投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-02-03 23:01:47 (786 ヒット)
デボーションの友

 

2013/2/4(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 31 賛美 聖歌514
 主に導かれ、イスラエルを率いて約束の地に入ったヨシュアは、行く手にたちはだかる城壁を備えた堅固な町エリコを探るために斥候を送った。斥候たちは遊女ラハブの家に入り、そこに泊った。エリコの王は追っ手を遣わしたが、ラハブは斥候たちを隠し、追っ手から守った。ラハブは神がイスラエルに約束されたことは確実なことと信じており、イスラエルがエリコに入る日、自分と一族の命を救うよう求めたのである。それによってエリコは滅ぼされたが、ラハブとその一族は死を免れた。彼女の信仰が彼女と一族を救ったのである。
 


 

2013/2/5(火)担当 高谷満世師 サムエル記下23:8-17 賛美 聖歌478 
 23章の後半にはダビデに仕えた兵士達の中の勇士たちの名が列挙されている。30人の頭のうちの3人について、彼らの勇敢な行動が記録されている。戦いの真っ只中にあってダビデがおそらく何気なく、井戸の水が飲みたいともらしたであろう一言を聞いて、三人の者は主人のために、敵軍を恐れることなく、その陣営を突っ切って水を持ち帰った。ダビデは彼らが自分に忠実に仕え、自分を愛し、尊敬して、命の危険をも顧みずに王のために水を汲んできたことを喜んだ。しかし、同時に彼らの命がけの忠誠心を見たときに、それを当然自分が受けるべきものであるとは考えなかった。ダビデはその水を受け取ったときに、主に祈り、その三人の勇者たちの命をかけた水を自分が飲むのではなく、主に謙遜と恐れをもって捧げた。
 この出来事の中に、ダビデの謙遜と人々への愛を見る。神に用いられる器は神の前での自分の姿を知っている。それゆえへりくだることが出来る。また神から愛を受けていることを知っているがゆえに、目下の者に対しても愛と尊敬をもって接することが出来る。
 


 

013/2/6 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 31 賛美 聖歌571
 前節まで著者はイスラエルの宗教史にその名を刻み、民から尊敬を集める人々の信仰について語って来た。しかしここに取り上げたラハブは異邦人女性、それも遊女である。このことは神に受け入れられるのは民族、社会的立場の上下、身分の貴賤貧富等によらず、ただ信仰によることをあらわしている。これは今日、私たちは、自分が教職だから、教会役員だから、教会やキリスト教団体において指導的立場にあるから、神に受け入れられると考えてはならないことをあらわしている。主は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。(ルカ 18: 11)」と祈るファリサイ人と、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』(ルカ 18: 13)」と祈る徴税人について、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ 18: 14)」と教えておられる。主に受け入れられるのは、へりくだって唯信仰によって神の前に近づく人である。
 


 

2013/1/31(木)担当 高谷満世師 サムエル記下23:18-38 賛美 聖歌495
 引き続きダビデに仕えた勇士達の名が記されている。神に選ばれ、祝福され、王国を確立したダビデは、決して一人でその働きを成し遂げたのではなかった。ダビデの周りには優れた兵士が与えられ、共に戦った。もちろんこれだけの勇士がダビデに仕えたのは、ダビデ自身が神に従う、素晴らしい人であったからであろう。この兵士達のリストがそれを物語っている。しかし、興味深いことに、この名簿はヘト人ウリヤの名前をもって閉じられている。ウリヤの名が最後におかれることによって、これほど多くの勇士達が仕えたダビデ王を理想化するのを阻んでいる。
 確かにダビデは優れた器であった。王としての才覚があった。しかし、ダビデも完璧な人ではなかった。神の前に罪を犯したのである。そしてその罪を認め、悔い改め、主に赦されて用いられた器であった。
 私達の周りに素晴らしい働きをして主に用いられている人々がたくさん居られる。その人々の謙遜な姿勢を見て主は用いておられる。私たちもその信仰から学びたい。それと同時に、用いられる器を理想化、神格化することがないように、いつも主に目を向けよう。
 


 

