投稿者 : takatani 投稿日時: 2016-07-03 23:03:25 (450 ヒット)
主日礼拝メッセージ

2016/7/4(月) 担当 高谷清師  汽撻4:1-6  賛美 新聖歌 363A
 ぺトロは「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」と述べる。ここに語られた「死んだ者」とは、キリストを信じて死んでいった人々である。教会は主イエスを信じた人々は永遠の命を与えられる」と述べ伝える。しかし現実においてはクリスチャンもクリスチャンでない人々と同じように死ぬ。パウロが「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ロマ 5:12)と述べているように、アダムの罪によって入り込んだ死はすべての人々を支配しているのである。人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだのである。そのように死に定められた人間に福音が告げ知らされたのは霊において生きるようになるためなのである。罪の無い神の御子も人類の罪をその身に負われたとき十字架上で死なれたのである。パウロが「御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ロマ 1:3-4)と述べているように、神はこの御子を復活させ、救い主としてお立てになったのである。キリストを信じることにより、キリストの復活に与り、永遠の命の恵みに与る、即ち霊において生きるようになるのである。

2016/7/5(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書42:5-9 賛美 新聖歌21
 しもべを呼び出して正義を行うをいう言葉を信じることができるかどうかは、それは誰が宣言されたのかによる。イザヤ書によるとそれは天と地を創造された主の言葉である。世界を創造し、人に命と霊を与えられた方はイスラエルと共に歩んでこられた神であった。人に命を与えられた神は世界の創造を終えると同時に消滅してしまうような神ではない。その後も働き続け、再びイスラエルに語りかけてイスラエルを選び、捕らわれている状態から解放される方である。天地が主の栄光を語り告げるために造られたのと同様に、捕らわれのイスラエルは神の栄光を示すための諸国の光とされる。始めからイスラエルと共に歩まれた方は決して彼らを離れることもなく、沈黙したり消滅したりする方でもなく、再び力を示し民を救い出される。
 神がこの世界を造られたことを私たちは知り、信じている。その創造者は今も日々私たちに関わり、私たちを選び出し、世の光として神の栄光を表す者としてくださる。

2016/7/6 (水) 担当 高谷清師  汽撻4: 7-11 賛美 新聖歌 148
 4:7においてぺトロは「万物の終わりが迫っています。」と語る。終末が切迫していることについては、パウロが「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(ロマ 13:12)と述べており、ヨハネが「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」(汽茱2:18)と述べていることからも、当時の教会の認識であったことがわかる。一方でぺトロが『まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」』(競撻3:3-4)述べているように、それを疑う人々もいたのである。しかしぺトロは「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(競撻 3:8)と述べている。主のご計画の中で万物の終わりは刻々と迫っており、それは今も変わらないのである。それ故、私たちは常に万物の終わりを迎える備えのある歩みをしよう。

2016/7/7(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書42:10-13 賛美 新聖歌165
 創造者である神が正義を行われるという言葉を聞き、国々は賛美によって応答するように励まされる。「新しい歌を主に向って歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。(42:10)」との呼びかけは礼拝への招きである。その礼拝に招かれているのは僕イスラエルだけではなく、周辺諸国、島々と砂漠の国々まで含まれている。主の栄光はイスラエルだけに示されるのではなく、世界中に告げ知らされる。主が戦士として立ち上がられるとき、その鬨の声を聞くのは全世界である。この新たなる創造と解放に向かうときに促される賛美は13節に記されているが、これは出エジプト記15章にある、イスラルが葦の海を渡り終えた時の賛美の声に重なる。
 主がイスラエルの内に始められる業は全世界に告げられるものであり、かつてイスラルが体験したような解放の業であり、新しい出エジプト、新しい救いの体験である。捕らわれて将来の希望を失っていた民の中にこの業を行われる神が今私たちと共におられる。

2016/7/8(金) 担当 高谷清師  詩編22:7−12  賛美 新聖歌 373
 苦難の中に在って訴えるダビデに対して沈黙を守られる神に対しても、ダビデは神が先祖に対してあらわされた恵みの御業を数え、信仰を言い表した。そしてダビデは「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。」と訴える。そのようなダビデに対して人々は「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」と言う。イザヤは主について「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」(イザ 53:3-4)と述べている。祭司長たちや律法学者たちも長老たちと一緒になって十字架上のイエスに「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタ 27:42-43)と言って侮辱し、一緒に十字架につけられた強盗たちも同調した。このような中で神のご計画は成就し、栄光があらわされたのである。パウロは「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。」(フィリ2: 17)と述べている。神のご計画が成ること、神の栄光が顕されることこそ自らの喜びとする信仰に歩みたい。

