投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-06-17 22:52:09 (636 ヒット)
デボーションの友

 

2012/06/18(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:11-14 賛美 聖歌 605
 メルキゼデクの祭司職がアロンの祭司職に勝るものであり、キリストは神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたお方―完全な大祭司であると述べてきた著者は、ここで突然「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」と言って議論を中止する。その理由として「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」と述べる。「這えば立て、立てば歩めの親心」と言われているように、肉の子供は成長することを期待されているが、それは霊の子供も同じである。成長は自分の立っているところに満足しないで、上にあるものを求めることによって促進される。パウロは「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい(コロ 3:1-2)」と勧めている。
 


 

2012/6/19(火)担当 高谷満世師 サムエル記上25:14-35 賛美 聖歌485
 アビガイルは従者から夫ナバルの愚行について聞き、危機的状況を悟った。その時彼女はすぐさまダビデへの贈り物を整えて出かけていった。ダビデの下へ行く途上で非常に怒っているダビデに出会った時、臆することなくダビデと向き合い、知恵をもって語った。
 ダビデはナバルの財産を守ってきた自分の好意を無視して自分を不当に扱ったナバルに報復し、命を奪うことを正当な行為だと確信していた。それでも実際にダビデがナバルの血を流すならば、彼の手は愚か者の血で汚され、神がダビデに与えられる地位を汚すことになる。アビガイルは知恵をもってそこに訴えてダビデが怒りのままに行動することをとどめた。このことの背後に神ご自身が選ばれたダビデを守られるように働いておられたことを私たちは見ることができる。
 神は多くの人々を用いてご自分の選ばれた僕を常に守っていてくださる。常に主の守りの中に私たちも置かれていることを感謝し、今日も主に守られて歩もう。
 


 

2012/06/20 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:11-14 賛美 聖歌 589
 著者は成長することの必要について「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません」と語る。「義」とはキリストに対する信仰によって得られるものである。人間の判断する義・正しさはその時代環境や立場によって異なる。真の義は神によってのみ、明らかにされる。また「義の言葉を理解する」と言うのは、知識として義を理解しているだけではなく経験を通して義を判断する力を持つ事を意味している。パウロは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(ロマ 12:2)」と語っている。不断の霊的成長によって日々遭遇すれ事例に対し、神に喜ばれ、また完全なことが何であるか、即ち何が義であるかを判断しそれに進むものとされることが必要である。
 


 

2012/06/21(木)担当 高谷満世師 サムエル記上25:36-44 賛美 聖歌553
 ダビデは愚か者ナバルの態度に怒り、自分の手でナバルを殺そうとした。しかし神の哀れみによってダビデはそのような罪を犯すことから守られた。ここではこのダビデと対照的なナバルの姿が描かれている。ナバルは多くの富を持ったことを誇っていたのであろう、王の宴会にも似た宴会を催していた(36節)。しかしこれは神の目に良しとされることではなかった。妻アビガイルがダビデの下に急いで駆けつけ、知恵を持ってダビデに対面してダビデの報復を思いとどまらせたことを知らされたナバルはその場で主の裁きを受けて意識をなくしてわずか十日の後に死んだ。
 私たちは自らの成功のゆえに傲慢になり、ナバルのように愚かな罪を犯していないだろうか。自分の目には全てが成功し、誰よりもえらくなったように見えても、神の前に謙遜であることを忘れて愚かに振舞うならば、神はその不信仰と不従順を見て裁かれる。神からいただいた祝福に感謝をささげ、与えられたものを神に喜ばれる方法で用いられるよう、主に頼りつつ今日も歩もう。
 


 

2011/06/22(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 5:11-14  賛美 聖歌 588
 また「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」と述べられている。「一人前の大人」とは善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された人である。善悪を見分ける感覚は個々の単独の出来事から生じるのでなく、突然の霊的な高揚から生じるのでもない。不断の訓練によって得られるのである。著者は12:11において「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」と述べ、パウロも「俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさいテモ4:7)」と述べている。常に霊的に自らを鍛え、一人前の大人となり、神に役立つ者となろう。
 


 

2012/06/23(土)高谷由紀子師マタイによる福音書21:6−7 賛美 聖歌296
 何事も無条件に従うということは難しいものです。わたしたちは自分で理解したうえで納得できれば従おうとします。これは世の事柄に対しては正しいことです。しかしイエス様の言葉、神の言葉に対しては無条件に従うことが求められます。なぜなら、神は私たちを超えて偉大なお方であり、わたしたちは神をすべて理解できるものではないからです。神の言葉に無条件で従う時、そこに神のみ業が行われるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-06-11 00:13:37 (653 ヒット)
デボーションの友

