投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-25 22:54:24 (845 ヒット)
デボーションの友

 


2012/03/26(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2 賛美 聖歌 511

 更に著者は「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」と述べる。モーセの忠実については「モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った(出 40:16)」、「わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている(民 12:7)」と記されている。主イエスについては「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に(黙 1:4-5)」と記されている。お遣わしになった神に忠実であられた御子に遣わされた者として、私たちもいかなる時にも御子に忠実であろう。

 



 


2012/3/27(火)担当 高谷満世師 サムエル記上13:15後半-14:23 賛美 聖歌487

 今やサウル王の陣営に残されていた兵はわずか600人であった。その上鍛冶屋はすべてペリシテの下にあったのでイスラエルは戦いのための武器すら十分に持っていなかった。この状況で、サウルの息子ヨナタンと、神に対して従順になりきれなかったサウルとの態度は対照的であった。

 ヨナタンは自ら従卒を連れてペリシテ人の先陣を襲った。この行動は一見無謀に見える。しかしヨナタンは神への信仰に立って行動した。ヨナタンは戦いにおいて最も大切なことは兵士の数ではなく、割礼の有無、すなわち神にささげられた者、神に従う者であるかどうかという点であると知っていた。またヨナタンは敵の言葉を通して神の導きを確認して進んでいった。一方サウルは最初は優柔不断であり、神の導きを求めかけたが途中で投げ出し、戦況が有利と見たら神の声を聞くこともなく飛び出していった。

 私たちは神に頼り、決断すべき時に正しい決断をしているだろうか。なすべき時に正しい決断をするその力は日々の祈りと神との交わりによって培われる。日々の祈りを大切にしよう。

 



 


2012/03/28 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:3-6 賛美 主をほめよ23(栄光、イエスにあれ)

 モーセもイエスも忠実であった。しかしモーセは仕える者として神と神の民に忠実であったのに対し、イエスは御子として、神の家の創造者として、また統治者として神と教会に忠実であられる。それ故にイエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしいかたである。

 聖書の中には偉大な信仰の指導者が記されている。モーセをはじめ、アブラハム、ヤコブ、ダビデ、ソロモン・・・・しかし彼らは神に召され、僕として神に仕えた人々である。しかしイエスは御子であり、神ご自身であり、その血潮の贖いによる神の家の創始者であり統治者である。私たちが栄光を帰すべきお方はイエスのみである。

 



 


2012/03/29(木)担当 高谷満世師 サムエル記上14:24-52 賛美 聖歌545

 ヨナタンの奇襲に始まる勝利の後でサウルは軽率に誓いを立てた。そのことを知らずに食べ物を口にしたのは皮肉にも神に従ってイスラエルに勝利をもたらしたヨナタンであった。ヨナタンは父の誓いについて聞いた時、あからさまに批判した。この中でサウルは主に祭壇を築き、信仰の形式において正しく行おうとした。さらにサウルは誓いを破った者がヨナタンであると判明した時に、定めに則って神がともに居てくださったがゆえに勝利を得ることができたヨナタンでさえ死刑に処すという決断をした。

 サウルは形式上は神に従おうとしていたのだろう。しかしその出発点が間違っており、また形を整えようとするあまり、真に神に従っていたヨナタンをさえ殺そうとする結果になってしまった。本当の意味で神に従うとはどういうことであろうか。宗教的な形を守ることが必ずしも完全であるとはいえないのではないだろうか。常に私たちの心が神の御心を求め、それを知り、従うことこそが求められているのである。

 



 


2011/03/30(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙3:3-6    賛美 聖歌539

 モーセが忠実に仕えた神の家族とはイスラエルの民であったなら、神の御子が統治しておられる今日の神の家族とは何であろうか。それは教会であり、教会を構成するすべての信徒たち、わたしたちこそ神の家なのである。著者はここで「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、」と条件を付けている。私たちを取り巻く状況は日々変化している。私たちの信仰は、動揺する現在的諸状況の彼方にあるものにしっかり繋ぎ止められていなければならない。もし見えるものだけを信じるなら、道を失い漂流することになる。パウロは「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである(競灰4:18)」と言っている。目に見えない神の約束にしっかりと立って信仰の歩みを全うしょう。

