投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-05-06 23:09:28 (81 ヒット)
デボーションの友

2018/5/7(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:12-20 賛美 新聖歌 231
 イエスは「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。」と語られる。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)と記されているように、神の御子が肉をとってこの世に来てくださったのは、罪を犯し死に定められている人間を愛し、死から救うためであって、審判を行うためではなかった。しかし「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:18)と述べられているように、神が愛によって遣わしてくださった救い主を信じない者は救いに与ることが出来ない、それが裁きである。信仰によってイエスを受け入れよう。

2018/5/8(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:20-24 賛美 新聖歌396
 エレミヤと同時代に生きた真の主の預言者ウリヤの死の突然の報告から、エレミヤの命を狙う者は祭司と預言者だけではなかったことが分かる。王もまた耳の痛い、真の神の預言を疎んじ、それを語る預言者を殺そうとしていた。ヨヤキム王のウリヤへの敵意は、エジプトに逃れたウリヤを追跡して連れ戻してまで殺すほどであった。同じ時代に生きていたエレミヤはアヒカムという、ヨシヤ王のもとで大臣を務めていた後見人を通して守られていた。ウリヤもエレミヤも真実の主のことばを語ったが、一人は王の手に堕ち、一人は守られた。これを不公平だと感じるだろうか。客観的にはそうかもしれない。しかし、ウリヤもエレミヤも真の神に仕える中で主の御心によって用いられ、生かされ、また命を落とすことも許されていることを理解していただろう。
 同じ神に同じ時代に同じ場所で仕える人びとでも、預言者個人の生涯はそれぞれ異なる。人間的には不公平であっても、神は一人一人に使命を与え、それを遂行させ、御心の時に召される。他の人と比べて良いか悪いかと考える必要はない。ただ、神の前に誠実に、力の限りに仕えたい。

2018/5/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8: 12-20 賛美 新聖歌 344
イエスが「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」と語られたのに対し、ファリサイ派の人々は「あなたの父はどこにいるのか」と問うた。イエスは「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」とお答えになった。ヨハネは「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」(ヨハ 6: 46)と述べている。またフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うのに対しイエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(14:8)と答えておられる。更に主は「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハ 17: 21)と祈っておられる。人は神を見ることはできない。御子イエスにおいて神を見、知るのである。

2018/5/10(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書27:1-11 賛美 新聖歌343
 ユダの王のもとに近隣諸国王から使者が送られて会議を開いているところにエレミヤは象徴行為と共に預言することを命じられる。これらの国々は共謀してバビロンに反旗を翻そうと画策していたが、主なる神はこのような方法で平和を得るのは神のみ心ではなく、むしろ諸国民をバビロン王の支配下に置くことであると告げられる。バビロンに対する反乱を起こすように勧める者たちは神のみ心を伝えていないという。エレミヤは同じことをユダの王に対しても語るが、特に諸外国の使者に語る時にはイスラエルの神、万軍の主が創造者であるということを強調している。なぜなら周辺諸国もそれぞれ世界を創造したのは神であると考えていたからである。これは真の創造者の言葉であるがゆえにユダのみならず諸国もこの言葉に聞き従わなければならないと示された。
 語る相手によって神はご自身を顕す表現も変えられる。それは聞く人びとが神を知り、理解できるためである。私たちも神の言葉、福音を伝える時に聞く人びとにとって理解できる言葉を用いて語る知恵を求めよう。

2018/5/11(金) 担当 高谷清師  詩 37:20 賛美 新聖歌 449
 ダビデは従う人を虐げ、不法行為によって得た世の繁栄によって傲慢にふるまう者について「主に逆らい敵対する者は必ず滅びる、献げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「悪しき者らがみずからに寄り頼む間に、神は隠れた方法で、彼らを無に帰せしめられる、というのである。彼らを神の敵と呼ぶことによってダピデは、みずからの悪行のゆえに、彼らの頭上に降りかかる神の報復によって、彼らが打ち砕かれるのは、正当なことであると教えている.」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅4661新教出版社1970)と述べている。ヤコブは「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(ヤコ 5:4-6)と述べている。罪の快楽をほしいままにしたソドムとゴモラは一夜にして滅ぼされた。神を畏れ、真実に歩もう。

