投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-02-04 23:22:29 (98 ヒット)
デボーションの友

2018/2/5(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:14-15 賛美 新聖歌 40
 兄弟たちが祭りに上って行ったあと、人目を避け、隠れるようにして上って行かれたイエスは、祭りも既に半ばになったころ、神殿の境内に上って行って、教え始められた。これを見たユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うとイエス「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」と答えられた。ルカは十二歳のイエスについて「イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。」(ルカ 2:46-47)と記している。これらのことはイエスが神からこられたお方であることを示しているが、世はそれを認めないのである。

2018/2/6(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書21:1-7 賛美 新聖歌427
 ゼデキヤ王はバビロンという敵を主が離れ去らせてくださることを期待して神の御心を問う。自分がへりくだって神の御心を聞くことによって神が思いを変えて敵の手からユダを救ってくださるようにという算段なのだろうか。これに対してエレミヤは「伸ばした手と強い腕と」(21:5)によってという表現を用いて答える。通常この表現はかつて神がイスラエルを奴隷の地エジプトから救い出してくださった時に用いられた言葉であり、この表現からは救いが期待される。しかしエレミヤは、この時には救いではなく、神の激怒による民の死を告げる。
 私たちが神の前にへりくだりさえすれば神が必ず赦してくださるなどと考えていないだろうか。誰一人神をコントロールして救いを強要することはできない。神はご自身の自由な決定において人の祈りと願いにこたえられる。信仰者であることは神を思い通りに動かせるということではない。私たちは大胆に願うことが許されているが、最終的に決断をなさるのは神である。願いと求めを主に訴えることによって、祈ったことを主の主権のもとに委ねるという姿勢を学びたい。

2018/2/7(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:14-15 賛美 新聖歌 38
 イエスが教えられた時ユダヤ人たちは「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言って驚いた。この箇所について関茂師は「教えかつ論ずることができるのは、ラビの学校を修了し、公認の教師より正規の伝授を受けた者に限られた。そういう者だけが、教えのためにまた各地を「巡回」(一節)することが許されていた。この壁は厚く、ある意味で絶対的であった。にもかかわらず、今、無免許・無資格のイエスの語る教えは、明らかに公認教師のそれであるか、あるいはそれをはるかに陵駕している。「この世」は、つねに教えそれ自体に耳傾けることはない。その由来をたしかめずには安心しない。エルサレムの名門ガマリエル校ともまったく無縁のイエスが、「どうして律法の知識をもっているのだろう」・・・こうして、真理を伝える声は、由来をたずねる疑惑の前で、ひとたびもふたたびもさまたげられる。」(説教者のための聖書講解No29P43)と述べておられる。
 人々は御言葉が語られる時、その語る人の学歴、地位などによって軽重を判断しょうとする。しかし御言葉は聖霊によって語られているか否かによって判断されるべきである。

2018/2/8(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書21:8-10 賛美 新聖歌165
 神からゼデキヤ王への言葉に続いて、民全体への言葉が語られる。神が御自分の意志によって裁きを撤回なさらないという状況においてなお民の前には二つの道が置かれているという。命の道と死の道である。この選択肢を目の前にして民は主に従って命を得るのか、神を拒んで死に至るかを決断しなければならない。国は滅ぼされるとしてもなおも個人の選択肢は取り去られてはいない。神はあくまで個々人の応答を求められる。ある集団に属しているからと言って、その人が神の前に命か死かという決断を自主的に選び取る権利がはく奪されるのではない。どのような時代であれ、状況であれ、一人一人がどのように神に応答するかは個人の決断にゆだねられている。それは新約聖書のメッセージにおいても与えられている選択肢である。
 命か死か。私たちも個人の責任において神に従う道か、逆らう道か、応答していくのである。

2018/2/9(金) 担当 高谷清師  詩 36:11-12 賛美 新聖歌 89
 ダビデは1−5節において「神に逆らう者」について語った。そして6−10節において神の偉大さと地上のすべての被造物は神によってのみ、生きる得ることを述べた。この箇所において祈りを記している。11節では「あなたを知る人の上に/慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に/恵みの御業が常にありますように。」と祈っている。「恵みの御業」を口語訳聖書は「救」と訳し、新改訳・カルヴァンは「義」、フランシスコ会訳は「豊かな恵み」と訳している。即ち、神を知る人、神を愛する人、信仰者の上に神の救いと豊かな恵みがあるよう、祈っているのである。12節では「神に逆らう者の手が/わたしを追い立てることを許さず/驕る者の足が/わたしに迫ることを許さないでください。」と祈る。神を知る者、神を愛する者が神に逆らう者の暴虐に対して直接復讐せず、神によって守られるよう、神に祈り求めている。パウロは「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(ロマ12: 17)と述べている。これが信仰者の生き方である。

