投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-04-23 00:08:11 (802 ヒット)
デボーションの友

 

2012/04/23(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 4:1-11 賛美 聖歌589
 ここで著者は「だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません」と語る。福音はわたしたちが救われるのは、わたしたちの行いによってではなく、神の恵みによることを解く。それを聞いた人々の内から「救いは神の恵みによって一方的に与えられるのであるから、わたしたちは何を行ってもよい、どのような罪を犯してもよい」と考える者や、救いは自分の行いに関係なく自動的に与えられると考える者が現れる。これに対し、わたしたちがこの安息にあずかるためには努力することが必要であることを語る。パウロもまた「すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります(ロマ 2:7-8)」と教えている。またほかの個所では「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい(ピリ 2: 12)」と勧めている。今日も全力を注いで励もう。


 

2012/4/24(火)担当 高谷満世師 サムエル記上17:12-40 賛美 聖歌498
 少年ダビデは兄たちが戦う戦場に来て、一人の大男ゴリアテの言葉を聞いて恐ろしさの余り震えあがってどうすることもできないでいるイスラエルを見た。そして、イスラエルの兵との対話の中でダビデは、全く無割礼のゴリアテを恐れていないと語る。ダビデはサウルの前に召しだされ、ゴリアテと一騎打ちの戦いをすることとなった。
 これは物事を理解しない、知恵の浅い少年の愚かな振る舞いだったのだろうか。もしダビデが毎日家畜を守ってきたという自らの力とキャリアだけを頼みにしてそのように考えているのなら、この上なく愚かな少年だっただろう。しかしダビデの確信はこれまで様々な獣から自分を守ってくださった真の神への信頼、信仰があった。
 無謀な振る舞いと信仰に裏付けられた行動はしばしば表面的には同じに見える。私たちは自分の能力に頼らず、神の力を信じて、頼って、そして今日もダビデのように信仰をもって一歩を踏み出したい、 


 

012/04/25 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:12 賛美 聖歌196
 「神の言葉は生きており、力を発揮し」と語られる。ステファノは「この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉(口語訳・生ける御言葉)を受け、わたしたちに伝えてくれたのです(使 7:38)」と語っている。またイザヤ書においては「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす(イザ 55:11)」と語られている。神の言葉は、生きておられる神ご自身の言葉であるゆえ、力があり、わたしたちの心の奥底まで極め、見分けることができる。それ故、わたしたちは人には偽ることができるとしても、神の前には偽ることはできない。更に神の言葉は自分が気付かない罪をも示し、気付かせてくださる。常に御言葉にとって自らを吟味し、御心にそう歩みをしてゆこう。 


 

2012/04/26(木)担当 高谷満世師 サムエル記上17:41-58 賛美 聖歌522
 今まさに一騎打ちの勝負をしようとする二人を見比べると、その差は歴然としていて、すべての人にとってゴリアテの勝利は間違いないものと見えた。ゴリアテもイスラエルから出て来たこの少年を見て侮っている(42節)。しかしダビデは揺るがない確信を持っていた。
 常識的に考えて歴然とした力の差があるとき、それは弱い立場の人にとっては恐れを引き起こす。しかし、神にとってはその力の差こそが、神の力と栄光を示すためのすばらしい舞台となる。人間の手には負えない不利な状況にあってこそ神の完全な勝利が示され、そのことを通してすべての人が神を認め、神の救いが示される。
 目の前にある状況を見て自分はだめだとあきらめているならば、私たちは信仰の目を失っているのである。あらゆる状況において勝利することができる神、そして御心に従って、また私たちの祈りと信仰に応えて勝利を表して下さる主を信じて、今日も宣言していこう。「この戦いは主のものだ」(47節)。 


 

2011/04/27(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 4: 13   賛美 聖歌553
 前節において神の言葉は、生きておられる神ご自身の言葉であるゆえ、力があり、わたしたちの心の奥底まで極め、見分けることができることを教えられた。本節において著者は「この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」と語り、更に9章において「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と述べている。またペトロは「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません(汽撻 4: 5)」と述べている。すべての人は、人の心の深みまでも見極めておられる神のみ前に立ち、自分自身のすべてについて申し開きをしなければならない時のあることを思い、人の目を適当にすり抜ける歩みではなく、心底から真実な歩みをしなければならない。 


 