2018/5/12(土)担当 高谷由紀子師 ロマ 1:16-17 賛美 新聖歌 276
 パウロは『福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』と言っています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創 15:6)と記されているとおり、アブラハムが義と認められたのは彼の行いによったのではなく、信仰によったのでした。ダビデは行いによらず、信仰によって義と認められた者の幸いについて「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(詩 32:1-2)と詠っています。私たちが義とされるのは私たちの罪のために十字架に架かって下さった主を信じる信仰によってだけです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-04-29 22:53:53 (73 ヒット)
デボーションの友

2018/4/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:12-20 賛美 新聖歌 420
 イエスが「わたしは世の光である」と語られたことに対してファリサイ派の人々が「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」と言った。律法に「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」(申 19:15)と記されていることに基づく反論であった。これに対してイエスは「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」と語られる。ファリサイ派の人々はイエスのことばを理解できない。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰 12:3)と述べている。イエスの言葉は霊である故、霊によらなければ理解できないのである。宣教も霊によらなければ不可能であり、絶えざる祈りを要するのである。

2018/5/1(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:11-15 賛美 新聖歌505
 神殿で神のことばを語ったエレミヤは捕えられ、責め立てる人々と法廷で対峙する。自らの死刑を求める人びとを目の前にして、驚くことに、エレミヤは全く動揺していない。エレミヤは神が共におられることを知っており、全くその信頼は揺るがないが故にこのような切羽詰まった状況において、冷静かつ自制心のある姿勢を貫くことができた。エレミヤ自身が神のことばを語っている確信があるからこそ、自分を殺そうとする人びとに対して『「わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい。」』(26:14)と言うことができた。
 神様と親しい関係に生きるクリスチャンが主に従う時、各方面から思わぬ拒絶や妨害や攻撃を受けることがある。程度の差こそあれ、信仰者からさえ無理解を得ることすらある。この様な時に私たちは心傷つき、動揺する。しかしいかなる時にもエレミヤのように確信をもって一つのメッセージを語り続ける源は神との生き生きとした親しい関係によって支えられる。常に神の御心を、み言葉と霊の交わりを通して確かに知っていると断言できる日常のクリスチャン生活を歩みたい。

2018/5/2(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8: 12-20 賛美 新聖歌 201
 イエスが「わたしは世の光である。」と語られたのに対しファリサイ派の人々は「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」と語り、イエスを裁いた。それについてイエスは「あなたたちは肉に従って裁く」と言われる。ファリサイ派の人々は霊的、天的な事柄を人間的次元において判断しょうとしていたのである。パウロは「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(汽灰2:10-15)と述べている。尊い神の恵みを受けた私たちは、霊によって歩もう。

2018/5/3(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:16-19 賛美 新聖歌20
 法廷でエレミヤは冷静に力強く、自分の預言は神のことばであると述べた。それに対してこれまでの経緯を踏まえてエレミヤに怒りを持っている祭司と預言者達は感情的になっている。しかしこの法廷での主張を聞いていた人々は感情的な死刑求刑に流されてはいない。本来宗教指導者であるはずの祭司と預言者の声が受け入れられないというのは何とも皮肉な話である。高官たちと民は緊迫した対立の中で、数と権威に勝る祭司と預言者達の言葉ではなく、エレミヤの言葉が神の真実であると見極めた。さらに過去の歴史から、預言者の真実な言葉を人々が受け入れた時に主が救ってくださったことをも思い起こして、神がエレミヤを通してこの時代に警告を与えておられることを聞き分けた。
 神の言葉が人を通して語られるとき、それを聞く人びともまた社会状況や損得勘定によって先入観を排除しきれない。だからこそ聞く人びとにも神の言葉を霊的に聞き分ける耳が必要とされる。それを求め続けたい。

