投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-11-18 22:47:38 (658 ヒット)
デボーションの友

 

2012/11/19(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:37-39  賛美 聖歌 622
 著者はハバ 2:3を引用して「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」と述べる。ハバ2:3は異邦人の圧迫のもとにあったイスラエルのためにハバククが主に求めた祈り対する答えとして主から与えられた御言葉である。この手紙が書かれた時代にもキリスト者は迫害のもとにあった。主は弟子たちに「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハ 16: 33)」と語られた。勝利者の再臨の約束は迫害の時代を生きるキリスト者の希望であり、彼らは一日千秋の思いでその成就を待ち望んでいた。今の世に生きる私たちにとってもそれは希望であり切なる願いである。しかし主の約束から2000年余りを経た今日、未だ成就していない。しかしそれは神の御計画に在って遅れることはないのである。
 


 

2012/11/20 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下17:24-29 賛美 聖歌588
 ダビデはヨルダン東岸にある堅固な防備を備えた町、マナハイムにいる。フシャイの助言のゆえにダビデは安全な場所へ逃れて、迫りくる戦いのために戦略を練ることが出来た。この戦いは、ダビデにとっては愛する息子の反乱から強いられて戦うものであり、もちろん失意の中にあっただろう。それでも、ダビデの周囲には彼を慕い、支える人々がいる。この支持者たちが携えてきた物資にはダビデへの配慮と親愛の気持ちが見える。
 息子たちの相次ぐ罪と反乱に、ダビデの心も乱れ苦しんでいただろう。しかしそのさなかにおいて、神はダビデのために知恵をもって使える僕を備え、また遠くへ逃げた先においても援助を惜しまない人々を備えられた。これはもちろんダビデが完璧に主に従っていたからではなかった。
 神は真実である。選ばれた人を支え、また見捨てることなく助けを与えられる。私たちが孤独なときにも、主はダビデとともに居られたように私たちとも共にいてくださる。
 


 

2012/11/21 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:37-39 賛美 聖歌514
 「わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」と言われている。「もしひるむようなことがあれば」と言う個所を口語訳聖書は「もし信仰を捨てるなら」と訳している。ペトロは「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか(競撻3:3-4)」と言っている。終りの時には信仰を捨て嘲る者が現れると言っているのである。それは神の御心に適うことではない。わたしたちは御言葉にしっかりと目をとめ、主がおいでくださる日まで主の御心に適う歩みをしょう。
 


 

2012/11/22(木)担当 高谷満世師 サムエル記下17:1-23 賛美 聖歌582
 ダビデはフシャイの機転によって得たわずかな時間を有効に使って戦いに備えた。彼が数々の戦いを経験した老練の将であったがゆえに出来たことである。しかしやはり完璧な人間ではなかった。戦いに出て行くヨアブ、アビシャイ、イタイに対して「若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ。」(18:5)と語っている。ここには父親としてのダビデの弱みが見える。それを見抜いていたヨアブはダビデの言葉に従わなかった。これはヨアブがアブサロムに対して個人的に恨みを持っていたからではなく、将軍としての見識に基づいて彼を放免すれば再び国を危機に陥れることを予期したからである。アブサロムに止めを刺したのは彼自身ではなく、十人の兵士たちであった。アカンのときのように共同体の手で処刑が執行された。
 ダビデは優れた王であり、神の僕であった。完全ではなかったが罪を犯したら悔い改めて主に従おうと努力した。神はダビデの弱さを知りながらも赦し、受け入れ、選びについて忠実であられた。しかし、ダビデが間違った願いを持っていたときには神の良しとされることをなされた。神は人間の操り人形になる方ではないことを覚えつつ、選ばれた私たちは今日も主の御心を求め、主の業に励もう。
 


 

2011/11/23(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:37-39 賛美 聖歌 236
 「わたしの正しい者は信仰によって生きる」と言うハバクク書の御言葉を引用しつつ「ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」と述べる。甦られた主イエスもまた「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける(マコ 16: 16)」と教えられた。信仰は私たちにいのちと希望を与えるものである。わたしたちは目の前に広がる現実に目を奪われて信仰を捨て去り、滅びる者になってはならない。神の約束に目を注ぎ、望みをもって信じきる者となろう。
 


