投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-12-09 22:14:05 (677 ヒット)
デボーションの友

 

2012/12/10(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:4-7  賛美 聖歌612
 ノアの生きた時代は「神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた(創 6:12)」と言われているように、神の前に堕落し、不法に満ちていた。それ故、神はこれを滅ぼそうと決心された。しかし神はそのような中にあっても「神に従う無垢な人(創 6:9)」を見出された。神は彼にご自身が行おうとされる裁き(洪水)とその裁きによる滅亡からの救いの道(箱舟)を示された。この神のお告げを受けたノアは「恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造」ったのである。箱舟の建造は海岸ではなく内陸であった。洪水は人類の未体験の事柄であった。箱舟の建造は百年を超える大事業であったが、洪水の始まりの時期は明確にされてはいなかった。多くの人々の嘲笑と妨害に遭遇しなければならなかった。そのような中にあってもノアは「恐れかしこみながら」御言葉に従ったのである。ノアにそのように行わせたのは信仰である。
 今日の私たちにも主の再臨が約束されている。それに対しては、ペトロの時代から始まって今日まで多くの嘲笑と批判と妨害が寄せられている。しかし私たちは堅く信仰に立つことが必要である。
 


 

2012/12/11 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下21:1-14 賛美 聖歌508
 かつてサウルがギブオン人を殺害して血を流した責任が問われている。ギブオン人は飢饉がおさまるためにサウルの家から7人の血を求めている。サウルの氏族の連帯責任を問うている。そして7人が差し出されたことによって主がこの国の祈りに答えてくださり、問題は解決された。私たちはことの次第に驚きと嫌悪を感じる。ダビデにとってもサウルの子孫7人を差し出すことは決して本意でも喜ばしいことでもなかっただろう。それでも状況の中で、そうしなければならなかった。広い視点から見るならば、結局のところはこの出来事を通して、ダビデ家の王座を脅かしうるサウルの子らが除かれ、またギブオン人との対立の種も除かれた。
 時として信仰において受け入れがたいが、それでも止められないような事態が起こることがある。どうしてこのような事態を神は許しておられるのかと疑問を持つこともある。しかし私たちの理解を超える状況を通して、神が道を開かれることもある。神のご計画のすべてを知り尽くすことはできないが、与えられた情況において常に主の導きを信じていきたい。
 


 

2012/12/12 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:4-7 賛美 聖歌444
 ノアは神様から罪と裁きについての神の御計画を啓示された時、そのような兆候は何一つみることはできなかったが、それを信じた。そして箱船の建造に着手し、人々に裁きと救いの道について語った。「また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです(競撻2:5)」と語られているとおりである。しかし誰一人ノアのことばに耳を傾けず、信じなかった。そして神のことばは現実となり、不信仰な人々は滅んだ。ノアは「その信仰によって世界を罪に定め」たのである。主イエスは「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない(ヨハ 15:22)」と語っておられる。またパウロは「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか(競灰2:15-16)」と述べている。
 


 

2012/12/13(木)担当 高谷満世師 サムエル記下21:15-22 賛美 聖歌511
 ペリシテとの戦いに関する出来事が四つ記されている。ペリシテはダビデの少年時代からのイスラエルの敵であり、ダビデ自身も戦い続けてきた相手であった。ダビデは疲れており、アビシャイの助けを借りてようやく敵を倒せるという状態であった。ダビデが高齢になっていたのであろう(21:17)。
 ダビデは年を重ねて、若いときに出来たことが出来なくなりつつあった。しかし、神は高齢ゆえにダビデを捨てられることはなかった。ダビデが年老いてからも、神はダビデを選ばれたその選びに忠実であられた。そしてダビデの周囲にいる兵士たちを用いて、勝利を与えられ、主の恵みがそこにあることを示された。
 主は選ばれた人々を、その能力が衰えたからといって理由なく見捨てるようなお方ではない。選ばれた者が忠実に神に仕え、従うときに、神もまたご自身の真実を示される。
 


 