2018/2/10(土)担当 高谷由紀子師 マタ 22:34-40 賛美 新聖歌 208
 律法の専門家が、イエスを試そうとして「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と質問しました。旧約聖書には「何々をしなさい」「何々をしてはならない」と言う掟が613も存在すると言われています。それらの掟一つ一つは等しく重要なものでした。しかしそれらの全部を正確に記憶し、守り行うことは律法の専門家にとって至難の業であり、優先順位をつけることもできませんでした。
 この質問に対してイエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とお答えになりました。すべての律法の心は神を愛し、人を愛することです。
愛に生きる者となりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-01-28 23:50:49 (101 ヒット)
デボーションの友

2018/1/29(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:1-9 賛美 新聖歌 344
 生きたパンの教えによって弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった現実を前にしてイエスの兄弟たちはイエスに「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」と忠告した。いわばイエス集団の教勢衰退を懸念した兄弟たちがイエスに、都に上って、即ち、表舞台に立って奇跡を行い、天下にその真価を問えと言ったのである。これについてヨハネは「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」と述べている。 イエスの兄弟たちはイエスに最も近く在る者として肉においてイエスを知っていた。しかしそれは人に救いを得させることはできない。ヘブル書の記者は「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」(ヘブ 4: 2)と述べている。主イエスを信仰によって知ろう。

2018/1/30(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書20:7-13 賛美 新聖歌361
 先週木曜日には7-10節を中心に読んだ。11-13節には神の働きに携わった故に受けた苦しみや苦悩を経験したにもかかわらず、揺るがないエレミヤの信仰と神への賛美が記されている。苦悩と葛藤からこれほど突然に賛美へと転換した背景には、エレミヤ自身の葛藤を通してあらゆる疑問や不安を神に委ねたからに他ならない。エレミヤがすべてをゆだねた神は「恐るべき勇士」(20:11)である。神に敵対する者に対しては審判をもって臨まれる恐るべき方であり、あらゆる苦境において神に信頼して立つ者に対しては勝利を与える勇士である。エレミヤの賛美は苦境においても「勇士」として正しく裁かれる神の臨在を求めた時にあふれ出た。決して今日を一瞬にして覆し、降り注ぐ恵みを確認した時ではなかった。
 神への確かな信頼に根差した揺るぎない賛美は、あらゆる状況において変わらない義なる神、真実なる神を信仰によって認識したときに生まれる。そしてそれは個人の賛美にとどまるのではなく、神を信じる人々の群れに共有される賛美となる。

2018/1/31(水) 担当 高谷清師 ヨハネ7:10-13 賛美 新聖歌 458
 仮庵祭に集まった群衆はイエスについていろいろとささやき合っていた。ある人々はイエスを「良い人だ」と言い、ある人々は「いや、群衆を惑わしている」と言っていた。しかし、福音書記者は「ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」と記している。ジークフリート・シュルツは「ここではユダヤの群衆とは無責任に放言する大衆を意味するものでしかなく、一方ユダヤ人とは世の代表的なもろもろの宗教的権威のことなのである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書P212−213 NTD新約聖書註解刊行会1975)と言っている。ルターは聖書の内に真理を見出し、宗教的権威に抗して真理に歩もうとして多くの辛苦を経験した。エレミヤも然り、いつの時代にも宗教的権威は存在するが、それが真理を具現しているとは限らない。聖霊との密なる交わりの中で導きを得て常に御言葉の真理に歩もう。

2018/2/1(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書20:7-13 賛美 新聖歌420
 エレミヤ書を読むとしばしば私たちは困惑する。堅く揺るぎない信仰に立つエレミヤの姿と、絶望しきった姿が交互に現われるからである。13節までは苦難のさなかでしっかりと神を見上げていたエレミヤがここでは生まれた日を呪うほどに打ちのめされている。預言者としての務めの厳しさと失望が吐露されている。さらにエレミヤがそのような状態から抜け出す気配すら全く感じられない。あまりに異なる姿に、別人について語られているように感じる。しかし信仰に堅く立てる時もあれば、絶望に陥る時もある。後になって振り返るならばあらゆるときに神が共にいて見捨てることなく、最終的にはこの絶望の時期を乗り越えさせてくださったことが分かる。
 最も苦しい信仰の歩みに一人で捨て置かれているような時でも、神は確かに私たちに目をそそいでいてくださる。安心して従おう

