投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-07-08 22:55:22 (60 ヒット)
デボーションの友

2018/7/9(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:48-59 賛美 新聖歌 407
 イエスは「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって」と語られる。この箇所についてカルヴァンは「わたしたちはこの言葉から、次のことを教えられる。ひとびとが自分自身からひき出す栄光は、すべてとるに足りない無にひとしいものである、と。しかし、わたしたちは、このなにものでもないもののために、かくも思いわずらいはたらいているのであるから、野心はなんと盲目なものだろう。だから、わたしたちは聖パウロの次の言葉を、たえず目の前に見ているようにしよう。自分自身をほめるひとは認められず、神からほめられるひとが認められる、と(競灰螢鵐10:18)。(新共同:自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。筆者挿入)さらに、わたしたちはすべて、神の栄光を身に備えてはいないから、めぐみによって主イエスの栄光にあずかる者とされるかぎりにおいて、主イエスひとりにおいてのみ、みずからに栄光を帰することを学び知ろう。」(カルヴァン新約聖書注解轡茱魯擁_蚕饋袈欺佝納1967上P305)と記している。
 肉の思いによって獲得する栄光は空しい。それは神の国を継ぐことはできない。神の栄光のみを求め、神から栄光を帰される歩みをしょう。

2018/7/10(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:15-20 賛美 新聖歌340
 子を失った母の嘆きの形でイスラエルの民の嘆きが述べられている。この母の嘆きと重ねて、イスラエルが国を失い、人びとが消え失せたとことを思い起こす。彼らにとってそれは大きな嘆きであった。そして主はこの嘆きに耳を傾けられる。更に民の嘆きは続き、今や彼らは自分の罪をも嘆き始める。彼らは今や公に罪を認め、自らが主に立ち返ることができるように、主が彼らを立ち帰らせてくださるようにと求める。民が心から罪を嘆き、悔い改める時、神は彼らの父親として彼らを迎えられる。そして彼らを憐れまずにはいられないと語られる。愛する子たちを憐れむ神の愛の深さを知る。
 神は罪に対して厳しいお方である。人が罪の中に歩み続ける時、決してその罪を無条件に赦されはしない。しかし罪を犯した者が心を砕かれ、真心から悔い改めるなら、その悔い改めに耳を傾け、その罪人を受け入れ、赦してくださる。日々自らを省みて罪を犯していたならば悔い改めて主の愛の内に生きよう。

2018/7/11(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:48-59 賛美 新聖歌 38
 続いてイエスは「あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが」と語られる。アブラハムに与えられた神との契約がイサク、ヤコブに受け継がれ、ヤコブがイスラエルと呼ばれ、神との契約の継承者、神の選民、神の祝福を継ぐ者とされた。それによってユダヤ人たちは自分たちを主なる神を『我々の神だ』と言い、誇っていた。しかし彼らは契約の言葉、神の言葉を肉によって曲解し、真理からそれていった。それ故、イエスは「あなたたちはその方を知らない」と言われる。
 今日、御子の贖いの恵みによって神の言葉はユダヤ人から地上に住むすべての民に開かれた。私たちは今、すべてのみ言葉に与ることが出来る。この御言葉に与ろうとするとき、すべての先入観を捨てて虚心坦懐に、聖霊の助けと導きを求めつつひざまずかなければならない。それによってみ言葉の真意を知ることが出来る。

2018/7/12(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:21-26 賛美 新聖歌209
 神の赦しの宣言は言葉だけで終わってはいない。具体的な行動をとるように民に促している。先に立つ人に対して道しるべを置けと言われる。後に続く人々が迷うことなく帰るべき地に帰り着くことができるために配慮してくださる。また、いつまでもさまよい心が定まらない人に対しても、新しいことを始めたのは主ご自身であって、民はそれに従って行けばよいのだと励まされる。更に回復された姿のイメージまでを示し、まだ実現していない神の繁栄の回復を民に告げ知らせ、民を奮い立たせる。
 民の罪の結果として彼らの国を滅ぼし、捕囚とされた神が今この民を再び生かし、導かれる。その転換点には民の心からの悔い改めがあった。神は罪を犯して神から離れたものであっても、その罪に気付き、悔い改める人びとを受け入れ、赦し、回復させてくださる。常に人々との親しい交わりを求めておられる神に対して、私たちが罪を離れ、神を求めるときに常に愛をもって受け入れてくださる。主が始めてくださる回復と祝福があることを知り、誠実に神と共に歩もう。