2018/5/4(金) 担当 高谷清師 詩 37:18-19 賛美 新聖歌 209
 ダビデはここで「無垢な人の生涯を/主は知っていてくださる。」と詠う。主に逆らう者、権力ある者が絶大な権力を持ち、莫大な富を持つとしても、主は彼の腕を折られる。しかし主に従う者の生涯を主は知っていてくださり、自分のこととして深く関わってくださる(岩波訳参照)のである。彼らは神の内にその嗣業を持ち、それは永遠である。主に従う者も主に逆らう者と共に地上を歩んでいる以上、災いが降りかかる時、それと無関係ではありえない。阪神淡路大震災の時、周囲の家はすべて倒壊したが、クリスチャンの家だけは無傷であったかと言うと、そうではない。東日本大震災の時、主に従う人が被害を受けなかったかと言うとそうではない。主に逆らう者と同様に被害を受けたとしても、生ける神を信じるが故にくじけないのである。主に従う者は神の慈しみと愛を知っている故に、強い信頼をもって苦難に立ち向かうことが出来るのである。今日一日、主にあって雄々しく歩もう。

2018/5/5(土)担当 高谷由紀子師 マコ 12:13-17 賛美 新聖歌 391
 ファリサイ派やヘロデ派の数人がイエスのところにやってきて「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」と述べたうえでイエスを陥れようとして「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」と質問した。イエスは、彼らの下心を見抜いたうえで「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。
 イエスはピラトの裁きの座において「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」(ヨハ 19:11)と語られた。パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(ロマ 13:1)と述べている。「皇帝」もまた神立てられ、神の支配下にある権威として、皇帝に属するものは皇帝に帰するべきである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-04-22 22:34:21 (81 ヒット)
デボーションの友

2018/4/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:1-11 賛美 新聖歌 369
 訴える者たちが去った後、イエスは「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と問われた。それに対し婦人は「主よ、だれも」と答えている。ここに一つ、大きな見落としがある。主は「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」(マタ 25:31-33)と述べておられる。私たちの罪を負い、十字架に架かり、救いの御業を成し遂げ、甦り、天に帰られた主は、やがて再び裁き主としておいでになる。その時にはすべてのものが裁かれるのである。イエスはこの婦人を解放するにあたり「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われた。ヘブライ人への手紙は「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。」(ヘブ 10: 26)と述べている。救いの恵みに与った私たちは、罪を犯し続けることがあってはならない。

2018/4/24(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:1-6 賛美 新聖歌263
 先に7章でエレミヤが神殿で語った預言を読んだ。ここには再度同じメッセージが記されている。エレミヤが神殿の庭に立って語ったことは変わっていない。エレミヤは忠実に神のことばを語っており、それは民が神の律法に背き続けるならば主が災いを下され、人びとが信頼を置いている神殿を荒廃させるというものであった。
 人々の心は変わりやすい。人々はいつも変わらず神に仕えていると考え、そのように行っていたとしても、日々移り変わる時代や政治状況の中で彼らにとって神に仕えるとはどういうことかということが主観的に判断されているがゆえに常に一貫して正しく神に仕えるということができない。しかし神が求められることはあらゆる状況において、変わることのない神の律法と神のことばに従うことであった。私たちも刻々と変わりゆく状況を考慮したり、特定の人々について忖度したりするのではなく、常に変わらない神のことばに従って主に忠実に歩もう。

2018/4/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8: 12-20 賛美 新聖歌 201
 イエスは「わたしは世の光である」と語られる。ヨハネは1章において「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハ 1:1-9)と述べている。まことに、主イエスは真の光であられ、命であられる。このお方を離れては、命はない。

2018/4/26(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:7-11 賛美 新聖歌195
 エレミヤの預言を聞いた人々の反応が記されている。預言を聞いた時に考えられる、預言を受け入れて悔い改めるか、預言を拒んで不従順であり続けるかという反応にはとどまらなかった。エレミヤの言葉を聞いた祭司と預言者たちとすべての民が彼を捕えて主の名によってこのような預言をしたエレミヤを裁判にかけた。かつてエレミヤに厳しく批判された祭司と預言者達は死刑を求刑している。エレミヤがこの都に敵対する預言をしたからだという。感情的になっている人々の共感を得やすい理由であろう。しかし冷静に考えると、おかしな理由である。エレミヤが偽預言をしたから、あるいは神のことばを正しく取り次がなかったからというのであれば、預言者に対する罰を求めるには正当であろう。しかしここでは聞く人々の都合に合わないことを語る「預言者エレミヤ」を死刑にしようとしている。これこそが神のことばを軽視し、拒む人々の罪である。自我がむき出しになった姿である。
 神のことばに向き合う時、聞く者の心に心地よく響かないことがある。それは神のことばが人々を教え、戒め、正しくし、義に導く(2テモテ3:16)からである。しばしば人の感情に逆らうことが語られる。その時に語る人を排除するのはへりくだった応答であろうか?

