投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-11-18 23:07:39 (1 ヒット)
デボーションの友

2018/11/19 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:22-30 賛美 新聖歌 224
 「わたしの羊」がどのような者であるかを語られたイエスは、続いて彼らの特権について「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」と語られる。この箇所についてカルヴァンは「わたしたちの救いが確固として確実なものであるのは、それが神の手のうちにあるからである。それというのも、わたしたちの信仰は虚弱なものであり、またわたしたちはあまりにも動揺しやすい性質をもっているからである。しかし、わたしたちをその庇護のもとにうけ入れた神は、その息吹きだけで、わたしたちの敵どもの気ちがいじみた好計や謀略を、すべて消滅させることができるほどに力強く、揺ぎない者である。わたしたちはそこに目をむけ、さまざまな誘惑の恐怖に、勇気を失うことのないようにしなければならない。それというのも、わたしたちの主イエス自身、わたしたちに、狼どものあいだにとどまっていながら、どうして羊たちが安心していられるか、その方法を明示しようとしたからである。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965上P360)と記している。私たちに与えられている永遠の命は私たちに依拠しているのではなく、全能にして永遠なる方に依拠しているのである。全幅の信頼をもって歩もう。

2018/11/20(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書44:14-19 賛美 新聖歌178
 人びとは明確にエレミヤに反論している。偶像礼拝を止めてただ主だけを礼拝しなければ、主が災いをくだされると語ったエレミヤに対して、人びとは全く対立する主張を行った。驚くことに、彼らは天の女王への礼拝を止めたからこそ災いが降りかかったと語る。神の民であるイスラエルの人々が、主に信頼して歩むことよりも偶像礼拝に信頼を置いてしまっている。人々は主を礼拝することを拒んだという意識はなかったかもしれないが、同時に災いから逃れているのは偶像礼拝のおかげだと考えている。どれほど真の神だけを礼拝しなさいという十戒からほど遠く隔たっているかと驚きを隠せない。
 真の神を否定するのではなく、それに加えて偶像礼拝の真っただ中で、人びとが罪を犯していることに気付くことが難しい。この現状を指摘されたときに素直に悔い改めることも、なおさら困難になる。しかし主の戒めはただ主だけを礼拝せよと教えることを心に留めたい。

2018/11/21(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:22-30 賛美 新聖歌 236
 イエスは「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」と語られる。この箇所についてジョン・C・ライルは「|主は今語られた力強い約束をさらに強めるために、御自分の羊がただ御自分のものだけではなく父のものでもあると言われた。父が彼らを子・キリストにくださったのである。「わたしの父は力があり、すべてにまさって偉大なすべての権威を持っておられるお方です。誰もわたしの父の手から「どんなものも」取り去ることはできません。だからわたしの羊の安全は二重に守られています。(ライル福音書講解ヨハネ2P517聖書図書刊行会1987)」と述べている。そしてイエスは「わたしと父とは一つである。」と語られる。この言葉について岩波訳は「31-33節の反応を見ると、5:18と同様、敵対者はこれを自分を神と等しいものにしたととっているが、意志の一致、全き従順ととることも可能。」との注釈を付している。私たちに永遠の命を賜るのは御子イエスの御心であり、父なる神の御心である。私たちの賜った恵は神の御心の確かさを感謝しょう。

2018/11/22(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書44:20-30 賛美 新聖歌253
 エレミヤと民は真っ向から対立する。人々はエレミヤの言葉に全く耳を傾けない。これほど頑なな人々に対してエレミヤはもはや説得する言葉を語らない。ただ神の裁きが迫っていることを譲歩なく、もう一度告げるだけである。人びとが天の女王への誓いと犠牲の義務に縛られているときに、預言者ははるかに大切な神の律法と教えに従うことを再び語る。その上で、全く心を開かない人々に対して自分勝手に生きればよいと述べて、罪を犯し続けるままにさせる。
 神はそれぞれの時代において神を信じて従う人々が正しい歩みに留まることができるようにみ言葉を通して警告し、愛情をもって正しい道へと導かれる。しかし人びとがその言葉に一切耳を貸さず、従わないならば、最終的に裁きが告げられるだけである。私たちも心を頑なにして主の導きを拒みつづけることがないよう、祈りとみ言葉の生活の中で主に導かれて歩もう。