 

2012/11/24(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書 2:13−17 賛美 聖歌462
 イエスは通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。この招きに応えてレビはイエスに従った。ある日レビはイエスさま一行を招いて食事の席をもった。そこにはイエスと其の弟子たちとともに、レビの同僚であった徴税人や罪人も席についていた。これを見たファリサイ派の律法学者は、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。
 世の「正しい人々」は自分の正しさを示すために「罪人」との交わりを絶とうとする。しかし主は罪人を招いて悔い改めさせ、義とするために来てくださった。イエスに来る人はすべて彼によって義とされるのである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-11-11 22:28:17 (666 ヒット)
デボーションの友

 

2012/11/12(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙  10:30-31  賛美 聖歌 635
 著者は申命記32:35−36を引用して自身が発した警告が大げさな話ではなく正当なものであることを明らかにする。申命記32:35の御言葉はモーセを通して語られた主ご自身のものである。裁きを行われるのは全知全能の主ご自身であるため、東電OL殺人事件のような誤りはない。そして主は「主はその民を裁かれる」のである。この御言葉は二つの側面を持つ。主に選ばれた民を圧迫し続ける敵に対して主が裁きを行い、主の民を解放してくださる裁きとともに、主に選ばれ、ご自身の民とされ、律法を与えられ、その愛に入れられながら、反抗し続ける者に対する裁きである。アモス書において主は「地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する(アモ 3:2)」と語っておられる。キリストの贖いの恵みによって神の民とされた私たちにも、主は私たちを迫害し続ける人々を裁き、彼らから守ってくださるとともに、真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続ける者に対して裁きを行われるのである。心からの愛と感謝と畏れをもって歩もう。
 


 

2012/11/13 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下16:15-23 賛美451 
 アブサロムは反乱を起こしてダビデからエルサレムを奪い、アヒトフェルとともに入城した。そこには真実にはダビデに従いつつもアブサロムの元に残ってダビデのために働くよう命じられたフシャイもともにいた。フシャイはなおアブサロムの信頼を得るために演説をしなければならない状況にあったが、それでもついにアブサロムに受け入れられた。アヒトフェルの言葉は当時信頼されていた(16:23)。アブサロムに対して、父の側女たちを自分のものにするよう進言した。かつてダビデもサウルの側女たちを同様に扱ったが(12:8)、アブサロムは父の側女を自分のものにすることは、かつてルベンがのろいを受けたように、赦されることではなかった。アブサロムはイスラエルの慣例に従っただけだったかもしれないが、事実上、神の法に背いた。
 ダビデの王座を継ぐにふさわしいものはアブサロムでもなかった。今まさにアブサロムがエルサレムに入り、国を掌握しようとしているように人々の目に映る状況の只中にあって、聖書はアブサロムの信仰を通して、神の選びを伝えている。
 


 

2012/11/14 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:30-31 主をほめよ28
 著者は「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです」と述べる。パウロはアテネで御言葉を述べ伝えた時、「皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。(使 17:28-29)」と述べている。神の前に誠実に歩む人々も、主を侮り故意に罪を犯し続ける人々も共に「神の中に生き、動き、存在」しているのであって、神の御手の届かないところに逃避することはできないのである。そしてこの神は「生ける神」である。ご自身の語られたことを、御心に従って確実に行われるお方である。それ故、速やかに罪を離れ、御言葉に生きよう。
 


 

2012/11/15(木)担当 高谷満世師 サムエル記下17:1-23 賛美484
 アヒトフェルが当時イスラエルでは信頼されており、心からアブサロムを支えていた彼の提案が即座に取り上げられるかに見えた。しかしここでアブサロムはフシャイの提案にも耳を傾ける。フシャイは言葉巧みにアヒトフェルの提案よりも自らの提言に人の心をひきつけていく。アブサロムの突然の反乱から続く、混乱した状況の中で、ダビデがエルサレムに残した人々を通して、事態は秘密裏にダビデに有利な方向へと動いていく。危うく、伝令として残した祭司の息子たちが見つかりそうになるが、そこでも彼らは守られた。
 ダビデとアブサロム、どちらが人間として優れ、どちらが王としてふさわしく、どちらが罪を犯さずに歩んだのか。二人を比べるならば、どちらも決して完璧に神の前に歩めたわけではなかった。しかし、この出来事の渦中において、確かに神の選ばれた器が守られ、神の御心が実現していくことを見る。御心が今日もなるように。祈りつつ歩もう。
 