2018/4/27(金) 担当 高谷清師  詩 37:16-17 賛美 新聖歌 282
 16節についてカルヴァンは「ダビデがここで語っているのは、外的な富というよりはむしろ、正しい者たちを真実に富める者とする、神の密かな祝福についてである、とわれわれは結論する。というのは,たとえ彼らはその日暮しを強いられるとしても、しかもあたかもマナをもってするごとく、その養いを天から受けているからである。しかるに、悪しき者は常に飢えており、あるいは財宝の中に埋もれつつも、朽ち果てる。」・・・「神のみ手によって支えられるのでないかぎり、この世には何の確かさも存しない」・・・もしわれわれが信仰によって、神がわれわれを、その父らしきみふところに抱かれることを、確信しないならば、われわれの貧しさは、常にわれわれにとって悩みであることになろう。・・・信仰者は神の祝福に寄りすがることを学んだのちには、彼らはその卑小で低俗な立場に留まることを喜び、これに満足することなく悪しき者らが誇りとする大いなる宝を、まるで足の下に踏みつけるように、大胆にも軽侮することであろう。(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅463―464新教出版社1970)と述べている。パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰15:50)と述べている。世の価値観ではなく、御国の価値観に生きよう。

2018/4/28(土)担当 高谷由紀子師 マタ 19:23-26 賛美 新聖歌 397
 イエス様は弟子たちに「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われました。主はかつて「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタ 6:21)と教えられました。また、パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰15:50)と述べています。金持ちはその富に心を捕われがちです。しかし、地上の富は神の国を受け継ぐことはできないのです。富が与えられるなら感謝して受けましょう。しかし、与えられた富に捕われないで、常に神に目を注ぎ、御心の内を歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-04-16 02:52:33 (89 ヒット)
デボーションの友

2018/4/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:1-11 賛美 聖歌 260
 イエスが朝早く神殿の境内で民衆に教えられているところに、律法学者たちやファリサイ派の人々の一団がやってきた。彼らは恥辱にうなだれ、恐怖におののく一人の婦人を引き立てていた。イエスの前に来ると律法学者たちやファリサイ派の者たちは訴えて言った「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と。これはイエスを陥れるための悪意に満ちた問いであった。律法学者たちやファリサイ派の者たちは、イエスが「赦せ」と言われたならイエスを「律法を否定する者」として告発することが出来る。一方、「律法に従って石で撃ち殺せ」と言われたならローマ法に反する者として告発することが出来る。またイエスの「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ 19:10)と言う言葉に矛盾するからである。沈黙されるイエスにしつこく問い続ける律法学者たちやファリサイ派の者たちにイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と答えられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って行ったのである。自らを省みることが大切である。

2018/4/17(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書25:1-14 賛美 新聖歌185
 ヨシヤの子ヨヤキムの第四年といえば、紀元前605年である。この年エジプト軍がバビロン軍と戦い、敗北した。それによってエルサレムの脅威は南からではなく、北から押し寄せることになった。エレミヤが預言し続けてきた「北からの敵」が具体的に目の前に迫って来る敵として現れた。この状況においてこれまでに語られてきた預言が再度強調されている。さらに、敵が「バビロン王ネブドレツァルが率いる北の諸民族」(25:8)と名指しで指摘されている。これらの敵が押し寄せた理由は一貫している。民が神の言葉に聞き従わなかったからである。
 既に神の裁きが決定的なものとなっている状況において、預言者はなお民の罪を指摘する。驚くべきは、この切羽詰まった状況においてもなお、民が悔い改めるならば主はイスラエルの地を守ってくださる、裁きを下されないと語られていることである(25:5)。罪びとに対する神の厳しさと同時に、最後まで人々の悔い改めを待って赦そうとされる神の愛の深さを知る。これが自分以外の「罪びと」に向けられた言葉として聞き流すのではなく、自分を省みて神に従おう。