2018/11/23(金) 担当 高谷清師  詩 40:2-4a 新聖歌 445
 表題においてこの詩はダビデに帰されている。2節の「主にのみ、わたしは望みをおいていた」と訳されている部分を新改訳は「私は切なる思いで主を待ち望んだ」ヴァイザーは「切なる思いで、わたしは主を待ち望んだ。」カルヴァンは「わたしは耐えに耐えて(あるいは「忍耐強」1)主を待ち望みました」と訳している。この箇所についてカルヴァンは「たとえ主が、その助けを遷延されたとしても、ダビデの勇気が苦悩のゆえに冷却することはなかったので、その忍耐の証左を示したのちには、ついに聴き入れられたのである」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑33教出版社1971)と述べている。長引く苦難にも関わらず、神に望みを置く忍耐強い祈りを神は聞き入れ、滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、岩の上に立たせくださったのである。主イエスは「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ 11:9-10)と教えておられる。長引く試練のうちにある時にも忍耐強く祈り続けよう。主は必ず聞いてくださる。

2018/11/24(土)担当 高谷由紀子師 箴 30:25 賛美 新聖歌 321
 夏真っ盛りの暑い時、キリギリスは声高らかに歌い、楽しい毎日を過ごしていました。その足元で蟻は汗を流して自分の体より大きい荷物を運んで働いていました。そうしているうちに冬がやってきました。蟻は夏の間一生懸命働いて貯えておいた食べ物があったので困ることなく、厳しい寒さにも命を保ち続けることが出来ました。キリギリスは食べ物が無くてとうとう死んでしまいました。蟻は歌って遊ぶこともなく、力もありません。しかし、夏の間、冬に備えて働いていたことで命を長らえました。蟻は「暑いから」「また後で」「明日に」と、今日為すべきことを明日に延しませんでした。聖書は「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレト 3:1)と告げています。今の時の為すべきことを怠ることなく日々を過ごしましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-11-11 22:37:32 (8 ヒット)
デボーションの友

2018/11/12 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:22-30 賛美 新聖歌 361
 冬、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた時、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられたイエスをユダヤ人たちが取り囲んで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と言った。19節には「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた」と記されている。ある者たちは「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。」と言い、ほかの者たちは「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」と言っていたのである。これらのことから、ユダヤ人たちの心は「イエスはメシヤではないか」という、一抹の想いがあったことがうかがえる。ユダヤ人たちの問いに対してイエスは「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。」と答えておられる。ヘブル書の記者は「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」(ヘブ 4: 2)と述べている。御言葉は信仰によって受け入れられるべきものである。常に信仰によって歩もう。

2018/11/13(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書43:8-13 賛美 新聖歌254
 エルサレムの陥落を生き残った人々が遂にエジプトへと逃げ延びた。彼らの土地に留まれと言われた神の言葉に従わず、自らの考えに従って安全であると思われたバビロンと並び立つ強国のエジプトについに逃れた人々には、これでようやく安全が保障されるとひとまず安どした瞬間であっただろう。しかしこの時エレミヤが語った主の言葉は彼らの気持ちを逆撫でするものであった。大胆にもエレミヤはエジプトの中心地であるファラオの神殿がバビロンの王のものとなると語った。ユダの人々が逃れて来たあの廃墟エルサレムと同じことがこのエジプトにも起こる主は語られた。並び立つ大国であったエジプトが上着のしらみを払い落とすようにいとも簡単に滅ぼされると言う。
 人びとは状況が表面上好転すれば神がなんと言われようと自分の望む通りにことが進み、神の言葉は現実的ではなくなると考える。神の言葉は一貫している。神が定め、行うと言われたことを神は実現される。私たちに神は何を語り、どのような態度で歩むことを求めておられるだろうか。正しく聞き分けたい。