2016/7/9(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 18:9-14  賛美 新聖歌 196
 ファリサイ派の人は、他の人々と比較して自分たちはより正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下していました。祈るために神殿に上った時、偶然徴税人と一緒になりました。ファリサイ人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈りました。一方、神のみ前に誇るべき何物も持たない徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈りました。この光景について主は「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われました。
 人は神の光に照らされない限り、自分の本当の姿を見ることが出来ないのです。ファリサイ人の祈りは自画自賛の独り言です。徴税人の祈りは真実と謙遜をもって神に近づく祈りです。神に受け入れられるのは徴税人のような祈りです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2016-01-17 21:32:48 (584 ヒット)
主日礼拝メッセージ

2016/1/18 (月) 担当 高谷清師  汽撻2:21-25 賛美 新聖歌 404
 23節においては「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」と述べられている。主イエスが十字架につかれたとき、通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしった。一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。主はののしり返さず、一緒に十字架につけられた犯罪人の一人の「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う祈りに「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えられた。聖書は「わたしが報復し、報いをする/彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る。」(申 32:35)と教えている。他者から被害を受けるとき、それに報復したくなるのは人間の常である。しかし主は他者から受ける被害に報復せず、彼らのために執り成し、父なる神に委ねられた。キリストに習う者となろう。

2016/1/19(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書24:1-13 賛美 新聖歌35
 24章から27章は諸外国に対する裁きの言葉の締めくくりになる。ダニエル書やヨハネの黙示録のような文書と同様、世の終わりの状況について語られているが、黙示文学(ダニエル書やヨハネの黙示録)のような様々な抽象的なイメージは使われていない。ここでは罪の結果として国々に起こる荒廃がはっきりと伝えられている。人間の文明社会を表している町は破壊され、「混乱の町」(24:10)と呼ばれる。まさに文明の崩壊であり、終焉である。
 罪を犯し続ける人々、町々が滅ぼされるという場面が創世記でのノアの洪水を思わせるような表現でイザヤによって再びこの場で語られている。当時のユダを取り巻く様々な国々が、それぞれの罪のままにふるまっていた。神を畏れない者に与えられる裁きは荒廃と混乱である。それ故に私たちは神のことばに立って立ち帰れと宣言し続けなければならない。

2016/1/20(水) 担当 高谷清師  汽撻2:21-25  賛美 新聖歌 270
24節には「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」と語られている。異邦人ピラトもイエスの内に罪を見出すことはできなかった。ピラトは、ユダヤ人たちがイエスを十字架につけるよう求めているのはねたみのためだとわかっていた。しかしピラトは自らの保身のため、イエスを十字架につける判決を下した。主は一切の弁明をせず、十字架についてくださった。ご自分の十字架はご自身の罪のためではなく、私たち全ての人の罪のためであり、御自分の血と命によって全ての人の罪を赦すことこそ、神のみ旨であり、ご計画であることを知っておられたからである。主の流してくださった血によって私たちは、罪に対して死んで、義によって生きるようにされ、いやされたのである。比類なき主の恵みを褒め讃えよう、感謝しょう。

2016/1/21(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書24:14-23 賛美 新聖歌429
 裁きの時の地の荒廃について語られてきた後で、ここからは主への賛美が始まる。14節の賛美は唐突に始まり驚くが、罪人に対する徹底的な裁きが行われる中において、主に従う人々は勝利と喜びの時を迎える17節〜20節で地に住む者たちの現状について再び言及されることによって両者の対照的な姿がさらに印象付けられる。世の終わりの時の裁きという全地に及ぶ荒廃はイザヤによると最後の破滅だけに終わるものではない。その裁きを通って最終的に主に従う者は、主が選ばれた場所で主が支配を確立されるのを見る。主の栄光が彼らに表されるのである。
 裁きは全世界を滅ぼして終わりを告げるためにあるのではなく、最後まで悔い改めない者達を神の主権によって裁き、新しい神の支配を来たらせるために行われるのである。希望に向かうステップである。裁きの後に主の栄光を拝する者でありたい。

