賛美しながら戻って来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝しました。この人はサマリア人でした。イエスは「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われました。そしてその人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。イエス様から受けた恵みに心から感謝する者となりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-10-28 23:18:27 (27 ヒット)
デボーションの友

2018/10/29 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:17 賛美 新聖歌 211
 イエスは「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」と語られる。イザヤ書において神は「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザ 53:12)と語っておられる。またパウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリ 2:6-9)と述べている。御子は父なる神の愛に応えて、愛によって父なる神の御心を行い、それ故に父なる神は御子を愛される。その愛は御子によって信じる者に及ぶ。

2018/10/30(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:7-17 賛美 新聖歌165
 残されたユダの人々がエレミヤのもとに来て今後歩むべき道を神に聞いてほしいと願ったとき、エレミヤは主に祈ることを受け入れた。状況は切迫している。彼らはエルサレム陥落後にバビロンがこの地に送った総督ゲダルヤを殺したため、報復を受けることを恐れていたのである。この人々は一刻も早く安全な地に逃れたい思いでいっぱいだった。もちろんエレミヤ自身もこの緊迫した状況を理解していた。誰もが一刻も早く神の御心を聞きたかったのである。しかし主のことばはすぐにはエレミヤに臨まなかった。エレミヤはこの状況で十日間祈らなければならなかった。
 この十日間は「たった十日間だけ」と受け取られるだろうか?命の危険が迫る中、十日もただ待つということは気の遠くなる話であった。しかしエレミヤは神の言葉を自作しなかった。待つべき時は待たなければならない。たとえ状況が切迫していたとしても。私たちも信仰生活において「待つ」ことを学びたい。

2018/10/31(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:18 賛美 新聖歌 112
 イエスは「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。」と語られる。この箇所についてジョン・C・ライルは「主はこのことばによって、御自分の死が全くの自発的な死であることを教えられた。地上の羊飼いは自分の群のために死ぬであろうが、それは自分の意に反してである。しかし信じる者たちの偉大な羊飼いは、自らの意志によって御自分のいのちを罪のためのささげものとする。キリストはなにか大きな力によってそうするように強いられたり、義務づけられたりしていたわけではない。キリストが進んで捨てるのでなければ、誰ひとりとしてそのいのちを奪うことはできないのである。キリストは、御自身を私たちの罪のための贖いとしてささげることを誓約されたので、「自ら」いのちを捨てられた。キリストは、罪人たちを愛するがゆえに死なれたのであって、ユダヤ人やポンテオ・ピラトの兵卒などの力に屈したのではなかった。(ライル福音書講解ヨハネ2P497聖書図書刊行会1987)」と述べている。イエスはただ愛の故に命を捨ててくださったのである。

2018/11/1(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:7-17 賛美 新聖歌341
 十日間待って与えられた神の答えは明白であった。神は下した災いを悔いている、すなわちもはや神の怒りは過ぎ去り、憐れみが正義の要求に勝っていると言われる。そうして民を「立て、倒しはしない。植えて、抜きはしない」(42:10)と言われる。1:10で言われていた通り、裁きと破壊のときは終わり、再建のときが来たと言われる。そしてここにもやはり条件が伴う。もし民がこの国にとどまるならば、というのである。それに反してエジプトに行くなら救われないという。その選択肢を示しつつ、バビロンの王を恐れるなと語られる。神はこの新たな導きを示しつつ、民が恐れの故に従うことができないという危険性を良く知っておられた。
 恐れはしばしば信仰の妨げとなる。しばしば私たちも体験することである。神に頼ることによって心の中にある恐れを乗り越え、主と共に歩むところに救いと守りが与えられる。聖霊の力によって神に頼りつつ歩もう。