2018/11/14(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:19-21 賛美 聖歌 501
 ユダヤ人たちの言葉に対してイエスは「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」と答えられた。そしてご自分の羊について語られる。「羊」という言葉についてジョン・C・ライルは「主が最も言わんとされたのは、羊が全面的に羊飼いに依存しているということである。羊がその羊飼いの声を聞き、従って行くように、信者もキリストに従うのである。彼らは信仰によってキリストの呼び声を聞き、その導きに従い、彼により頼んで自分の魂を無条件的にゆだねている。羊と羊飼いの表徴的表現は、キリストと真の信者との関係を最もよく表しているものである。(ライル福音書講解ヨハネ2P502聖書図書刊行会1987)」と述べている。キリストとキリスト者の関係は信仰である。キリストの言葉、神の言葉はそのまま信じられるべきである。しかし今の時代は日々報道される詐欺事件などのように単純に信じることの危険な時代である。このような事例だけではなく、聖書の言葉を用いて語られるものさえもその危険をはらむ。そこで常に聖霊に満たされることが重要である。パウロは「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(汽灰2:14-15)と述べている。常に聖霊に満たされ、導かれて歩もう。

2018/11/15(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書44:1-13 賛美 新聖歌369
 エジプトに逃れた人々はこれでもう安全だと胸をなでおろしていただろう。しかしそこでも神は以前と同じメッセージを語り続けられる。どんなにエルサレムから遠くに逃れようとも、神は彼らにエルサレムが陥落した現実と向き合い、それが起こった理由から目を背けないように導かれる。神は怒りの故に町々を破壊された。その怒りの原因は民が異教の神々に礼拝をささげたからである。すなわち民の偶像礼拝こそが町々の破壊を引き起こした。この民が悲劇的な出来事を体験したとしても、そしてどれほど遠くにこの惨状から逃げ出したとしても、彼らが心から悔い改めて偶像礼拝から離れない限りどこまで行っても同じように神を怒らせ続けるのである。
 犯した罪を棚に上げて、苦しい体験に不平を述べ続けたり、苦境に立たせた神を責め続けるようなことを私たちもしていないだろうか。み言葉と聖霊の導きによって正しく状況を判断し、神との関係を吟味し、神に喜ばれないものがあるならばそれを悔い改めることによって神との関係が正されていこう。

2018/11/16(金) 担当 高谷清師  詩 40:1-18 新聖歌 172
 この詩編は大きく二つの部分に分かれている。1―12節は感謝の歌に分類されるが、13―18節は嘆きの歌に分類される70編とほとんど同じである。このことからこの詩編を二つの詩に分ける見解が広まっている。しかし鍋谷尭爾師はヴァイザーの文章を引用しつつ「ヴァイザーは、これを深い信仰体験として十分にありうると統一性を擁護して、次のように言います。「このかつての(救いの)信仰体験を頼みの網とし、これによってはじめて彼の祈願は正しい確かなものとなり、純粋な祈りに変えられてゆくのである。彼は早急に自分の苦難から救い出して欲しいという利己的な動機をまず退けることによって、目と心をひたすら神に集中し、神とのつながりがまだ失われていなかった過去の経験に思いをこらす。この点にこそ、真実な信仰によってのみ与えられる謙虚な服従の姿が示されているのである。すでに与えられている信仰と、信仰の確証を求めようとする苦闘――この両者の間の緊張は、最後の一句」に至るまで、この詩篇を貫いている。この歌詞を複数の作者と状況に分けて解釈することにより、こうした緊張を骨抜きにしてしまってはならない。むしろこの緊張こそは信仰の本質に属するものであり、聖書における祈り手が示す純粋な、生きた信仰の証なのである。彼は信仰の生涯の山を越え、谷を越え、経験から希望へと歩みを進めていく。作者の内面的状況を以上のようにとらえることによって、この詩を人生の真実に即した統一あるものとして理解することが可能になる」(鍋谷尭爾 「詩篇を味わう」335―336Pいのちのことば社 2005)と述べていられる。私たちの信仰生活には順風の時があり、試練の時がある。試練の時には「神は私を見捨てられたのか」との思いが頭をよぎることがあるかも知れない。しかし神は順風の時にも試練の時にも共にいてくださる。順風の時の信仰体験は試練の時の支えである。