2012/04/21(土)高谷由紀子師 ペトロの手紙1:23-25   賛美 聖歌322
 春になってあちらこちらで色鮮やかな美しい花が咲き誇っています。しかしこの美しさもしばしのもの、やがて萎れ、枯れてゆきます。この自然の移り変わりを見ながら、わたしは聖書の言葉に思いをよせています。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」わたしたちは罪と咎によって死んでいたものでしたが、キリストの尊い贖いの恵みによって「朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」。わたしたちはこの尊い、永遠に変わることのない神による命を与えられていることを感謝して日々前進しましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-04-15 22:44:23 (785 ヒット)
デボーションの友

 


2012/04/16(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 4:1-11 賛美 聖歌560

 この箇所で語られる「神の安息」について考えてみよう。「安息」は、後ろに向かって、創造の善き業が完了したときの神の「安息日の休み」を指し示す。また前に向かっては、「こうして天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ2:10-11)と記されているように、完成された贖いの業を指し示すのである。しかし「安息」は、始めと終わりに適用されるだけのものではない。安息は、今の時の只中におけるキリスト者のうちに与えられる、神の意志に与っていることへの静かな確信(4:3) でもある。クリスチャン生活に在って「安息」とは戦いのないことではない、戦いをやめることではない、戦いの真只中に在って、神にあることへの確信である。ステファノは迫害の中に在って感謝と喜びの内に殉教の死を遂げた。パウロとシラスは苦痛の中に在って神を賛美した。主は十字架を前にして「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな(ヨハ 14:27)」と語られた。神に対する、御言葉に対する確信こそが安息をもたらす。

 



 


2012/4/17(火)担当 高谷満世師 サムエル記上16:14-23 賛美 聖歌295

 神から捨てられた王サウルと、神によって密かに油注がれたダビデの出会いである。サウルが主に捨てられた後、主の霊が彼から離れ、災いもまた主によって与えられた。その中でサウルが竪琴の名手を探していた時に家臣の提案によりダビデが王宮へと連れてこられた。サウルはダビデを仕える者として召した。この出来事に関わるサウルや兵士の目からは他の人々が王に仕える者として選ばれるときと同じ過程に見えた。しかし実際には神がすでに選んでおられ、油注がれたダビデが召されていた。

 人の目には見えない部分でも神のご計画は前進している。人が自分で事を進めていると考える背後に確かに神は働いておられる。私たちも日々主の御手の中にあって導かれ、歩んでいることを覚え、今日も主のみこころがなるようにと祈りつつ歩もう。

 



 


012/04/18 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:1-2 賛美 聖歌458

 「彼ら」とは神の言葉を聞き、モーセに率いられてエジプトを出た人々である。彼らにもわたしたちにも福音―神の安息に入る道―が与えられていた。しかし彼らはそこに入ることができなかった。それは彼らに語られた福音が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためである。

  ルカは次のような出来事を伝えている。イエスが会堂長ヤイロの願いにこたえて彼の家に向かっておられた時、12年間病に苦しみ、医者に全財産を使い果たした婦人がイエスに信仰をもって触れた時、彼女の病は癒された。『イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ 8:45-48)』

 多くの人が福音を聞く。しかし御言葉が生きて働き、御業が成就されるのは御言葉が信仰によって受け止められる時だけである。

 



 


2012/04/19(木)担当 高谷満世師 サムエル記上17:1-11 賛美 聖歌490

 イスラエルは今戦闘状態にある。まさにペリシテ軍と向き合っている。その時、ペリシテ人の中から一人の屈強な兵士が進み出た。体格が立派であっただけではなく、頑丈な武具でしっかりと身を固め、さらに攻撃用の武器も手にしていた。イスラエルがどこから彼を攻めようとしても、攻める隙が見つけられないばかりか、この大男はいつでも攻撃する用意が整っていた。自らが有利だと知りながら、ゴリアテは自分と一騎打ちをするものは居ないのかと呼びかけた。これは単なる呼びかけではなく、ゴリアテ自身に対抗し得る兵士がイスラエルには居ないと確信したうえで投げかけた愚弄の言葉でもあった。そしてダビデが出てくる時の言葉により(37節)、ゴリアテがイスラエルの背後に居られる神をも愚弄していることが分かる。