 



 


2012/03/31(土)担当 高谷由紀子師 マタ14:22-27 賛美 聖歌591

 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせられた。夜になり船は逆風のために波に悩まされていました。弟子たちが難渋しているのを知って、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。それを見た弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。主はすぐに彼らに話しかけ「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。

 主は弟子たちと行動を共にせず、離れたところにおられても、常に彼らの状態を知り、必要な時には手を差し伸べてくださるお方です。クリスチャン生活にも予期しない病気、災害、信仰の戦い、等予期しない困難に遭遇することがあります。しかし主はそれらのすべてを知り「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と手を差し伸べてくださるのです。それ故、常に主に信頼して日々進みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-04 22:24:50 (731 ヒット)
デボーションの友

 


2012/03/05(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:12−13 賛美 聖歌522

 この箇所において著者は旧約聖書の三つの箇所を引用しつつ主と主の民の一体性を説いている。最初に主は「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と語られる。これは詩編22:23 「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」の引用である。この詩編22編は初代のキリスト者によってメシヤ的なものと認められていた。主が十字架上で叫ばれた「「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の叫び(マコ15:34,マタ27:4)は本詩編の2節の御言葉の成就であるとされている。また兵士たちが主イエスの着物を分け合った時の事柄についてヨハネは「そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。(ヨハ 19:24)」と語り、本詩編19節の成就としている。

 本詩編の冒頭の言葉は義なる者が不義なる者のために死のうとする苦しみであった。しかしここに引用された23節は苦難をとおして成し遂げられて勝利の宣言である。そしてその勝利は教会によって告げ知らされ、教会において賛美されるのである。教会は世における一組織ではない。キリストの苦難によって勝ち取られた勝利を述べ伝え、勝利者を賛美するところである。



 

2012/3/06(火)担当 高谷満世師 サムエル記上12:1-17 賛美 聖歌487

 サムエルの民に対する最後の言葉である。サムエルは自分が主の僕として正しくイスラエルを導いてきたと語り始める。それは民によって承認された。さらに彼はイスラエルの歴史を振り返り、エジプトからの解放から始まって約束の地に入ってからも、常に神はイスラエルの民の求めと叫びに応えて彼らを救い出してくださったことを明言した。神はどのような状況でも決して民を見捨てなかった。それにもかかわらず、民は主に代わって治める王を求めた。

 しばしば私たちの生活の中で神は私を助けてくれないとつぶやいていないだろうか。そして、神に代わる、目に見えて言葉を交わせる助け手や導き手を求めていないだろうか。私たちを真に導き、支えてくださっている神がおられることを覚えて、主とともに歩もう。



2012/03/07 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙2:12−13 賛美 聖歌458

 続いて主は「わたしは神に信頼します」と言われる。これはイザ 8:17に記されている御言葉である。これは人となられた御子の神に信頼される姿である。御子は人となられることによって多くの肉の制約を受けられた。また多くの誘惑と試練に会われた。そのような中にあって父なる神への全き信頼によって勝利されたのである。著者は12章に「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられましたヘブ 5: 7)」と述べている。またパウロは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(ピ 2: 8-9)」と述べている。

 主の模範に倣いわたしたちも、如何なる試練に会うとも、如何なるい誘惑に会うとも全き信頼によって歩もう。



2012/03/08(木)担当 高谷満世師 サムエル記上12:6-19 賛美 聖歌595

 サムエルは長い間主に仕えてイスラエルを正しく導いてきた(12:1-5)。それにもかかわらず民は神に立てられたサムエルを拒んで、他の国々のように彼らを治める王を求めた。神はそれを容認され、王を与えられた。その中でサムエルは小麦の刈入れの時に雷と雨を主に求めると、主はその願いに答えられた。主は人々の願いに答えて王を与えてくださった。しかしそれはサムエルが主に退けられたということではなかった。民はなおも主がサムエルの願いに答えて雷と雨を送られたことを見たとき、そのことを悟り、主とサムエルを恐れて悔い改めた。