2018/2/2(金) 担当 高谷清師  詩編詩 36:10 賛美 聖歌 273
 ダビデは「命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。」(詩 36:10)と詠う。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14: 6)と語っておられ、更に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハ 7:37-38)と語っておられる。更にヨハネは「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ 1:4-5)と述べている。イエスこそ真の命であり、私たちを照らす光であり、暗闇の中で、即ち、罪の支配する世において輝いている。しかし罪の支配下にある者は光を理解できない。恵みにより、信仰を与えられ、信仰に立つ者だけが光を理解でき、命を与えられるのである。神の恵みを感謝し、更に光の証人として歩もう。

2018/2/3(土)担当 高谷由紀子師 汽灰3:1-9 賛美 新聖歌 341
 コリントの教会はパウロの宣教によって成立した教会でした。パウロはいつものように、自分の宣教によって群れが形成されると、その群れを群れの中の指導的な人に委ねて次の宣教地へと進んでいきました。勿論、その地を去った後もその教会のことを心にかけ、日々祈っていました。後日彼はコリントの教会の様子を耳にしました。教会の中に派閥対立があるというのです。そのようなコリントの人々をパウロは肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子であると言っています。パウロは、彼らが一日も早くキリストに結び付いた成長したクリスチャンになることを求めているのです。「這えば立て、立てば歩めの親心」という言葉があります。神様はわたしたちが成熟したキリスト者になることを望んでおられるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-01-21 23:37:13 (107 ヒット)
デボーションの友

2018/1/22(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 6: 60-71 賛美 新聖歌 390
 「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」と言われたイエスの言葉についてヨハネは「イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」と記している。マタイはイエスが最後の晩餐の席で裏切るものについて語られた時の様子をマタ 26:21-25に記している。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」すると、弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。最後にユダが「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」と語られた。マルコは「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。」(マコ 14:10)と記している。
 ユダはイエスに選ばれた十二弟子の一人であり、重要な役割を委ねられていた。他の弟子たちの信頼も厚かったであろう。しかしその裏でユダはイエス引き渡す計画を進めていたのである。聖書は「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」(マコ 4:22)と述べている。何事も、人には隠すことが出来ても、神に隠すことはできない。常に真実に歩もう。

2018/1/23(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書20:1-6 賛美 新聖歌18
 パシュフルは神殿警備長官を務めていた祭司であった。神殿の秩序を維持する責任者であった彼は、神殿で厳しい裁きの預言を語ったエレミヤを処罰した。本来エレミヤが語る神のことばを真っ先に聞き分けてへりくだるべき祭司であったが、彼らもまた世の宗教権力に堕するとき、あるべき姿とは正反対に、神のことばとそれを語る預言者に敵対し、エレミヤを苦しめる者となった。このパシュフルに対して神はエレミヤを通して答えられる。パシュフルは神殿での権力を行使して神のことばを否定したが、神は神殿内での権力だけではなく外国であるバビロンの王をも用いて敵対する権力となってしまった祭司たちを罰せられる。
 エレミヤは数において神殿勢力に対抗し得ず、語る言葉も人々に受け入れられ、歓迎される言葉ではなかった。世の強大な権力に対立する言葉を語る時には人間的な恐れを感じる。しかし、神が語れと言われる言葉を忠実に語っているならば、堕落した権力よりもさらに正しく偉大な権力を持っておられる神がご自身の力を表し、主に仕える者を守られる。

2018/1/24(水) 担当 高谷清師 ヨハネ6: 6:60-71 賛美 新聖歌 384
 イエスはガリラヤに滞在し、御業を行っておられた。イエスがガリラヤに行かれたいきさつをヨハネは「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。」(ヨハ 4:1-3)と記している。そしてガリラヤに滞在しておられたのは「ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」からである。ガリラヤにおいてイエスが「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(6:51)」と語られたことによって弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。この状況を見たイエスの兄弟たちは「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」と勧めた。メシヤとして認知される為には仮庵祭のため多くの人々が集まるユダヤに上ってしるしを行うことが最上の方法であると兄弟達は考えたのである。しかしイエスは「わたしの時はまだ来ていない。」と言って兄弟たちに勧めを拒まれた。
 世的に最上の時、最適の方法であると判断されてもそれが神の時、方法であるとは限らない。常に神に聴き、御心に従おう。