2018/11/17(土)担当 高谷由紀子師 マタ 16:13-20 賛美 新聖歌 342
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。これに対して弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。イエスが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」とお尋ねになるとペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。イエスはこの答えを喜び「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われました。
 イエスを偉大な宗教家、尊敬すべき教師、指導者と認めるだけでは十分ではありません。「メシア、生ける神の子」と認めることこそ大切です。それは神の啓示によってのみ、可能なのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-11-04 22:52:52 (18 ヒット)
デボーションの友

2018/11/5 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:18 賛美 新聖歌 127
 「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。」と語られたイエスは「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」と語られる。この福音書の2:19においてもイエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と語っておられる。また使 2:24-32においてはキリストの復活が父なる神の業に帰されている。更に汽撻3:18 は「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」と述べて、キリストの復活が聖霊なる神の業に帰されている。ジョン・C・ライルは「これらすべてから結論できることは、キリストの仲保者としてのすべての働きの場合と同様に、復活も三位一体の各位格の共同のわざであるということである。(ライル福音書講解ヨハネ2P498聖書図書刊行会1987)」と述べている。イエスは命を捨てることもでき、それを再び受けることもおできになるのである。

2018/11/6(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:18-22 賛美 新聖歌390
 さらに強い言葉でエジプトに行ってはならないと警告されている。主のことばは明確である。神の言葉に従わず、またもやエジプトに頼ろうとするならば、今度はエルサレムの陥落を経てそこに住むことを許されたこの残された人々もまた二度とエルサレムを見ることがなくなると言われる。彼ら自身が主へのとりなしの祈りを求め、主のことばを求めたにもかかわらず、また主のことばに聞き従おうとしない。うんざりするほど不従順な姿である。しかしこれが現実であった。
 同じ過ちを私たちも犯していないだろうか。口では主のことばを求めると言いつつ、自分の意に沿わない御心が示されたならば絶対に主に聞き従おうとしない。そこに待ち受けているのは死である。神を侮るうわべだけの信仰者になってはならない。主を求めるということは主に聞き従うという姿勢があってこそ、私たちを主にあって成長させる信仰の歩みとなる。

2018/11/7(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:19-21 賛美 新聖歌 316
 ヨハネは「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。」と記している。ある者たちは「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」と言い、ほかの者たちは「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」と言ったのである。イエスは「「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(マタ 10:34-36)と語っておられる。真理が掲示される時、その真理にどう応答するかについて人びとの間に対立が生じる。私たちは、たとえそれが少数派であっても、真理の言葉にアーメンをもって応答する者でありたい。聖霊の導きと助けを祈る。

2018/11/8(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書43:1-7 賛美 新聖歌185
 主のことばが伝えられた時、民はこれに聞き従わなかった。彼らは神の言葉を真っ向から否定する代わりに、預言者が神の言葉を受け取ってはいない偽預言者だと非難した。どれほど人びとの心が罪深いかと、驚かされる。しかし既に自分たちの思いに従ってエジプト行きを決定した民は、決してもう一度立ち止まって注意深く考え、本当の主のことばを吟味することをしなかった。影響力の強い指導者の言葉に引きずられるように民は神の言葉を蔑ろにしてエジプトへ行った。
 神の言葉に従うことの難しさがここにも見て取れる。神の愛を知り、神に罪赦され、神に感謝し、賛美して歩む,神を信じる人びとが、この神の言葉に喜んで従うことはごく自然なことである。にもかかわらず現実にはやはり多くの場合、人は神の導きよりも自分の都合を優先する。本当に神の言葉を聞き分ける者をも否定し、攻撃し、排除してまでも。そのような状況に陥らないために、私たちは日々聖霊の導きを謙虚に求めて主と共に歩ませていただかなければならない。