 目の前に巨大な敵が現れ、脅しの言葉を投げつける時、私たちは思わず恐れ惑い、逃げたくなる。そのような時ふと自分の心を顧みるならば、神に頼ることを忘れ、自分の弱さを見て畏れ惑っている。サウルやイスラエルのように神を忘れるのではなく、逆境と恐れの中に居る時こそ、神を信頼して祈り、助け求めるものになりたい。

 



 


2011/04/20(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:6−11   賛美 聖歌621

 イスラエルの民が神の安息にあずかることに失敗したのは、彼らに告げ知らされた福音のことばが、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためであったと言われている。聖書に啓示された福音のことば―神の安息に入る道―とは、天地創造から新天新地に至る壮大な神の御計画である。人はその長大な時間の一駒を生きるのである。わたしたちは主イエスによるあがないの恵みの中に生かされている。しかし救いの完成の時、主の再臨の時はなお未来に属している。現実には「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」の支配下にある世にあって苦難の歩みを強いられている。「主の再臨は近い」と語られてから、人間の目から見るなら長い年月が経過した。このような状況下に生きる私たちが信仰の目をそらすなら「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか(競撻 3: 4)」という不信仰者のことばに心惹かれ、信仰の破船に陥る危機を招くのである。忍耐をもって堅く信仰に立とう。

 



 


2012/04/21(土)高谷由紀子師 マタイによる福音書13:8   賛美 聖歌322

 長引いた寒さも去り、春爛漫の好季節である。この時期はまたカボチャ、茄子、トマト、胡瓜、ピーマン等の夏野菜の種まき、植え付けの時でもある。人々は多くの収穫を夢見て種をまき、苗を植え、水をやり、雑草を取り除き肥料を施し害虫を駆除し・・・等々、労苦を惜しまない。主イエスは種まきの譬えの中で「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった(マタ 13:8)」と語られた。わたしたちも多くの収穫を期待して日々福音を伝え、御言葉の種をまきましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-04-08 23:51:48 (705 ヒット)
デボーションの友

 


2012/04/09(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:12-19  賛美 心の中でメロディを20

 著者はここで「あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい」と警告する。「信仰のない悪い心」とは不信仰である。信仰者が信仰を持ち続けるためには多くの戦いがある。信仰者が信仰をもち続けるための戦いについて主は種まきの譬え(マタイ13:1−23)において語っておられる。とりわけ、日本のような異教の国に住む信仰者にとっては、戦いは大きい。若い時はそれほど切実ではないとしても、家庭をもち、社会的責任(地域的・親族的)が増すにしたがってその戦いは増大していく。また信仰の先輩に対する躓き、等わたしたちを不信仰に陥らせようとする要素は枚挙にいとまがない。またイスラエルの荒野の旅路において不信仰に陥り、神に反抗した人々についても、渇き、食物等理由はあったであろう。しかしそれらをもって不信仰を正当化することはできないのである。堅く信仰にとどまろう。

 



 


2012/4/10(火)担当 高谷満世師 サムエル記上16:1-5前半 賛美589 聖歌

 サムエルはすでに主に退けられたサウルを惜しんでいた。しかし主はそこにとどまることを良しとされず、次の王に油を注ぐために出かけていくよう命じられた。これはサムエルにとっては気の進まない難題であった。このことによってサウルに命を狙われる危険性も感じていただろう。

 私たちは普段、主に仕えることの祝福に注目することを好む。聖書の中で主の僕たちが人々から受け入れられ、尊敬される姿に目が行く。しかしこの時のサムエルの状況は、時として主に仕えることは命がけであることを教えてくれる。主に従う中で、命の危険を感じるほどの状況において、それでも主に仕える献身を必要とすることもある。そのような奉仕においてすら神は私たちを守るために必要な知恵を与え、その奉仕をさせてくださる(2-3節)。

 困難な奉仕が求められることがあっても、主に信頼し、主に知恵を頂き、主の言葉を信じて歩もう。

 



 


2012/04/11 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:12-19 賛美 聖歌340

 続いて「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい」と勧められている。わたしたちは日々不信仰―罪との戦いを強いられている。また罪は、そして誘惑者―悪魔はしばしば光の天使に偽装して迫ってくる。それらから守られるために教会の交わりを絶やしてはならない。教会の交わりにおいてこそキリスト者は互いに祈り合い、教え合い、助け合い、励まし合って勝利し正しい道に歩むのである。著者は10章においても「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか(ヘブ 10:25)」と言っている。

