投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-06-10 23:39:29 (43 ヒット)
デボーションの友

2018/6/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 344
 キリストの言葉にとどまるもの―聖書の言葉を自分の外においてそれを律法的に守るのではなく、キリストとの深い交わりにより、聖霊によってキリストが私たちの内に居てくださり、キリストの言葉が自分の心とされた者―こそ、本当のキリストの弟子である。キリストの弟子とされた者は真理を知る。そしてイエスは「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ14: 6)と語っておられる真理とはイエスご自身である。真理を知ることのすばらしさについてパウロは「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリ 3:5-9)と述べている。キリストを知る者とされていることに感謝し、さらに深く知る者となろう。

2018/6/12(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書29:24-32 賛美 新聖歌166
 エレミヤが捕囚民に書き送った手紙に対してシェマヤが感情的に反応している。シェマヤはエレミヤの預言に腹を立て、祭司を利用してエレミヤを排除しようとしている。祭司ツェファンヤはこのシェマヤの要求を聞き入れなかったのは、シェマヤがまことに神の言葉を語っていないと知ったからであろう。エレミヤへの怒りと憎しみによって行動したシェマヤに対してエレミヤを通して語られた神の言葉は、彼が偽預言者であることを冷静に指摘している。エレミヤへの敵意と攻撃に反論するのではなく、神の言葉と称して偽りが語られたことが問題となっている。神の言葉を蔑ろにするシェマヤに対しては子孫までも救いに入れられないという厳しい裁きが告げられる。
 神の言葉を語る時、私たちは慎重かつ誠実でなければならない。神の言葉の権威を用いて私たちの感情と要求を述べることは容易にできる。しかし、それは大きな罪である。

2018/6/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 264
 続いてイエスは「真理はあなたたちを自由にする」と語られる。神の言葉に背き、悪魔の奴隷となり、罪と死に定められた者を解き放つために、イエスは十字架に架かり、血を流し、命を捨ててくださった。このイエスによって与えられる自由こそ、真の自由である。パウロは「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラ 5: 1)と警告している。確固たる信仰に立って神に在る自由を守ろう。

2018/6/14(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書30:1-3 賛美 新聖歌340
 29章では既にバビロンに捕囚となった人々に対してすぐに帰還できると考えず、そこで生活を建て上げよと述べられ、救いはまだ先だと語られてきた。それに続いて回復の預言を聞くと、読んでいる私たちは驚き、混乱する。さらに注意をひくのはイスラエルとユダの繁栄が述べられていることと、続く言葉にはヤコブ、すなわち北イスラエルへの語り掛けがあることである。約150年も前に滅びた国は人びとの記憶にも殆ど留まってはいなかっただろう。しかし神は決してご自分の民を忘れ去ることはなかった。たとえ人が神に見捨てられたと感じることがあるとしても、神は常に誠実である。それ故に私たちは神に信頼を置くことができる。

2018/6/15(金) 担当 高谷清師  詩37:25-26 賛美 新聖歌445
 老境に達したダビデは自らの生涯を振り返って「若いときにも老いた今も、わたしは見ていない/主に従う人が捨てられ/子孫がパンを乞うのを。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「ここに、きわめて困難で複錯した問題が生ずる。なぜならば、多くの正しい者らが、事実食を乞い歩くまでに追いやられたことは、きわめて確かだからである。(中略)神がこの世において、すべての信仰者に、均等にその恩恵を示されるわけではない。いろいろな理由があるからである。神はある者を懲戒され、他の者はこれを見逃される。あるいは、ある者らの隠れた病を癒されるのに、他の者にはこれを控えられる。なぜならば彼らには、同じ癒しの必要がないからである。ついで神はある者らの忍耐を試みられる。それに応じて、彼らに豪毅の霊が与えられるからである。最後に神は、ある者を範例として示される。しかし、神はその怒りのしるしによって、すべての者を差別なくへり下らせられるが、それはこのような刺棒によって、彼らを悔改めへと至らしめるためである。さらに加えて、神はもろもろの苦難によって、彼らを天にある生命の冥想へと招かれる。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅469新教出版社1970)と述べている。ヘブライ人への手紙の記者は苦難の中にある人々に対し「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」(ヘブ12:7)と語っている。いかなる時にも神の御手の内に歩もう。