2013/2/8(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:32-34  賛美 聖歌456
 ギデオンについては士師6:11−8:35に詳しく記されている。ギデオンの時代、「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された(士 6:1)」と記されている。このミディアン人の手からご自分の民を解放するために主に召され、立てられたのがギデオンであった。ギデオンが主に『「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」(士 6:15)』と言っているように、彼は勇者ではなかった。しかし主は『「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」(士 6:16)』と語られ、ギデオンはその御言葉を信仰によって受け止め、立ちあがった。そして信仰に立ち、主の言葉に導かれつつ進み、勝利を収めた。わたしたちが困難に遭遇する時、御前にあって祈り、主の御言葉を与えられたならしっかりと信仰に立って進もう。勝利はあなたのものである。しかし、今日、主の明確な御言葉を得ないまま「信仰だ」と言って浮足だつものがあるが、それは確固たる基盤の上に立つ信仰ではない。十分な確信が与えられるまでは御前にひざまづき、留まるべきであることを忘れてはならない。
 


 

2013/2/9(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書1:14-15 賛美 聖歌520

 シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネはイエスに召され、弟子として仕えていた。主はシモンとアンデレの家に行かれた。「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」と記されている。この記事を読む時、主に従う者に対して主はあわれみと恵みをもって導いてくださることが分かります。パウロが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使 16: 31)と言っている言葉の確かなことが分かります。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-01-27 23:32:27 (645 ヒット)
デボーションの友

 

2013/1/28(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:28 賛美 聖歌460
 著者は「信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました」と述べる。神の民イスラエルがエジプトで奴隷であった時、民はその苦役の故に叫び声をあげ、その叫びは神に届いた。そのため神はご自分の民を解放するためモーセを遣わされた。モーセはエジプト王ファラオを訪れ、イスラエル人を去らせるよう伝えるが、ファラオは聞き入れない。そのため神はエジプトに様々な災いを下される。災いに襲われた時ファラオはイスラエルの解放を約束するが、災いが終わると約束を反故にしてイスラエルを去らせない。このようなことを幾度か繰り返し、最後の災いが宣言される。それは「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ(出 11:4-5)」と言うものであった。しかし主はモーセにイスラエル人はその日夕暮に犠牲の動物を屠り、その血を二本の柱と鴨居に塗るように命じられた。モーセはそのことをイスラエルの会衆に伝え、人びとはそのように行った。主がそのことを行われた時、エジプトでは死者の出ない家はなかったが、イスラエル人の家では死者は出なかったのである。それはモーセの信仰によるのである。
 


 

2013/1/29(火)担当 高谷満世師 サムエル記下23:1-7 賛美 聖歌597
 ダビデの最後の言葉としての詩が記されている。この詩においてまず強調されているのは、主の霊のはたらきである。主の霊がダビデのうちに語り、主の言葉が舌の上にある。
 「主の霊」の働きについて読むとき、私たちは霊的に恍惚状態になることを思い浮かべるかもしれない。しかしここでは、主の霊は言葉に関わる。ダビデは詩という形で神の言葉を受け取り、伝えた。ダビデは主の霊の担い手であった。その表現の賜物も主から与えられ、また表現された内容についても神の力が働いていた。ダビデはそのことをこの最後の言葉ではっきりと語っている。
 主の民とされている私達は、主が賜物を与え、主の働きを委ねてくださった存在として、主の霊の力を知り、正しく用いているだろうか。ダビデのように主が私達の内に力を与えて働かれることをしっかり受け止めて主に従いたい。
 


 

2013/1/30 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 29 賛美 聖歌254
 さらに著者は「信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました」と述べる。全初子の死と言う前代未聞の事態に直面したファラオは急いでイスラエルを去らせたが、事態が落ち着きを取り戻した時、またも心をかたくなにして大きな財産・奴隷を失ったことを悔い、精鋭部隊を率いてイスラエルの後を追い、ミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営しているイスラエルに迫った。イスラエルの人々はパニックに陥るが、神はモーセに「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる(出 14:16)」と告げられた。モーセがそのように行うと海は二つに割れ、イスラエルは海のなかに乾いたところを渡った。しかし後を追ったエジプト軍は、流れ帰った水に呑まれ全滅した。これはモーセが神の言葉を信じ、行ったことによるのであった。実に信仰は不可能と見える神の言葉を可能とする。
 


 

