投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-08-12 23:10:54 (46 ヒット)
デボーションの友

2018/8/13(月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:24 賛美 新聖歌 222
 癒された元盲人の両親から期待した手応えを得られなかったユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」と言った。ユダヤ人たちはイエスが安息日に業を行われたことを根拠にイエスを罪人と断定したのである。イエスはご自分を試そうとして「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と尋ねた律法の専門家に対して「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタ 22:35-40)と答えておられる。イエスは愛によってこの盲人を癒された。パウロは「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(競灰 3:6)と述べている。霊により、愛によって歩もう。

2018/8/14(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書33:1-5 賛美 新聖歌165
 神はまずエルサレムの荒れ果てた状況から語り始められる。エルサレムの人々が、敵の侵入を防ぐために自らの手で打ち壊した都の家屋が、努力も空しく敵に攻撃され、打破されてその結果犠牲者たちの亡骸がこの廃墟に溢れるという、皮肉な現実である。ユダの人々にとってこれは大いなる災いであった。神を信じる人びとに災いが起こる時、神を信じているのになぜこんなことが起こったのかと混乱する。あるいは、神は無力であったから自分が信じてきた神は死んでしまったと考える。しかし神はこの都の荒廃は神ご自身が怒りの故に民に対して行われたことであると考える。
 神を信じているなら必ず神の守りの内にあると考えることが間違いなのではない。神を信じているという事実、一度信仰告白をしたという事実をお守りや呪文のように考え、日々の歩みの中で神の御声を聞いて従うことを怠り、神を信じていると言いながら罪を犯し続ける者の罪を神はご覧になり、裁かれる。日々主を愛して主に仕えることを主は求めておられる。

2018/8/15(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:25 賛美 新聖歌 359
 ユダヤ人たちの言葉に対して癒された盲人は「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と答えている。この箇所について大宮溥師は「信仰は教条主義的に、ある信仰命題を他律的に受け入れることではない。信仰は生きた経験である。それは生ける神との出会いにもとづくものであり、この出会いは自分のうちにある変化を生ぜしめる。もちろん信仰は、そのような信仰の経験そのものを拠点とするのではなく、その経験を与えた神ご自身によりたのむものである。『信仰は経験において成立するが、経験から生じたものではない』(フォーサイス〉。しかしそれは、他人の言葉に盲従するのではなく、自分の神との出会いの経験から出発するのである。したがって信仰は証言として伝達される。このかつての盲人は、この神との出会い、救いの現実に固執して、その証人でありつづけようとしているのである。」(説教者のための聖書講解No30P48−49日本基督教団出版局1980)と述べておられる。神との出会いの経験に立って神により頼み、証人として歩もう。

2018/8/16(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書33:1-13 賛美 新聖歌263
 神ご自身の怒りの故にエルサレムを破壊されたことを語られる神はさらに回復について語られる。現実にはまだ回復されておらず、ただ荒廃の中にある都に対して神はご自身の怒りについて認められた同じ時に癒しと治癒と回復を宣言される。怒りと赦しがこの様に同居することを私たち人間はなかなか理解できない。しかし神は罪に対する裁きを受けた人々に対していつまでも怒り続けておられるのではなく、怒りを越えて余りある民に対する愛の故に彼らを赦し、建て直すと言われる。かつて絶たれると宣言された花婿のよろこびの声が回復され、人びとが死に絶えた都に再び声が響き、羊が再び草を食み、憩う場所となる。
 徹底的に荒廃した地を見る時、人びとは将来に対する希望を抱くことができず、闇に包まれた気持ちになる。唯一このような状況から回復させることができるのは神のみである。ここに希望と回復の源である神を見ることができる。救済と回復の源である神を見上げつつ歩もう。

2018/8/17(金) 担当 高谷清師  詩 38:11 賛美 聖歌 602
 ダビデはここで「心は動転し、力はわたしを見捨て/目の光もまた、去りました。」と詠う。ダビデは信仰に立って歩んでいた。しかし、長引く苦難は心に苦悩と不安を引き起こした。心は動揺し、彷徨い、力はダビデを見捨てて離れ去ったように失われ、目もまた、命の光を見失ったようになった。信仰の父と言われているアブラハムも、神から「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」(創15:4)との約束を与えられていたにもかかわらず、10年経ってもその約束が成就されず、約束の成就が人間的に見て不可能と思われた時、サラの勧めに従ってエジプト人の女奴隷ハガルによって後継ぎを得ようとした。しかし神はその子をアブラハムの跡を継ぐ者とはせず、サラとの間にイサクを授け、後継ぎとされた。
 人は試練が長引くとき、心に不安を覚え、動揺し、彷徨う。しかし神の約束は不変である。しっかりと御言葉に立って歩もう。