2018/7/13(金) 担当 高谷清師  詩37: 34-36 賛美 聖歌 300
 ダビデは「主に望みをおき、主の道を守れ。主はあなたを高く上げて/地を継がせてくださる。あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。」と語りかける。ダビデの時代、神に逆らう者どもは権力の座に着き、権勢を誇り、神に従う者を執拗に迫害し、亡き者としょうとした。神に従う者は苦難の歩みを強いられた。しかし神はご自分に従う者を守り通された。神に逆らう者は滅び、神に従う者が王座に就いた。
 今日においても、神に逆らう者は権力の座に着き、権勢を誇り、世の繁栄を手にする。人々の大多数は自らの保身と利益のために権力者に迎合する。そのような事態が長く続くのを見て神に従う者のなかにも神に逆らう者に迎合しょうという誘惑が忍び寄る。しかし神に逆らう者の繁栄が束の間であることは歴史が証ししている。
 神に従う人々、歴史に学び、聖霊に励まされ、自らの信仰を全うしょう。

2018/7/14(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 15:1-7 賛美 新聖歌 217
 当時、社会的には下層階級に属し、エリート階級であるファリサイ派の人々や律法学者たちからは罪人とさげすまれていた人々が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来ました。この様子を見てファリサイ派の人々や律法学者たちは「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだしました。そこでイエスは一つのたとえばなしを語られました。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」と。そして「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と教えられました。
 悔い改めないで罪に生きる人は永遠の死に定められます。しかしそれは神の御心ではありません。否、神の大きな悲しみです。神はすべての罪びとが悔い改めて救われることを望んであられます。それは私たちが御言葉の恵みを証しすることによって実現するのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-07-01 23:18:46 (53 ヒット)
デボーションの友

2018/7/2(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:48-59 賛美 新聖歌 282
 ユダヤ人たちはアブラハムの子孫であることを誇りとしていた。イエスは、ユダヤ人たちが、神によって遣わされて来られたお方の言葉を聞くことが出来ず、そのお方を殺そうとしている事実によって、彼らが悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている者、真理をよりどころとしていない者、その内に真理を宿していない者、アブラハムの子ではなく、悪魔である父から出た者であり、悪魔の子であることを明らかにされた。それに対してユダヤ人たちは「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返した。
 ユダヤ人たちは、自らの真の姿・罪を示された時、謙虚になって悔い改めることが出来ず、イエスこそ「サマリア人で悪霊に取りつかれているものである」と言ったのである。罪を指摘された時、自己義をもって反論したいのは人の常である。しかし謙虚になって自らを省み、御言葉に従う者となりたい。それは信仰と聖霊によらなければ不可能である。

2018/7/3(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:7-9 賛美 新聖歌325
 イスラエルが悔い改め、助けを求めて叫ぶ時、神はその声を聞いてくださり、彼らに喜びを与えられる。神が与えてくださる救いは完全なものである。捕囚の地からすべての人を連れ帰られる。目の見えない人、歩けない人、身ごもっている女性などの身動きが簡単に取れない人々をも、一人も残すことなく連れ帰り、慰めを与えられる。この大きな力をもって民を回復される神は同時に慰めをもって彼らを守り導かれる。
 神が宣言し、神が主導権をもって与えてくださる救いの御業がなされるところに大きな安心と慰めが伴う。それは神の長子としての関係の回復に伴うものであるがゆえに、揺らぐことのない回復である。この神との関係の回復が基礎となり、民の捕囚からの解放という現実の変化が表面の出来事、結果として起こる。外的変化を求めるのではなく、神との親しい、あるべき関係の回復を求めよう

2018/7/4(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:48-59 賛美 新聖歌 79
 イエスは「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。 わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」と答えられる。ヘブライ人への手紙の記者は「また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。」(ヘブ 5:4-5)と述べている。まことに、私たちの主は、罪人である私たちを神と和解させるという尊い任務を負って、神によって遣わされたお方である。