2011/12/14(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:4-7  賛美 聖歌243
 更に著者はノアについて「信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」と述べている。創世記においては「これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ(創 6:9)」と記されている。そして神はこのノアに語られるのである。それは神がノアを義と認められておられたことを意味する。それはノアの神に対する信仰によるのであった。人間の生活は、たとえどんなに聖いものであっても、もし神の基準で吟味されることになったら,罪の赦し無くしては義ではありえない。パウロは「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです(ロマ 9:30-32)」と語っている。わたしたちが義と認められるのは信仰による以外にはないのである。
 


 

2012/12/15(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 1:26−38 賛美 聖歌118
 神様から遣わされた天使ガブリエルが、ナザレというガリラヤの町に住む、ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめマリアのところに来て「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げました。マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んでいました。すると天使は「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」と告げました。驚いたマリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と言うと天使は、それは聖霊によることを伝え、マリアは信仰によって「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答え、天使のことばを受け入れ、神のみ業は成就したのです。婚約中のおとめがみごもることは死をも覚悟しなければならない出来事でした。しかし彼女はそれが聖霊によることであり、神の御心であることを知って信仰によって受け入れたのです。わたしたちも常に信仰によって神に仕える者になりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-12-02 22:01:18 (662 ヒット)
デボーションの友

 

2012/12/03(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:4-7  賛美 聖歌516
 著者は「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました」と語る。創世記によるとカインとアベルは共に主に献げ物を献げた。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。そのため、『カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」』と語られた。アベルの献げ物は信仰によってなされた故神に目を留められ、それによってアベルは正しい者であることが証明されたのである。信仰がなければ、神に喜ばれることはできないのである。常に信仰によって歩もう。
 


 

2012/12/04 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下19:9後半-19:44 賛美 聖歌475
 アブサロムの反乱に起因した戦いは終わった。ダビデは王として再びエルサレムへ迎えられることとなった。ダビデがエルサレムに向かう途上で多くの人々と出会ったが、その出会いにおけるエピソードが記されている。この帰途におけるダビデの姿は、エルサレムから逃げ延びる夜の姿とはまったく異なり、再び力を取り戻している。ダビデを出迎えるためにいち早く駆けつけたシムイなど、ここでダビデを出迎える人々はそれぞれにそうしなければならない事情があり、政治的な画策も働いて、ダビデに対する忠誠を表している。力を取り戻したダビデはそれぞれの場面において人々を受け入れつつも、なお知恵を用いて政治的な決断を行う。いかにもダビデがすべてのことを決断し、王として状況を支配しているようだ。しかし、すべてが順調に見える中で、新たな対立が見え始めている。ユダとイスラエルの対立である。
 目に見える状況が良くても悪くても、常に私たちは神に目を向けつつ、おかれている状況の中で正しく状況を見極める目を与えていただき、へりくだって主の知恵を求め、忠実に神に従わなければならない。
 


 

2012/12/05 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:4-7 賛美 聖歌456
 著者が旧約における偉大な信仰者としてアベルに続いて取り上げるのはエノクである。エノクについて旧約聖書は「エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。(創  5: 23-24)」と記している。そして著者は「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」と述べる。信仰から離れて、神を喜ばすことはできない。神と共に歩むことはできない。その信仰とは、神の存在を信ずるだけではなく、忍耐と確信に満たされて、神を求める者に約束された報いを待ち望むことを含むのである。旧約の聖徒たちに比べるとはるかに素晴らしい恵の時代に生かされている我々であるが、救いの完成はなお、将来を待たなければならない。その間、不信仰に陥ることのないように、一心に主を見上げ、信仰に堅く立って主とともに歩もう。
 


 

2012/12/06(木)担当 高谷満世師 サムエル記下20:1-26 賛美 聖歌578 
 ひとつの反乱が治められた。しかし息つく暇もなく、再び反乱が起こる。ビクリの息子シェバの反乱がここでは報告されている。それに対してまたダビデは兵を送り、血を流さねばならなかった。シェバを追跡するために送られたヨアブとアビシャイは途上で「ヨアブを愛する者、ダビデに味方する者はヨアブに続け。」と再度兵士を集めた。シェバを追跡するためには一つの町を滅ぼさなければならないような状況であった。しかし、一人の知恵のある女を用いてこの町を破壊から守られた。
 この女性は名も知られない存在であった。しかし彼女は「イスラエルの中で平和を望む忠実な者」であった。名もない存在、社会で名士と認識されることのない存在、それでも心から平和を望み、神に忠実である人を主は用いて一つの町を守られた。私たちも社会で賞賛されるような働きを成し遂げることは出来ない小さな存在であるかもしれない。しかし主を愛し、忠実に歩むとき、主が私たちを用いてくださる。