16/1/22(金) 担当 高谷清師  詩編10:1-11  賛美 新聖歌 250
 作者は「貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられてその策略に陥ろうとしている」のを見て主に訴えている。神に逆らう者は自分の欲望を誇り、貪欲であり、主をたたえながら、侮っており、高慢で神を求めず何事も神を無視してたくらむ。彼の道はどのようなときにも力をもち、自分に反対する者に自分を誇示し「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで災いに遭うことはない」と心に思う。 口に呪い、詐欺、搾取を満たし、舌に災いと悪を隠している。彼らは茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ貧しい人を網に捕えて引いて行く。彼らの手に陥った人々は心に思う「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。小畑進氏は「貧しい者、悩む者の発する声でありながら、前篇が「国々」つまり外国、外敵の脅威に応じていたのに対して、本篇はむしろ国内、同胞の間に見られる不敬度な者の悪徳行為に応じている」(詩篇講録上P112−113いのちのことば社)と述べている。今日においても詩篇の時代と同じように、主をたたえながら侮り、諂いと偽りに生きる者が栄え、真実に生きようとする者を圧迫し陥れている。しかし主はすべてを見ておられる。

2016/1/23(土) 担当 高谷由紀子師 マタイ7:24-27 新聖歌316
 これは主が語られた山上の説教と呼ばれる箇所の一部分です。ここで主は私たちの人生の二種類の土台について、譬えを用いて教えておられます。その一つは砂です。この土台は雨が降り、川があふれ、風が吹くと崩れてしまうのです。一方、岩を土台としているなら、たとえ雨が降り、川があふれ、風が吹いても崩れ去ることはありません。
 私たちの生涯において岩を土台とするということは、み言葉を聞いて行うことだと言われます。砂を土台とするということはみ言葉を聞いてもそれを行うことなく忘れてしまい、その代わりに世のもの、すなわち健康、財産、権力、地位などを人生の基礎とすることです。これらはやがて崩れ去るのです。み言葉を聞いたなら、それを心に留めて思いめぐらし、実生活の中で実行していく生活を送りましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2015-04-20 00:48:48 (626 ヒット)
主日礼拝メッセージ

2015/4/20 (月) 担当 高谷清師  汽灰15:1-4  賛美 新聖歌 108
 パウロが語る福音の大切な内容の第二は「葬られたこと」である。これについた主は「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる(マタ 12:40)」と語っておられる。また、教会は使徒信条において「死にて葬られ」と、主の葬りに言及している。これは当時の異端、グノーシス派の「キリストの肉体は実在したものではなく、仮現的なものであった」と言う主張に抗するためであった。福音の大切な要素として「葬り」が語られたのは主の全き死を示すためであった。キリストの完全な死がなければ私たちの救いはない。今日においても主の全き死を否定する者があるかも知れない。しかし主は私たちの罪のために死に、葬られたのである。

2015/4/21(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下30: 17-27  賛美 新聖歌396
 祭の最中に問題が起こった。民の多数の者が身を清めていなかったにもかかわらず、いけにえを食べたのである。この時ヒゼキヤはとりなしの祈りをささげた。彼らの起こした問題は律法に違反する行為であった。つまり、直ちに罰せられて命を落としたとしても仕方ない状況であった。それにもかかわらず、神はヒゼキヤの赦しを求める祈りを聞かれた。民は癒されたのである。ここで「律法至上主義」が乗り越えられている。不注意にも定められた方法に反して祭を行ってしまった人々の行為を拒否するのではなく、その喜び祝う心を主は受け止めてくださった。
 決して形式を守り、正しい秩序ある礼拝をすることを否定するものではない。しかし、神が人とかかわられる方法は冷たい形式主義ではなく、神を喜び祝う人々を恵みによって赦し、交わりを持つことを優先するものである。神を慕い求めて歩むことの大切さを今一度考えたい。

2015/4/22(水) 担当 高谷清師 汽灰15:3−4  賛美 聖歌 273
 パウロが語る福音の大切な内容の第二は「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」である。ホセアは「二日の後、主は我々を生かし三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる(ホセ 6:2)」と預言している。またダビデは「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます(詩 16:10-11)」と詩っている。実に、キリストの復活は私たちの永遠の命であり喜びであり希望である。