2018/11/2(金) 担当 高谷清師  詩 39:11-12 新聖歌 32
 詩人は、自らに降りかかった艱難が自らの罪咎によるものであり、それが神から出たものであることを知った時「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。」と語った。そして「わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。」と祈る。更に「あなたに罪を責められ、懲らしめられて/人の欲望など虫けらのようについえます。ああ、人は皆、空しい。」と語る。この箇所についてカルヴァンは「神のみ手がわれわれを圧倒しいわば地に打ち倒すまでは、われわれはみずからの空虚さを知ることによって、己れのうちにあるすべての思い上がりを捨て、身を低くしようとしないからである。すべての人間が愚かにもみずからを喜ばせ、いな、みずからに拍手かっさいを送るのは、神が彼らを猶予される間だけ、彼らが進んで目を堅く閉じ、自分の弱さを見ようとしなしないからでないならば、いったい何ゆえであろうか。それだから、彼らに生得的な倣慢から、彼らを浄化する唯一の救治策は、彼らが神の怒りを感じて恐ろしくなり、自分自身を不快に思うだけでなく、全く身を低くすることにある。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑29ページ新教出版社1971)と述べている。人は、自ら企画した事柄の成果を字画自賛し、神の目からの評価を求めようとしない。しかしパウロは「人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」(汽謄5:3)と述べている。神のみ前に謙虚に立ち聖霊の光の中で自らを吟味し、神の御心を歩もう。

2018/11/3(土)担当 高谷由紀子師 ロマ 1:16-17 賛美 新聖歌 282
 パウロは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」と言っています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創 15:6)と記されているとおり、アブラハムが義とされたのは彼の行いによってではなく、信仰によってでした。ダビデは行いによらずに神から義と認められた者の幸いについて「いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(詩 32:2)と詠っています。自らは罪ある者である私たちも、自らの行いによらず、私たちの罪のために十字架に架かって下さった主を信じる信仰によって義とされている幸いを心から感謝しましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-10-21 23:43:51 (36 ヒット)
デボーションの友

2018/10/22 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:16 賛美 新聖歌 238
 イエスは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と言われる。ファリサイ人や律法学者たちはユダヤ人だけが神に選ばれた民であり、神の約束にあずかる唯一の者であると考えていた。パウロは当時の異邦人について「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」(エフェ 2:11-12)と述べている。ユダヤ人からこのように言われていた異邦人も、イエスにおいては、ご自分の民であり、イエスは彼らのためにも十字架に架かって下さったのである。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」(創18: 18)と語られているように、地のすべての人々はキリストによって神の祝福に入れられるのである。

2018/10/23(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:1-6 賛美 新聖歌345
 エレミヤのもとに民がやって来て今後の対応について神に尋ねてほしいと申し出た。これまでエレミヤが語り続けてきた神の言葉に全く耳を貸さなかった人々がここに願い出ていることは驚きである。彼らは真剣に求めている。最初はエレミヤの神である主に祈ってほしいと語っていたが(42:2)、エレミヤが彼ら自身の神であることを強調するにつれて(42:4)、神が自分たちの神であると言っている(42:6)。神は誰の神なのかという表現はここで起こっている事態の中では取るに足りない小さな出来事であるかのように感じられる。しかし民が神を「我々の神」であると認識することは彼らと神との関係性を示している。信仰がない者に「主は私たちの神です」と告白することはできないからである。
 42章の終わりでは結局民は神の御言葉に従うことはなかった。しかしそれ故にこのひと時、垣間見えた神に従うという意志は単なる演出であったとは断言できない。人の心は絶えず揺れ動き、信仰も不安定になることがある。それゆえ日々聖霊の導きを求めて今日も神の御心を求めて従うことができる者としていただこう。

2018/10/24(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:16 賛美 新聖歌 266
 続いてイエスは「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と語られる。パウロは「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エペ 2:14-18)と述べている。
 人はキリストにおいて互いに平和を得、一つとされるのである。キリストによって歩もう。

2018/10/25(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:1-6 賛美 新聖歌155
 民が神の御心を聞いてほしいと願った時、エレミヤは即座に承諾して神の言葉の一部だけをかいつまんで民に伝えるということはしなかった。エレミヤは彼らの申し出を承諾し、主に祈ると答えたが、絶対に神が確実に民の行くべき道を示されるとの根拠のない確約は与えなかった。ただ、もし主が答えをくださる、ならそのすべての言葉を民に伝えると約束した。罪に満ちた時代に正しく神の言葉を聞き取り、民に伝え続けたエレミヤは当然神の答えを聞くと私たちも期待するが、エレミヤは期待に応えて神が答えられるのは当然だとは考えていない。また神の言葉を聞いたならばそれを余すところなくすべてを伝えるべきことを認識していた。
 神の言葉を聞き取り、語ることの責任の重さを再度考えさせられる。み言葉を取次ぐ説教者達はいつも神の前にへりくだって聖霊に導かれて真理を語らなければならない。今日の時代に様々な預言をするという者は、本当に神の言葉を正しく聞き取って神の言われたことだけを伝えねばならない。神の言葉であると主張しつつ自分の思いを語る誘惑はいつの時代にも存在するのだから。