2018/8/18(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 16:33 賛美 新聖歌 459
 イエスはご自分が十字架に架かり世を去る時の近づいたことを知り、世に残される弟子たちが主の弟子である故の苦難に遭遇することを思い、彼らの励ましとなるご自分の勝利を語られました。パウロは「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(競謄3:12)と述べています。そして競灰11:23-28に自分の遭遇した数々の苦難を記し、「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:37-39)と記し、キリストにある信仰による勝利を語っています。すべてに勝利された主を見上げ、苦難に立ち向かって歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-08-05 23:12:40 (47 ヒット)
デボーションの友

2018/8/6(月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:13-17 賛美 聖歌 304
 人々は前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。ファリサイ派の人々は改めて、どうして見えるようになったのかと尋ねた。そこで彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」と。イエスが子の御業を行われたのが安息日であったのを知ってファリサイ派の人々一部の者たちは「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と断じ、他の者たちは「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言った。こうして、彼らの間で意見が分かれたのである。ヨハネは「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:17-18)と述べている。キリストのみ名は裁きをもたらすのである。

2018/8/7(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書32:16-25 賛美 新聖歌325
 今まさに敵の手に堕ちようとしているエルサレムに土地を購入せよという神の命令に従ってエレミヤは土地を購入し、続いてこの祈りを捧げている。エレミヤがこの祈りにおいて神に問いかけていることは25節に凝縮されている。なぜ陥落寸前の土地を購入するなどという不合理なことをしなければならないのか。エレミヤは神の言葉に従っているが、心は混乱している。その時にもエレミヤは長々と歴史において保たれてきた信仰告白を述べている。17節から22節まではイスラエルの神殿での礼拝で繰り返し告白されてきた信条である。神がなさっていることを理解できないもどかしさや不安がありながら、エレミヤは信仰の土台を確認するためにこの伝統的な礼拝の場で用いられてきた信仰告白を述べる。
 教会にも歴史を通じて教会が受け継ぎ、告白し続けてきた信条がある。時にこれらはあまりに儀式的で、ダイナミックな霊性をそぐと言われる。しかし信仰告白は、信仰が揺らぐときに信仰の土台を確認するために有効である。これもまた神が与えてくださった信仰の財産である。心を込めて告白し信仰を確認したい。

2018/8/8(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:18-23 賛美 新聖歌 425
 ユダヤ人たちは盲人であったのに目が見えるようになった人の証言を信じなかった。彼らはこの人の両親を呼び出して「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」と尋ねた。それに対して両親は「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」と答えている。ヨハネはその理由を「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。」と記している。「会堂からの追放は日常生活に重大な支障を及ぼすものであり、両親はそれを恐れたのである。
 今日、私たちの社会では信教の自由が広く認められており、迫害などあり得ないと考えられている。しかしそれは表面上のことであり、イエスキリストを信じる時、実際には様々な困難が伴う。しかし私たちは固く信仰に立って御名を告白しつつ歩もう。

2018/8/9(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書32:26-44 賛美 新聖歌275
 神がエレミヤの祈りに答えられる。最初に神は御自分が命あるすべてのものの神であり、全能であると言われる。エレミヤ自身が何故このタイミングで、どうして自分が土地を買わなければならないのかという疑問を神に投げかけた時、それを問うたことを叱責なさらなかった。しかし同時に神が全能であり、人には納得できないこともすべて御心に従って行われることを教えておられる。人の目には回復の希望が全く見えないときにも神は眼前の大きな災いを越えて与えられる繁栄の回復を見ておられる。
 エレミヤの問いが最悪の状況において土地を買うことへの疑問であるなら、それに対して答えは与えられた。しかしそれが何故エレミヤ自身が選ばれたのかということであれば、その答えは与えられていない。神は私たちが自由に祈り、訴えることを許しておられるが、すべてにおいて私たちが満足するように答えられるという保証は与えておられない。それゆえ主がゲッセマネで祈られたように、自分の願いを申し述べつつ「神の御心がなるように」と願う信仰を持ち続けたい。