2018/7/5(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:10-14 賛美 新聖歌265
 神の御業は隠されてはいない。戦いに負けて各地に散らされたイスラエルは、一つの国を持つ民としては死に絶えたように見えた。しかしそこから神の力によって回復され、再び集められるという驚くべき出来事は世界の歴史の中ではっきりと示され、さらに主のことばと御業は真の神を知らない諸国の民によって伝えられる。民に喜びを与え、園を潤し、嘆きを取り去り、飽き足りさせるという神ご自身の御業はイスラエルだけが知る秘密ではなく、全世界に告げ知らされ、神の力を全ての人々が知る。
 今でも同じ神が生きて働いておられる。そして神を信じて神に頼る人びとに大いなる救いを与えられる。この出来事はその救いを体験した人々の間にだけ知られるのではなく、周辺の人々にも知られる。私たちを通して神の御業が人々に知られ、それが語り告げられてあらゆる民が神を知り、賛美するようにと祈ろう。

2018/7/6(金) 担当 高谷清師  詩37: 32-33 賛美 新聖歌 327
 ダビデは「主に逆らう者は待ち構えて/主に従う人を殺そうとする。主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ/罪に定められることをお許しにならない。」と詠う。彼は全き信仰をもって歩み、また主君サウルに忠実に仕えた。しかし、嫉妬に囚われたサウルはダビデを亡き者にしょうとして執拗にその命をつけねらった。しかし神は彼を守られた。晩年、ダビデは「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」(詩 23:4-5)と詠っている。またパウロは「アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。」(競謄3:11-13)と述べている。主に逆らう者はあらゆる手を使って主に従う人を陥れ、殺そうとする。しかし神はそれをお赦しにはならず、主に従う人を守られる。

2018/7/7(土)担当 高谷清師 マコ 10:17-21 賛美 新聖歌 282
 イエスが旅に出ようとされているところにある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と。イエスは「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」とお答えになると彼は重ねて「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。するとイエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と。この記事からイエスに尋ねた人はある程度社会的地位と経済力を持ち、誠実に生きようとしている人、善良な市民であったと考えられます。しかしイエスは彼の内に一つの足りないものを、そして決定的に足りないものを指摘されました。それは彼の目が肉的なもの、世的なものにのみ注がれ、霊的なものに閉ざされていることです。パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰 15: 50)と述べています。しっかりと霊の目を開いて歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-06-24 23:39:23 (69 ヒット)
デボーションの友

2018/6/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 75
 イエスはご自身について語られる「わたしは父のもとで見たことを話している。」「わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。」と。イエスは真の神であり、初めから父なる神と共に天において存在されたお方であり、父なる神によって世に遣わされて世に存在されたお方であり、地上に在っても天に属しておられるお方であった。それ故に、地に属する者は、神によって啓示され、信じた者以外は、イエスを受け入れることが出来なかった。ヨハネが「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハ 1:11-13)と述べているとおりである。純なる心をもって神の言葉に耳を傾けよう。

2018/6/26(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書30:18-32 賛美 新聖歌343
 力強い回復への宣言がなされる。繁栄を回復し、町を再建し、再建された町から人びとの声が聞こえ、民の数も増やされるという確固たる回復の約束を宣言されるのは神である。神ご自身がこれらのことを全て行われる。神の裁きを受けて国が滅ぼされ、諸国に散らされたイスラエルの民に国を再建する力はなかった。しかし神は罪を犯した民に対してさえ憐れみをもって、裁きだけではなく回復も与えられると宣言される。全能の神ご自身が、ご自身の力によって回復させると言われるがゆえに、力があり、信頼することができる。イスラエルがどのような状態にあろうと、神は変わりなく全能であり、愛の神である。民がどん底の状態にある時も頼ることができるのは真の神であった。私たちにも同じ神が共にいてくださり、全能の力をもって守ってくださる。
 常に神を信頼し、神との正しい関係にあるようにと自分を省みつつ、神と共に歩もう。

2018/6/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 458
 イエスは悪魔について「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。」と言っている。悪魔はエデンの園にある人を誘惑し、罪を犯させ、死に閉じ込めた。それ故、「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」。そしてイエスを殺そうとするユダヤ人たちに対して「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。」と言っている。彼らはピラトがその内に罪を認めなかったイエスを十字架につけた。初代教会に対する迫害はまれに見る激しいものであった。日本においてもキリシタン迫害は歴史上もっとも激烈なものであった。このような迫害は今も世界各地において繰り広げられている。それは世を支配する悪魔の本姓である。それ故パウロは「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エペ 6:10-18)と勧めている。御言葉に立ち、信仰と祈りによって歩もう。