2018/11/9(金) 担当 高谷清師 詩 39:13-14 新聖歌 458
 自らに降りかかった艱難が自らの罪咎によるものであり、それが神から出たものであることを知った詩人は、「わたしは御もとに身を寄せる者/先祖と同じ宿り人。」と告白し、先祖たちと同じように、永遠者の前には、自らが儚い存在であることを告白する。「あなたの目をわたしからそらせ/立ち直らせてください/わたしが去り、失われる前に。」と祈る。この箇所についてA. ヴァイザーは「この信仰の苦闘を物語った貴重な証言が重苦しい気分を残すのは、僅かな例外を除いて旧約聖書の考え方が死の壁という制約を持っていることからきている。作者もこの制約を越えて展望することはできなかった。(中略)われわれにとってはこれこそキリストの死と復活による全き救いの必然性を示す、沈黙の、しかも雄弁な証なのである。キリストの復活を通して初めて人間は、罪と死の力からの解放を与えられたのである。」(ATD旧約聖書註解詩篇上P433ATD・NTD聖書註解刊行会1983))と述べている。恵みの時代に生かされていることを感謝し、堅く立って信仰の歩みを全うしょう。

2018/11/10(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 17:11-19 賛美 新聖歌 172
 イエスがエルサレムに上って行かれる途中、ある村に入られた時、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言いました。イエスは彼らを見て「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。彼らは、そこへ行く途中で清くされました。自分がいやされたのを知った彼らのなかの一人が、大声で神を賛美しながら戻って来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝しました。この人はサマリア人でした。イエスは「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われました。そしてその人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。イエス様から受けた恵みに心から感謝する者となりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-10-28 23:18:27 (18 ヒット)
デボーションの友

2018/10/29 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:17 賛美 新聖歌 211
 イエスは「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」と語られる。イザヤ書において神は「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザ 53:12)と語っておられる。またパウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリ 2:6-9)と述べている。御子は父なる神の愛に応えて、愛によって父なる神の御心を行い、それ故に父なる神は御子を愛される。その愛は御子によって信じる者に及ぶ。

2018/10/30(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:7-17 賛美 新聖歌165
 残されたユダの人々がエレミヤのもとに来て今後歩むべき道を神に聞いてほしいと願ったとき、エレミヤは主に祈ることを受け入れた。状況は切迫している。彼らはエルサレム陥落後にバビロンがこの地に送った総督ゲダルヤを殺したため、報復を受けることを恐れていたのである。この人々は一刻も早く安全な地に逃れたい思いでいっぱいだった。もちろんエレミヤ自身もこの緊迫した状況を理解していた。誰もが一刻も早く神の御心を聞きたかったのである。しかし主のことばはすぐにはエレミヤに臨まなかった。エレミヤはこの状況で十日間祈らなければならなかった。
 この十日間は「たった十日間だけ」と受け取られるだろうか?命の危険が迫る中、十日もただ待つということは気の遠くなる話であった。しかしエレミヤは神の言葉を自作しなかった。待つべき時は待たなければならない。たとえ状況が切迫していたとしても。私たちも信仰生活において「待つ」ことを学びたい。

2018/10/31(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:18 賛美 新聖歌 112
 イエスは「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。」と語られる。この箇所についてジョン・C・ライルは「主はこのことばによって、御自分の死が全くの自発的な死であることを教えられた。地上の羊飼いは自分の群のために死ぬであろうが、それは自分の意に反してである。しかし信じる者たちの偉大な羊飼いは、自らの意志によって御自分のいのちを罪のためのささげものとする。キリストはなにか大きな力によってそうするように強いられたり、義務づけられたりしていたわけではない。キリストが進んで捨てるのでなければ、誰ひとりとしてそのいのちを奪うことはできないのである。キリストは、御自身を私たちの罪のための贖いとしてささげることを誓約されたので、「自ら」いのちを捨てられた。キリストは、罪人たちを愛するがゆえに死なれたのであって、ユダヤ人やポンテオ・ピラトの兵卒などの力に屈したのではなかった。(ライル福音書講解ヨハネ2P497聖書図書刊行会1987)」と述べている。イエスはただ愛の故に命を捨ててくださったのである。