2018/10/26(金) 担当 高谷清師  詩 39:9-10 新聖歌 384
 詩人は「あなたに背いたすべての罪からわたしを救い/神を知らぬ者というそしりを/受けないようにしてください。」と祈った。彼は自らに降りかかった艱難が自らの罪咎によるものであり、それが神から出たものであることを知った時、「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。」と語る。カルヴァンは「神の力強いみ手のもとに身を低くし、これに逆らって抗弁することなしに、神のさばきに服することが、われわれの信仰の重要な修練のひとつであることを、われわれも知ろうではないか。さらにまた、人間が平静に、また安らかな魂をもって、神に従うのは、彼らが神はその欲せられることすべてを、絶対的な大能をもってなしとげられるだけでなく、正しいさばき主であられることを.きわめて堅固に確信する時である。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑27新教出版社1971)と述べている。ヘブライ人への手紙は「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブ 12:5-11)と述べている。主の鍛錬を、感謝をもって受け入れ、耐え、主の栄光をあらわす器と変えられよう。

2018/10/27(土)担当 高谷由紀子師 マコ 7:24-30 賛美 新聖歌 302
 フェニキアの生まれの女は異邦人であり、神の恵みの約束の外に生きる人であった。この女が汚れた霊に取りつかれた幼い娘を癒していただくために主イエスのところにやって来た。主はこの異邦人の女に対して最初は「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と答え、ユダヤ人が優先であると言われた。ところが、女は、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と言い、ユダヤ人が優先されることは認めながらも、異邦人も心をとめていただくよう、熱心に求めた。主イエスはこの女の熱心な信仰に応えて娘を悪霊から解放された。契約によってユダヤ人に限定されていた神の恵みはイエスキリストによって全世界の人々に及ぼされたのである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-10-15 00:12:27 (41 ヒット)
デボーションの友

2018/10/15 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:14-15 賛美 新聖歌 233
 イエスは「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」と語られる。イエスはご自分の羊を知っておられる。それも―父なる神が御子を知っておられ、御子が父なる神を知っておられるように―である。三位一体の奥義については、到底人間の理解力の及ばない事柄であるが、そのような深さにおいてイエスはご自分の羊を知っていて下さるのである。また「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」(マタ10:30)と語っておられる。
 イエスは私たちが自分を知る以上に、私たちの弱さ、状態、必要としているもの、・・・・・すべてを知っていてくださり、愛と慈しみの御手をもって導いてくださるのである。全幅の信頼をもって従おう。

2018/10/16(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書40:1-12 賛美 新聖歌181
 エルサレムがバビロンの手に落ちた後、エレミヤにはバビロンに行くかユダの地に留まるかどちらかの選択権が与えられた。この時にもはっきりと親衛隊の長の口からエルサレムの現状は主なる神から与えられた災いであり、その原因はユダの人々が罪を犯して神の声に聞き従わなかったからだと告げられる。エルサレムの人々にとっては国が滅ぼされ、町が占拠されるという悲しむべき現実に直面している時ではあったが、それでも聞こえてくるのは同情や憐れみの声ではなく、明確な裁きとしての滅びの宣言であった。しかもそれが皮肉なことにネブザルアダンから告げられる。
 しばしば私たちは自分の誤った行為の結果ひどい体験をしたときにはもうこれだけつらい思いをしたから赦されると考える。しかしここではその中でもなお罪によって起こったと言われ、人々はその言葉によって自らの罪と向き合うよう導かれている。罪を犯したときにすべきことは神の前に告白し、悔い改めることである。

2018/10/17(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:14-15 賛美 新聖歌 449
 この箇所についてなお一つの事柄について見なければならない。神はサムエルに「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(汽汽 16: 7)と語っておられる。またヘブライ人への手紙は「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブ 4:12)と述べている。神は私たちが自分でも気づかない、または心の奥深くに秘める思いを見分けておられるのである。それ故、パウロは「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エペ 4:22-24)と述べている。私たちは神のみ前に悔い改め、常に純なる心をもって歩む者であろう。