 
2011/12/07(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:4-7  賛美 聖歌539
 旧約における偉大な信仰者として続いて取り上げるのはノアである。当時、地は堕落し、不法に満ちていた。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であって、神と共に歩んでいた。そこで神はノアに「「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。(創 6:13)」「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい(14a)」「見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。(創 6:17-18)」と語られた。洪水による地の滅亡は人々にとって信じ難い事柄であった。しかしノアは信仰によって従い、命を保った。
 私たちが神の御心を求める時、私たちの常識では信じ難いような事柄に出会うことがある。しかしそれが神の御心であるとの確信を与えられたなら、信仰をもって従う者となりたい。世の常識をもって神のみ旨を無にしてはならない。


 

2012/11/3(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 17:11−19 賛美 聖歌461
 イエスが朝早く神殿の境内で教えておられるところに律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と言った。イエスは黙っておられたが、彼らがしつこく問い続けるので「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。その時イエスはこの女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われた。
律法は罪に対して死をもって報いる。しかしイエスは赦しを宣言される。それはイエスが罪人を愛しご自身を犠牲としてささげられたからである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-11-25 23:11:14 (644 ヒット)
デボーションの友

 

2012/11/26(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:1-3  賛美 聖歌539
 「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」と述べた著者は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と語る。神は聖書によって多くの約束を与えておられる。旧約の聖徒たちの生きた時代にはこれらの約束は成就されてはいなかった。しかし彼らは神に対する信仰によって神の約束を確信し、それによってその成就を確認したのである。信仰は迫害と困難の時代を生きる彼らの内に希望をもたらした。パウロは「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです(ロマ 8:24-25)」と述べている。
 主の贖いの約束が成就し、恵みの時代に生かされている私たちに、もなお成就を待たなければならない約束が残されている。それは、私たちが堅く信仰に立つ時、私たちの希望である。それ故、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励もう。
 


 

2012/11/27 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下18:19-19:9 賛美 聖歌582
 戦いにおいて反乱者、アブサロムが死んだ。ダビデ王はその報告を受けた。ダビデにとってアブサロムは愛する息子であった。ダビデは父親としてこの愛する息子の死を悼んだ。感情としては当然であろう。しかしアブサロムは、理由はどうあれ、反乱を起こして父を殺そうとした。その行為は赦されるものではなかった。当然、王としてダビデはこれを赦すべきではなかった。またアブサロムの罪に対する罰として死は応分である。ダビデはアブサロムの父であると同時に神から選ばれてイスラエルを神の導きに従って治める王であった。それゆえ、反乱を起こして罪を犯したアブサロムを決して情に流されて赦してはならなかった。それにもかかわらず、知らせを受けたときのダビデは何が義であるかを考慮せず、ただ息子の死を嘆いた。
 愛情を注いでいる者が罪を犯したとき、その情のゆえにその罪を正しく裁くことが出来ない、あるいは難しいことは誰もが経験するだろう。しかし、神の目に正しいことは人間の情によって変えられるものではない。
 


 

2012/11/28 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:1-3 賛美 聖歌450
 著者は「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」と語る。そして4節から38節で神に認められた信仰の偉人達について語っている。その中で「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません(ヘブ 11:6a)」と語っている。またパウロは『わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです(ロマ 1:16-17)』と語っている。さらにハバククは「神に従う人は信仰によって生きる(ハバ 2:4b)」と語っている。旧約、新約を通して、信仰は私たちに救いをもたらし、私たちを生かし、神に喜ばれるものとするのであって、信仰無くしては人は生きることができないのである。しっかりと御言葉に立ち、信仰によって歩もう。
 


 