2018/4/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:1-11 賛美 新聖歌 214
 訴える者たちが去った後、イエスは身を起こして「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と言われた。女が、「主よ、だれも」と答えると、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と。これこそ、赦しの宣言である。短文であるが、神の御子が人となり、世の罪を負い、十字架に架かり、血を流し死んでくださった、比類なき贖いの御業に立った宣言である。その御業は愛によって成し遂げられた。この女は贖いの御業はまだ知らない。しかしこのイエスの言葉によって恥辱と恐怖から解放され、喜びと平安と感謝に満たされたのである。ヨハネは「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(汽茱4:18)と述べている。

2018/4/19(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書25:15-38 賛美 新聖歌325
 神の裁きについて続けて語られている。神の裁きを受けるのはエルサレムだけにはとどまらない。神はここですべての国々に対して神の怒りの杯を飲ませると語られる。17節から26節に列挙される国々の名を見ると、エジプトからバビロンに至るイスラエルの周辺諸国が含まれていることが分かる。神はイスラエルの神であると同時に世界を治める神である。神は全地を統べ治めておられるがゆえに、すべての民が神に背く人々に対して注がれる神の怒りの杯から逃れ得ないのである。
 私たちは日々の生活に精いっぱいで、全世界を見渡す目を持てないことがある。また世界に目を向ける時、真の神があらゆるところを治めておられるとは思えないようなことがある。しかし神は確かに全世界を治めておられ、正しい統治をなさることを覚えて主に信頼して歩もう。

2018/4/20(金) 担当 高谷清師  詩 37:14-15 賛美 新聖歌 438
 この箇所についてA. ヴァイザーは「敬度な人々に対するどのような罪の企みもそれ自体のうちに没落の萌しを含んでおり、自ら崩壊せざるをえない。これが彼の揺るぎない確信であり、信仰の見地からいっても当然の確信といえよう。罪そのものがすでに審きなのである。罪の武器は罪人自身に向けられ、自分自身の手中にあって彼を破滅させる。」(ATD旧約聖書註解詩篇上P415ATD・NTD聖書註解刊行会1983))と述べている。ヨハネは「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハ 3:17-19)と述べている。福音を信じないで、「先祖代々の宗教でないから・地域社会の宗教でないから」と、信じる者に反対する人々は、それ自体が彼の裁きとなっているのである。

2018/4/21(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 19:1-10 賛美 新聖歌 340
 ザアカイは徴税人の頭で金持ちでした。しかし、友も無く孤独で寂しい生活を送っていました。そんなある日、イエス様がザアカイの住んでいる町を通られ、彼の家にお泊りになりました。イエス様との親しい交わりの中で悔い改めに導かれ、ザアカイの心は変えられました。強欲一点張りであったザアカイが「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と告白したのです。これを聞いてイエス様は「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と言われました。イエス様こそ、友なく、孤独に悩む人を救ってくださるお方です。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-04-08 23:28:59 (81 ヒット)
デボーションの友

2018/4/9(月) 担当 高谷清師 ヨハ 7:51-52 賛美 聖歌 501
 イエスを殺そうと図る議員やファリサイ派の人々は、ニコデモの「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」と言う抗議に対して「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」という言葉をもって一蹴する。ミカ書には「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(ミカ 5:1)と記されている。更にマタイは「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」(マタ 2:1)と述べている。もっとも、この時点においてはマタイによる福音書は存在しなかった。しかし、議員やファリサイ派の人々は、神に聴かず、イエスの真実を把握せず、断罪したのである。私たちも同じ危険に直面している。常に御言葉と聖霊の導きに心を注ごう。

