投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-04-08 23:51:48 (721 ヒット)
デボーションの友

 


2012/04/09(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:12-19  賛美 心の中でメロディを20

 著者はここで「あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい」と警告する。「信仰のない悪い心」とは不信仰である。信仰者が信仰を持ち続けるためには多くの戦いがある。信仰者が信仰をもち続けるための戦いについて主は種まきの譬え(マタイ13:1−23)において語っておられる。とりわけ、日本のような異教の国に住む信仰者にとっては、戦いは大きい。若い時はそれほど切実ではないとしても、家庭をもち、社会的責任(地域的・親族的)が増すにしたがってその戦いは増大していく。また信仰の先輩に対する躓き、等わたしたちを不信仰に陥らせようとする要素は枚挙にいとまがない。またイスラエルの荒野の旅路において不信仰に陥り、神に反抗した人々についても、渇き、食物等理由はあったであろう。しかしそれらをもって不信仰を正当化することはできないのである。堅く信仰にとどまろう。

 



 


2012/4/10(火)担当 高谷満世師 サムエル記上16:1-5前半 賛美589 聖歌

 サムエルはすでに主に退けられたサウルを惜しんでいた。しかし主はそこにとどまることを良しとされず、次の王に油を注ぐために出かけていくよう命じられた。これはサムエルにとっては気の進まない難題であった。このことによってサウルに命を狙われる危険性も感じていただろう。

 私たちは普段、主に仕えることの祝福に注目することを好む。聖書の中で主の僕たちが人々から受け入れられ、尊敬される姿に目が行く。しかしこの時のサムエルの状況は、時として主に仕えることは命がけであることを教えてくれる。主に従う中で、命の危険を感じるほどの状況において、それでも主に仕える献身を必要とすることもある。そのような奉仕においてすら神は私たちを守るために必要な知恵を与え、その奉仕をさせてくださる(2-3節)。

 困難な奉仕が求められることがあっても、主に信頼し、主に知恵を頂き、主の言葉を信じて歩もう。

 



 


2012/04/11 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:12-19 賛美 聖歌340

 続いて「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい」と勧められている。わたしたちは日々不信仰―罪との戦いを強いられている。また罪は、そして誘惑者―悪魔はしばしば光の天使に偽装して迫ってくる。それらから守られるために教会の交わりを絶やしてはならない。教会の交わりにおいてこそキリスト者は互いに祈り合い、教え合い、助け合い、励まし合って勝利し正しい道に歩むのである。著者は10章においても「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか(ヘブ 10:25)」と言っている。

 



 


2012/04/12(木)担当 高谷満世師 サムエル記上16:5後半-13 賛美 聖歌578

 サムエルはいよいよエッサイの息子たちと会い、その中から主に選ばれた者に油を注ぐ時が来た。長男エリアブはかつてのサウルのように(9:2)立派な姿であった。しかし神はエリアブと他の六人の兄弟を選ばれなかった。彼らの容姿は優れており、人の目には素晴らしいリーダーになる器として映ったが、神は人が見るのとは違った見方で見られる。かつてギデオンを選んだように、神は弱いものを選ばれる。また苦難の僕の姿が傷にまみれ、苦しみを受けて人の目には華やかでなかったように、外見上、人が選ぶのとは異なる基準で神の選びはなされる。サムエルも最初は姿の美しい兄を見て神の選びの器だと思った(6節)が、神はサムエルを導いてご自身が選ばれたダビデに油を注がれた。そしてその日からダビデには主の霊が激しく下り、主がともに居られることが示された。

 私たちはどうしても人の外面によってその人が主の働きにふさわしいか判断したくなる。それは他者に向けられることもあれば自分に向けられることもある。しかし神の選びは人の選びとは基準が違う。神との交わりの中で常に主の導きを求めよう。

 



 


2011/04/13(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:12-19   賛美 聖歌396