2018/6/28(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書30:18-32 賛美 新聖歌343
 力強い回復への宣言がなされる。繁栄を回復し、町を再建し、再建された町から人びとの声が聞こえ、民の数も増やされるという確固たる回復の約束を宣言されるのは神である。神ご自身がこれらのことを全て行われる。神の裁きを受けて国が滅ぼされ、諸国に散らされたイスラエルの民に国を再建する力はなかった。しかし神は罪を犯した民に対してさえ憐れみをもって、裁きだけではなく回復も与えられると宣言される。全能の神ご自身が、ご自身の力によって回復させると言われるがゆえに、力があり、信頼することができる。イスラエルがどのような状態にあろうと、神は変わりなく全能であり、愛の神である。民がどん底の状態にある時も頼ることができるのは真の神であった。私たちにも同じ神が共にいてくださり、全能の力をもって守ってくださる。
 常に神を信頼し、神との正しい関係にあるようにと自分を省みつつ、神と共に歩もう。

2018/6/29(金) 担当 高谷清師  詩37: 30-31 賛美 聖歌 196
 この箇所でダビデは神がご自身に従う者に求められる三つの原則について語っている。それは口に知恵の言葉があり、その舌は正義を語り、神の教えを心に抱き、よろめくことなく歩むことである。「口に知恵の言葉があり、その舌は正義を語る」ことについてカルヴァンは「正しい者は,神の正義に対する全尊崇の念をもって語るが、それは自分自身と他の者に対し、あらゆる神の認識と恐れを教えるためである。さらに自分自身の事柄においても、他の人々の事柄においても、彼らは虚飾なしに、直く正当なものを承認し、けっして怒りに我を忘れることなく、また論弁によって、邪悪な主張を糊塗することもない。一言にして、彼らは真実から外れ去ることはない、と。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅474新教出版社1970)述べている。
 ぺトロは「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(競撻1:20-21)と述べている。聖書は神の言葉である。故に、畏れをもって聖霊の導きの中で解釈し、語られるべきであって、その解釈に私情、私利、私欲がはさまれてはならない。いやしくも、自らの主張の正当性を裏付けるために聖句の一部が文脈から切り離されて用いられるようなことがあってはならない。常に聖霊の導きの中で御言葉を読もう。

2018/6/30(土)担当 高谷由紀子師 マコ 1:14-15 賛美 新聖歌 32
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」これはイエスが宣教を始められた時の最初の言葉です。一般的に、苦難や災難に遭っている人は、平穏無事に暮らしている人々に比べて、平素の行いが悪く罪深い人々だと考えられがちです。しかし主はピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた人々に対して「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ 13:2-5)と語られました。パウロも「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ 3:23)と述べています。生まれながらの人は皆罪人であり、悔い改めを必要としています。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-06-17 23:10:02 (75 ヒット)
デボーションの友

2018/6/18(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 222
 イエスが「真理はあなたたちを自由にする。」と語られたことに対してユダヤ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と反論する。ユダヤ人たちは罪をモーセ律法に対する不従順としてとらえていた。しかし、パウロは「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。」(ロマ 5:12-14)と述べている。世は罪の奴隷となっているのである。それは、彼らがイエスの言葉を受け入れないことによって明らかである。

2018/6/19(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書30:4-11 賛美 新聖歌345
 イスラエルの現実は主の裁きを受けて、恐れに満たされた状況であった。あまりのひどい現実に男性たちもまた子を産む女のように痛みに震えている。しかし、この痛みは終着点ではない。この痛みと恐れを通して救いが与えられる。神ご自身が「恐れるな」と呼びかけ、捕囚の地からの「救い」を約束される。国を失い、捕囚民として苦しみ、アイデンティティを失う危機にある民に、神は、「私がお前と共にいて救う」(30:11)と宣言される。
 最悪の状況で、なすすべもない人々と共に主はおられる。主の定められたときに、御心に適って救いを成し遂げられる。神は罪を見過ごすことなく、罪に対しては裁きをもって望まれるが、裁きを通しても枯渇することのない民に対する愛を持っておられ、愛する者に救いを与えられる。あらゆる状況において神の愛と救いがあることを忘れず、主と共に歩もう。