2018/4/10(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書24:1-10 賛美 新聖歌170
 旧約聖書では「捕囚」についてしばしば語られる。捕囚と言えば、エルサレムが紀元前586年にバビロンに滅ぼされた時に捕虜として連れて行かれ、その先で定住した人々だと考える。しかし実はこの10年前にもエホヤキン王と指導者たちがバビロンに捕囚として連れ去られている。エルサレムに残った人々は最初の捕囚となった人々が神の裁きを受けて滅びる者たちであるのに対して、自分たちは神の裁きを免れ、神の好意と祝福をエルサレムで受け続ける思い、自分の生活が安泰であると考えていた。しかしこの時、神はエレミヤに二つの籠に盛られた無花果を示して、連れ去られた人々が裁きを受けたのではなく、彼らこそが神に選ばれた者であると言われる。
 私たちの周りに起こる状況を自分の都合良く解釈していないだろうか。最初の捕囚を免れた人々が、自分は助かったと考えたことは人間的に理解できる。しかし、神はそうではないと言われた。日々私たちの周囲で起こる出来事を私たちの視点からではなく、神の視点から見て、神の御心を理解しつつ歩めるよう、霊の目を開いて祈り続けよう。

2018/4/11(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:1-11 賛美 新聖歌 397
 この箇所に新共同訳聖書は「わたしもあなたを罪に定めない」と言う見出しを付けている。この箇所について内村鑑三は『是は如何見ても一幅の画である。而かも画家の想像に成りたる画でない。事実を示さるゝにあらざれば如何なる画家と雖も如此き名画を画くことは出来ない。其趣向が全然超人的である。「未だ此人の如く言ひし人あらず」である(七章四六節)。茲にイエスの為人が明かに画き出されてある。イエスは如此き人であつたと言ひて、之を読む何人も驚き且嘆賞せざるを得ない。新約聖書は多数の小福音書より成る福音書であるが、此一編の如き之を全福音の縮写として見ることが出来る。もし此編丈けが存つてゐたとして、イエスの感化は永久に消えない。之を基礎として我信仰を其上に築く事が出来る。』(内村鑑三全集第32巻P224−225 岩波書店1983)と述べている。比類なきイエスの真の姿を見る。

2018/4/12(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書24:1-10 賛美 新聖歌202
 民の予想に反して、主は最初に捕囚として連れ去られた人々が「良し」とされて、彼らに恵みを与え、彼らに目を留め、彼らを約束の地に連れ帰ると言われた。罰を受けたように見えた人々が、実は恵みを受けていたということ自体も驚くべき逆転である。しかしそれ以上に神が彼らを「建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。」(24:6)として、エレミヤ1章10節と同じ表現を用いて神の変わらぬ真実を示されたことが驚きであった。さらに民は自分では神を知ることができなかったにもかかわらず、悔い改めてもいない人々にただ一方的な神の決断により新たに神を知る心を与えて、再び契約を結ばれるという。罪に沈む人々に対する最大の神の愛、無条件の赦しと、神の再創造による関係の回復が与えられる。
 どこまでも民を求め、関係の回復を求められる神の愛と赦しが驚くべき方法で示されている。改めてただ神の恵みにより罪を赦され、生かされ、神との交わりの内に歩ませていただいていることを感謝しよう。

2018/4/13(金) 担当 高谷清師  詩 37:12-13 賛美 新聖歌 361
 詩人は「主に従う人に向かって/主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが、主は彼を笑われる。彼に定めの日が来るのを見ておられるから。」と詠う。エジプトの国で奴隷となっていた民を、神はモーセを立てて数々の力ある業をもって導き出された。民が去った後、ファラオは心を変えて民の後を追い、葦の海のほとりに宿営している民に迫った。前方を海に阻まれ、後方からは訓練され、装備を整えたエジプト軍に迫られ、民は進退窮まった。その時、先頭に立って民を導いていた雲の柱は後方に移り、エジプト軍が民に追いつくことを阻んだ。更に神は前方の海の水を退かせ、民はそこを渡った。民が渡り終えると神は水を元のとおり流れ帰らせ、民を追って海に入ったエジプト軍を滅ぼされた。
 権勢を誇り、主に従う人に向かって牙をむく者の最後を、神は見ておられる。主に従う人々、主を仰ぎ見、信仰によって歩もう。

2018/4/14(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 8:1-3 賛美 新聖歌 438
 主イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、旅を続けておられました。その宣教の旅には十二人の弟子たちのほかに、悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たちやヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも同行していました。彼女たちは信仰と献身によって主の宣教の働きを支えたのでした。彼女達の働きは地味な、陰の部分の働きでしたが、不可欠のものでした。私たちも、与えられた働きが目立つ働きであれ、目立たない働きであれ、心を込めて仕える者になりましょう。


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