 「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです」と語っている。「キリストに連なる者」とは12:28で語られる「揺り動かされることのない御国」を受け継ぐ者のことである。そうなるためには「最初の確信を最後までしっかりと持ち続ける」ことが必要である。イスラエルの民は神の声を聞き、モーセに率いられて意気揚々とエジプトを出た。しかし試練の中で大多数の人々が不信仰に陥り、神に反抗し、約束の地に入ることができず、死骸を荒れ野にさらしたのである。福音を聞き、キリストを信じ、救いの恵みに与かった私たちにも、御国に入れられるまでの旅路には多くの試練が待っている。わたしたちは終りの日まで救いの確信をしっかりと持ち続け、御国を受け継ぐ者とされよう。

 



 


2012/04/14(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書8:40-48   賛美 聖歌617

 イエスが会堂長ヤイロの求めに応じてその家に向かわれる途上においての出来事が記されている。12年間にわたって病んでいた一人の婦人がいた。多くの医者にかかり、全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえず、失意の中にあった。その頃多くの人を癒されたイエスの噂を聞き、イエスに最後の望みをかけていた。そこにイエスが通りかかられたので、彼女は恐る恐るイエスの衣に触れた。すると直ちに癒された。主は恐れおののく彼女に向かって「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言われた。神の恵みは信じる者の上に豊かに現わされる。今日も信仰によって歩もう。



 


 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-04-01 22:38:37 (872 ヒット)
デボーションの友

 


2012/04/02(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 3: 3:7-11 賛美 聖歌196

 神の御子が統治しておられる今日の神の家について「確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」と語って、すべて御子を信じるわたしたちこそそれであることを明らかにした。モーセが忠実に仕えた神の家、イスラエルは約束を受け継ぐのに失敗したように、キリスト者もまたその危険性をはらんでいることを踏まえ、警告を与えようとし旧約聖書を引用している。御言葉を引用するに当たり「聖霊がこう言われるとおりです」と語る。著者は聖書の御言葉を聖霊が語られることば、神の言葉として語っている。パウロも「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です(競謄 3: 16)」と語っている。それ故、御言葉は信仰をもって聞き、受け入れ、従うことを求めるのである。今日も御言葉に従って歩もう。

 



 


2012/4/03(火)担当 高谷満世師 サムエル記上15:1-16 賛美 聖歌392

 サウルはアマレクとの戦いに臨む。これはサウルが過去の戦争とは異なる聖戦であった。イスラエルの過去の歴史においても、聖戦では神が敵を滅ぼし尽くされるのだから分捕り品を持ち帰ることは一切許されていなかった。もちろんサウルの兵達は命がけで戦ったのだから、分捕り品という見返りを求めたであろう。サウルは両者の間に立って神の命令よりも民の要求に応えた。サウル自身も上等な分捕り品を惜しんだのであろう。これは明らかに神に背く行為であった。そこにサムエルがやってきた。サムエルはすでにサウルが不従順であったことを神から告げられていた。サムエルがサウルと向き合い、話をした時、サウルは自分の罪にまったく気づいていなかった(23節)。直接預言者から罪を指摘されてもなお、自らの罪に気づかないほど、サウルの心は主から離れていた。目の前にある富に心を奪われていたのであろう。

 神に選ばれたという事実はサウルが生涯罪を犯さず、神に背かないということを保証するものではなかった。主の僕であっても常に心を富に奪われることなく、神に向けていかなければならない。今日も主を見上げて主に従おう。

 



 


2012/04/04 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:7-11 賛美 聖歌596

 御言葉は「心をかたくなにしてはならない」と勧める。「心をかたくなにする」と言う言葉は神に対する不従順に対して用いられる言葉である。紅海において神による奇跡的な御業を体験し、神をほめたたえたイスラエルであったが、シュルの荒れ野に向かってそこを旅立って三日間水を得ることができなかった。やっとラマに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。その時民はモーセに向かって「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。またシンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。その時民はモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言い「「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」言った。このように、人は偉大な神の御業を体験したとしても、試練に会う時、容易に心をかたくなにする。それは御怒りを引き起こす(新改訳)のである。私たちはそうであってはならない。偉大な信仰の先輩は「民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ(詩 62:9)」と語っている。試練の時にも主を見上げて勝利しょう。

 



 