2018/6/20(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 282
 イエスは「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。」と語られる。更に「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。」と語られる。パウロは「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」(ロマ 4:13)と述べている。確かに、ユダヤ人たちは肉によってアブラハムの子孫であった。しかし、彼らは世界を受け継ぐ者ではなかった。信仰によらなかったからである。人は肉によっては神の国を受け継ぐことはできず、信仰によってのみ、受け継ぐのである。ヨハネが「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハ 1:12-13)と述べているとおりである。

2018/6/21(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書30:12-17 賛美 新聖歌340
 既に国を失い、深く傷ついているイスラエルに対して神はその傷が癒えないと言われる。さらに、彼らの助けを求める叫びに耳を傾ける者もなく、傷口を手当てしてくれる者もいないという。イスラエルが頼った近隣諸国も彼らを見捨てるのだ。なんと厳しい言葉だろうか。この様な残酷な言葉を神はどうして語られるのだろうか。決して、神は苦しむイスラエルを見て喜んでおられるわけではない。むしろイスラエルがこの痛みと傷を直視し、向き合うことを通して、彼らがこの様な苦境に陥った真の原因に気付かせようとしておられる。その上で、イスラエル自身も、周辺諸国も、誰一人イスラエルを回復させることができる者がないことを示される。しかしこのメッセージはこのどん底で終わるのではない。神は「さあ、わたしがお前の傷を治し/うち傷をいやそう」(30:16)と言われる。神は人間の無力さをご存じである。自分の罪によって痛みへと追い込む人間の性質をご存じである。それでもなお人を見捨てることなく、むしろ神ご自身が立ち上がり、傷をいやそうと言われる。この深い神の憐れみを神はすべての人に、時を越えて注いでおられる。私たちもただ神の憐れみの故に罪赦された。感謝しよう。

2018/6/22(金) 担当 高谷清師  詩37: 27-29 賛美 新聖歌 281
 ダビデは「悪を避け、善を行えばとこしえに、住み続けることができる。」と詠う。カルヴァンは「この節において、ダビデは、彼が言及したごとき浄福を享受するためには、どのような仕方にせよ、だれかに対して不正を働くことを止め、慈悲深さを目指すあらゆる道を実行し、隣人に対し善を行なわなければならない、と結論する。たとえこの文章は、肉の思いとは相反するとしても、全人類が陥っている苦悩や困惑の由って来たるところは、すべての者がそれぞれ邪曲と、欺瞞と、強奪と、不正な道に身を任せ、神の祝福を棄却するところにある、ということは確実である。それゆえに、この世で安らかに生き、みずからのものである喜びと憩いとを、正当な権利として享受するのを妨げているのは、他ならぬ人間自身である。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅471新教出版社1970)と述べている。主イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタ 5:43-45)と教えておられる。敵対する者、迫害する者を愛することこそ祝福への道である。

2018/6/23(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 17:11-19 賛美 新聖歌 265
 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通っておられました。ある村に入られると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言いました。イエスは彼らを憐れみ、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。彼らは、イエス様の言葉に従い、そこへ行く途中で清くされたことに気付きました。そこでそのうちの一人が大声で神を賛美しながら戻って来てイエスの足もとにひれ伏して感謝しました。この人はサマリア人でした。これを見てイエスは「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われました。私たちは日々、イエス様から多くの恵みを受けていながら、感謝し、御名を賛美することの如何に少ない者であろうか。パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(汽謄5:16-18)と述べています。感謝と讃美を絶やさない者となりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-06-10 23:39:29 (71 ヒット)
デボーションの友

2018/6/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 344
 キリストの言葉にとどまるもの―聖書の言葉を自分の外においてそれを律法的に守るのではなく、キリストとの深い交わりにより、聖霊によってキリストが私たちの内に居てくださり、キリストの言葉が自分の心とされた者―こそ、本当のキリストの弟子である。キリストの弟子とされた者は真理を知る。そしてイエスは「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ14: 6)と語っておられる真理とはイエスご自身である。真理を知ることのすばらしさについてパウロは「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリ 3:5-9)と述べている。キリストを知る者とされていることに感謝し、さらに深く知る者となろう。