2012/11/29(木)担当 高谷満世師 サムエル記下18:19-19:9 賛美 聖歌582
 ダビデにとって、反逆者とは言え愛する息子アブサロムの死は大きな悲しみであった。ダビデはその報告を受けたときに王としての責任や立場も省みず、アブサロムを呼びながら嘆き悲しんだ(19:1)。それは、命をかけて国を守るために戦い、罪に対する裁きとしてアブサロムの命を奪った兵たちを放ったらかして、さらには彼らの行いを非難するようにも受け止められるほどであった。王がこのように嘆き続けるならば、どれほど王を信頼し、尊敬している兵でさえも王から心が離れてしまうような嘆きであった。父としての悲しみのあまり、王としての責任を忘れるほどの状態であった。
 この王国の危機に際して、神は憐れみ深くもヨアブを用いてくださった。ヨアブの王への言葉、叱責はまさに民の不満を代弁するものであった。そしてヨアブの言葉をとおしてダビデは大きな間違いから守られたのである。
 神に忠実な僕であっても、いつも完璧ではいられない。失敗や間違いや罪を犯しそうになる。そのようなときにも憐れみ深い神は人を送り、助けを与えて僕を正しい道に導いてくださる。私たちも常に主の声に耳を傾けつつ正しい道を進ませていただこう。
 


 

2011/11/30(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:1-3  賛美 聖歌195
 天地宇宙、生命の起源と生成は人類の大きな関心事であり、興味の的である。多くの推論がなされてきたが、すべてが仮説の域を出ない。天地宇宙、生命の起源を目に見えるものに限って解明しょうとするならそれは不可能である。聖書は冒頭において「初めに、神は天地を創造された(創 1:1)」と述べる。神の特別な、創造的な行為を受容することは、信仰によってのみ可能となる。信仰の眼を開く時、目に見える世界は、目に見えるものから作り出されたのでなく,神の力によって存在に呼び出されたことを知るのである。信仰目を開く時、神が私たちに備えていてくださる恵と祝福の素晴らしさを知ることができるのである。
 


 

2012/11/24(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 15:8−10 賛美 聖歌422
 一枚の銀貨をなくした女はそれを見つけるまで念を入れて家中を探した。それは一日の労働の対価として得る額であり、彼女にとって非常に貴重なものであった。見つけ出した時の喜びは非常に大きく、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言って喜びを分かち合わずには居られないほどであった。これと同じように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがあると主は言われた。一人の人が救われることは地上においてはもちろん、天においても大きな喜びである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-11-18 22:47:38 (632 ヒット)
デボーションの友

 

2012/11/19(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:37-39  賛美 聖歌 622
 著者はハバ 2:3を引用して「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」と述べる。ハバ2:3は異邦人の圧迫のもとにあったイスラエルのためにハバククが主に求めた祈り対する答えとして主から与えられた御言葉である。この手紙が書かれた時代にもキリスト者は迫害のもとにあった。主は弟子たちに「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハ 16: 33)」と語られた。勝利者の再臨の約束は迫害の時代を生きるキリスト者の希望であり、彼らは一日千秋の思いでその成就を待ち望んでいた。今の世に生きる私たちにとってもそれは希望であり切なる願いである。しかし主の約束から2000年余りを経た今日、未だ成就していない。しかしそれは神の御計画に在って遅れることはないのである。
 


 

2012/11/20 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下17:24-29 賛美 聖歌588
 ダビデはヨルダン東岸にある堅固な防備を備えた町、マナハイムにいる。フシャイの助言のゆえにダビデは安全な場所へ逃れて、迫りくる戦いのために戦略を練ることが出来た。この戦いは、ダビデにとっては愛する息子の反乱から強いられて戦うものであり、もちろん失意の中にあっただろう。それでも、ダビデの周囲には彼を慕い、支える人々がいる。この支持者たちが携えてきた物資にはダビデへの配慮と親愛の気持ちが見える。
 息子たちの相次ぐ罪と反乱に、ダビデの心も乱れ苦しんでいただろう。しかしそのさなかにおいて、神はダビデのために知恵をもって使える僕を備え、また遠くへ逃げた先においても援助を惜しまない人々を備えられた。これはもちろんダビデが完璧に主に従っていたからではなかった。
 神は真実である。選ばれた人を支え、また見捨てることなく助けを与えられる。私たちが孤独なときにも、主はダビデとともに居られたように私たちとも共にいてくださる。
 