2012/04/05(木)担当 高谷満世師 サムエル記上15:17-35 賛美 聖歌399

 サウルは滅ぼしつくすべき戦いにおいて神の命令に背いて戦利品を獲ようとした。そして最初にそのことをサムエルから指摘された時にはまったく自分のした行為が分かっていなかった(15節)。そしてサムエルとの対話の中で自分の罪に気づいたが、その後も自分の罪の言い訳に、兵士が戦利品を取ってきたと語る(21節)。自分は正しいけれども、自分の周りに居た兵士が罪を犯したのだと語る姿は、絶えず他人に責任を転嫁しようとする人間の姿を思わせる。そのようなサウルに対して、神がもはやともに居られないとサムエルは語った。

 罪を犯していながらまったく気付いていない愚かな姿、また自分の罪に気がついても責任を他の人に転嫁しようとする姿。今日に生きる私たちもサウルと同じような性質を持っているかもしれない。自ら気付かないうちに神からはなれることがないように、常に主の御言葉に導かれて歩みたい。また、罪に気がついたなら、他人に責任を押し付けるのではなく、まず神に打ち明け、悔い改める者となりたい。

 



 


2011/04/06(金) 担当高谷清師 マタイによる福音書27:45−56   賛美 聖歌158

 今日は主が苦難を受けてくださったことを記念する受難日である。今読み続けているヘブライ人への手紙を離れて主の死を記した記事に目を向けよう。「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」という文章を見て「神の御子が受けられた苦難のあまりのむごさに天が目をそむけた」と言う意味のことを語った人があった。御子の苦難のむごさと壮絶な死の中に、自らの罪の重大さと神の愛の偉大さを改めて思い知らされ、深い感謝に導かれるのである。心からの感謝をささげ、主の恵みの御業を褒めたたえよう。

 



 


2012/04/07(土)高谷清師 マタイによる福音書27:45−56   賛美 P&W1−53

主が十字架の上で息を引き取られた時「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」と記されている。「神殿の垂れ幕」とは聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕のことであろう。至聖所には大祭司が民の贖いのために年に一度だけ犠牲の動物の血を携えて入ることが許されていたのである。イエスの死によってその幕が裂けた事は、イエスの死を通して神に近づく道が開かれたことを示している。今や、私たちはイエス・キリストをとおして神に近付くことができるのである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-25 22:54:24 (884 ヒット)
デボーションの友

 


2012/03/26(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2 賛美 聖歌 511

 更に著者は「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」と述べる。モーセの忠実については「モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った(出 40:16)」、「わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている(民 12:7)」と記されている。主イエスについては「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に(黙 1:4-5)」と記されている。お遣わしになった神に忠実であられた御子に遣わされた者として、私たちもいかなる時にも御子に忠実であろう。

 



 


2012/3/27(火)担当 高谷満世師 サムエル記上13:15後半-14:23 賛美 聖歌487

 今やサウル王の陣営に残されていた兵はわずか600人であった。その上鍛冶屋はすべてペリシテの下にあったのでイスラエルは戦いのための武器すら十分に持っていなかった。この状況で、サウルの息子ヨナタンと、神に対して従順になりきれなかったサウルとの態度は対照的であった。

 ヨナタンは自ら従卒を連れてペリシテ人の先陣を襲った。この行動は一見無謀に見える。しかしヨナタンは神への信仰に立って行動した。ヨナタンは戦いにおいて最も大切なことは兵士の数ではなく、割礼の有無、すなわち神にささげられた者、神に従う者であるかどうかという点であると知っていた。またヨナタンは敵の言葉を通して神の導きを確認して進んでいった。一方サウルは最初は優柔不断であり、神の導きを求めかけたが途中で投げ出し、戦況が有利と見たら神の声を聞くこともなく飛び出していった。

 私たちは神に頼り、決断すべき時に正しい決断をしているだろうか。なすべき時に正しい決断をするその力は日々の祈りと神との交わりによって培われる。日々の祈りを大切にしよう。

 



 


2012/03/28 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:3-6 賛美 主をほめよ23(栄光、イエスにあれ)

 モーセもイエスも忠実であった。しかしモーセは仕える者として神と神の民に忠実であったのに対し、イエスは御子として、神の家の創造者として、また統治者として神と教会に忠実であられる。それ故にイエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしいかたである。