 



 


2012/04/12(木)担当 高谷満世師 サムエル記上16:5後半-13 賛美 聖歌578

 サムエルはいよいよエッサイの息子たちと会い、その中から主に選ばれた者に油を注ぐ時が来た。長男エリアブはかつてのサウルのように(9:2)立派な姿であった。しかし神はエリアブと他の六人の兄弟を選ばれなかった。彼らの容姿は優れており、人の目には素晴らしいリーダーになる器として映ったが、神は人が見るのとは違った見方で見られる。かつてギデオンを選んだように、神は弱いものを選ばれる。また苦難の僕の姿が傷にまみれ、苦しみを受けて人の目には華やかでなかったように、外見上、人が選ぶのとは異なる基準で神の選びはなされる。サムエルも最初は姿の美しい兄を見て神の選びの器だと思った(6節)が、神はサムエルを導いてご自身が選ばれたダビデに油を注がれた。そしてその日からダビデには主の霊が激しく下り、主がともに居られることが示された。

 私たちはどうしても人の外面によってその人が主の働きにふさわしいか判断したくなる。それは他者に向けられることもあれば自分に向けられることもある。しかし神の選びは人の選びとは基準が違う。神との交わりの中で常に主の導きを求めよう。

 



 


2011/04/13(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:12-19   賛美 聖歌396

 「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです」と語っている。「キリストに連なる者」とは12:28で語られる「揺り動かされることのない御国」を受け継ぐ者のことである。そうなるためには「最初の確信を最後までしっかりと持ち続ける」ことが必要である。イスラエルの民は神の声を聞き、モーセに率いられて意気揚々とエジプトを出た。しかし試練の中で大多数の人々が不信仰に陥り、神に反抗し、約束の地に入ることができず、死骸を荒れ野にさらしたのである。福音を聞き、キリストを信じ、救いの恵みに与かった私たちにも、御国に入れられるまでの旅路には多くの試練が待っている。わたしたちは終りの日まで救いの確信をしっかりと持ち続け、御国を受け継ぐ者とされよう。

 



 


2012/04/14(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書8:40-48   賛美 聖歌617

 イエスが会堂長ヤイロの求めに応じてその家に向かわれる途上においての出来事が記されている。12年間にわたって病んでいた一人の婦人がいた。多くの医者にかかり、全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえず、失意の中にあった。その頃多くの人を癒されたイエスの噂を聞き、イエスに最後の望みをかけていた。そこにイエスが通りかかられたので、彼女は恐る恐るイエスの衣に触れた。すると直ちに癒された。主は恐れおののく彼女に向かって「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言われた。神の恵みは信じる者の上に豊かに現わされる。今日も信仰によって歩もう。



 


 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-04-01 22:38:37 (855 ヒット)
デボーションの友

 


2012/04/02(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 3: 3:7-11 賛美 聖歌196

 神の御子が統治しておられる今日の神の家について「確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」と語って、すべて御子を信じるわたしたちこそそれであることを明らかにした。モーセが忠実に仕えた神の家、イスラエルは約束を受け継ぐのに失敗したように、キリスト者もまたその危険性をはらんでいることを踏まえ、警告を与えようとし旧約聖書を引用している。御言葉を引用するに当たり「聖霊がこう言われるとおりです」と語る。著者は聖書の御言葉を聖霊が語られることば、神の言葉として語っている。パウロも「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です(競謄 3: 16)」と語っている。それ故、御言葉は信仰をもって聞き、受け入れ、従うことを求めるのである。今日も御言葉に従って歩もう。

 



 


2012/4/03(火)担当 高谷満世師 サムエル記上15:1-16 賛美 聖歌392

 サウルはアマレクとの戦いに臨む。これはサウルが過去の戦争とは異なる聖戦であった。イスラエルの過去の歴史においても、聖戦では神が敵を滅ぼし尽くされるのだから分捕り品を持ち帰ることは一切許されていなかった。もちろんサウルの兵達は命がけで戦ったのだから、分捕り品という見返りを求めたであろう。サウルは両者の間に立って神の命令よりも民の要求に応えた。サウル自身も上等な分捕り品を惜しんだのであろう。これは明らかに神に背く行為であった。そこにサムエルがやってきた。サムエルはすでにサウルが不従順であったことを神から告げられていた。サムエルがサウルと向き合い、話をした時、サウルは自分の罪にまったく気づいていなかった(23節)。直接預言者から罪を指摘されてもなお、自らの罪に気づかないほど、サウルの心は主から離れていた。目の前にある富に心を奪われていたのであろう。