 

2011/11/16(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:32-36  賛美 こころ僑横
 初代教会のキリスト者たちは迫害の中におかれていた。そのような中でも主に選ばれた人たちは、その迫害を自分の上に招くものであることを知りながら、福音を受け入れ、信仰を告白し、キリスト者としての歩みを踏み出していった。パウロは自分自身が教会の迫害者でありながら、劇的な出会いによってキリストを知り、福音を受け入れ、信仰を告白し、キリスト者としての歩みを踏み出し、それによって迫害を受けながら主に従った。その迫害は、あざけられ、苦しめられて、見せ物にされ、財産を奪われ、命を危険にさらすものであった。しかし彼らは喜んで耐え忍んだのである。自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っていたからである。著者はここで「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」と語る。
 今の時代にあってもキリスト者としての歩みには様々な困難が伴う。しかし私たちは素晴らしい御国の約束を与えられているのである。それ故、忍耐をもって主に従い尽くそう。
 


 

2012/11/17(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 18:9−14 賛美 聖歌256
 神のみ前に自分を罪人と感ずることはなかなか至難である。自分を、他人よりも偉く立派だと奢り高ぶる者はこのファリサイ人の如く、神によって義とされることはできない。この徴税人のように、神の前にへりくだって罪を認め、神の憐れみを求める時始めて神によって義とされるのである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-11-04 23:06:31 (715 ヒット)
デボーションの友

 

2012/11/5(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10: 23-25  賛美 聖歌340
 更に著者は「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」と勧める。クリスチャン生活は何十年にもわたる長い道のりである。その間には疲れを覚える時があるかもしれない。また教会にはいろいろな人々が集まる。中には気の合わない人々があるかもしれない。そのような時、「あの人と顔を合わせたくない」「あのような人と同席したくない」と言う思いがこころを占める時があるかもしれない。そして集会を休もうという誘惑に駆られる。しかしそれは共同体の援助なくしても信仰告白を守り、神の祝福を受け続けられるという傲慢さによるのである。これに対してパウロは「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい(ロマ 15:7)」と述べている。わたしたちは栄光のゴールに至る日まで集会を励み、互いに祈り合い励まし合って信仰を守り通そう。
 


 

2012/11/6 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下16:1-14 賛美 聖歌472 
 ダビデは逃亡中にサウルの家の縁の二人の人物に出会う。シムイの呪いの言葉はダビデにとって非常につらく、耐え難いものであっただろう。アビシャイがダビデに、呪いの言葉を浴びせるシムイをそのままにしておくのかとたずねたときにも、ダビデは自ら手を下さなかった。シムイが語った、神がダビデの罪をダビデ自身の上に返された(8節)という言葉を用いて、ダビデ自身も「主が・・・呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない」(12節)と語っている。
 ダビデ自身、極限状態で息子から逃亡している。そのようなときにさらにこのような呪いの言葉を浴びせられたならば、容易に感情的になって自らの手で報復したくなるだろう。しかしここでもダビデは主に自分の命さえもゆだねた。ダビデもほかの人間と同様に決して完璧であったわけではない。罪を犯したこともある。しかし、彼の強さは、自らの不完全と罪を認め、その報酬については神の手にゆだねる信仰を持っていたことである。私たちもそうありたい。
 


 

2012/11/7 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:23-25 賛美 聖歌622
 この箇所で更に一つの事柄について考えておきたい。著者は「かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから」と述べている。「かの日」とは主イエスの再臨の時である。わたしたちは今、主イエスの初臨と再臨の間に生きている。この時代が終末の時代である。初代教会の時代から再臨は近いと語られ続けてきた。そして初代教会の時代から再臨の切迫性に疑問を投げかけた者たちがいた。ペトロは「次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。『主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。』(競撻3:3-4)」と述べている。これに対しペトロは「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです(3:8-9)」と述べ、「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます(競撻3:10)」と警告している。
 主の再臨が語られてから2000年近い年月が経過している。これは私たちの感覚では実に長い時間である。しかし主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようなのである。ハバククは「定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない(ハバ 2:3)」と語っている。一日一日を主のみ前に誠実に歩もう。
 