2018/6/16(土)担当 高谷由紀子師 汽灰1:18-21 賛美 新聖歌 359
古来、人間は洋の東西を問わず、神を求め、救いを探し求めて来ました。そして多くの知者、賢者を輩出してきました。しかし人を救いに至らせるもの、人に永遠の命を得させるものを見出すことはできませんでした。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。すなわち、罪の無いご自身の一人子を遣わし、このお方にすべての罪を負わせて十字架につけ、血を流し、命を捨てることによって、このお方を信じるすべての人を罪から解放し、救いを得させる道を開かれたのです。これは世の知者、賢者の目には愚かに映ります。しかしこれこそ、神の知恵であり、私たちの救いの唯一の道です。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-06-03 23:07:16 (60 ヒット)
デボーションの友

2018/6/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 316
 ヨハネは8:30において「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」と伝えた。イエスを信じた人々は厳しい状況の中で信じたのである。しかしイエスは彼らに対して「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」と語っておられる。この箇所についてカルヴァンは「福音書の著者が信仰と名づけているのは、その本来の意味のものではなく、単に信仰の準備にすぎないものである。」(カルヴァン新約聖書注解轡茱魯擁_蚕饋袈欺佝納1967上P289)と言っている。イエスはマタ 13:1-9において、信仰について教えておられる。イエスが求められる信仰は百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ信仰である。それはイエスの言葉を聞いてそれにとどまることによるのである。

2018/6/05(火) 担当 ラウジー満世師 )エレミヤ書29:8-14 賛美 新聖歌345
 到底希望など持てるはずがない捕囚民に対して神はこの言葉を語られた。故郷から引き離され、神を礼拝するための神殿を奪われ、信仰の危機にある人びとに対して語られたこのメッセージは、捕囚民の根本的な怖れを拭い去り、力を与える言葉であった。神は呼んでも答えて下さらない、エルサレムから遠く離れた地に神を見いだせない、と思っていた人々は、たとえバビロンにいたとしても神が聞いてくださり、彼らを心に留めてくださっているという驚くべき愛に満ちた言葉を聞いた。
 長く苦境に置かれているとき、私たちは神に見捨てられたのかと不安になり、それでも神の助けを求める。私たちが求めて叫んでも助けが得られないときには、神に頼ること、神を信じることを拒んでしまうこともあるだろう。しかし神は時と場所に関わらず私たちと共にあり、私たちを愛し続け、神の御心に従って助け、支えてくださる。変わらない神の愛を心に留めて歩もう。

2018/6/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8: 25-30 賛美 新聖歌 201
 イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」と語っておられる。また、イエスは「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハ 17:21)と祈っておられる。イエスは十字架に架かり、血を流し、死んで葬られ、父なる神によって与えられた贖いの御業を成し遂げ、死に勝利して甦り、40日に亘って弟子たちに現れ、天に上り、約束に従って聖霊をお遣わしくださった。聖霊は「イエスの霊」(使 16: 7)と呼ばれている。イエスの弟子となる為には聖霊に満たされ、イエスとの不断の交わりを持ち、イエスの心が私たちの心となる歩みをすることが大切である。どんな時にも聖霊によって祈り、イエスとの深い交わりに生きよう。

2018/6/7(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書29:15-23 賛美 新聖歌302
 再び偽りの預言をする人々について語られている。ユダの民に対して繰り返して偽預言者の言葉を聞いてはならないと警告される。エレミヤ書を読んでいる私たちも「またか」と思うほどである。しかしこれほど何度も警告しなければならないほど、偽預言は人びとにとって魅力的であった。実際、神の言葉を正しく聞き取って語っているエレミヤの言葉よりも、偽預言者達の言葉の方が人々にとっては喜ばしい。そこには厳しさがなく、人びとの願いをすぐさまかなえてくれるという都合のよい宣言が満ちていた。
 人びとにとって喜ばしく、都合のよい言葉が、必ずしも真正の神の言葉であるとは言い切れない。神の言葉は私たちを喜ばせるためだけのものではなく、教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益(競謄皀3:16)な言葉である。誤りなく神の言葉を聞き分けられるよう、聖霊の導きを求めよう。