 

2012/06/11(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:7-10 賛美511
 ここで著者は「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と述べる。キリストは初めから神に対し従順の道を歩まれた。その結果身に受けた苦難により,地上の人間の生活条件の下で具体的に神に対する従順は何かを学ばれたのである。イザヤ書には「主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。(イザ 50:5-6)」と記されている。御子は神のことばに熱心に聞き従おうとするため、嘲りと虐待に身をさらすことになるが、従順の道と不可分のものとして受け入れられたのである。
 サタンの支配する世に生きるキリスト者は、信仰に忠実に留まり、公然と信仰を告白して歩もうとするなら、多くの試みと苦難身に受けるのである。信仰告白を曖昧にするか、信仰を放棄するなら、試みや苦難から逃れ得るのである。しかし御言葉は「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう(黙2:10c)」と言っている。
 


 

2012/6/12(火)担当 高谷満世師 サムエル記上25:1 賛美 聖歌514
 サムエルの死が短く報告されている。サムエルが死んだ時、全イスラエルが集まった。サムエルの働きはイスラエル全体に及ぶ働きであった。この働きを可能にしたその力は、サムエルと神との強い関係から出るものであった。
 サムエルは不妊の女であった母ハンナの祈りによって与えられた子であった(サム上2)。祭司エリのもとで育てられたサムエルは幼い頃から主に従い、主のみ声を聞いた。神からの語りかけをまだ神の声であると認識できないほど幼い時から聞き、そして神に服従することを経験を通して学んだ。このときからサムエルは、神に仕える中ではたとえ自分の師であるエリにさえも厳しい言葉を伝えなければならないことがあり、その中での神への服従を求められることを知った。そしてサムエルは生涯、人を恐れることなく、神の導きを語り続けた。
 このように神に仕えたサムエルもその生涯を終えて主のもとへと召された。私たちも地上で命を与えられている間、あらゆることにおいて、あらゆる時に、主を畏れて主に従おう。
 


 

2012/06/13 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:7-10 賛美 聖歌447
 キリストは「多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられた」と言われている。キリストは御子であり、神であられた。従って完全なお方であられたのに「完全な者となられた」と言う言葉はどう言う意味であろうか。それは、民の救い主、また大祭司として完全な者となられたということである。御子はゲッセマネの祈りにおいて、神に対する完全な従順によって神の御計画―十字架と死―を受け入れられ、それによって救いの御業は完全に成就されたのである。このことによってキリストは民の救い主、また大祭司として完全な者となられたのである。従って救われるためにはイエスキリストに対する信仰だけで十分であって、なにものをもそれに加える必要はなく、加えてはならない。もちろん、クリスチャン生活にはより高い品性・倫理観等が求められるし、キリスト者はそれを求めていくべきであるが、救われるための条件ではない。
 


 

2012/06/14(木)担当 高谷満世師 サムエル記上25:2-13 賛美 聖歌501
 ダビデは逃亡中にマオンという土地に来た。そこにはナバルという裕福な男が住んでいた。ダビデがそこに来たのは羊の毛を刈る時期で大きな収穫祭であり、当時の習慣ではそれは近隣の貧しい者たちにもその恵を分かち合う時であった。また、当時はダビデの一行のように辺りをうろついている集団は土地に住む人々から略奪するのが常であったが、ダビデはそのようなことをせず、むしろナバルの財産を守っていた。それゆえに、ダビデがナバルから贈り物を期待したことは理に適っていた。ダビデはナバルに使者を送り、祝福の言葉を述べたにもかかわらず、ナバルは彼を侮辱した。それはダビデが示した親切を踏みにじる行為であり、「ダビデとは何者だ」と嘲ることによって神の選びをも拒否することであった。このナバルの行為は彼がその名のとおり(ナバルという言葉は「愚か」という意味)愚かであったことを示した。そして彼は怒りを受けて死ぬこととなった。
 神の御業を認めず、選びを認めず、祝福を分かち合うこともせず、人が示してくれた好意に対して感謝することもできない傲慢と愚かさを示す者にはそれにふさわしい報いが与えられる。愚かな者にならず、霊的な目を開かれ、神の恵みを認め、感謝する者になろう。
 


 