 

2012/11/08(木)担当 高谷満世師 サムエル記下16:1-14 賛美 聖歌521 
 ダビデは明らかに予想だにしなかった突然の危機に直面していた。彼が築いてきたすべてが聞きに曝されていた。それは王として築いてきた地位だけではなく、ダビデと神ご自身との関係やダビデの信仰にもかかわることであった。この逃亡は過去にダビデがサウルから逃亡したときのことを思い起こさせる。まさにダビデは予期せぬ方法で、すべてを神にゆだねる決心を再び迫られた。ダビデは神を信じて自身を委ねたが、そのダビデを赦してくださるか、あるいは裁きを下されるかはまったく神の主権の元にあり、ダビデの思いや策の及ぶ範囲ではなかった。
 ダビデほど神に愛され、選ばれ、祝福された王が一瞬にしてこのような苦境に立たされていることは驚きである。どうしてほかの王たちではなくダビデがこのような危機に会ったのだろうかと問いたくもなる。ダビデでさえも罪を犯してしまう人間であり、すべての人が常に神の前に自らを戒め、へりくだって歩まなければならないことを教えられる。今日も御言葉を握り、主の前に正しく生きよう。
 


 

2011/11/9(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:26-29  賛美 聖歌511
 この箇所において著者は真理の知識を受けた後、即ちキリストの救いに与かった後にも故意に罪を犯し続ける人々に対し厳しい警告を発している。彼等の罪のためのいけにえは、もはや残っていない。その様な人々に残っているのは審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけである。ヨハネが「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます(汽茱 1: 9)」と述べているように、聖書はキリストの救いに与かった後にも弱さのために、無知のために、あるいは気付かずして犯した罪のために赦しを約束している。しかし故意に罪を犯し続けることは、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱することである。彼等の罪のためのいけにえは、もはや残っていないのである。全き畏れをもって歩もう。
 


 

2012/11/3(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 17:11−19 賛美 聖歌461
 イエス様がエルサレムに上られる途中、ある村に入られた時、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。彼らの求めに応えてイエス様は彼らを癒された。ところが癒されたことに感謝するためイエス様のもとに戻ってきた者はたった一人だけであった。 わたしたちは日ごろ多くのことを主に求め、主はそれに応えていてくださる。しかし私たちは受けた恵みに対して感謝しているだろうか。求めるだけでなく、感謝をささげるものとなろう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-10-29 00:39:42 (671 ヒット)
デボーションの友

 

2012/10/29(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:19-22  賛美 聖歌 591
 これまで主イエスによってもたらされた新しい契約がいかにすばらしいものであるかを述べてきた著者は新しい契約に基づいて奨励と勧告を述べる。まず最初に「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」と勧める。それは主イエスがご自身をわたしたちの贖いの供え物としてささげてくださり、それによって聖所への新しい生きた道となってくださったからである。また主は復活の後、天に昇り、神の右の座に着き、大祭司としてわたしたちのために執り成していてくださるからである。更に、キリストの血は私たちを罪からきよめ、良心のとがめから解放してくださったからである。それ故わたしたちは今、信頼しきって、確信をもって真心から神に近づくことができるのである。
 


 