2015/4/23(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下31:1-21  賛美 新聖歌179  
 ヒゼキヤの時代に過ぎ越しの祭が回復され、大きな喜びがあったが、改革はなおも続けられた。ヒゼキヤの時代にはさらにユダの町々で偶像が破壊された。この改革について注目すべきことは、ヒゼキヤ王自身が偶像を破壊したのではなく、すべてのイスラエル人がこれを行ったということである(31:1)。国が分裂する以前のように、北王国の民も含めて、人々が一つとなって神に仕え続けているのである。なぜこのようなことが可能であったのか。31章において詳細にヒゼキヤの改革について記され、その最後に伝えられているのは、ヒゼキヤが律法と戒めを守り、心を尽くして求めた結果、祭儀の回復を成し遂げたということである。
 神の御心を行おうと私たちも努力し、さまざまな備えをする。その際に最も大切なことは、心を尽くすこと、主を愛して行うことである。

2015/4/24(金) 担当 高谷清師  汽灰15:3−4  賛美 新聖歌 126
 この箇所において、キリストの死と復活についてカルヴァンは次のように述べている。「罪がキリストの死によってほろぼされたように、キリストの復活によって義がかちとられたのである。ところで、わたしたちは、キリストの死のうちに求めるべきことと、復活のうちに求めるべきこととがそれぞれどのようなことであるかを知るために、この区別に十分注意しなければならない。さらに、聖書の他の個所において、ただ死のことだけが述べられている場合でも、死の中には復活が含まれていることを知らなければならない。けれども、 (今ここでわたしたちの見るように)、死と復活がはっきり区別して挙げられているような場合には、すでに死の中にわたしたちの救いがはじまり、復活によってそれが完成するのである。(カルヴァン新約聖書注解璽灰螢鵐帆綾顳343新教出版社)」。またパウロは「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(フィリ 3:9-11)」と語っている。私たちの救いはキリストの復活によって完成されるのである。ここに復活を信じる信仰の重要性がある。

2015/4/25(土) 担当 高谷由紀子師 1テサロニケ 3:12-13  新聖歌369
 この言葉はパウロがテサロニケ教会の人々のために神様に祈った祈りです。まず心の弱い人が強い心の人になるようにと願いました。人の心は変わりやすく、誘惑に負けやすいものです。正しいことがいつもできる心の強い人になるように願いました。そして人に対して憎しみや悪意を持たない、純真な清く美しい心の持ち主になることを求めました。これらのことはすべて神様の御前にあって聖霊の助けによって得られるものです。クリスチャンの品性は祈りによって実を結ぶことができるものです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2015-02-02 00:16:01 (633 ヒット)
主日礼拝メッセージ

2015/2/2 (月) 担当 高谷清師 汽灰14:1-5  賛美 新聖歌 216
 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。(汽灰12:31a)と勧め、そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます(汽灰12:31b)と語ったパウロは、「愛を追い求めなさい」と語る。13章において語られたように愛は最も大いなるものである。そしてヨハネが「神は愛です(汽茱4:16)」と述べているように、愛を追い求めることは神を追い求めることである。神は無限のお方であるが故に、愛を追い求めることもまた無限である。それ故にパウロは「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです(ロマ13:8)」と述べている。主イエスも「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタ 22:37-40)と語っておられる。「愛を追い求めること」それはあらゆる局面で、永遠の課題である。日々、愛を追い求めて生きよう。

2015/2/3(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下21:2-7  賛美 新聖歌275  
 ヨシャファトの死後、その息子の一人であるヨラムが王となった。父とは対照的にヨラムの治世は最初から雲行きが怪しい。ヨラムは兄弟や高官など、能力を持つ者たちを恐れて彼らを殺すところから治世を始めている。それに続いて偶像礼拝をおこない、神に背き続けた北王国と同じように悪を行ったと報告されている。父ヨシャファトは神に忠実であったが、息子ヨラムは対照的である。不従順であり、罪の道を歩み、偶像礼拝を積極的に取り入れた。その理由として父の代に北王国の同盟のために結ばれたイスラエルの王家との婚姻関係が挙げられている。これは私たちに対しても、たとえ小さなことであっても信仰の躓きとなることを避け、取り除くように告げる警告でもある。
 ここでもう一つ印象的なことはヨラムの不従順と罪にもかかわらず、神はダビデとの契約を心に留められたがゆえに南王国を滅ぼそうとされなかったことである。人は不従順に陥るが、神は真実である。この真実な方を侮ることなく、またその真実に甘えることなく、私たちも日々聖霊に導かれて従順に歩みたい。