 神に選ばれたという事実はサウルが生涯罪を犯さず、神に背かないということを保証するものではなかった。主の僕であっても常に心を富に奪われることなく、神に向けていかなければならない。今日も主を見上げて主に従おう。

 



 


2012/04/04 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:7-11 賛美 聖歌596

 御言葉は「心をかたくなにしてはならない」と勧める。「心をかたくなにする」と言う言葉は神に対する不従順に対して用いられる言葉である。紅海において神による奇跡的な御業を体験し、神をほめたたえたイスラエルであったが、シュルの荒れ野に向かってそこを旅立って三日間水を得ることができなかった。やっとラマに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。その時民はモーセに向かって「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。またシンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。その時民はモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言い「「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」言った。このように、人は偉大な神の御業を体験したとしても、試練に会う時、容易に心をかたくなにする。それは御怒りを引き起こす(新改訳)のである。私たちはそうであってはならない。偉大な信仰の先輩は「民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ(詩 62:9)」と語っている。試練の時にも主を見上げて勝利しょう。

 



 


2012/04/05(木)担当 高谷満世師 サムエル記上15:17-35 賛美 聖歌399

 サウルは滅ぼしつくすべき戦いにおいて神の命令に背いて戦利品を獲ようとした。そして最初にそのことをサムエルから指摘された時にはまったく自分のした行為が分かっていなかった(15節)。そしてサムエルとの対話の中で自分の罪に気づいたが、その後も自分の罪の言い訳に、兵士が戦利品を取ってきたと語る(21節)。自分は正しいけれども、自分の周りに居た兵士が罪を犯したのだと語る姿は、絶えず他人に責任を転嫁しようとする人間の姿を思わせる。そのようなサウルに対して、神がもはやともに居られないとサムエルは語った。

 罪を犯していながらまったく気付いていない愚かな姿、また自分の罪に気がついても責任を他の人に転嫁しようとする姿。今日に生きる私たちもサウルと同じような性質を持っているかもしれない。自ら気付かないうちに神からはなれることがないように、常に主の御言葉に導かれて歩みたい。また、罪に気がついたなら、他人に責任を押し付けるのではなく、まず神に打ち明け、悔い改める者となりたい。

 



 


2011/04/06(金) 担当高谷清師 マタイによる福音書27:45−56   賛美 聖歌158

 今日は主が苦難を受けてくださったことを記念する受難日である。今読み続けているヘブライ人への手紙を離れて主の死を記した記事に目を向けよう。「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」という文章を見て「神の御子が受けられた苦難のあまりのむごさに天が目をそむけた」と言う意味のことを語った人があった。御子の苦難のむごさと壮絶な死の中に、自らの罪の重大さと神の愛の偉大さを改めて思い知らされ、深い感謝に導かれるのである。心からの感謝をささげ、主の恵みの御業を褒めたたえよう。

 



 


2012/04/07(土)高谷清師 マタイによる福音書27:45−56   賛美 P&W1−53

主が十字架の上で息を引き取られた時「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」と記されている。「神殿の垂れ幕」とは聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕のことであろう。至聖所には大祭司が民の贖いのために年に一度だけ犠牲の動物の血を携えて入ることが許されていたのである。イエスの死によってその幕が裂けた事は、イエスの死を通して神に近づく道が開かれたことを示している。今や、私たちはイエス・キリストをとおして神に近付くことができるのである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-25 22:54:24 (870 ヒット)
デボーションの友

 


2012/03/26(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2 賛美 聖歌 511

 更に著者は「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」と述べる。モーセの忠実については「モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った(出 40:16)」、「わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている(民 12:7)」と記されている。主イエスについては「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に(黙 1:4-5)」と記されている。お遣わしになった神に忠実であられた御子に遣わされた者として、私たちもいかなる時にも御子に忠実であろう。

 



 