2018/8/10(金) 担当 高谷清師  詩 38:10 賛美 新聖歌 282
 ダビデは重い病に罹って激しい苦痛の中にある。その原因が自らの愚かな行いであることを知っている。今、彼の心は肉体の苦痛と自らの愚かな行いへの悔恨の思いに圧迫されて、もう立てないほど打ち砕かれ、心は呻き、うなり声をあげるだけである。そのような中に在ってダビデは目を上げて主を仰ぎ見る。そして「わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり/嘆きもあなたには隠されていません。」と告白する。
 私たちは、自ら罪を犯した時、あれほどまで愛してくださった神を裏切った今「もはや神の前に出ることもできない」と言った思いに囚われ苦悶する。しかし、私たちが言いつけに背いた子を叱責する時のように、罪を犯した者の上に神の愛の御手は伸べられているのである。パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリ 4:6-7)と述べている。

2018/8/11(土)担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44 賛美 新聖歌 391
 神への献げ物は献げた分量の多少によって判断されるものではない。人にはそれぞれ能力の違いがあり、貧富の差がある。貧しいが故に多く献げられなくてもそれを悲しんだり卑下したりする必要はない。また、富んでいるが故に多く献げたとしても、それによって高慢になってはならない。貧しいが故に多く献げられない人を見下してはならない。大切なことは自分に与えられているものを信仰により、神のみ旨に従って献げることである。イエス様は貧しいやもめの献げたものを、額の多少ではなく、生活費を全部入れた、神への感謝と信仰を見られた。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-07-29 23:05:47 (43 ヒット)
デボーションの友

2018/7/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:6-7 賛美 新聖歌 40
 この箇所には、イエスが通りすがりに遭遇された、生まれつき目の見えない人をイエスが癒された出来事が記されている。弟子たちとの会話を終えられたイエスは、生まれつきの盲人に近寄り、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになり、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来たのである。彼が帰って来た時、イエスはもうそこにはおられなかった。
 この記事を読むと、盲人はイエスに癒しを求めてはいない。一方的にイエスが彼に近寄り、地面に唾をし、その唾で泥をつくり、盲人の目に塗り、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われ、盲人はその言葉に従った結果、その目が開かれたのである。ヤコブは「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」(ヤコ 1: 21)と述べている。

2018/7/31(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書32:1-5 賛美 新聖歌323
 エレミヤが預言したのは、ユダはバビロンに攻撃されて国は存亡の危機にある、大変な時代であった。この混乱した時代に神からエレミヤに託された言葉は、喜ばしく民に受け入れられるメッセージではなかった。実際にエレミヤは既に敵に投降したという疑いをかけられて投獄されていた。その時にもなおエレミヤはユダの民がバビロンに捕囚とされ、敵に勝つことはできないという、明らかに人びとの反感を買う言葉を語った。
 神の言葉を聞きたいと願う時、人びとは励ましと祝福の宣言を期待する。しかしエレミヤに託された言葉のように、神の言葉は民を励ますだけではなく、現状を認識させ、裁きを宣言し、なおも悔い改めを迫る言葉でもあり得る。神の言葉を期待するとき、自分の聞きたい言葉を期待するのではなく、何が語られてもそれを受け入れるという姿勢をもって聞く者でありたい。

2018/8/1(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:8-12 賛美 聖歌 265
 生まれつき目の見えなかった彼が、見えるようになって帰って来たのを見て、近隣の人々は大騒ぎになった。前に彼が物乞いであったのを見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。それに対して「その人だ」と言う者もあり、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。しかし、本人が「わたしがそうなのです」と言ったことによってこの問は決着した。そこで人々が「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と尋ねると、「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」と答えた。更に人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。彼は、このように事実をありのままに答えている。私たちが自らの救いの証をする時、脚色する必要はない。事実をありのままに語ることが大切である。