 

2012/11/21 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:37-39 賛美 聖歌514
 「わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」と言われている。「もしひるむようなことがあれば」と言う個所を口語訳聖書は「もし信仰を捨てるなら」と訳している。ペトロは「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか(競撻3:3-4)」と言っている。終りの時には信仰を捨て嘲る者が現れると言っているのである。それは神の御心に適うことではない。わたしたちは御言葉にしっかりと目をとめ、主がおいでくださる日まで主の御心に適う歩みをしょう。
 


 

2012/11/22(木)担当 高谷満世師 サムエル記下17:1-23 賛美 聖歌582
 ダビデはフシャイの機転によって得たわずかな時間を有効に使って戦いに備えた。彼が数々の戦いを経験した老練の将であったがゆえに出来たことである。しかしやはり完璧な人間ではなかった。戦いに出て行くヨアブ、アビシャイ、イタイに対して「若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ。」(18:5)と語っている。ここには父親としてのダビデの弱みが見える。それを見抜いていたヨアブはダビデの言葉に従わなかった。これはヨアブがアブサロムに対して個人的に恨みを持っていたからではなく、将軍としての見識に基づいて彼を放免すれば再び国を危機に陥れることを予期したからである。アブサロムに止めを刺したのは彼自身ではなく、十人の兵士たちであった。アカンのときのように共同体の手で処刑が執行された。
 ダビデは優れた王であり、神の僕であった。完全ではなかったが罪を犯したら悔い改めて主に従おうと努力した。神はダビデの弱さを知りながらも赦し、受け入れ、選びについて忠実であられた。しかし、ダビデが間違った願いを持っていたときには神の良しとされることをなされた。神は人間の操り人形になる方ではないことを覚えつつ、選ばれた私たちは今日も主の御心を求め、主の業に励もう。
 


 

2011/11/23(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:37-39 賛美 聖歌 236
 「わたしの正しい者は信仰によって生きる」と言うハバクク書の御言葉を引用しつつ「ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」と述べる。甦られた主イエスもまた「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける(マコ 16: 16)」と教えられた。信仰は私たちにいのちと希望を与えるものである。わたしたちは目の前に広がる現実に目を奪われて信仰を捨て去り、滅びる者になってはならない。神の約束に目を注ぎ、望みをもって信じきる者となろう。
 


 

2012/11/24(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書 2:13−17 賛美 聖歌462
 イエスは通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。この招きに応えてレビはイエスに従った。ある日レビはイエスさま一行を招いて食事の席をもった。そこにはイエスと其の弟子たちとともに、レビの同僚であった徴税人や罪人も席についていた。これを見たファリサイ派の律法学者は、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。
 世の「正しい人々」は自分の正しさを示すために「罪人」との交わりを絶とうとする。しかし主は罪人を招いて悔い改めさせ、義とするために来てくださった。イエスに来る人はすべて彼によって義とされるのである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-11-11 22:28:17 (641 ヒット)
デボーションの友

 

2012/11/12(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙  10:30-31  賛美 聖歌 635
 著者は申命記32:35−36を引用して自身が発した警告が大げさな話ではなく正当なものであることを明らかにする。申命記32:35の御言葉はモーセを通して語られた主ご自身のものである。裁きを行われるのは全知全能の主ご自身であるため、東電OL殺人事件のような誤りはない。そして主は「主はその民を裁かれる」のである。この御言葉は二つの側面を持つ。主に選ばれた民を圧迫し続ける敵に対して主が裁きを行い、主の民を解放してくださる裁きとともに、主に選ばれ、ご自身の民とされ、律法を与えられ、その愛に入れられながら、反抗し続ける者に対する裁きである。アモス書において主は「地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する(アモ 3:2)」と語っておられる。キリストの贖いの恵みによって神の民とされた私たちにも、主は私たちを迫害し続ける人々を裁き、彼らから守ってくださるとともに、真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続ける者に対して裁きを行われるのである。心からの愛と感謝と畏れをもって歩もう。
 