2015/2/4(水) 担当 高谷清師  汽灰14:1-5  賛美 新聖歌 38
 次いでパウロは霊的な賜物を熱心に求めるように勧める。そして預言の賜物と異言の賜物について語る。ここでは預言するための賜物を熱心に求めるようにと語る。何故なら、預言する者は、人に向かって語っているのであって、それは人を造り上げ、励まし、慰め、教会を造り上げるからである。預言するとは、信仰と聖霊によってみ言葉を解き明かすことである。ある種の霊的体験をもとに聖書を逸脱するものは預言ではない。この点において私たちは霊を識別する力を体得することが極めて大切である。正しい信仰に立ち、聖霊に満たされて御言葉を解き明かす力を主に求めよう。御言葉は、あなたがたの魂を救うことができる(ヤコ1:21b)からである。

2015/2/5(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下20:13-21:1  賛美 新聖歌303
 神に不従順で罪を犯したヨラムの治世は悲惨なものであった。周辺諸国が反乱をおこしてユダから独立し、人々は偶像礼拝に陥り、またヨラム王自身も預言者エリヤの言葉通り、内臓の病で悲惨な状態になり、死を迎えた。これらは偶然に彼が不運に見舞われたというわけではなく、彼が「先祖の神、主を捨てたから」(21:10)だと明言されている。さらにヨラムが病のために、人々から惜しまれることもなく死ぬことだけではなく、彼の死に際して葬りのために火は焚かれず、墓も王たちと共にはされなかったのである。神と共に歩んだ歴代の王たちとの歴然としたこの違いはなぜ起こったのだろうか。それは先祖の責任ではなく、ヨラム個人が神から離れ、罪の生活を選び取ったことの結果であった。
 私たちは社会人として人々と共に生活している。そこでは共存を求められることがある。しかし、そのことを口実に神から離れて罪を犯し続ける生活に陥らないよう、常に御言葉に照らして自分の歩みを吟味したい。

2015/2/6(金) 担当 高谷清師  汽灰14:1-5  賛美 新聖歌 409
 次いで異言を語ることについて見ていきたい。ある人々は、異言は預言に劣ると言うが、そうではない。確かにこの箇所においてパウロは「預言する者の方がまさっています」と述べているが、それには「教会を造り上げるためには」という言葉を添えているのである。「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです」と語り、異言を語る者は自分を造り上げると述べる。そしてパウロは「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します(汽灰 14: 18)」と言い、更に「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです(ロマ8:26)」と述べ、「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが」と述べているのである。私たちがどんなに言葉を弄しても、人間の言葉は限られており神の栄光を語りつくし、褒め称え尽すことはできない。御霊の与えてくださる言葉をもって神をたたえ、自らを造り上げていただきたい。

2015/2/7(土) 担当 高谷由紀子師 フィリピ2:3-4 新聖歌367
 日常生活の会話を注意して聞いていると「私の家は、私の主人は、私の子供は・・・」と自分のことに終始している人が多いことに気付きます。自分のことで頭の中がいっぱいで他人のことを思いやる余裕を失っている人が多いのです。しかし聖書は「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と教えています。そして他の人に目を向ける場合、「へりくだって互いに相手を自分よりもすぐれたものと考え」ることが大切です。どんな偉大なものを持っていても全知全能の神の前には無に等しい者です。神がそれを与えてくださったのはそれをもって神と人に仕えるためであり、神の栄光をあらわすためであって、自分自身を高くし、他人を見さげるためではありません。弱っている人、病んでいる人に真にへりくだった思いをもって寄り添う人になりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2014-07-13 22:54:17 (750 ヒット)
主日礼拝メッセージ

2014/7/14(月) 担当 高谷清師 汽灰8:7-13 賛美 聖歌 438
 知識のある信仰者は「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないこと」を知っている。しかし、この知識がだれにでもあるわけではない。キリスト者になっても、この知識の高みに到達していない人々は、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去ないために、偶像礼拝をしてしまっていると考え、それによって汚されるのである。パウロが「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです(ロマ 14:23)」と述べているとおりである。知識のある人々にとっては偶像に供えられた肉を食べることは何の影響もないが、知識のない人々は知識のある人々のそのような行いを見ることによって躓くのである。私たちは自分の強さによって弱い人々を躓かせてはならない。