2018/10/18(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書40:13-41:18 賛美 新聖歌248
 バビロンが指名したゲダルヤの統治によって情勢が落ち着くかに見えたが、イシュマエルはゲダルヤを暗殺し、さらにサマリアから来た多くの人々を虐殺した。イシュマエルは王族の一人であったから、ダビデ王家の血をひく者であった。神がダビデの裔から指導者を選ばれるとするならば、この人がその者であると、彼につき従っていた人々は期待していたのだろうか。しかしこのエルサレム陥落の混乱した時代において預言者を通して告げられるべき神の言葉は語られていない。神が何度も警告されてきた罪のための滅びの現実を前にして、人びとは今こそ神に祈り、導きを求めるのではなく、彼らの目に良いと映る王家の血筋の者に追従している。
 困難な状況が続くと人間は、神はいないとか、神は死んだとか言い始める。そしていなくなってしまった神を求めても仕方がないから自分の力で歩もうとする。イシュマエルの時代も現代も変わりない。しかし神と共に歩む私たちは、いつも神が共にいてくださることを信じ、あらゆるときに神の導きを聞き分けて進んでいこう。

2018/10/19(金) 担当 高谷清師  詩 39:9-10 新聖歌 449
 詩人は「あなたに背いたすべての罪からわたしを救い/神を知らぬ者というそしりを/受けないようにしてください。」と祈る。この箇所についてカルヴァンは「みずからの罪咎から救い出されるように乞い求めるとき、彼は自分が艱難と耐え忍ばなければならなかった責めは、すべてみずからのうちにあることを認めていることになる。彼は単にあるひとつの罪のゆえに、みずからを咎めるのではなく、多くの罪過のゆえに、罪ありとされるのは当然である、と告白しているのである。これは、われわれが災禍の軽減を求める場合に、保持すべき通則である。根源が根絶やしにされないかぎりは、われわれの災禍は終わることなく、次から次へと速やかに現われるであろう(中略)われわれを悩まし苦しめる艱難の軽減を求めるのではなく、その原因や根源にまで〔遡って〕辿り、神がわれわれの罪をわれわれに帰することなく、われわれが当然受くべき有罪判決を取り去られることを、学ぶのである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑26新教出版社1971)と述べている。
 ヨブは信仰者であったが、神と対面するまでは、自分の義を主張した。人に真の自己の姿を認識させ、悔い改めに導き、平安を得させるのは論理的証明ではなく、祈りにおける神との人格的交わりである。

2018/10/20(土)担当 高谷由紀子師 使 6:1-7 賛美 新聖歌 419
 弟子の数が増えてきた時、使徒たちは「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」と提案し、一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせました。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いたのでした。こうして、召された者たちが祈りと御言葉の奉仕に専念することによって教会は大きく成長していきました。私たちも、召された者たちがみ言葉と祈りの奉仕に専念できるよう、支えていく者になりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-10-07 23:05:34 (51 ヒット)
デボーションの友

2018/10/8 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10: 10-11 賛美 新聖歌 225
 イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と語られる。ダビデは「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」(汽汽17:34-36)と語っている。良い羊飼いであったダビデは命を懸けて羊を守ったのである。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(汽茱1:7)と述べている。イエスは私たちの罪を清め、救うために命を捨ててくださったのである。

2018/10/9(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書39:1-14 賛美 新聖歌170
 ついにエルサレムが陥落するときが来た。エレミヤは何度もこのことを告げてきたが、人びとはエレミヤを通して語られる神の言葉に耳を傾けなかった。ゼデキヤ王も何度もエレミヤとの会見を重ね、そのたびにバビロンに降伏することが神の御心であると聞いてきたが、彼自身の決断力のなさと高官を恐れる心の故に最後まで神の言葉に聞き従わなかった。神は滅びを目前にした人々に対して明確にその罪を指摘し、救いのために神に従う道を示された。しかし皆それぞれの言い分を主張して従わない。最終的に彼らに臨むのは主のことばの成就である。神の言葉の通りエルサレムは滅ぼされた。ゼデキヤは捕えられた。神は憐れみの故に、罪びとに対してでも間近に迫る裁きを警告し、救いの道を備えられる。それを受け取るか否かは聞いた人の応答次第である。
 私たちは神に対してどのように応答しているであろうか。喜ばしいメッセージだけを受け取り、悔い改めを迫る言葉は無視していないだろうか。神が従順であれと語ってくださる間に神に従おう。