 人々は神の器を退けることがあるかもしれない。しかし、主に選ばれた者が忠実に仕え続けるとき、主はその人を用い続け、主の僕、預言者を通して語り続けられる。神に選ばれ、立てられ、忠実に主に仕える人々が語る言葉に耳を傾け、従い続ける者でありたい。



2011/03/09(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:12−13 賛美 心20「主よ感謝します」

 続いて、死に勝利して甦り、罪人の贖いの御業を成就して天に昇り、神の右の座につかれた主は、イザヤ書 8:18の御言葉を引用して「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われる。11節や12節の「兄弟」 ということばではなく「子ら」という言葉が使われることによってキリストとキリストの民の一体性がより強調されている。このことについて主は地上を歩んでおられた時「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さないヨハ 6:37)」「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることであるヨハ 6:39)」と語られた。パウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです(ロマ 8: 15)」と言っている。わたしたちは神によって召され、御子を救い主と信じる者とされ、御子の贖いの御業によって御子のものとされ、子とされている。このめぐみは不動のものである。確信をもって歩もう。



 

2012/03/10(土)担当 高谷由紀子師 マタ 6:19-21 賛美 聖歌521

 主は「あなたがたは地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい。」と言われました。それは地上の富は「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」からであると言われました。それに対し天の富は「虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」のです。パウロが「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(汽灰 15: 50)」と言っているように、地上の富は神の国を受け継ぐことができないのです。そして人の心は富に縛られるのです。わたしたちが天に富を積む時、わたしたちの心もまたそこにあるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-02-19 22:11:37 (875 ヒット)
デボーションの友

 


2012/02/20(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ2:5-9 賛美 聖歌399

 著者は「神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。すべてのものを、その足の下に従わせられました。」と述べる。そして詩篇8:5−7を引用する。このことについてパウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(フィリピ 2:6-9)」と語る。

 神は神の身分であられた御子を、私たちの救いのために天使たちより低いもの、人間として世に遣わし、十字架につけられたのです。そして御子によって私たちの罪の贖いの御業を成し遂げ、死んで葬られた御子を死者の中から復活させ、神の右の座につかせ、すべてのものを、その足の下に従わせられたのである。これによって私たちは御子が主であることを知る。それ故、今日も主の御言葉に従って歩もう。

 



 


2012/2/21(火)担当 高谷満世師 サムエル記上10:1-16 賛美 聖歌493

 サムエルはサウルを見送って町外れまで来た時に、サウルに油を注いだ。この油注ぎは、サウルは神の民イスラエルの上に「君主」としての務めを果たす賜物を与えられたことをあらわした。イスラエルの民が「王がほしい」と訴えたその声に耳を傾け、神はサウルを王として選んでおられた。しかしこれはまだ公にされるものではなかった。内密に神が計画を進めておられるときにも、当事者であるサウルには明確なしるしが与えられた。二人の男に出会うこと、いけにえにささげるためのパンを与えられること、そして預言状態になることであった。これらのしるしはその日のうちに起こり、すでにその時サウルはしるしを受け入れるように心を整えられていた。

 神が御業を行われる時、主はあらかじめそれらを計画しておられ、公にされる以前から事を進めておられる。

 



 


2012/02/22 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:1 賛美 聖歌539

 著者はここで現実世界、私たちの目前に展開される目に見える世界に目を向けて言う「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません」と。そして信仰の目を開いて「「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。そして、神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」と語る。

 私たちが日々の忙しさに心奪われ捕らわれているなら、約束されている神の恵みを見失ってしまうのであろう。疲労と空腹のために長子の特権を失ったエソウのようになるであろう。若い時代に信仰をもち、救われながら、社会において、職場において、家庭において責任が増していくことによって信仰を失っていく人々の姿ではなかろうか。私たちは忙しさの中にあっても御言葉を読むこと、祈ること、礼拝を守ることを怠ることなく信仰を守り通そう。

 



 