2014/7/15(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上17:23-27 賛美 新聖歌343  
 ここでダビデは感謝の祈りを閉じる。ダビデは神の祝福を感謝すると同時に、祝福を受けるという確信を述べている。その祝福の理由は神から賜ったみことばであった。神の約束に基づいて御前に出て、そして祈っている。神の祝福を受けるのは過去に、あるいは現在ダビデが神のために良い行いをしたからではない。あるいはサムエル記にあるように将来、神が下さるかもしれない言葉によって保障される約束でもない。すでに主が言葉を下さり、約束を下さったがゆえの祝福なのである。この祈りのなかにダビデの神に対するゆるぎない信仰と平安が見られる。
 祝福は神から与えられる。そして神の祝福と恵みは人間の行為の対価として与えられるものではない。ただ神がすでに与えてくださっている約束の実現であり、神の憐れみである。祝福を受けるために私たちは神と取引する必要はないし、取引など出来るものではない。神を信じて従順に歩む私たちにはすでに神の祝福が確かに注がれている。その確信を持って平安の内に歩もう。

2014/7/16 (水) 担当 高谷清師 汽灰8:7-13 賛美 新聖歌 214
 パウロは「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と述べる。「知識ある人々」にとっては、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」のであるから、偶像に供えられた肉は、そうでない肉と同じである。従って偶像に供えられた肉を食べること―偶像の神殿で食事の席に着くこと―は全く自由である。しかし「知識のない人々」がそれを見るなら、彼らを偶像礼拝に誘うことになる、即ち彼らを罪に誘うことになるのである。それは愛による行いではない。キリスト者はキリストの贖いの恵みによって自由を与えられている。しかしその自由は自分の欲望によって行使されてはならず、愛によって行使されなければならない。

2014/7/17(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上18:1-17  賛美 新聖歌172  
 17章での祝福の約束に続いて18章ではダビデの戦勝記録が報告されている。ペリシテやモアブ、ハマト地方のツォバの王、アラム人に対する勝利が次々と語られ、18:6ではダビデが行く先々で常に勝利を与えられたと記されている。まさにダビデのこの勝利に次ぐ勝利は神の祝福の目に見えるしるしであり、神から来るものであった。確かに神は約束された祝福を実現されている。神は軽々しく口約束を与えて、それを反故になさるような方ではない。またこの18章では神の一方的な祝福だけではなく、この祝福を受けたダビデの誠実さについても語られている。ダビデは戦争に勝って得た戦利品や貢を自分の私腹を肥やすために使わなかった。彼はそれらを主のために聖別した。そして将来ソロモンが神殿を建てるために用いることになる。
 祝福は人間の行為の見返りとして受け取るものではない。神の約束と憐れみにより注がれる賜物である。それと同時に、祝福を受けることによって人はダビデのように自発的に神への感謝の応答へと導かれ、与えらたものを神にささげるのである。この神との関係は今日のクリスチャンにもあてはまる。受けた恵みを数えつつ、感謝の捧げものを携えて御前に出よう。

2014/7/18(金) 担当 高谷清師 汽灰8:7-13  賛美 新聖歌 238
 さらにパウロは「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」と述べる。社会にはいろいろな人々がいる。富んでいる人々、貧しい人々、社会的地位の高い人々、そうでない人々、健康な人々、病弱な人々、・・・ある人々は社会で優遇され、ある人々は冷遇される。教会においても表立った奉仕をする人々、信仰深そうにふるまう人々は優遇され、地道な人々は軽んじられる。それは人間の常である。しかし主は冷遇される人々、軽んじられる人々のためにも死んでくださったのである。ヤコブ書は「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか(ヤコ 2:1-5)」と述べている。肉の目によって人を判断しないようにしょう。

2014/7/19(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ15:1-10  新聖歌222
 主は失ったものが見つかったという出来事の二つのたとえを話しておられます。どちらでも印象に残るのは大切なものを失った持ち主が、その品を見つけ出した時に経験した大変な喜びです。この箇所を読むときに自然とこの持ち主と同じ気持ちになって読んでいます。これをクリスチャン生活に置き換えると、私たちは神様の目から失われている罪人が見いだされて救われたときに大きな喜びを経験することがあります。しかし注意深く読むと、7節と10節にあるように、これは罪人が救われたときの神様の大きな喜びについて語られているのです。
 私たちもかつては神様の目から見ると失われた大切な存在でした。しかし悔い改めて神様に立ち返ることによって神様の手の中に帰ってきたのです。そして私たちの救いは神様にとっても大きな喜びなのです。これほど神様に愛されていることを感謝しつつ、その神様の愛に応えていきましょう。


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