 

2012/11/13 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下16:15-23 賛美451 
 アブサロムは反乱を起こしてダビデからエルサレムを奪い、アヒトフェルとともに入城した。そこには真実にはダビデに従いつつもアブサロムの元に残ってダビデのために働くよう命じられたフシャイもともにいた。フシャイはなおアブサロムの信頼を得るために演説をしなければならない状況にあったが、それでもついにアブサロムに受け入れられた。アヒトフェルの言葉は当時信頼されていた(16:23)。アブサロムに対して、父の側女たちを自分のものにするよう進言した。かつてダビデもサウルの側女たちを同様に扱ったが(12:8)、アブサロムは父の側女を自分のものにすることは、かつてルベンがのろいを受けたように、赦されることではなかった。アブサロムはイスラエルの慣例に従っただけだったかもしれないが、事実上、神の法に背いた。
 ダビデの王座を継ぐにふさわしいものはアブサロムでもなかった。今まさにアブサロムがエルサレムに入り、国を掌握しようとしているように人々の目に映る状況の只中にあって、聖書はアブサロムの信仰を通して、神の選びを伝えている。
 


 

2012/11/14 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:30-31 主をほめよ28
 著者は「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです」と述べる。パウロはアテネで御言葉を述べ伝えた時、「皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。(使 17:28-29)」と述べている。神の前に誠実に歩む人々も、主を侮り故意に罪を犯し続ける人々も共に「神の中に生き、動き、存在」しているのであって、神の御手の届かないところに逃避することはできないのである。そしてこの神は「生ける神」である。ご自身の語られたことを、御心に従って確実に行われるお方である。それ故、速やかに罪を離れ、御言葉に生きよう。
 


 

2012/11/15(木)担当 高谷満世師 サムエル記下17:1-23 賛美484
 アヒトフェルが当時イスラエルでは信頼されており、心からアブサロムを支えていた彼の提案が即座に取り上げられるかに見えた。しかしここでアブサロムはフシャイの提案にも耳を傾ける。フシャイは言葉巧みにアヒトフェルの提案よりも自らの提言に人の心をひきつけていく。アブサロムの突然の反乱から続く、混乱した状況の中で、ダビデがエルサレムに残した人々を通して、事態は秘密裏にダビデに有利な方向へと動いていく。危うく、伝令として残した祭司の息子たちが見つかりそうになるが、そこでも彼らは守られた。
 ダビデとアブサロム、どちらが人間として優れ、どちらが王としてふさわしく、どちらが罪を犯さずに歩んだのか。二人を比べるならば、どちらも決して完璧に神の前に歩めたわけではなかった。しかし、この出来事の渦中において、確かに神の選ばれた器が守られ、神の御心が実現していくことを見る。御心が今日もなるように。祈りつつ歩もう。
 


 

2011/11/16(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:32-36  賛美 こころ僑横
 初代教会のキリスト者たちは迫害の中におかれていた。そのような中でも主に選ばれた人たちは、その迫害を自分の上に招くものであることを知りながら、福音を受け入れ、信仰を告白し、キリスト者としての歩みを踏み出していった。パウロは自分自身が教会の迫害者でありながら、劇的な出会いによってキリストを知り、福音を受け入れ、信仰を告白し、キリスト者としての歩みを踏み出し、それによって迫害を受けながら主に従った。その迫害は、あざけられ、苦しめられて、見せ物にされ、財産を奪われ、命を危険にさらすものであった。しかし彼らは喜んで耐え忍んだのである。自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っていたからである。著者はここで「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」と語る。
 今の時代にあってもキリスト者としての歩みには様々な困難が伴う。しかし私たちは素晴らしい御国の約束を与えられているのである。それ故、忍耐をもって主に従い尽くそう。
 


 

2012/11/17(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 18:9−14 賛美 聖歌256
 神のみ前に自分を罪人と感ずることはなかなか至難である。自分を、他人よりも偉く立派だと奢り高ぶる者はこのファリサイ人の如く、神によって義とされることはできない。この徴税人のように、神の前にへりくだって罪を認め、神の憐れみを求める時始めて神によって義とされるのである。


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