2018/1/25(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書20:7-13 賛美 新聖歌434
 パシュフルの行為に屈せず大胆に神のことばを語ったエレミヤの言葉としてはあまりに対照的で、驚きを隠せない7-10節の言葉である。しかしこれは詩篇におさめられている様々な嘆きの詩と比較すれば11-13節と併せて読まれるべき言葉であると分かる。7-10節の嘆きの部分を通してエレミヤ自身が置かれていた危機的な状況を人々に伝えている。しかしこの危機的な状況もエレミヤを打ちのめすことはなく、続く11-13節の感謝へと変えられていくのである。エレミヤは現状を通して神のことばを語ったからこそあざけりを受け、苦しんでいると理解していた。口を閉ざせば苦しみから逃れられることも分かっていながら、彼のうちから神の言葉がほとばしる。人びとがエレミヤの語る言葉を神のことばとして受け入れなかったという表面的には不成功の預言者としての職務を前にしても神の召しを疑ったり、神の召しから逃げたりすることはなかった。
 現状を憂える言葉は不信仰に聞こえるかもしれない。しかしこの客観的な現状認識に基づいてこれに続く感謝と賛美、神への揺るぎない信頼が語られる時、この否定的に聞こえる7-9節は人々に対する力強い証しの基礎になる。

2018/1/26(金) 担当 高谷清師  詩編詩 36:8-9 賛美 新聖歌 325
 ダビデは限りある人間が言い表しきれない、神の恵みとまことと義の測り知れない大きさや広がりを、力の限り讃美した。この箇所ではそのような神の恵みの中で生きる人の子らの喜びを詠っている。信仰者は神の翼のもとに身をよせることによってすべての危険と災いから守られる。パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:35-39)と述べている。与えられている神の恵みに感謝し、賛美を献げつつ、日々歩もう。

2018/1/27(土)担当 高谷由紀子師 マコ 5:18-20 賛美 新聖歌 264
 イエスは悪霊に取りつかれていた人を解放された。彼はイエスと一緒に行きたいと願ったが、イエスはそれを許さないで、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われました。彼は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。イエスはある人には「わたしに従ってきなさい」と言い、ある人には「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われる。彼らは各々、神の御心に従って、置かれた場所において主を証しし、仕えるのである。今日、召されて伝道者としてフルタイムで、主に仕える者もあれば、自分の町、自分の家族の中で主を証しするために遣わされる者もある。いずれの働きも尊い働きである。主が遣わしてくださったところで主を証ししよう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-01-14 23:47:58 (122 ヒット)
デボーションの友

2018/1/15(月) 担当 高谷清師 ヨハネ ヨハ 6: 60-71 賛美 聖歌 501
 弟子たちの多くが離れ去って行くのを見てイエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と問われた。これに対してぺトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と言って、イエスに対する信仰告白を行っている。ぺトロの信仰告白の場面をマタイは「イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタ 16:15-17)と記している。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰 12: 3)と述べている。キリストを知り、信じることが出来るのもまた神の恵みによるのである。

2018/1/16(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書18:18-23  賛美 新聖歌320
 再度エレミヤに対する計略がめぐらされている。エレミヤに敵対する人々は明らかに彼の命を奪おうとしている。この状況においてエレミヤは自らこれらの敵対者の前に立って争ってはいない。彼は祈りの中で神に訴えている。神ご自身が敵対者たちの策略をご覧になり、御心に留めて彼らに裁きを下すようにと求めている。エレミヤが神に求めたのは策略をめぐらす者たちへの徹底的な裁きであった。十字架上で敵対者の赦しのために祈られた主イエスとは対照的である。エレミヤの姿は人間としての限界をも表している。少なくともエレミヤは敵対者たちに自分の手で報復するのではなく、全てをご存じであり、義なる神に裁きを委ねた。
 私たちも不当に私たちに敵対する人々、陥れる人々に出会うことがあるかも知れない。その時自分の手で報復するのではなく、義なる神がすべてを見て、適切な裁きをしてくださるように委ねよう。