2018/8/2(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書32:6-15 賛美 新聖歌384
 エレミヤのいとこであるハナムエルがエレミヤのもとに来て土地購入を依頼した。ハナムエルが来たとき、エレミヤはこの申し出が神の御心であることをすぐに確信することができた。それは神が前もってエレミヤに起こることを告げておられたからである。それ故に、エレミヤ自身が捕囚を預言している、滅びが目前に迫ったこの国のこの土地を買い取ることを決断した。神の言葉であると知って土地購入契約を進めていくが、それがいかなる意味を持つかを明かされるのは一連の手続きが完了してからである。預言者といえどもエレミヤは信仰をもって神の言葉に従うことを求められた。エレミヤがそのように神に従ったときに主のことばが臨み、将来捕囚を経験したのちに再び民がこの土地に住まう日が来るというこの契約によって明らかにされる神のご計画が語られる。
 時として神はご計画全体を明らかにされる前に私たちに従うことを求められる。その時、エレミヤのようにためらいなく従うことができる秘訣は確かにこれが神から出たものであると知ることである。聖霊の導きの中に歩み、常に神の御声を聞き分けよう。

2018/8/3(金) 担当 高谷清師  詩 38:1-9 賛美 聖歌 556
 ダビデは今、重い病気に罹っている。それを、自らが犯した過ちのためであると告白している。それにしても、重い病気に伴う苦痛は甚だしいものであったので、信仰によって「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。」と祈りながらも、肉体のみならず、心も消沈し、発する言葉もない。彼は「もう立てないほど打ち砕かれ/心は呻き、うなり声をあげるだけです。」と告白する。
 パウロは「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ロマ 8:23)と述べ、更に「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ロマ8: 26)と述べている。失意の底に在って神に向って言葉を発することさえできない時、御霊は私たちを助け、執り成してくださる。

2018/8/4(土)担当 高谷由紀子師 競灰1:3-7 賛美 新聖歌 416
 パウロは主から受けた福音宣教の使命を遂行していくうえで、競灰11:23-28に記しているように、数々の試練と苦難に遭遇しました。その試練と苦難に勝利させたのは十字架で死に、復活されたイエスキリストでした。パウロはこのお方を「忍耐と慰めの源である神」(ロマ 15:5)と呼んでいます。パウロはキリストの故に受けた苦難に、キリストから与えられた慰めによって勝利し、同じ苦難にある人々をも慰めることが出来たのです。私たちもキリストに結び付くことによって人々の慰めとなる聖徒になりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-07-22 23:06:02 (45 ヒット)
デボーションの友

2018/7/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:1-5 賛美 新聖歌 165
 イエスの一行が歩を進めて行くうちに、生まれつき目の見えない人にであった。そこで弟子たちはイエスに尋ねた「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と。出エジプト記には「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、」(出 20:5)と記されている。弟子たちの質問はユダヤ教の伝統的理解に基づいたものであった。これに対してイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えられた。
 今日の私たちの社会にも因果応報思想に基づくこのような見解は広く浸透しており、苦難を負う人を苦しめている。しかしそれは本人や関係者の罪をあらわしているのではなく、神の御業が現れる為である。

2018/7/24(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:30-34 賛美 新聖歌165
 「契約」という出エジプト後のシナイ山で神が民と契約を結び、十戒を与えられた時から始まった長い歴史を持つ言葉を使いながら、神と民との関係について語っている。エレミヤの時代に至るイスラエルの歴史はこの契約が正しく守られず、両者の関係が崩れ去ったという、罪による失敗の歴史であった。この様な場合、普通、人間は「契約」というものが悪かったとして他の方法で神との関係を立て直そうとする。しかし神はなおも契約関係を用いられる。しかしこれは神だけが作り出せる根本的に新しいものである。神ご自身が一人一人に直接律法を与え、教えられるため、民は直接神の御心を知り、自分の意志において神に応答することができる。神だけが与えることができるこの新しさによって人々に悔い改めと救いの道が開かれた。
 今の時代も同じである。私たちはみ言葉を語り、神の愛を伝えるが、聖霊なる神が直接人の心に語りかけ、教えてくださるときにのみ、人は本当の神の愛と救いを知る。人々の心に神が語りかけてくださるよう、絶えず祈ろう。