2018/10/10(水) 担当 高谷清師 ヨハ10: 12-13 賛美 聖歌 502
 ここでイエスは羊飼いと自称するが、自分の羊を持たない雇い人について語られる。彼は託されている羊が自分のものではないので狼が来ると、危険が迫ると、また羊を飼うことによって自分の上に不利が降りかかりそうになると羊を捨てて逃げ去る。彼が心にかけているのは羊のことではなく、自分のことだからである。まことの羊飼いは羊のために命を捨てられたイエスご自身である。そしてよい羊飼いはイエスの心を自分の心として羊を愛する者である。ぺトロは「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」(汽撻5:1-3)と述べている。各々が聖霊の導きを求めつつ判断しょう。

2018/10/11(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書39:15-18 賛美 新聖歌248
 エベド・メレクはかつてエレミヤがユダの高官たちの手によって監視の庭にある水だめに投げ込まれて命を落としそうになった時にエレミヤを助けた人である(38:7-13)。39章ではエルサレムが敵の手に落ちた時にゼデキヤ王が経験した周りの人々の死と自身のバビロンへの連行とが記されており、それに続いてエベド・メレクの救いの約束が語られている。エベド・メレクはバビロンと戦い破滅へと突き進んでいく時代のうねりの中にあって預言者の苦境を目の当たりにし、大胆にも優柔不断な王に願い出てエレミヤを助けた。大きな時代のうねりの中で彼の行動はこの国の神への不従順を変えるほどの影響力は持たなかったが、この小さな信仰の行為を神は見ておられた。そして彼に国の混乱と滅びとの渦中で救いの約束が与えられた。
 大きく時代が変わり、一人の正しい行動が社会に何の影響も及ぼさないだろうという希望が見えない中でも、神は正しい一人の行動を見ておられる。そしてその信仰に報いてくださる。あらゆる状況において正しく歩むことの大切さをここに見ることができる。

2018/10/12(金) 担当 高谷清師  詩 39:6-8 新聖歌 302
 詩人は「御覧ください、与えられたこの生涯は/僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも/すべて空しいもの。〔セラ ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし/だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。」と詠う。小畑進師は日本文学における人生の虚しさを語るものとして『徒然草』の一段「蟻のごとくにあつまりて、東西に急ぎ、南北にわしる。高きあり、賎しきあり、老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕にいねて、朝に起く。いとなむところ何事ぞや。生を食り利を求めてやむ時なし。身を養ひて何事をか待つ。期する所、ただ老と死とにあり、その来ること速やかにして、念々の聞にとどまらず。これを待つあひだ、何のたのしびかあらむ。まどへるものはこれをおそれず。名利におぼれて先途の近きことを顧みねばなり。愚かなる人は、またこれを悲しぶ。常住ならむことを思ひて、変化の理を知らねばなり」(第七十四段)。」(小畑進 詩篇講録上P511−512いのちのことば社2007))という文章を引用しておられる。人は自己の存在を示そうとしてあくせくする。しかし人の存在は永遠から見る時、一瞬でありすべての労苦は空しい。私たちの存在を意味あらしめるもの、それは神だけである。

2018/10/13(土)担当 高谷由紀子師 マコ 6:17-29 賛美 新聖歌 459
 ヘロデは自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しょうとしたときバプテスマのヨハネに「あの女と結婚することは律法で許されていない」と指摘されたことに腹を立て、ヨハネを捕らえさせ、牢につないでいました。ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいました。ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからでした。ヘロデが、高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて自分の誕生日の祝いの宴会を催した時、ヘロディアの娘が踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせました。ヘロデは娘に「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言いました。娘はヘロディアにそそのかされて「洗礼者ヨハネの首を」と言ったのでヘロデは当惑し、非常に心を痛めましたが、自分の体面を保つため、娘の要求を聞き入れました。ヤコブは「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコ 1:15)と述べています。人の歓心を買おうとするなら、真理に歩むことはできないのです。


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