2011/06/15(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙  5:7-10  賛美 聖歌425
 主イエスが代価を払い成就された救いは永遠である。その救いは,ただ一度完成され,決して繰り返されず,永久に有効なキリストの犠牲の上に成り立っているのである。またその救いは、御自分に従順であるすべての人々―キリストを救い主と信じ告白するすべての人々―に対して与えられるのであって、人種、国籍、男女等による差別はない。贖い主の従順により獲得された救いは贖われる者の従順により受け取られるべきである。わたしたちは常に主に対して従順な者であるべきである。
 


 

2012/06/16(土)高谷由紀子師ルカによる福音書5:1-11 賛美 聖歌500
 主は群衆に話し終わった時、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして彼らがそのとおりにするとおびただしい数の魚がかかり、網が破れそうになった(4:5-6)。
 漁師たちは夜を徹して働いたが何もとれずに疲労困憊し、絶望していた。その時、主は沖へ漕ぎ出して網をおろして漁をするように言われた。弟子達は漁の専門家であり、この道については知り尽くしていた。主イエスといえども無経験な漁のことではどうにもならないと思ったことだろう。しかしペテロは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って主のことばどおりに実行した。その結果は大漁となった。
 人間の限られた知恵や力量や経験などに頼ることなく、ひたすら主の言葉に信頼して従うことは本当に幸いなことである。主の言葉は不可能を可能にする。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-06-03 23:06:29 (660 ヒット)
デボーションの友

 

2012/06/04(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:5-6 賛美 聖歌545
 大祭司職について述べてきた著者はここから大祭司キリストについて述べる。アロンと同じように、キリストも大祭司職を自分で得たのではなく、神によって任じられたのであることを証しするため、『主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。(詩 2:7)」』を引用する。主もまた『わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っているヨハ 8:54)』と述べておられる。このように私たちの主イエスは神によって任じられた、それ故、完全に神に受け入れられる大祭司である。従ってイエスの御名によって神のもとに行くものは決して拒まれることがないのである。
 


 

2012/6/05(火)担当 高谷満世師 サムエル記上23:15-28 賛美 聖歌 604
 ダビデの苦しい逃亡は続いている。サウルの手から逃れて山地に身を隠しているダビデは心身ともに疲れきっていただろう。ダビデが必死で逃れようとしても、サウルの側についてダビデの居場所をサウルに密告するものも居た。「神に従っているのになぜこのようなことが起こるのか」、「本当は私は神に背いているのだろうか」とダビデの信仰が揺らいでも無理からぬ状況であった。その時に神はダビデの友、ヨナタンを送ってくださり、ダビデを励まされた。そのような、時を得た励ましに支えられて神を信じ続けたダビデは、絶体絶命の状況でサウルの手から命を救われた。
 時としてあまりに苦しい状況の中で自分の信仰に疑いを持つことがある。「神を信じて従がっているならこんな苦境に陥ることはないだろう。自分の信仰は間違っているのではないだろうか」そんな疑問が沸き起こってくることがある。そんな時に神は私たちを励ましてくださる。

 
2012/06/06 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 5: 5-6 賛美 聖歌 555
 続いて著者は詩篇『主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(わたしの正しい王)。」(詩 110:4)』を引用してキリストの祭司職のアロンのそれに対する優越性について述べる。メルキゼデクについては7章において詳しく記されているので、その箇所で学ぶことにしたいと思う。ただ、アロンの祭司職は継承されていかなければならなかったが、キリストは永遠のお方であるのでその祭司職もまた永遠である。またキリストは完全なお方であるゆえ、その祭司職もまた完全である。
 このようにわたしたちの主は永遠にして完全なお方である故、わたしたちが神のみ前に出るためにこのお方以外の仲介者を一切必要としないのである。わたしたちに罪の赦しを得させるために十字架に架かり、血を流し、命を捨て、甦り、天に昇り、神の右の御座につき、今も私たちのために執り成していてくださるキリストによって神の前に出ることができるのである。
 


 