2018/6/8(金) 担当 高谷清師  詩37:23-24 賛美 聖歌 296
 ダビデは「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」と詠う。神は全知全能のお方であり、その独り子を与えるほどに、私たちを愛してくださっているお方である、と知ってイエスを信じた者は、自分たちの前途には安楽と繁栄の実が待ち受けていると期待する。しかし多くの人々が遭遇する人生の試練は信仰者の前途にも待ち構えている。更に、今回世界遺産登録の候補になっている長崎を中心とするキリシタン遺跡が示すように、信仰者故に遭遇する試練も存在する。しかし、信仰者は常に神の保護のもとにおかれている者である。それ故パウロはコリントの人々に「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(汽灰10:13)と書き送っている。そして「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(汽灰10:13)と述べている。順風の時にも試練の時にも常に神の御手の中に留まることこそ、勝利の道である。

2018/6/9(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 9:1-12 賛美 新聖歌 358
 イエス様の一行は通りすがりに、生まれつき目の見えない人に出会いました。そこで弟子たちはイエス様に「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と問いました。それに対してイエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。そしてイエス様は地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになり、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われました。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来ました。神の御業があらわされたのです。
 人は困難や試練に遭遇すると、だれが犯した罪によるのだろうか、本人の犯した罪によるのだろうか、それとも、両親の犯した罪によるのだろうか、などと考えます。しかしそこには大きな神の計画が秘められているのです。これを知る時、私たちは困難の中にあっても、試練の中にあっても、神により頼み、平安の内に歩むことが出来るのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-05-27 23:26:09 (134 ヒット)
デボーションの友

2018/5/28(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:25-30 賛美 新聖歌 202
 イエスは「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということが分かるだろう。」と語られる。イエスの十字架刑執行の任務を担当した百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、イエスの死に至るまでのいろいろな出来事を見て「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マタ 27: 54)。即ち、イエスが『わたしはある』というお方であることが分かったのである。彼らはイエスの十字架を直視した人々であった。しかし自らの義に固執したユダヤ人たちは「三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」(マタ 27:64)と語っているように、イエスを「わたしはある」というお方であることを認めることが出来ない。ヨハネは「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(汽茱5:5)と述べている。純なる目をもって、純なる信仰をもって主イエスを見つめて歩もう。

2018/5/29(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書29:1-7 賛美 新聖歌343
 エレミヤは生涯バビロンに捕囚となることはなかった。本人の意思に反して最後にはエジプトに行くことになるが、基本的にユダの地で神の言葉を人々に伝えた。しかしエレミヤの言葉は捕囚の地に先に連行された人々のもとに手紙として届けられた。既に故郷から引き離されて失意と怖れの中にある人びとに対しても妥協せずに一貫した神の言葉を語っている。捕囚の地から劇的に解放されることを求めず、バビロンに住まうことを受け入れ、そこで生活を建て上げよと勧める。これは民の期待に沿うものではなかったが、同時に異教・異国の地においてもまだ神は彼らを全く捨て去られたのではないという驚くべき慰めの言葉でもあった。
 自分の意に沿わない状況に陥る時、私たちは神の愛を失ったと感じる。しかし、どこに行っても、何が起こっても、その中で神は信じて従い、神を敬う人々に未来を備えておられる。

2018/5/30(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:25-30 賛美 聖歌 273
 ヨハネは「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」と記している。この人々は、自らの指導者であり、イエスを認めずイエスを無き者にしょうとするファリサイ派の人々の前でイエスを信じたのである。パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ 10: 17)と述べている。そして「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロ 3: 16)と勧めている。私たちはこの国において、少数者であり、常に反対者に囲まれている。そのような中において、聖霊の助けと導きを求めつつ、御言葉を読み、聞き、宿っていただき、信仰を守り通そう。

2018/5/31(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書29:1-7 賛美 新聖歌190
 29:7は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)という主のことばが聞こえてくるような勧めである。捕囚民は自らの意志で移住したわけではない。武力を増したバビロンがエルサレムに侵入し、その住民を強制的に捕虜として連行したためにこの地に移された人びとであった。故郷から引き離された痛みとバビロンに対する敵意はどれほどのものであっただろう。この様な人間的感情に加えて、イスラエルの神、主がバビロンの神々に敗北したとか、自分たちは神に見捨てられたという失意と恐怖に包まれた人びとであった。彼らに対して憎むべきバビロンの平和を祈れとは驚くべき言葉である。
 民を救いへと導く過程は人びとの願いと神のご計画とを比べると大きな違いがある。感情的には憎んで当然の相手であっても、神はその敵の平安を祈れと言われる。本当の愛がなければできない。また、この言葉を通してユダから遠く離れた地でいけにえをささげる術もない場所であっても神は民の祈りを聞いておられることが示された。時間や場所を問わず、神は私たちが主の愛に基づいて愛を実践し、主に祈ることを求めておられる。その祈りは聞かれる。