2013/1/31(木)担当 高谷満世師 サムエル記下23:1-7 賛美 聖歌487
 この箇所の後半で、ダビデは神に従う人と悪人とを対比している。神に従う人は太陽の光である。イスラエルの周辺諸国では、正義と太陽が人々の思考の中でイメージとして結びついていた。また、後の雨によって潤され、植物が育つように、神に従って治める者の上には神から豊かな雨と実りが与えられる。まさにダビデの上に神の祝福があり、神が共におられるのである。一方では常にダビデの周りに存在した悪人達は決して栄えることがなく、焼き尽くされる。
 詩編1篇を思い起こす対比である。ダビデは決して完璧な生涯を送ってきたわけではなかったが、最後の言葉として確信をもって神が自分と共に居られたと語っている。私達の日々の歩みにおいても神が共にいてくださる。そのことを見極める信仰の目を持って主に従いたい。「今日も主の臨在を体験させてください」と祈ろう。
 


 

2013/2/1(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙  賛美 聖歌516
 続いてヨシュアの信仰について語られる。ヨシュアは主に導かれ、イスラエルを率いて約束の地に入った。しかし行く手には城壁を備えた堅固な町エリコが立ちはだかっていた。エリコはイスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしており、イスラエルの力をもっては攻略不可能であった。その時主はヨシュアに「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」(ヨシ 6:2-5)と語られた。それは人間的にはばかげたものと思われたが、神の言葉であるが故に、信じてそのとおりに行ったところ、城壁は崩れ落ち、イスラエルは勝利を得た。ここにもまた信仰の力を見る。
 


 

2013/2/2(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書1:14-15 賛美 聖歌520
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」これは主イエスが宣教を始められた時の最初の言葉です。一般的に、苦難や災難に遭っている人々は平穏無事に暮らしている人々に比べて、平素の行いが悪く罪深い人々だと考えたがります。しかし主は、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた人々に対して「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ 13:2-5)と語られました。パウロも「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが(ロマ 3:23)」と述べているように、生まれながらの人はすべて罪人であり、悔い改めを必要としているのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-01-20 22:00:00 (856 ヒット)
デボーションの友

 

2012/1/21(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:22 賛美 聖歌539
 この箇所において著者はヨセフの信仰について語る。神は飢饉のためエジプトに下ろうとするヤコブに『「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」(創 46:3-4)』と語られた。そしてヤコブは臨終にさいし、ヨセフに『「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」(創 50:24-25)』と語っている。ヨセフは臨終を迎えようとした時、自分の遺骨について指示を与えたのは信仰によってであった。
 


 

2013/1/22(火)担当 高谷満世師 サムエル記下22:44-46 賛美 聖歌472
 圧倒的な勝利についてダビデは語っている。ダビデの王国が国々の頭とされる。ダビデ自身が知らない民までもがダビデに仕える。どれほど強固な砦を持つ国々も、神が共に居られるダビデの王国の前には力を失い、その砦から出てくる。
 この箇所でもダビデは、神ご自身がダビデを戦いから解き放ってくださったと語る。そしてダビデが国々の頭とされるときに、人々は否応なくダビデの背後に居られる方、世界を治める方を見るであろう。
 わたし達は神こそがわたし達を強くして下さる方だという確信をもって歩んでいるだろうか。今一度、自分の力にではなく、主の力に信頼し、前進していきたい。
 


 

2013/1/23 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 23 賛美 聖歌538
 続いて著者はモーセの信仰について語る。モーセの生涯は、見えない神の臨在と力を認め、神の言葉に対する信頼と服従によって特徴づけられる。本節はモーセの両親の信仰について語る。モーセが誕生したのは、エジプト人が奴隷の民イスラエルが神の祝福を受けて強力になることに恐怖を覚え『「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出 1:22)』との命令を発した後のことであった。両親は「その子の美しさ」を見てモーセを、生まれてから三か月間隠したと言われている。「その子の美しさ」についてカルヴァンは「この子の中に、将来の卓越性のしるしのようなものがあったからであり、それは彼の顔に刻まれ、何かしら特異なものを約束していたのである。(カルヴァン新約聖書注解将轡悒屮襦Ε筌灰崕饋袈欺佝納劭253)」と述べている。両親は「わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す(創 46:3)」との神の約束に立ち、幼子を通して与えられた神のみ旨によったのである。この信仰により、解放者はファラオの殺害から守られ、神のみ旨が進められたのである。信仰は神の御旨を成就する。
 


 