2012/06/07(木)担当 高谷満世師 サムエル記上24:1-23 賛美 聖歌 511
 ダビデにとっては千載一遇のチャンスである。サウルはダビデが潜んでいるとも知らず、ダビデが居る洞窟に入ってきて用を足していた。ダビデの至近距離でまったく無防備になっていた。神に従っているダビデは、神に背いているサウルの命を狙うことができた。また、ダビデ自身が直接サウルに対して報復する絶好の機会でもあった。サウルに不当に命を狙われて逃亡する生活から解放されるチャンスであった。しかし、ダビデは自らサウルに手を下すことを選ばなかった。ここでもダビデはサウルへの報復を神の手にゆだねた。
 ようやくこれまでの不当な苦しみに終止符を打てる。ましてその機会は神が与えてくださった御心にかなうものであると考え得る状況でもダビデは神の油注ぎの重みを知り、神の主権を知っていたがゆえに自らの思いのままに行動することを慎んだ。私たちもこのような状況におかれたとしても神の主権を認め、主に喜ばれる歩みをする者になりたい。
 


 

2011/06/08(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:7-10 賛美 聖歌295
 メルキゼデクについて記した著者はここで突如、イエスの地上生涯へわたしたちの目を向けさせる。メルキゼデクは我々に謎に包まれた部分の多い神秘的人物という印象を抱かせる。しかしキリストは現実にわたしたちと同じ地上を歩み、わたしたちの体験する同じ苦難を味わってくださったお方であることを確認させている。
 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と言う言葉はゲッセマネの祈りを想起させる。主は汗が血の滴るように地面に落ちるほどに熱心に、切実に祈られた。そして著者は「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と述べている。実際主が願われた杯―十字架は主の前からは取り除かれなかった。しかし著者は「聞き入れられました」と述べるのである。それは主の神に対する敬虔によって神の御心を受容されたこと―「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との祈りへと導かれたことである。
 わたしたちの祈りが聞き入れられるというのは、私たちの願いがその通り実現することを意味するものではない。より深い神の御心が示され、わたしたちがその御心の受容へと導かれることである。
 


 

2012/06/09(土)高谷由紀子師ルカによる福音書10:25-28 賛美聖歌393
 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と律法の専門家が質問した。これに対して主は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」と答えられました。主イエスは全世界の人々を愛して、その救いのために十字架についてくださいました。この主が隣人を自分のように愛しなさいと教えられました。私たちが会ったこともない世界中の人々ではなく、あなたのそばにいる人を愛しなさいと言われました。私たちは家族、近隣の人々、学校、職場と多くの人と関わって生活していますが、それらすべての人々が隣人です。遠くにいる人々ではなく、自分のそばにいる身近な人を愛することが求められています。
 理想論ではなく、実際に助けを必要としている身近な人を、口先だけではなく行いをもって愛する人になりたいものです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-05-21 06:52:07 (639 ヒット)
デボーションの友

 

2012/05/21(月) 担当高谷清師 マタイによる福音書 16:13-28 賛美 聖歌577
 来週の主日は聖霊降臨日である。今週はそのことについて御言葉に耳を傾けていきたい。一行がフィリポ・カイサリア地方に行った時主は弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤ」「預言者の一人だ」と言われている巷の声を紹介した。主が「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねられるとシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。この答えに関し主は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われた。それに続いて主が御自分の受難を予告されると、ペトロは主をいさめ始め「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言った。これに対し主は「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱責された。
主は受難を前にして「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる(ヨハ 16: 13a)」と語っておられる。
ペトロをはじめ弟子たちは三年有余にわたって主と寝食を共にし、親しく教えを受けた。しかし完全な福音理解には至っていない。私たちは聖霊によってのみ、真の福音を理解することができるのである。
 


 

2012/5/22(火)担当 高谷満世師 サムエル記上22:1-5 賛美 聖歌502
 ダビデは逃亡生活を続けていく。彼がサウルから逃れている間、いつも彼の居場所は人々に知られていた。彼のもとに多くの人々が集まった。そしてダビデは彼らを指導して兵士として育てていく中で自らのリーダーシップが磨かれ、将来の王としての働きのために整えられた。その間もダビデとその家族は常に危険にさらされていた。ダビデは両親をルツの時代から親戚であったモアブの地に逃れさせた。彼自身は安全な場所を求めて常に移動しながらの生活であった。この逃亡生活においても神は彼とともにあり、ダビデに従う人々を与え、具体的に逃れるべき場所をも示された。しかし神が避難所として選ばれたところは意外にもユダの地であった。普通に考えればどうして命を狙うサウルの近くへ敢えて移動しなければならないのか。それでもダビデは神に従った。ゴリアテと戦った時に表明したあらゆる獣や危険の中から救ってくださった神への信仰があってこそ従えたのだろう。また神のもとにこそ助けがあると知っていたからこそ従ったのであろう。
 私たちは苦難や危険から逃れようとする時、そこから遠ざかろうとするあまり、神からも遠く離れてしまうことがある。私たちの休みは神のもとにこそある。神のもとにとどまり、主とともに歩もう。
 