2018/6/1(金) 担当 高谷清師  詩37:23-24 賛美 新聖歌 21
 ダビデは「主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「神は信仰者が清い良心をもって歩み、彼らに定められた道から外れることがないのを見られるので、見よ、彼らの企てるところを祝される」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅468新教出版社1970)と述べている。主イエスは山上の説教において「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタ 6: 3)と語っておられる。
私たちが常に神の国と神の義のみを求める時、神は私たちの前にその歩むべき道を備え、導いてくださるのである。神を信じていると言いながら、求めるものが自分の繁栄、自分の利得にすりかわる時、信仰の挫折を来す。パウロは「わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。」(汽謄1:18-20)と述べている。

2018/6/2(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 10:17-20 賛美 新聖歌 346
 イエス様は七十二人を任命して御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされました(ルカ 10:1)。彼らはイエス様から、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、授けられていました。彼らは帰ってきて喜んで「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と報告しました。これに対してイエス様は「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言って、真に喜ぶべきものが何であるかを教えられました。イエス様の血潮によるあがないの恵みに与り、罪赦され、御国の民とされていることこそ、様々な賜物によって奇跡の業を行うことにまさって、真に喜ぶべきことなのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-05-20 23:52:33 (48 ヒット)
デボーションの友

2018/5/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:21-24 賛美 新聖歌 282
 「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」と言うイエスの言葉を聞いた人々は「あなたは、いったい、どなたですか」と問うた。これに対して主は「それは初めから話しているではないか。」と答えられた。ヘブルの信徒への手紙は「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」(ヘブ 1:1-2)と記している。またイエスは「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハ 5: 39)と語っておられる。神は律法と預言者によって、御子について語ってこられた。しかしユダヤ人たちはイエスが神の御子であられることを理解出来なかった。信仰によってみ言葉を読むことをしなかったからである。

2018/5/22(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書28:1-11 賛美 新聖歌302
 エレミヤと平和を告げる預言者ハナンヤが直接対決する緊迫した状況である。エレミヤは主が示された通り、軛の横木と綱を首にはめてユダの国を主はバビロンに渡して、三代先に連れ帰られると預言した。同じ形式で、同じ神の名においてハナンヤはすでに奪われた神殿の祭具を二年以内に持ち帰らせると語る。この様な状況が私たちの目の前で起こることを、できるならば避けたいと願う。同じ神の名において正反対のことを告げる預言者が二人現われれば、民は混乱する。いや、混乱する前に、民にとって都合のよい方の言葉だけが耳に入り、偽預言であろうとも従ってしまうだろう。
 このような状況は今の時代でも起こり得る。人々は真実ではないが、自分にとって都合のよい言葉だけを信じてしまうか、あるいは真の神の言葉を見極めることができずに混乱してしまうかもしれない。そのようなときにも、正しく神の言葉を見極めることの大切さを覚えていなければならない。

2018/5/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:25-30 賛美 聖歌 635
 イエスは「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」と語られる。ユダヤ人たちはイエスを捕らえ、イエスを十字架につけることを要求した。ピラトはイエスの内に罪を認めず、イエスを釈放しょうと努めたが、ユダヤ人たちは執拗にイエスを十字架につけることを要求し、それを成し遂げた。ユダヤ人たちは自分の勝利を確信し、喜んだ。しかし神はイエスをよみがえらせ、イエスは天に上り、神の右の座に着かれた。このイエスは終わりの日、再び来られて裁き主の座に着かれる。イエスの十字架はイエスへの裁きではなく、イエスを十字架につける者への裁きである。イエスを十字架につける者は、それによって自らを裁き、死に定めているのである。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:18)と記されているとおりである。