 聖書の中には偉大な信仰の指導者が記されている。モーセをはじめ、アブラハム、ヤコブ、ダビデ、ソロモン・・・・しかし彼らは神に召され、僕として神に仕えた人々である。しかしイエスは御子であり、神ご自身であり、その血潮の贖いによる神の家の創始者であり統治者である。私たちが栄光を帰すべきお方はイエスのみである。

 



 


2012/03/29(木)担当 高谷満世師 サムエル記上14:24-52 賛美 聖歌545

 ヨナタンの奇襲に始まる勝利の後でサウルは軽率に誓いを立てた。そのことを知らずに食べ物を口にしたのは皮肉にも神に従ってイスラエルに勝利をもたらしたヨナタンであった。ヨナタンは父の誓いについて聞いた時、あからさまに批判した。この中でサウルは主に祭壇を築き、信仰の形式において正しく行おうとした。さらにサウルは誓いを破った者がヨナタンであると判明した時に、定めに則って神がともに居てくださったがゆえに勝利を得ることができたヨナタンでさえ死刑に処すという決断をした。

 サウルは形式上は神に従おうとしていたのだろう。しかしその出発点が間違っており、また形を整えようとするあまり、真に神に従っていたヨナタンをさえ殺そうとする結果になってしまった。本当の意味で神に従うとはどういうことであろうか。宗教的な形を守ることが必ずしも完全であるとはいえないのではないだろうか。常に私たちの心が神の御心を求め、それを知り、従うことこそが求められているのである。

 



 


2011/03/30(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙3:3-6    賛美 聖歌539

 モーセが忠実に仕えた神の家族とはイスラエルの民であったなら、神の御子が統治しておられる今日の神の家族とは何であろうか。それは教会であり、教会を構成するすべての信徒たち、わたしたちこそ神の家なのである。著者はここで「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、」と条件を付けている。私たちを取り巻く状況は日々変化している。私たちの信仰は、動揺する現在的諸状況の彼方にあるものにしっかり繋ぎ止められていなければならない。もし見えるものだけを信じるなら、道を失い漂流することになる。パウロは「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである(競灰4:18)」と言っている。目に見えない神の約束にしっかりと立って信仰の歩みを全うしょう。

 



 


2012/03/31(土)担当 高谷由紀子師 マタ14:22-27 賛美 聖歌591

 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせられた。夜になり船は逆風のために波に悩まされていました。弟子たちが難渋しているのを知って、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。それを見た弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。主はすぐに彼らに話しかけ「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。

 主は弟子たちと行動を共にせず、離れたところにおられても、常に彼らの状態を知り、必要な時には手を差し伸べてくださるお方です。クリスチャン生活にも予期しない病気、災害、信仰の戦い、等予期しない困難に遭遇することがあります。しかし主はそれらのすべてを知り「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と手を差し伸べてくださるのです。それ故、常に主に信頼して日々進みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-04 22:24:50 (775 ヒット)
デボーションの友

 


2012/03/05(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:12−13 賛美 聖歌522

 この箇所において著者は旧約聖書の三つの箇所を引用しつつ主と主の民の一体性を説いている。最初に主は「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と語られる。これは詩編22:23 「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」の引用である。この詩編22編は初代のキリスト者によってメシヤ的なものと認められていた。主が十字架上で叫ばれた「「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の叫び(マコ15:34,マタ27:4)は本詩編の2節の御言葉の成就であるとされている。また兵士たちが主イエスの着物を分け合った時の事柄についてヨハネは「そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。(ヨハ 19:24)」と語り、本詩編19節の成就としている。

 本詩編の冒頭の言葉は義なる者が不義なる者のために死のうとする苦しみであった。しかしここに引用された23節は苦難をとおして成し遂げられて勝利の宣言である。そしてその勝利は教会によって告げ知らされ、教会において賛美されるのである。教会は世における一組織ではない。キリストの苦難によって勝ち取られた勝利を述べ伝え、勝利者を賛美するところである。



 