2018/1/17(水) 担当 高谷清師 ヨハネ6: 6:60-71 賛美 新聖歌 201
 ぺトロの言葉を受けてイエスは「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」と言われる。イエスに選ばれ従っている、最もイエスに近い十二人の弟子たちの一人が悪魔であると言われるのである。その人は表面的には忠実を装っていても、その心がイエスから離れ、イエスに背いているのである。イエスは「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハ15:7-9)と語られる。私たちが永遠の命を持つのは、教会に属していることによるのではない、いずれかの信仰団体に属しているからでもない、信仰によってキリストの内に居ることによるのである。

2018/1/18(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書19:1-15 賛美 新聖歌374
 神は壺を砕くという行為と砕かれた壺によって、イスラエルの民とその都を完全に砕くことを示された。神が民に与える裁きとは回復不可能なほど徹底的であると言われる。何故神はこれほどまでの裁きを与えられるのか。それは4節から5節に記されている。偶像礼拝、人身供犠など、神が命じず、語らず、心に思い浮かべることもなさらなかったほどの罪が原因であった。神が民に裁きを下されるとき、それは神が感情的に行動されているのではない。人々が神に背き、預言者を通して与えられる警告に耳を傾けず、悔い改めないことが度重なった結果である。
 まず私たちは神の命令を聞き分けて神に従う生き方をしなければならない。そして常に注意深く神の言葉―時には私たちが気付かずに犯している背信や罪を指摘して悔い改めを促す言葉―を聞き分け、砕かれた心をもって神に立ち帰って主と共に歩み続けていく絶え間ない日々の姿勢が求められる。

2018/1/19(金) 担当 高谷清師  詩編詩 36:6-7 賛美 新聖歌 18
 この箇所についてA. ヴァイザーは「神の恵みとまことと義の測り知れない大きさや広がりを描き出し讃美しようと試みる。もちろん常にそれは到達できない試みでしかありえないかもしれないが。無窮の天空と及びがたい雲の高みに至るまで全世界が神の「恵みとまこと」に満たされている(中略)。神の義は、太初このかた確固不動の山々に等しく、神の審きの秩序は天地創造以来かわらぬ海のように連綿として続いている。神の現実はあらゆる空間・時間を包摂し、世界とそのうちにある生きものにとって永続的かつ堅固な土台である。人であれ獣であれ、何ものも神の助けを欠くことはできない。世界に住むすべてのものが神の手から恵みを受けることによって生きている。」(A. ヴァイザーATD旧約聖書註解詩篇上P401−402 ATD・NTD聖書註解刊行会1983)と述べている。イザヤは「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてきた。」(イザ 65:2)と述べている。パウロは「皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。」(使 17: 28)と述べている。神は反抗し罵る子供のためにあらゆる必要を備え、あらゆる敵の攻撃から守る父のようである。目覚めて御言葉に従おう。

2018/1/6(土)担当 高谷由紀子師 マコ 1:16-20 賛美 新聖歌 395
 ファリサイ派の人は他の人たちの生活を見て自分の方が彼らよりもいくらか正しいことを見て安心しています。隣の徴税人を見下げて「この徴税人のような者でもないことを感謝します。」と言っています。彼は神の御前でも自分中心にしか考えず、他人と比較して自分の方が正しいと見、自分を高くしています。ファリサイ派の人の祈りは自画自賛の独り言です。神様に対する祈りではありません。それとは対照的に、徴税人の祈りは神のみ前で自分を低くして神の憐れみを求める祈りです。かれは自分の罪を認めて悔い改めています。主は「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われます。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-01-07 23:17:51 (110 ヒット)
デボーションの友

2018/1/8(月) 担当 高谷清師 ヨハネ ヨハ 6: 60-71 賛美 新聖歌 191
 大麦のパン五つと魚二匹をもっておよそ五千人の人々に食事を与えられたイエスの奇跡を体験した人々は、翌日もまた同じ奇跡を求めてイエスの周りに集まった。しかしイエスは彼らに昨日と同じように肉の糧を与えることはなさらず、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」と語り、「わたしが命のパンである。」と教えられた。そして「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と教えられた。これに対し人々は「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつぶやき、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
 太平洋戦争敗戦後、欧米諸国は日本に多くの宣教師を送り、貧困に苦しむ日本人のために多くの物資を提供した。教会に行くとチョコレートがもらえる、教会に行くと衣服がもらえる、多くの人々が教会に群がった。しかし、衣食足りた時彼らは去った。
 主は「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタ 22:14)と語られる。主の招きに信仰によって応答し、留まろう。