2018/5/24(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書28:5-17 賛美 新聖歌427
 ハナンヤの預言にエレミヤが反論している。「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。」という言葉に驚くが、エレミヤ個人の思いは、やはりバビロンからの解放だったのだ。しかし彼は自分の願望ではなく、神の言葉を語る預言者なのである。それ故に彼は自分の望みに反して民の空想的な平和願望を打ちくだかなければならなかった。かつての預言者達も神の名において災いを告げてきた。さらに、本物の救済預言を見分けるためには時を置いてその言葉が実現することを確認しなければならない。エレミヤが神からの真の言葉を見分けるための土台としたのは、民全体が共有できる、客観的な昔の預言者の言葉であった。預言というものは預言者の内的な確信に基づいて神の言葉として宣言されるものであるがゆえに、客観性を見出しにくい面は確かにある。しかし皆が共有できる土台の上に立って判断する基準を敢えて持とうとするならば、それは歴史上神が用いてこられた預言者の言葉の一貫性に照らし合わせるということが一つの根拠となる。
 様々な「預言」が今日でも語られる。主の名において語られるものも存在すると聞く。それが真の預言であると見分けるためには平和の実現を見ること、また聖書の中に記されている真の神の預言者の言葉と矛盾しないことを確認することが必要である。

2018/5/25(金) 担当 高谷清師  詩 37:21−22 賛美 新聖歌 247
 続いてダビデは「神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「われわれの生命を保存・維持し、他人に対して、互いに、慈善のわざを施すに必要なものすべてが、与えられるのは、天からでも、地からでもなく、ただ神の、恩恵と祝福とからである。もしも神が、その恵みをひとたび取り去られるならば、この世のすべての豊かさも、われわれを満足させることはないであろう」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅311新教出版社1970)と述べている。
 箴言は「財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは/乏しくても主を畏れる方がよい。肥えた牛を食べて憎み合うよりは/青菜の食事で愛し合う方がよい。」(箴 15: 16-17)と述べている。ヨブはサタンの激しい試みにさらされた時、妻が「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(ヨブ 2:9)と言ったのに対し、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(ヨブ 2:10)と語っている。人は、世的に、いかに豊かな環境にあっても満たされることはできない。いかに過酷な環境におかれようとも、神の恵みの中に、愛の御手の中にあるなら、満ち足り、生きる。

2018/5/26(土)担当 高谷由紀子師 マタ 18:1-4 賛美 新聖歌 316
 弟子たちがイエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねるとイエスは一人の子どもを呼び寄せて「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」と言われました。弟子たちは、自分が偉い人になりたい、人に認められ、賞賛されて人よりも上になりたいと思っていました。しかし主が教えられたのは、頑張って功績を残して認められなさいということではなく、子供のように自分を低くするということでした。ぺトロは「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」(汽撻5:5)と述べています。日々、神様の前に、謙遜に歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-05-13 23:44:06 (63 ヒット)
デボーションの友

2018/5/14(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:12-20 賛美 新聖歌 247
 ヨハネは7:30に続いて「イエスの時がまだ来ていなかったからである」と述べている。この箇所について斎藤正彦師は「ユダヤの最も大切な祭りの目、多くの礼拝者の集まる神殿の婦人の庭のさいせん箱のそばで語られたこの一言によって、イエスは直ちに捕えられても不思議ではなかった。しかし福音書記者は、ここでかれが直ちに捕えられなかった理由を、『イエスの時がまだきていなかった』。神の子の受難の、神によって定められた時がまだ来ておらず、誰も神の計画にさからって行動することはできなかったからであると説明することによって、このテキストを締め括るのである。」と述べておられる。(説教者のための聖書講解No30P14日本基督教団出版局1980)主イエスは「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタ 10:29)と語っておられる。悪を含め、すべては神のみ手の中にあり、神の許しなしには何事も起こらないのである。愛の御手の中にあることを感謝しょう。

2018/5/15(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書27:12-15 賛美 新聖歌166
 周辺諸国からエルサレムに来た王の使者たちに語ったと同じことを、同じように軛を背負いながらユダの王ゼデキヤにも語っている。エレミヤのメッセージは神から託された言葉であり、それは誰を目の前にしても変わらない。ユダの民が命を保つための唯一の方法はバビロンの王に仕えることである。このことはユダの民にとっては不満であっただろう。それ故に偽預言者達は人びとの思いに迎合してバビロンの王に仕えてはならないと語る。ゼデキヤ王にとってもエレミヤ以外の人びとの意見の方が好ましかった。しかしエレミヤは好ましい意見に飛びついて行動を起こすのではなく、偽預言を見抜き、滅びの道を歩むことはしないように呼びかける。
 神の御心を受け取ってそれを語る時、神のご計画が時代の潮流と必ずしも一致しているわけではない。そのような時に時代の勢いに流されることなく、また地位ある人の前だからと言って恐れてメッセージを変えるのではなく、祈りと御言葉を通して神の御心を聞き分け、主に信頼し、人を恐れず、真の言葉を語れるよう、主に祈り求めよう。