2012/3/06(火)担当 高谷満世師 サムエル記上12:1-17 賛美 聖歌487

 サムエルの民に対する最後の言葉である。サムエルは自分が主の僕として正しくイスラエルを導いてきたと語り始める。それは民によって承認された。さらに彼はイスラエルの歴史を振り返り、エジプトからの解放から始まって約束の地に入ってからも、常に神はイスラエルの民の求めと叫びに応えて彼らを救い出してくださったことを明言した。神はどのような状況でも決して民を見捨てなかった。それにもかかわらず、民は主に代わって治める王を求めた。

 しばしば私たちの生活の中で神は私を助けてくれないとつぶやいていないだろうか。そして、神に代わる、目に見えて言葉を交わせる助け手や導き手を求めていないだろうか。私たちを真に導き、支えてくださっている神がおられることを覚えて、主とともに歩もう。



2012/03/07 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙2:12−13 賛美 聖歌458

 続いて主は「わたしは神に信頼します」と言われる。これはイザ 8:17に記されている御言葉である。これは人となられた御子の神に信頼される姿である。御子は人となられることによって多くの肉の制約を受けられた。また多くの誘惑と試練に会われた。そのような中にあって父なる神への全き信頼によって勝利されたのである。著者は12章に「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられましたヘブ 5: 7)」と述べている。またパウロは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(ピ 2: 8-9)」と述べている。

 主の模範に倣いわたしたちも、如何なる試練に会うとも、如何なるい誘惑に会うとも全き信頼によって歩もう。



2012/03/08(木)担当 高谷満世師 サムエル記上12:6-19 賛美 聖歌595

 サムエルは長い間主に仕えてイスラエルを正しく導いてきた(12:1-5)。それにもかかわらず民は神に立てられたサムエルを拒んで、他の国々のように彼らを治める王を求めた。神はそれを容認され、王を与えられた。その中でサムエルは小麦の刈入れの時に雷と雨を主に求めると、主はその願いに答えられた。主は人々の願いに答えて王を与えてくださった。しかしそれはサムエルが主に退けられたということではなかった。民はなおも主がサムエルの願いに答えて雷と雨を送られたことを見たとき、そのことを悟り、主とサムエルを恐れて悔い改めた。

 人々は神の器を退けることがあるかもしれない。しかし、主に選ばれた者が忠実に仕え続けるとき、主はその人を用い続け、主の僕、預言者を通して語り続けられる。神に選ばれ、立てられ、忠実に主に仕える人々が語る言葉に耳を傾け、従い続ける者でありたい。



2011/03/09(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:12−13 賛美 心20「主よ感謝します」

 続いて、死に勝利して甦り、罪人の贖いの御業を成就して天に昇り、神の右の座につかれた主は、イザヤ書 8:18の御言葉を引用して「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われる。11節や12節の「兄弟」 ということばではなく「子ら」という言葉が使われることによってキリストとキリストの民の一体性がより強調されている。このことについて主は地上を歩んでおられた時「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さないヨハ 6:37)」「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることであるヨハ 6:39)」と語られた。パウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです(ロマ 8: 15)」と言っている。わたしたちは神によって召され、御子を救い主と信じる者とされ、御子の贖いの御業によって御子のものとされ、子とされている。このめぐみは不動のものである。確信をもって歩もう。



 

2012/03/10(土)担当 高谷由紀子師 マタ 6:19-21 賛美 聖歌521

 主は「あなたがたは地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい。」と言われました。それは地上の富は「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」からであると言われました。それに対し天の富は「虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」のです。パウロが「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(汽灰 15: 50)」と言っているように、地上の富は神の国を受け継ぐことができないのです。そして人の心は富に縛られるのです。わたしたちが天に富を積む時、わたしたちの心もまたそこにあるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-02-19 22:11:37 (915 ヒット)
デボーションの友

 


2012/02/20(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ2:5-9 賛美 聖歌399

 著者は「神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。すべてのものを、その足の下に従わせられました。」と述べる。そして詩篇8:5−7を引用する。このことについてパウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(フィリピ 2:6-9)」と語る。

 神は神の身分であられた御子を、私たちの救いのために天使たちより低いもの、人間として世に遣わし、十字架につけられたのです。そして御子によって私たちの罪の贖いの御業を成し遂げ、死んで葬られた御子を死者の中から復活させ、神の右の座につかせ、すべてのものを、その足の下に従わせられたのである。これによって私たちは御子が主であることを知る。それ故、今日も主の御言葉に従って歩もう。