2012/3/27(火)担当 高谷満世師 サムエル記上13:15後半-14:23 賛美 聖歌487

 今やサウル王の陣営に残されていた兵はわずか600人であった。その上鍛冶屋はすべてペリシテの下にあったのでイスラエルは戦いのための武器すら十分に持っていなかった。この状況で、サウルの息子ヨナタンと、神に対して従順になりきれなかったサウルとの態度は対照的であった。

 ヨナタンは自ら従卒を連れてペリシテ人の先陣を襲った。この行動は一見無謀に見える。しかしヨナタンは神への信仰に立って行動した。ヨナタンは戦いにおいて最も大切なことは兵士の数ではなく、割礼の有無、すなわち神にささげられた者、神に従う者であるかどうかという点であると知っていた。またヨナタンは敵の言葉を通して神の導きを確認して進んでいった。一方サウルは最初は優柔不断であり、神の導きを求めかけたが途中で投げ出し、戦況が有利と見たら神の声を聞くこともなく飛び出していった。

 私たちは神に頼り、決断すべき時に正しい決断をしているだろうか。なすべき時に正しい決断をするその力は日々の祈りと神との交わりによって培われる。日々の祈りを大切にしよう。

 



 


2012/03/28 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:3-6 賛美 主をほめよ23(栄光、イエスにあれ)

 モーセもイエスも忠実であった。しかしモーセは仕える者として神と神の民に忠実であったのに対し、イエスは御子として、神の家の創造者として、また統治者として神と教会に忠実であられる。それ故にイエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしいかたである。

 聖書の中には偉大な信仰の指導者が記されている。モーセをはじめ、アブラハム、ヤコブ、ダビデ、ソロモン・・・・しかし彼らは神に召され、僕として神に仕えた人々である。しかしイエスは御子であり、神ご自身であり、その血潮の贖いによる神の家の創始者であり統治者である。私たちが栄光を帰すべきお方はイエスのみである。

 



 


2012/03/29(木)担当 高谷満世師 サムエル記上14:24-52 賛美 聖歌545

 ヨナタンの奇襲に始まる勝利の後でサウルは軽率に誓いを立てた。そのことを知らずに食べ物を口にしたのは皮肉にも神に従ってイスラエルに勝利をもたらしたヨナタンであった。ヨナタンは父の誓いについて聞いた時、あからさまに批判した。この中でサウルは主に祭壇を築き、信仰の形式において正しく行おうとした。さらにサウルは誓いを破った者がヨナタンであると判明した時に、定めに則って神がともに居てくださったがゆえに勝利を得ることができたヨナタンでさえ死刑に処すという決断をした。

 サウルは形式上は神に従おうとしていたのだろう。しかしその出発点が間違っており、また形を整えようとするあまり、真に神に従っていたヨナタンをさえ殺そうとする結果になってしまった。本当の意味で神に従うとはどういうことであろうか。宗教的な形を守ることが必ずしも完全であるとはいえないのではないだろうか。常に私たちの心が神の御心を求め、それを知り、従うことこそが求められているのである。

 



 


2011/03/30(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙3:3-6    賛美 聖歌539

 モーセが忠実に仕えた神の家族とはイスラエルの民であったなら、神の御子が統治しておられる今日の神の家族とは何であろうか。それは教会であり、教会を構成するすべての信徒たち、わたしたちこそ神の家なのである。著者はここで「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、」と条件を付けている。私たちを取り巻く状況は日々変化している。私たちの信仰は、動揺する現在的諸状況の彼方にあるものにしっかり繋ぎ止められていなければならない。もし見えるものだけを信じるなら、道を失い漂流することになる。パウロは「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである(競灰4:18)」と言っている。目に見えない神の約束にしっかりと立って信仰の歩みを全うしょう。

 



 


2012/03/31(土)担当 高谷由紀子師 マタ14:22-27 賛美 聖歌591

 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせられた。夜になり船は逆風のために波に悩まされていました。弟子たちが難渋しているのを知って、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。それを見た弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。主はすぐに彼らに話しかけ「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。

 主は弟子たちと行動を共にせず、離れたところにおられても、常に彼らの状態を知り、必要な時には手を差し伸べてくださるお方です。クリスチャン生活にも予期しない病気、災害、信仰の戦い、等予期しない困難に遭遇することがあります。しかし主はそれらのすべてを知り「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と手を差し伸べてくださるのです。それ故、常に主に信頼して日々進みましょう。


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