2018/7/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:1-5 賛美 聖歌 321
 イエスは「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。」と語られる。マタイはイエスが「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタ 24: 14)と語られたと記している。ぺトロは「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」(汽撻 4: 7)と述べている。イエスはご自身を遣わされたお方の業を為し終えて天に昇り、父なる神の右の座に着かれた。イエスが天に昇られた後、その御業は教会に託され、教会は父なる神によって遣わされた聖霊によってその業を行っている。それは永遠に続くのではなく、父なる神がご自分の権威によって定めておられる時に終わるのである。それ故、私たちは与えられている一時一時を尊び、全力を尽くして御業に励まなければならない。与えられている時を尊く生きよう。

2018/7/26(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:35-40 賛美 新聖歌316
 神は救いの約束を宣言された後で、世界とその秩序を造られた神として、この約束を永遠に保障される。神がこのような保障を与えることがおできになるのは、かつて神ご自身が最初に世界を創造されたということにだけ基づくのではなく、この世界に置かれた太陽、月、星などの被造物を通して創造の業を保ち続け、支配し続けておられるからである。エルサレムの都が破壊されるとしても、それを神は再建し、主に属するものとしてもう一度聖別して下さり、主のものであると宣言してくださる。それがどれほど確かなものであるかを示すために、再度「抜かれることも破壊されることもない」と1:10の御言葉の一部を用いて確実な救いと回復を宣言される。
 人は自ら神を離れて罪を犯した。そして自分の力で自身の罪を清めて神に立ち帰る力を持たなかった。そのような中に介入して下さり、罪を赦し、清め、回復し、それを保証してくださるのはただ神だけである。自力で神の前に親しく歩む努力は必要であるが、神の御業なしにはそれはあり得ない。今日も主に信頼しよう。

2018/7/27(金) 担当 高谷清師  詩 38:1-23 賛美 新聖歌 284
 ダビデは今、重い病気に罹っている。そのため、激しい苦痛の中に立たされている。それを、自らが犯した過ちのためであると告白している。その上で彼は「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。」と祈り求めている。
 神の民も地上の歩みにおいて多くの苦難や試練に遭遇する。そのような時、私たちは「あの人がこうしたから、この人がああ言ったから・・・・・」と自らの罪を認めず、他者を非難しがちである。しかしダビデはそれを自らの罪によると告白し、悔い改め、神の憐れみを求めている。私たちは苦難や試練に遭遇するとき、それを通して自らを省み、悔い改め、神に赦しと憐れみと助けを求める者となりたい。

2018/7/28(土)担当 高谷由紀子師 使 2:44-47 賛美 新聖歌 137
 ここに初代教会の姿が描かれています。彼らは神の愛に満たされ、私心を離れ、互いの必要を満たしあい、一つとされて喜びに満たされ、その口からは賛美があふれていました。このような姿は、民衆全体から好意を寄せられ、神によって、救われる人々が起こされ、教会に加えられ、教会が成長していきました。教会成長の原動力は聖徒たちの一致であり、それは一人一人が神の愛に満たされるところから生まれるのです。終末の迫るこの時代に在って、魂の救いのため、神の愛に満たされ、互いの一致が与えられ、神の栄光が顕されるよう、歩んでいきましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-07-15 22:48:40 (53 ヒット)
デボーションの友

2018/7/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:48-59 賛美 聖歌 602
 イエスが「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」と言われたのに対してユダヤ人たちは「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と答えられた。この箇所についてカルヴァンは「世のあがない主であるかぎりにおいて、キリストの徳とめぐみは、すべての時代に共通なものだったからである。だから、これは、使徒がへプル13:8で言っていることと、合致するものである。きのうあったキリストも、きょうあるキリストも、永遠におなじこの者である、と。(カルヴァン新約聖書注解轡茱魯擁_蚕饋袈欺佝納1967上P309)と記している。
 キリストは初めから天において父なる神と共におられ、肉をとって人となって地上に来られ、贖いの御業を成し遂げ、甦り、天に上り、神の右の座に着き、私たちのために執り成していて下さるお方である。