2018/6/12(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書29:24-32 賛美 新聖歌166
 エレミヤが捕囚民に書き送った手紙に対してシェマヤが感情的に反応している。シェマヤはエレミヤの預言に腹を立て、祭司を利用してエレミヤを排除しようとしている。祭司ツェファンヤはこのシェマヤの要求を聞き入れなかったのは、シェマヤがまことに神の言葉を語っていないと知ったからであろう。エレミヤへの怒りと憎しみによって行動したシェマヤに対してエレミヤを通して語られた神の言葉は、彼が偽預言者であることを冷静に指摘している。エレミヤへの敵意と攻撃に反論するのではなく、神の言葉と称して偽りが語られたことが問題となっている。神の言葉を蔑ろにするシェマヤに対しては子孫までも救いに入れられないという厳しい裁きが告げられる。
 神の言葉を語る時、私たちは慎重かつ誠実でなければならない。神の言葉の権威を用いて私たちの感情と要求を述べることは容易にできる。しかし、それは大きな罪である。

2018/6/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 264
 続いてイエスは「真理はあなたたちを自由にする」と語られる。神の言葉に背き、悪魔の奴隷となり、罪と死に定められた者を解き放つために、イエスは十字架に架かり、血を流し、命を捨ててくださった。このイエスによって与えられる自由こそ、真の自由である。パウロは「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラ 5: 1)と警告している。確固たる信仰に立って神に在る自由を守ろう。

2018/6/14(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書30:1-3 賛美 新聖歌340
 29章では既にバビロンに捕囚となった人々に対してすぐに帰還できると考えず、そこで生活を建て上げよと述べられ、救いはまだ先だと語られてきた。それに続いて回復の預言を聞くと、読んでいる私たちは驚き、混乱する。さらに注意をひくのはイスラエルとユダの繁栄が述べられていることと、続く言葉にはヤコブ、すなわち北イスラエルへの語り掛けがあることである。約150年も前に滅びた国は人びとの記憶にも殆ど留まってはいなかっただろう。しかし神は決してご自分の民を忘れ去ることはなかった。たとえ人が神に見捨てられたと感じることがあるとしても、神は常に誠実である。それ故に私たちは神に信頼を置くことができる。

2018/6/15(金) 担当 高谷清師  詩37:25-26 賛美 新聖歌445
 老境に達したダビデは自らの生涯を振り返って「若いときにも老いた今も、わたしは見ていない/主に従う人が捨てられ/子孫がパンを乞うのを。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「ここに、きわめて困難で複錯した問題が生ずる。なぜならば、多くの正しい者らが、事実食を乞い歩くまでに追いやられたことは、きわめて確かだからである。(中略)神がこの世において、すべての信仰者に、均等にその恩恵を示されるわけではない。いろいろな理由があるからである。神はある者を懲戒され、他の者はこれを見逃される。あるいは、ある者らの隠れた病を癒されるのに、他の者にはこれを控えられる。なぜならば彼らには、同じ癒しの必要がないからである。ついで神はある者らの忍耐を試みられる。それに応じて、彼らに豪毅の霊が与えられるからである。最後に神は、ある者を範例として示される。しかし、神はその怒りのしるしによって、すべての者を差別なくへり下らせられるが、それはこのような刺棒によって、彼らを悔改めへと至らしめるためである。さらに加えて、神はもろもろの苦難によって、彼らを天にある生命の冥想へと招かれる。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅469新教出版社1970)と述べている。ヘブライ人への手紙の記者は苦難の中にある人々に対し「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」(ヘブ12:7)と語っている。いかなる時にも神の御手の内に歩もう。

2018/6/16(土)担当 高谷由紀子師 汽灰1:18-21 賛美 新聖歌 359
古来、人間は洋の東西を問わず、神を求め、救いを探し求めて来ました。そして多くの知者、賢者を輩出してきました。しかし人を救いに至らせるもの、人に永遠の命を得させるものを見出すことはできませんでした。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。すなわち、罪の無いご自身の一人子を遣わし、このお方にすべての罪を負わせて十字架につけ、血を流し、命を捨てることによって、このお方を信じるすべての人を罪から解放し、救いを得させる道を開かれたのです。これは世の知者、賢者の目には愚かに映ります。しかしこれこそ、神の知恵であり、私たちの救いの唯一の道です。


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