2018/5/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:21-24 賛美 新聖歌 265
 イエスは再び口を開き「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」と語られる。これを聞いたユダヤ人たちは、イエスの言葉を理解できない。彼らは下のものに属しており、イエスは上のものに属しておられる、ユダヤ人たちは世に属しているが、イエスは世に属してはおられないからである。イエスは「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」と語られる。『わたしはある』と言う語を口語訳聖書は「わたしがそういう者である」と訳し、新改訳聖書(2017年版)は「わたしはある」と訳している。フランシスコ会訳聖書は『わたしはある』と訳し「出エジプト3:14の『わたしはあるものである』という旧約聖書的へブライ語表現(「ヤーウェ」という神の名に関速する表現)に基づくものであり、イエズスの神性を表わす固有名詞のようなものである。」との注釈を付している。
 人が、イエスが神であられることを信じないなら、イエスの命に与ることは出来ない。主は「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マコ 16:16)と宣告しておられる。固く信仰に立って歩もう。

2018/5/17(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書27:16-22 賛美 新聖歌340
 さらにエレミヤは祭司たちと民のすべてに向けて語る。何度も同じメッセージを、あらゆる人々にあらゆる機会を捉えて語っている。その際、今まだ神殿と宮殿とエレサムに残っている祭具に言及していることから、既に最初の小規模な捕囚が起こり、ユダの国の危機的状況が目の前にあることを、エレミヤは冷静に認識し、対処していることが分かる。バビロンによる略奪は続くという預言は将来の先行きが決して安泰ではないことを感じ取っている人々に歓迎されるはずがないばかりか、敵意の的となるだろう。それでもエレミヤは危機感をもって真剣に語り続けた。人々の目には侵略者バビロンに服従することがあり得ない選択に見えたけれども、エレミヤは確信をもってこれを勧めた。
 エレミヤが大胆にこれを勧めることができたのは、神との親しい関係において神の言葉を聞き分けていたからである。加えて、神に従ってバビロンに仕えるならば、たとえそれが人間的に愚かで恐ろしい道に見えても、神がバビロンを用いて守ってくださるという主へのゆるぎない信頼を持っていたからである。主への信頼は危機における振舞いに表れる。

2018/5/18(金) 担当 高谷清師  詩 37:21-22 賛美 新聖歌 340
 ダビデは「主に逆らう者は、借りたものも返さない。主に従う人は憐れんで施す。神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「神はその民に対し豊かに与えられるので、彼らは他の人々に善を施すことができるが、悪しき者らは常に飢えており、その貧しさが彼らを駆り立てて、たばかりと強奪に訴えさせるほどである」 と。(中略)たとえ不信者が、よきものを豊かに手にしているとしても、彼らの貧欲はけっして飽くことなく、何を手に入れようとも、満ち足りることのない海賊のごとく、あちらこちらと強奪して回ることを止めないのである。」と。更に「神の子らが貧しい人々の生活を支え、彼らに対し寛大な施しをするに足るものを持つのはどこからか、そして悪しき者らが絶えず借財し、けっしてそこから抜け出すことができないのはなにゆえか、と問うならば、ダビデはこう答える『前者は神によって祝福されているのに,後者はその呪いによって覆滅されているからである』と。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅466−467新教出版社1970)と述べている。パウロは「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(競灰6:10)と述べている。キリストを信じる者は御国の相続者とされている。

2018/5/19(土)担当 高谷由紀子師 マタ 7:24-27 賛美 新聖歌 316
 これは主が語られた山上の説教と呼ばれる個所の一部分です。ここで主は私たちの人生の二種類の土台について譬えを用いて教えておられます。その一つは砂です。この土台は、雨が降り、川があふれ、風が吹くと崩れてしまうのです。もう一つの土台は岩です。岩を土台としている家はたとえ雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかっても崩れ去ることはありません。
 岩を私たちの人生の土台とするということは、御言葉を聞いて行うことだと言われています。砂を土台とするということは、御言葉を聞いてもそれを行うこと無く忘れてしまい、世のもの―健康・財産・権力・地位など―のうえに人生を築くことです。それは危機に遭遇すると崩れ去るのです。御言葉を聞いたなら、それを心に留め、思い巡らし、実行していくことが大切です。


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