 

2012/05/23 (水) 担当 高谷清師 使徒言行録 1:3-11 賛美 主をほめよ13
 甦られた主は弟子たちにご自身を現わし食事を共にしておられた時、弟子たちに命じて「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」と語られた。そして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われた。宣教の命令と、その働きのためには聖霊の注ぎを待つべきことを命じられたのである。
 主を証し、御言葉を伝えることはキリスト者の最大の使命である。しかしそれは肉の力によっては成し遂げることはできない。聖霊に働きによってのみ可能となる。それ故私たちは朝ごとに主の御前に膝まづき、御霊に満たされることが必須である。
 


 

2012/05/24(木)担当 高谷満世師 サムエル記上22:6-23 賛美 聖歌118
 ダビデとは対照的なサウルの姿である。サウルはダビデの居場所を逐一報告しない者すべてが裏切り者であるとする。神に選ばれた者として多くの人々に囲まれていたが、サウル自身の疑いと怒りによってこの人々を失っていく。次第に人が集まってくるダビデとは正反対である。また、神に仕える祭司を殺していく。こうしてサウルは祭司を失ったが、一方ダビデはサウルから逃れた祭司を得る(20節)。これらの出来事を通して、かつて神に選ばれ、神を求めていたサウルが、今では神に背くことによって神に見捨てられた人の姿を晒していることが分かる。
 神に選ばれたからといって、その選びは私たちの心が神から一生離れないことを保証するものではない。神の選びに答えて日々神に応答し、神に従う決断をしよう。
 


 

2011/05/25(金) 担当高谷清師 使徒言行録 2:1-4  賛美 聖歌565
 主の命令に従って都にとどまり集まっていた時、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。主が約束された聖霊が降り、弟子たちが聖霊に満たされたのである。この光景を目にした人々のある者たちは驚き怪しんだ。ある者たちは「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲った。この時ペトロは十一人と共に立ちあがって、真理を証した。弟子たちは聖霊降臨を体験することによって恐れから解放された。ユダヤ人を恐れて市内の片隅で息をひそめていた弟子たちは今や、公衆の面前に立って主を証しするものとなった。彼らは真理の福音を理解した。彼らの語る言葉には力と御業が伴ったのである。力ある宣教、力あるクリスチャン生活は聖霊に満たされることによってのみ可能となる。
 


 

2012/05/26(土)高谷由紀子師 ヨハネ9:1-3 賛美 主をほめよ23
 主イエスの一行は通りすがりに、生まれつき目の見えない人に出会いました。弟子たちはこの人を見て主に「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。それに対して主は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになりました。
 人生には予期せぬ災害に遭ったり病に冒されたり、突然の試練に遭遇することがしばしばあります。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていたヨブも度重なる災難に遭遇しました。また多くの迫害に遭いながら世界を駆け巡って福音を宣べ伝えていたパウロも「わたしの身に一つのとげが与えられました(競灰12:7)」と言っています。これらのことを見る時、私たちを襲う様々な試練の一つ一つが神の経綸の内にあることが分かります。ですから私たちは試練の時にも神を信じ、神により頼んで歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-05-14 00:44:57 (671 ヒット)
デボーションの友

 

2012/05/14(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 4:14-16 賛美 聖歌614
 神と格闘した人としてヨブをあげることができる。ヨブは「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった(ヨブ 1:1-3)」と言われている。特に「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」点については神が「わたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている(ヨブ 1:8)」と語っておられるほどである。このヨブに対し、次々と災いが降りかかる。息子娘はすべて死に、財産は奪われ、健康も損なう。ひどい皮膚病に罹り、激しい苦しみの中に陥る。彼を慰めるために訪れた友人たちもあまりの状態に驚き、これはヨブの罪の結果であるとし、ヨブを攻め立てる。しかしヨブは自分の義を主張し、神に何故と問いかける。ついに神はヨブに応えられるのである。
 わたしたちの人生には、神を信じ誠実に歩む人にも理不尽な試みが降りかかる。わたしたちはその意味を理解し得ず、「神よ、何故ですか」と問いかけたくなる。このような時、人は信仰を失いそうになる。しかしそのような時にも、神に問い続け神に訴え続けることこそ勝利の道である。
 


 