2012/10/30 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下15:1-16 賛美 聖歌585
 アブサロムが赦されてエルサレムに帰ってから数年間は表面上は何事もなく過ぎていく。しかし、アブサロムは着々と王に反逆する準備を進めていた。
 アブサロムは非常に美しく、非のうちどころがない素晴らしい人物であった(14:25)。彼は人の心をひきつける魅力を持っていた。アブサロムはダビデ王が裁判官として国内の問題をさばく日に、その門に通じる道の傍らに立ち、人々が王の下へ出る前に彼らの問題を聞き、彼らの心を王ではなく、自分に向けさせるように振舞った。まさに「イスラエルの人々の心を盗み取った」(15:6)のである。
 アブサロムの美しさ、人をひきつける魅力は神から与えられたものであった。それらをアブサロムは内に抱えた復讐心を現実とするために用いた。そしてダビデもまた王でありながらアブサロムの目論見をまったく見抜くことが出来ていない。誰もがそれぞれの思惑を抱えているときに、状況が悪い方向へと動いているようである。私たちは与えられた賜物を主のために正しく用いていくことを日々心に留め、そのために主の知恵を求めてすごそう。
 


 

2012/10/31 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:23-25 賛美 聖歌236
 続いて著者は「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」と勧める。主は十字架と復活によってご自身を救い主と信じる者に罪の赦しと永遠の命を与えてくださった。復活は主の死に対する勝利であり、それによって神の国は実現した。しかし私たちの住む今の世はパウロが「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました(エペ 2: 2)」と述べているように、罪の支配に服している。主イエスがファリサイ派の人々の「神の国はいつ来るのか」との質問に対し「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ 17:20-21)と答えられたように、今の世に在っては神の国は部分的であり、その完全な実現は未来に属している。そしてそれは必ず実現する。なぜなら約束してくださったお方は真実なお方だからである。それ故、それはキリスト者の希望であり、その希望を揺るがぬようしっかり保ち続けることが求められる。
 


 

2012/11/01(木)担当 高谷満世師 サムエル記下15:13-37 賛美 聖歌503
 ダビデの下へアブサロムが民の心をひきつけているとの知らせが届いた。このような事態を招いた背景には、ダビデがアムノンの罪に適正に対処しなかったことがあった。この知らせが届いたとき、ダビデはエルサレムの破壊を回避するために即座に都を出て逃れること、その際、アブサロムの手にかからないであろう側女を10人残して都を守らせることを即座に決め、実行した。危機に対処するダビデの力は衰えていなかった。またダビデが都を出るとき、ダビデに従おうという者も数多かった。なおもダビデは愛される王であった。しかしこの状況にあって注目すべきはダビデがなおも心を神に向けていることである(15:25-26)。主がなおダビデ自身を省みてくださるなら、自分はエルサレムへ戻る。そこにも主の御心がなるようにという信仰を持っていた。
 ダビデはいくつかの事件に正しく対処できなかった。それでもなお、彼の心は主を畏れ、主を求めていた。最も大切なことは失敗しないことではなく、失敗してもなお心から主をしたい求め、従うかどうかである。
 


 

2011/11/2(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:23-25  賛美 聖歌 580
 それ故、罪の支配する世に在って生きる私たちは、愛と善行に励むように心がけるべきである。なぜなら、愛は主の与えられた新しい戒めだからである。主は「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハ13: 34)」と教えられたのである。またパウロは「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい(汽謄 5: 15)」と勧め、更に「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい(ロマ 12: 21)」と語っている。罪に服し、悪の横行する世にあってもわたしたちは悪をもって悪に報いてはならない。どのような時にも善をもって悪に勝利する者となろう。
 


 

2012/11/3(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 12:4−7 賛美聖歌347
 キリスト者の生涯もすべてが平穏無事に進んでいくというわけではない。戦争や迫害によって身が危険にさらされる時もある。しかし神は一人ひとりの魂と体全てを御手によって治め、支配しておられる。故に身に死に至るような危険をもって迫る者があってもそれを恐れてはならない。彼らは体を殺しても、その後、それ以上何もできない者である。真に恐るべきお方は殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方―神様である。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-10-21 22:58:57 (770 ヒット)
デボーションの友

2012/10/22(月) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:14 賛美 聖歌 421
 日ごとに、また年ごとに献げられるレビ系祭司の献げ物によっては成し遂げることのできなかった御業をキリストは唯一の献げ物によって完全に成し遂げられた。それ故、キリストを受け入れる者は罪から解放され、神に受け入れられた礼拝者として神に近づくことのできるものとされ、永遠に完全な者とされているのである。わたしたちが日々の歩みにおいて心ならずも罪を犯す時、サタンはその罪を攻め立て「もう神のもとには戻れない」と囁くのである。しかしパウロは「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです(ロマ 8:33)」と言っている。主の赦しの恵みは完全である。確信をもって主により頼もう。
 