2018/11/1(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:7-17 賛美 新聖歌341
 十日間待って与えられた神の答えは明白であった。神は下した災いを悔いている、すなわちもはや神の怒りは過ぎ去り、憐れみが正義の要求に勝っていると言われる。そうして民を「立て、倒しはしない。植えて、抜きはしない」(42:10)と言われる。1:10で言われていた通り、裁きと破壊のときは終わり、再建のときが来たと言われる。そしてここにもやはり条件が伴う。もし民がこの国にとどまるならば、というのである。それに反してエジプトに行くなら救われないという。その選択肢を示しつつ、バビロンの王を恐れるなと語られる。神はこの新たな導きを示しつつ、民が恐れの故に従うことができないという危険性を良く知っておられた。
 恐れはしばしば信仰の妨げとなる。しばしば私たちも体験することである。神に頼ることによって心の中にある恐れを乗り越え、主と共に歩むところに救いと守りが与えられる。聖霊の力によって神に頼りつつ歩もう。

2018/11/2(金) 担当 高谷清師  詩 39:11-12 新聖歌 32
 詩人は、自らに降りかかった艱難が自らの罪咎によるものであり、それが神から出たものであることを知った時「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。」と語った。そして「わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。」と祈る。更に「あなたに罪を責められ、懲らしめられて/人の欲望など虫けらのようについえます。ああ、人は皆、空しい。」と語る。この箇所についてカルヴァンは「神のみ手がわれわれを圧倒しいわば地に打ち倒すまでは、われわれはみずからの空虚さを知ることによって、己れのうちにあるすべての思い上がりを捨て、身を低くしようとしないからである。すべての人間が愚かにもみずからを喜ばせ、いな、みずからに拍手かっさいを送るのは、神が彼らを猶予される間だけ、彼らが進んで目を堅く閉じ、自分の弱さを見ようとしなしないからでないならば、いったい何ゆえであろうか。それだから、彼らに生得的な倣慢から、彼らを浄化する唯一の救治策は、彼らが神の怒りを感じて恐ろしくなり、自分自身を不快に思うだけでなく、全く身を低くすることにある。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑29ページ新教出版社1971)と述べている。人は、自ら企画した事柄の成果を字画自賛し、神の目からの評価を求めようとしない。しかしパウロは「人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」(汽謄5:3)と述べている。神のみ前に謙虚に立ち聖霊の光の中で自らを吟味し、神の御心を歩もう。

2018/11/3(土)担当 高谷由紀子師 ロマ 1:16-17 賛美 新聖歌 282
 パウロは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」と言っています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創 15:6)と記されているとおり、アブラハムが義とされたのは彼の行いによってではなく、信仰によってでした。ダビデは行いによらずに神から義と認められた者の幸いについて「いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(詩 32:2)と詠っています。自らは罪ある者である私たちも、自らの行いによらず、私たちの罪のために十字架に架かって下さった主を信じる信仰によって義とされている幸いを心から感謝しましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-10-21 23:43:51 (22 ヒット)
デボーションの友

2018/10/22 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:16 賛美 新聖歌 238
 イエスは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と言われる。ファリサイ人や律法学者たちはユダヤ人だけが神に選ばれた民であり、神の約束にあずかる唯一の者であると考えていた。パウロは当時の異邦人について「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」(エフェ 2:11-12)と述べている。ユダヤ人からこのように言われていた異邦人も、イエスにおいては、ご自分の民であり、イエスは彼らのためにも十字架に架かって下さったのである。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」(創18: 18)と語られているように、地のすべての人々はキリストによって神の祝福に入れられるのである。