2012/02/23(木)担当 高谷満世師 サムエル記上10:17-27 賛美 聖歌450

 サウルが密に油注ぎを受けた後、サムエルは全部族を呼び寄せた。そこではくじによって民が要求した王が選び出された。現代に生きる私たちにとってくじははなはだ頼りにならない手段のように見える。しかし聖書においては神のみ心をくじによって確認することがしばしば行われた。くじの結果は人間が操作するものではなく、神が支配されていたからである。以前密かにに油注がれたとおりにサウルがくじで当たった。驚くことにサウルは自信に満ち溢れては居なかった。荷物の間に隠れていた彼が民の真ん中に立った姿を見たとき、人々は彼を見て主が選ばれた人であると認め、彼を王として受け入れた。

 あらかじめ油注がれ、整えられているはずのサウルがこのとき自信なく隠れていたことは驚きではある。しかし同時にこのようにへりくだったものを主は喜んで受け入れてくださる。

 



 


2011/02/24(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙2:10 賛美 聖歌440

 「万物の目標であり源である方」とは父なる神のことである。「救いの創始者」とは十字架上で死んで葬られ、甦られた御子を指している。天において神であられた御子は完全なお方であった。救いの創始者、救い主となられるためには数々の苦しみを通らなければならなかったのである。神でありながら人となり私たちのすべての罪を負い、十字架に架かり、血を流し死んでくださったことによって御子は完全な救い主となってくださったのである。それ故、私たちが救われるために必要なのは御子を救い主と信じる信仰だけである。今日も御名を告白し信仰によって歩もう。

 



 


2012/02/25(土)担当 高谷由紀子師 マタイ6:5-6 賛美 聖歌263

 祈りはユダヤ人にとって大切なものでした。立派な言葉で長く祈ることは、その人が熱心な信仰者であることをあらわしていると思われていました。そこで人々は人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好みました。このような祈りをする人を主は偽善者と言われました。なぜなら祈りは神との交わりであり対話であるからです。それは神に向かって為されるべきものであり、人々の称賛を得るために人に見せるためになされるべきものではないからです。主は私たちの祈りについて「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と言われました。

 キリスト者にとっても祈りは非常に大切です。それはキリスト者の呼吸であり命です。しかしそれは人の称賛を得るために為されてはなりません。そのような祈りは神に向かってはいないからです。私たちの祈りは真実に神に向かって為されるべきです。



 


 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-02-14 17:57:58 (806 ヒット)

 


2012/02/13(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ1:13-14 賛美 聖歌468

 

 著者は「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」と言う、御子について語られた詩編の言葉を引用して御子が神の右の座につかれるお方、神であることを示す。次いで御使いについて「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」と語る。御使いについて詩編は「御使いたちよ、主をたたえよ、主の語られる声を聞き、御言葉を成し遂げるものよ、力ある勇士たちよ。主の万軍よ、主をたたえよ、御もとに仕え、御旨を果たすものよ(詩103:20-21)」と語っている。

 御使いは主の語られることばを聞き、それを成し遂げるために奉仕する者である。しかし御子は神の右の座につかれるお方、神ご自身である。それ故、礼拝を受けるべきお方である。私たちが礼拝すべきお方は御子である。



 

2012/2/14(火)担当 高谷満世師 サムエル記上8:10-22 賛美 聖歌477

 サムエルは神の言葉に従って、民が王を持つことを神が許されることを告げた。しかし、それはまったく神の御心に適った選択肢ではなかった。民は王を与えられるという回答と共に、民を治める王が立った時にはどのような犠牲を払うことになるかという警告も併せてうけとった。しかしこのとき、民の心は自分達の要求でいっぱいになっていた。また、民は「他のすべての国民」のようになり、自分達をさばく王がほしい一心で、また自分達の前に立って戦いに出て行く王を持つことにのみ、心が向いていた。自分たちの要求で心が埋め尽くされていた彼らには、神の警告を聞く余地がなかった。

 しばしば私たちの心も自分勝手な願いと要求だけで満たされていないだろうか。そのような時に私たちは祈りによって神に願いを訴えるが、本当に静まって神のみ声を聞いているだろうか。一方的な祈りには本当の意味での神との交わりが失われている。そこに真の霊的成長はなく、また神と共にある歩みは育たない。自分の要求をひとまず横に置いて、静かに神の御心を聞き取る祈りをささげたい。



 