2018/7/17(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:27-28 賛美 新聖歌170
 神が人の種と動物の種を蒔かれるとはどういうことだろうか。種の中には植物に次の世代をもたらす命がある。この草木の新しい命である種という比喩を用いて人と動物にも新たな命を神ご自身がもたらすと言われる。全く新しい命が神によって創造されるのである。28節ではエレミヤ書の冒頭1:10の「10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」という言葉を思い起こさせる表現を用いて、確かに神が新たな命を与えるという創造の業を導かれることを宣言される。
 人は神に対する不従順という選択によって神から離れ、罪の中を歩み、裁きを受ける。しかし神は人びとをこの裁きの中に放置しては置かれない。ご自身の定めに従って彼らを再創造してくださる。新たな創造は神によってのみもたらされる。私たちも主の御業を見させていただくために祈ろう。

2018/7/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:48-59 賛美 新聖歌 315
 霊において語られるイエスの言葉を、霊の目が閉ざされている、肉なるユダヤ人たちは理解することが出来なかった。彼らは「主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。神の御名を呪うならば、寄留する者も土地に生まれた者も同じく、死刑に処せられる。」(レビ 24:16)と記されている御言葉によって、イエスに石を投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。この箇所について矢内昭二師は「身を隠して」は、文字どおりには「隠された」(ここでは『受動形」である)。ヨハネは多分、神がみ子を守られたことを暗示しているようである。」(説教者のための聖書講解No30P34日本基督教団出版局1980)と述べておられる。この記事から、ソドムの町のならず者たちからロトを守った御使いたちの記事を思い起こす。神はいかなる状況にあってもご自身の者を守られる。信じて歩もう。

2018/7/19(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:29-30 賛美 新聖歌396
 神が新たな救いの業を始められる時、人びとはそれにどう応えるだろうか。29節の諺は古い時代の一族の連帯責任を問われるという原則を反映している。一人の人の罪の責任を一族全体で負うことは彼らの文化であった。しかし神の始められた新しい救いの業によって、人はそれぞれ自分の罪に対して責任を問われることとなった。連帯責任を負うことが常識の中で生きてきた人々にとってこれは大きな変化であった。大きな変化が起こるところではどこでも人が慣れ親しんだ考え方や生き方に捉われず、新たな時代に新たな出来事が起こることを見極め、受け取り、応答することを求められる。エレミヤも神がこの時代に新しい救いの業を始められたのだから、人びともこれまでの常識にとどまり続けるのではなく、新たな時代に即した新たな応答をするよう促している。
 これまでの物事のあり方、考え方を基礎にして現在を判断・評価し、応答するのは自然な応答である。しかし神が新たな業を始められる時には私たちもその新たな救いと時代を敏感に見極め、それを受け入れるよう自分自身が変えられていかなければならない。今日も主の業に心を開こう。

2018/7/20(金) 担当 高谷清師  詩37:37-40 賛美 聖歌 300
 神に逆らう者による迫害に耐え忍び、神のみ手に守られ、勝利したダビデが、神に逆らう者の権勢との繁栄を見て誘惑に心揺れる信仰者に対して語りかける、「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある。背く者はことごとく滅ぼされ/主に逆らう者の未来は断たれる。」と。歴史上には「反キリスト」を標榜して世を席巻し、あるいはキリストのためと語りながらその実、私利の追及に明け暮れた多くの人々がいた。しかし、彼らの大多数は消え去った。私たちは物事を長い目をもって見ることを学ばなければならない。人の主張と行動は瞬間、瞬間を見るとき正しいように見えるものであっても、10年、30年、50年のスパンをもって見る時、自ずと明らかになるものである。ダビデは言う「主に従う人の救いは主のもとから来る/災いがふりかかるとき/砦となってくださる方のもとから。主は彼を助け、逃れさせてくださる/主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」と。これはダビデが生涯を通して学んだ真理であり、試練の中にある、主に従う者への奨めである。

2018/7/21(土)担当 高谷由紀子師 マタ 6:1-4 賛美 新聖歌 346
 イエス様が善行について教えられたことが記されています。主は「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。と言われました。人は慈善事業を行い、多額の寄付をすることで世の人々に自分の善行を誇示し、人々の賞賛を得ることを期待します。主はこのような行為は偽善者のすることで、既に報いを受けていると言われました。私たちのする良い働きは、人からの賞賛という報酬を受ける為ではなく、隠れたところで愛によってなされるべきであると教えられました。その時、隠れたことを見ておられる神様はあなたに報いをくださるのです。それは天に宝を積むことになるのです。


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