2018/10/23(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:1-6 賛美 新聖歌345
 エレミヤのもとに民がやって来て今後の対応について神に尋ねてほしいと申し出た。これまでエレミヤが語り続けてきた神の言葉に全く耳を貸さなかった人々がここに願い出ていることは驚きである。彼らは真剣に求めている。最初はエレミヤの神である主に祈ってほしいと語っていたが(42:2)、エレミヤが彼ら自身の神であることを強調するにつれて(42:4)、神が自分たちの神であると言っている(42:6)。神は誰の神なのかという表現はここで起こっている事態の中では取るに足りない小さな出来事であるかのように感じられる。しかし民が神を「我々の神」であると認識することは彼らと神との関係性を示している。信仰がない者に「主は私たちの神です」と告白することはできないからである。
 42章の終わりでは結局民は神の御言葉に従うことはなかった。しかしそれ故にこのひと時、垣間見えた神に従うという意志は単なる演出であったとは断言できない。人の心は絶えず揺れ動き、信仰も不安定になることがある。それゆえ日々聖霊の導きを求めて今日も神の御心を求めて従うことができる者としていただこう。

2018/10/24(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:16 賛美 新聖歌 266
 続いてイエスは「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と語られる。パウロは「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エペ 2:14-18)と述べている。
 人はキリストにおいて互いに平和を得、一つとされるのである。キリストによって歩もう。

2018/10/25(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:1-6 賛美 新聖歌155
 民が神の御心を聞いてほしいと願った時、エレミヤは即座に承諾して神の言葉の一部だけをかいつまんで民に伝えるということはしなかった。エレミヤは彼らの申し出を承諾し、主に祈ると答えたが、絶対に神が確実に民の行くべき道を示されるとの根拠のない確約は与えなかった。ただ、もし主が答えをくださる、ならそのすべての言葉を民に伝えると約束した。罪に満ちた時代に正しく神の言葉を聞き取り、民に伝え続けたエレミヤは当然神の答えを聞くと私たちも期待するが、エレミヤは期待に応えて神が答えられるのは当然だとは考えていない。また神の言葉を聞いたならばそれを余すところなくすべてを伝えるべきことを認識していた。
 神の言葉を聞き取り、語ることの責任の重さを再度考えさせられる。み言葉を取次ぐ説教者達はいつも神の前にへりくだって聖霊に導かれて真理を語らなければならない。今日の時代に様々な預言をするという者は、本当に神の言葉を正しく聞き取って神の言われたことだけを伝えねばならない。神の言葉であると主張しつつ自分の思いを語る誘惑はいつの時代にも存在するのだから。

2018/10/26(金) 担当 高谷清師  詩 39:9-10 新聖歌 384
 詩人は「あなたに背いたすべての罪からわたしを救い/神を知らぬ者というそしりを/受けないようにしてください。」と祈った。彼は自らに降りかかった艱難が自らの罪咎によるものであり、それが神から出たものであることを知った時、「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。」と語る。カルヴァンは「神の力強いみ手のもとに身を低くし、これに逆らって抗弁することなしに、神のさばきに服することが、われわれの信仰の重要な修練のひとつであることを、われわれも知ろうではないか。さらにまた、人間が平静に、また安らかな魂をもって、神に従うのは、彼らが神はその欲せられることすべてを、絶対的な大能をもってなしとげられるだけでなく、正しいさばき主であられることを.きわめて堅固に確信する時である。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑27新教出版社1971)と述べている。ヘブライ人への手紙は「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブ 12:5-11)と述べている。主の鍛錬を、感謝をもって受け入れ、耐え、主の栄光をあらわす器と変えられよう。

2018/10/27(土)担当 高谷由紀子師 マコ 7:24-30 賛美 新聖歌 302
 フェニキアの生まれの女は異邦人であり、神の恵みの約束の外に生きる人であった。この女が汚れた霊に取りつかれた幼い娘を癒していただくために主イエスのところにやって来た。主はこの異邦人の女に対して最初は「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と答え、ユダヤ人が優先であると言われた。ところが、女は、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と言い、ユダヤ人が優先されることは認めながらも、異邦人も心をとめていただくよう、熱心に求めた。主イエスはこの女の熱心な信仰に応えて娘を悪霊から解放された。契約によってユダヤ人に限定されていた神の恵みはイエスキリストによって全世界の人々に及ぼされたのである。


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