 



 


2012/2/21(火)担当 高谷満世師 サムエル記上10:1-16 賛美 聖歌493

 サムエルはサウルを見送って町外れまで来た時に、サウルに油を注いだ。この油注ぎは、サウルは神の民イスラエルの上に「君主」としての務めを果たす賜物を与えられたことをあらわした。イスラエルの民が「王がほしい」と訴えたその声に耳を傾け、神はサウルを王として選んでおられた。しかしこれはまだ公にされるものではなかった。内密に神が計画を進めておられるときにも、当事者であるサウルには明確なしるしが与えられた。二人の男に出会うこと、いけにえにささげるためのパンを与えられること、そして預言状態になることであった。これらのしるしはその日のうちに起こり、すでにその時サウルはしるしを受け入れるように心を整えられていた。

 神が御業を行われる時、主はあらかじめそれらを計画しておられ、公にされる以前から事を進めておられる。

 



 


2012/02/22 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:1 賛美 聖歌539

 著者はここで現実世界、私たちの目前に展開される目に見える世界に目を向けて言う「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません」と。そして信仰の目を開いて「「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。そして、神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」と語る。

 私たちが日々の忙しさに心奪われ捕らわれているなら、約束されている神の恵みを見失ってしまうのであろう。疲労と空腹のために長子の特権を失ったエソウのようになるであろう。若い時代に信仰をもち、救われながら、社会において、職場において、家庭において責任が増していくことによって信仰を失っていく人々の姿ではなかろうか。私たちは忙しさの中にあっても御言葉を読むこと、祈ること、礼拝を守ることを怠ることなく信仰を守り通そう。

 



 


2012/02/23(木)担当 高谷満世師 サムエル記上10:17-27 賛美 聖歌450

 サウルが密に油注ぎを受けた後、サムエルは全部族を呼び寄せた。そこではくじによって民が要求した王が選び出された。現代に生きる私たちにとってくじははなはだ頼りにならない手段のように見える。しかし聖書においては神のみ心をくじによって確認することがしばしば行われた。くじの結果は人間が操作するものではなく、神が支配されていたからである。以前密かにに油注がれたとおりにサウルがくじで当たった。驚くことにサウルは自信に満ち溢れては居なかった。荷物の間に隠れていた彼が民の真ん中に立った姿を見たとき、人々は彼を見て主が選ばれた人であると認め、彼を王として受け入れた。

 あらかじめ油注がれ、整えられているはずのサウルがこのとき自信なく隠れていたことは驚きではある。しかし同時にこのようにへりくだったものを主は喜んで受け入れてくださる。

 



 


2011/02/24(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙2:10 賛美 聖歌440

 「万物の目標であり源である方」とは父なる神のことである。「救いの創始者」とは十字架上で死んで葬られ、甦られた御子を指している。天において神であられた御子は完全なお方であった。救いの創始者、救い主となられるためには数々の苦しみを通らなければならなかったのである。神でありながら人となり私たちのすべての罪を負い、十字架に架かり、血を流し死んでくださったことによって御子は完全な救い主となってくださったのである。それ故、私たちが救われるために必要なのは御子を救い主と信じる信仰だけである。今日も御名を告白し信仰によって歩もう。

 



 


2012/02/25(土)担当 高谷由紀子師 マタイ6:5-6 賛美 聖歌263

 祈りはユダヤ人にとって大切なものでした。立派な言葉で長く祈ることは、その人が熱心な信仰者であることをあらわしていると思われていました。そこで人々は人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好みました。このような祈りをする人を主は偽善者と言われました。なぜなら祈りは神との交わりであり対話であるからです。それは神に向かって為されるべきものであり、人々の称賛を得るために人に見せるためになされるべきものではないからです。主は私たちの祈りについて「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と言われました。

 キリスト者にとっても祈りは非常に大切です。それはキリスト者の呼吸であり命です。しかしそれは人の称賛を得るために為されてはなりません。そのような祈りは神に向かってはいないからです。私たちの祈りは真実に神に向かって為されるべきです。



 


 


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