2012/5/15(火)担当 高谷満世師 サムエル記上21:1-10 賛美 聖歌484
 ヨナタンの協力によってサウルの前から無事に逃れたダビデの長い逃亡生活が始まった。急な旅立ちであったためダビデは当然まったく武装していない、丸腰の状態であった。逃亡のために彼は一時避難所を必要とし、まずノブの祭司アヒメレクのもとを訪れた。最初ダビデに疑いを持った祭司もダビデの言葉を信じて彼にゴリアテの剣と聖別されたパンとを与えた。本来このパンは祭司のものとなるはずであった。しかしアヒメレクは規定に反してまで、ダビデが身を清めていることを確認した上で彼に与えた。
 ダビデは自分の意思に反してサウルの前から逃れ、逃亡生活を送るようになった。これではダビデの選びが疑われるような状況であろう。しかし神はこの逃亡生活のはじめに主に仕える祭司を通してダビデを養い、必要な武器を与えてくださった。このような状況においてなお、主はお選びになった者に対して真実である。
 


 

2012/05/16 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16・創世記18:16−33 賛美 聖歌256
 「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と語られている言葉は祈りの勧めである、しかも、整った祈り、型にはまったよそよそしい祈りではなく、人間に差し迫って必要なものを求める率直で真心からの叫びをもって天の門を攻めたてるような祈りの勧めであると記した。本日開いた創世記18:16−33 には、ソドムとゴモラを非常に重い罪のゆえに滅ぼそうとされる主の御前で、ソドムとゴモラのために執り成すアブラハムの祈りが記されている。彼は「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」と叫ぶ。主は「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」と答えられる。更にアブラハムは正しいものが五十人に五人足りないなら、四十人なら、三十人なら、二十人なら、十人しかいないなら、・・・主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」。アブラハムの執成しは自らの信仰をかけたものであった。
 


 

2012/05/17(木)担当 高谷満世師 サムエル記上21:11-16 賛美 聖歌539
 ダビデにとってはまったく不本意な形で始まった逃亡生活であった。彼には選択の余地がなかった。彼はこのような不誠実な行動をとることを余儀なくされたのである。それでも彼は神から離れなかった。ダビデはまさに「死の蔭の谷」に居たが、その逃亡生活の最初の経験において彼は主がダビデに助けと守りを与え、必要を満たしてくださることを学んだ。詩編34編はこの時に歌われたと表題に記されているが、ダビデは「どんな時にも主をたたえる」と宣言している。自分にとっては不本意な、過酷な状況においてなお、神がともに居てくださることを彼は実感したのである。
 私たちもダビデと同じように、厳しい状況においても揺らぐことのない堅い信仰を持ちたい。
 


 

2011/05/18(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16 ・ロマ 9:1-5  賛美 聖歌605
 執り成しの祈りを考える時パウロの「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています(ロマ 9:3)」と言う言葉を忘れることはできない。パウロは「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました(使 22: 3)」「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした(ピリ 3:5-6)」と語っているように神に対して熱心であり、イスラエルのエリート、未来を嘱望される存在であった。しかしキリストとの劇的な出会いによって救われ、福音の伝道者となった。そのため、ユダヤ人から命を狙われる存在となっていたのである。その同胞のための執成しは命をかけたものであった。執り成しとは、宣教とはこのようなものである。
 


 

2012/05/19(土)高谷由紀子師 ヨハネ1:40−42 賛美 聖歌487
 アンデレはイエスの十二弟子の一人であった。彼はまず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。また彼は大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年をイエスのもとに連れてきた。更に彼は面会を求めるギリシャ人をイエスに紹介した。このようにアンデレは日々の生活の中で身近にいる人々をイエスのもとに導いている。彼は華やかで目立つ行動ではないが、謙遜に、忠実に福音を証し伝えた人であった。もしアンデレが兄弟ペトロをイエスのもとに連れてこなかったなら、福音書に記された素晴らしい主の業を見ることはできなかったかもしれない。わたしたちは先ず身近な人々に福音を伝えることから始めよう。


 

 


« 1 ... 64 65 66 (67) 68 69 70 »

メインメニュー

Smart phone

私たちの教会は…

聖書信仰に立つ正統的
キリスト教会です
日本アッセンブリーズ
・オブ・ゴッド教団
関西教区
http://ag-kansai.com/

ログイン

ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

毎日の聖書のことば(デボーション)

アクセスカウンタ

今日 : 335335335
昨日 : 387387387
総計 : 150984150984150984150984150984150984