2018/1/9(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書18:7-12  賛美 新聖歌343
 ひとつの民や王国を神が取り扱われる方法は2つある。断罪して滅ぼすか、あるいは建て上げるかである。この二つの取り扱いのうち、神がどちらを選択されるかは気まぐれによるのではない。それは民の応答によって決まる。この7節から10節を見ると、神の恵みと救いは宗教的楽観主義的ではないことが分かる。信仰をひとたび告白すれば常に神のめぐみが降り注ぎ、生活が良くなり、試練に合うことはないという考え方に人はあこがれる。しかし、大切なのは人生のある時点における一度きりの信仰告白ではなく、日々移り変わる状況において常に神の変わらない言葉と命令を生活の真ん中に据えて自ら罪を犯したならばそれを悔い改めて常に神に聞き従うか、あるいは神に従わないかという日毎の応答である。それゆえエレミヤはユダの人々とエルサレムの住民に対して悔い改めを呼びかける。
 神は私たちに恵みを与えたいと願い、備えてくださっている。それを実際に受けるためには私たちの継続的な神への従順が求められている。神を畏れる生き方があってこそのめぐみである。

2018/1/10(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:60-71 賛美 新聖歌 201
 弟子たちの多くが離れ去って行くのを見てイエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。これに対してぺトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と答えている。この福音書の冒頭においてヨハネは「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハ 1:1-4)と記した。人となられた神の言イエスこそ真の、永遠の命である。

2018/1/11(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書18:13-17  賛美 新聖歌263
 預言者は様々な表現を用いて民の罪を指摘する。エレミヤは悔い改めるよう警告したのちに民が生きている現状について語る。どの国々に尋ねても歴史上前例のないおぞましいことをイスラエルが行っているという。さらに自然現象を引き合いに出して、イスラエルが神を忘れるという、考えられないことが起こったと述べる。神を忘れることはすなわちイスラエルが神ではないものを神としてあがめ、礼拝することであった。神から離反するという彼らの選択には代償が伴う。神は彼らを永遠に嘲られる者とされる。
 神を信じて神との親しい関係の中に生きるという信仰の決断をするということはその一瞬における感情的な応答ではない。これは生涯を通じて良いときにも悪いときにも神を第一として、神に信頼して神の御心に従って生き続けるということである。既に信仰を告白して神の恵みの中に生かされている私たちは、祝福を受ける時も、試練に直面するときも、真の神だけを信じて共に歩もう。

2018/1/12(金) 担当 高谷清師  詩編 36:6-7 賛美 新聖歌 250
 ダビデは2−5節において「神に逆らう者」について語った。神に逆らう者、神を認めない者はダビデの時代のみならず、いつの時代にも、あらゆる場所で栄え、わがもの顔に闊歩している。この現実の前に、神に従うと口で言い表す者達の中にも「賢い処世術」などと言って権力者の座に座る「神に逆らう者」に迎合する者が現れる現実がある。しかしダビデは詠う「主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。」と。カルヴァンは「神が野獣にまでその摂理を押し及ぼすをよしとされるとすれば、人間の事柄にはいっそうのこと配慮される、という点を指し示す。まことに、われわれの心のうちに、神の摂理について何らかの疑いが生ずるような場合にはいつでも、野の獣をさえ養い、これをその状態に保たれる神が、人類に対して何の配慮もなしにこれを放置されるはずがない、というこの盾を取り上げるべきである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅448新教出版社1970)と述べている。世が如何に語ろうとも、如何にふるまおうとも、神の慈しみは満ちおており、神の裁きは厳然として存在する。敬虔な信仰をもって主に従おう。

2018/1/6(土)担当 高谷由紀子師 マコ 1:16-20 賛美 新聖歌 395
 シモンとシモンの兄弟アンデレは仕事中に呼び出されました。ヤコブとヨハネは仕事の後始末をしている時に呼び出されました。仕事はどうなるのか、家族のことはどうするのか、近所や親戚の付き合いは、将来のことは、・・・・・なぞ、多くのことが気にかかりました。しかし彼らはそれらの問題を後にしてすぐにイエス様に従いました。彼らは、従って行く中で一つ一つ解決されていく喜びを経験しました。主に呼びかけられ、召されたなら直ちに従うだけで十分です。すべてのことはイエス様ご自身が解決してくださることを信じましょう。


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