2012/10/23 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下13:23-39 賛美 聖歌543
 アブサロムは妹タマルがアムノンに辱められてからの2年間、アムノンに対する怒りと憎悪を持ち続け、復習の機会を狙い続けていた。そして王子全員を招いて羊の毛刈りを催した際に、アムノンをも招くことに成功する。そこでアブサロムはかねてから考えていた復讐を実行し、アムノンを殺した。アブサロムは殺人の罪を犯した。アムノンが姦淫という、父ダビデの罪を追っているのと同じように、アブサロムもまた父ダビデがウリヤを殺したようにアムノンを殺した。
 このことの背後には何があったのだろうか。もちろんアブサロムは妹タマルのために復讐を願う気持ちが強かったのだろう。しかし、同時にこの出来事の後のアブサロムの行動を見てみるならば、妹のためだけではなく、自分が王位を奪うために自分よりも王座に近いアムノンを殺そうという意図も見える。そしてダビデはこの一連の出来事を扱うにあたってかつてのように神に従うことを第一としてはいない。彼もまた自分の感情に流され、二人の息子を失ったことをただただ嘆くのみである。
 ひとつの罪は重大な傷を残し、大きな代償を払わなければならなくなる。大切なことは、たとえ罪を犯してしまったとしても、その後自分の感情や弱さに流されるのではなく、神に聞き続け、従い続ける姿勢で歩むことである。
 
2/10/24 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:15-182 賛美 聖歌 572
 この箇所においては著者がこれまで述べてきた事柄を、霊感された神の言葉を聖霊の証しとして引用することによってより確かのものとして提示する。ここには「わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう」と記されている。この言葉は私たちの心に、神の律法を、それを遂行する意志と能力と共に刻み込むことを示している。パウロは「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからですロマ 5:1-5)」と述べている。聖霊は私たちに神の御心を示すだけではなく、それに従い、行う力をも下さるのである。
 
2012/10/25(木)担当 高谷満世師 サムエル記下14:1-33 賛美 聖歌514
 ますます事態は深刻になる。ダビデはもはや神の御心を求めるよりは自分の感情を優先して、罪を犯した息子アブサロムに恩赦を与え、帰国させる。そこにはヨアブの思惑が絡み、またアブサロムの暴虐な振る舞いが見え隠れしている。
 ダビデのように神に選ばれ、神の御心を第一に歩んできた者でさえも、神の御心から離れてしまうことが起こりうる。私たちはこのことを心して、毎日「今日も主の御心を求め、主とともに歩みます」という決意と告白をなし、主にしたがっていかなければならない。今日も主の御手に頼り、知恵をもって歩もう。
 
2011/10/26(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:17-18   賛美 聖歌 157
 さらに「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。」と記されている。これは.過去の罪や不法が神の記録から永遠に消し去られ、自分を訴える証拠として取り上げられないことを確証する言葉である。人がこの世において世の罪を犯すなら罰を受ける。刑務所に収容され、刑に服する。刑期を終えて出所してもその記録は戸籍に記され、生涯にわたって付きまとう。しかし主の赦しは私たちの罪を神の記録から永遠に消し去るのである。パウロは「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいましたコロ 2:13b-14)」と述べている。キリストによって与えられた神の赦しは完全である。 

2012/10/27(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書 12:41−44 賛美 聖歌541一行はイエス様の「向こう岸に渡ろう」と言う言葉によって船出をしました。ところが突然激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどでした。弟子たちは恐怖に襲われ、パニックに陥りました。この時気がつくとイエスは艫の方で枕をして眠っておられました。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。イエス様が起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われると風はやみ、すっかり凪になりました。わたしたちの主は大自然をも従わせるお方なのです。わたしたちの生涯には平穏な日ばかりではなく、試練と困難の中におかれる日があります。そのような時、天地の主であられるイエス様が共にいてくださるなら、それらのすべてに勝利することができるのです。イエスに対する信仰を堅く持って勝利の人生を歩みましょう。


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