2012/02/15 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:1 賛美 聖歌444

 ここまで、永遠の高く挙げられた御子への賛歌をうたい上げてきた著者は、一転して「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」と語る。御子は私たちの罪のすべてをになって十字架につき、血を流し、死でくださった。父なる神はこの御子を死から解放し、甦らせてくださった。これによって私たちは罪からの解放と永遠の命の恵みが与えられたのである。これが救いのメッセージであり、福音であり、信じる者に与えられる救いである。しかしそれは聞くだけであり、肉にあって地上を歩む私たちの目に入るのは「他人は救ったのに、自分は救えない」と不信仰な者どもによって罵られた、敗北者イエスの姿である。そして信仰者には「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(黙 21: 4)」と彼らのために供えられた素晴らしい御国が約束されているが、それは今は聞くだけであり、現実の地上の歩みは主が「あなたがたには世で苦難がある」語られたように苦難の連続である。地上の歩みは信仰者ゆえの苦難が加わり、不信者以上でさえある。それ故私たちは御言葉を絶えず聴き続け、いっそう注意を払わねばならないのである。御言葉を聞くことをやめるなら、即ち教会に出席することをやめ、聖書を読むこと怠るなら、世の苦難に押し流され、信仰の破船をきたすのである。パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです(ロマ 10: 17)」と語っている。



 

2012/02/16(木)担当 高谷満世師 サムエル記上9:1-27 賛美 聖歌593

 神が民の要求を聞き入れ、イスラエルを治める王を立てることを承認されてからどれくらいの時間が経ったかは記されていない。しかし神は確実にご自身の計画を持ち、それが人の目に見える形に進んでいく前にすべてのことを準備しておられた。ベニヤミン族の中からサウルを選んでおられた。もちろんサウルは自分が王として選ばれたことを知らず、サムエルでさえもサウルに出会うまで知らなかった。しかし、神は適切な時にサムエルに対して、神が選ばれた若者に出会うことを告げられ、すべては神の計らいによって進んでいった。

 神は将来に対するご計画を持っておられても、その進行状況の一部始終を人々には明かされないことはしばしば起こる。私たちの目に見える形で状況が進行しない時、私たちは神が自分を見捨てられたとか、神は死んでしまったと考える。しかし決してそうではない。神は信じる者にとっての最善の計画を持っておられ、私たちの目に見えないところでも働いておられる。全能の主を信じて、歩もう。



 

2011/02/17(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙21:2-4 賛美 聖歌516

 著者は前節において御言葉を聞くことを欠かさず、彼らの信仰告白を固く保持して信仰生活を堅持するように勧告した。しかし日毎の忙しさと、周りにあるものがみな福音を否定しているような現実の中にあって、福音を信じ、それに従うべきことに困難を覚える人々も多かった。そのような人々に、福音に従うべき根拠を述べる。著者は先に「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました(1:1−2)」と語った。そして2節では「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば」と語る。「天使たちを通して語られた言葉」とは律法を指している。律法に違反した者たちは罰を受けた。それは聖書の証言によって明らかである。まして福音は御使いよりも優れた御子によって語られたのである。それはまたそれを聞いた人々―使徒たちによって証しされ、神ご自身も、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えることによって確証しておられるのである。この福音をないがしろにするなら、罰を逃れることはできない。主イエスは「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける(マコ 16: 16)」と語っておられる。いかなる困難に会うことがあっても福音に従おう。



 

2012/02/18(土)担当 高谷由紀子師 マタイ 5:13  賛美 聖歌521

 マタイによる福音書5:1−7:27にはイエス様が山に登り、そこで弟子たちに語られた言葉が記されています。これらは山上の説教と言われています。今日の御言葉はその内の一箇所です。ここで主は「あなたがたは地の塩である」と語っておられます。キリスト者は地上において塩のような存在であるべきだと語っておられるのです。塩は私たちの生活においてなくてはならないものです。それは鮮度を保ち、腐敗を防ぎ、良き味付けをします。また私たちの体には必要不可欠のものです。

 クリスチヤン一人一人は小さな存在ですが塩として神に用いられる時日々の生活を正しくし、すべての者を有効に働かせ、社会の腐敗を防止する存在になることができるのです。御言葉の真理に立って歩み、主に用いられる者となりましょう。


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