2013/1/24(木)担当 高谷満世師 サムエル記下22:47-51 賛美 聖歌529
 詩の締めくくりでダビデは高らかに主を賛美する。命の神、救いの岩である神を賛美するのである。王としてのさまざまな戦勝の功績について述べてきたダビデは、その中でも決して自分の力をアピールすることはなかった。最後に改めて、神をほめたたえる。ダビデは国々の民に対して、自分をあがめるように要請してはいない。神によって勝利を与えられ、油注がれたものの姿は、神に栄光を帰し、その姿を通して、諸国の民が神をほめたたえるように導かれる姿であった。
 「主に栄光があるように」と神を信じるものは願い、口にしているだろう。その言葉にわたし達の生き様が伴っているだろうか。神に従うわたし達が主を賛美し、主に賛美を捧げることを通して、神の栄光が表されていく。神の御名が高く掲げられていくのである。
 


 

2013/1/25(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:24-26  賛美 聖歌458
 「モーセは成人したとき」と言う句によってモーセが自らの責任によって自らの進路を選びとっていくことを示している。モーセの選択の第一は「ファラオの王女の子と呼ばれることを拒む」ことであり、それははかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選んだのである。モーセは幼かった日々、ヘブライ人である両親のもとで育てられ、自らがヘブライ人であることの自覚を与えられ、ヘブライ人に対する神の約束を教え込まれていた。彼が成人し、二つの道を選択すべき時が到来した。「ファラオの王女の子と呼ばれること」には王族の一員としての特権を享受することであり、この世の栄光が約束されていた。しかし神の民と共に歩む道は困難と窮乏の道であった。しかしモーセは信仰によって神の民と共に歩む道を選んだ。この信仰によって神が意図された解放の御業が進められたのである。
 


 

2013/1/19(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書18:18-23 賛美 聖歌520
 金持ちの議員は財産も名誉も地位もあり、この世においては不足のない豊かな生活をしていた。しかし自分のなかに何か足りない者を感じた。そこで主を訪ね「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。財産はこの世の生活において安全と快楽を与え、良い行い、道徳は栄誉と信頼を得させるであろう。しかしそれらは永遠の命に到達する保証とはならない。「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハ 14:6)」と言われた主だけが永遠の命に至る道である。


 

 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-01-14 11:45:05 (680 ヒット)
デボーションの友

 

2013/1/14(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 17-19 賛美 聖歌242
 この箇所において著者は約束の子イサクの奉献の記事を通してアブラハムの信仰について語る。イサクは神の約束により、長年の待望の後、神の奇跡的な御業によって与えられた最愛の息子であった。それだけではなく、彼は神の契約を受け嗣ぐ独り子であった。神はこのイサクを焼き尽くす献げ物としてささげるように命じられたのである。この命令を受けた時アブラハムは一瞬、耳を疑ったであろう。『主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた(創 15:5-6)』と言われているように、神の契約はアブラハムの信仰の基盤であった。イサクの消失はアブラハムにとって信仰の基盤の消失を意味した。しかしアブラハムはこの信仰の危機をも、信仰によって乗り越えた。その信仰とは「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」ことであった。主は「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである(ヨハ 8:56)」と述べておられる。わたしたちの信仰にはしばしば試練が訪れる。その試練を克服させるのもまた信仰である。
 


 

2013/1/15(火)担当 高谷満世師 サムエル記下22:32-35 賛美 聖歌483
 「私の功績」。「私が努力した」、「自分を信じた」しばしば人はこのように語る。確かにどの分野においても偉業を成し遂げた人の努力と研鑽は計り知れないものがある。人には言えない苦労があっただろう。「私が」と語る人々の緊張感ははかり知れない。
 ダビデはここで「自分こそが力ある岩」であるとは語っていない。多くの戦いを経験し、勝利し、成功したダビデも、謙虚に「神はわたしの力ある砦」と語っている。それは自分の弱さに落胆し、意気消沈した姿ではない。自分の限界に絶えず踏みとどまりつつ、計り知れないプレッシャーと緊張に苦しむ姿でもない。自分の能力も限界も、すべて神に委ねきって歩み、主に信頼してさまざまな局面を歩んできた一人の信仰者が語る神への信頼と感謝の言葉である。
 わたしたちも「神こそがわたしの力」といえる歩みに導かれたい。
 


 

2013/1/16 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 20 賛美 聖歌539
 この箇所において著者はイサクの信仰について語る。イサクには二人の息子が与えられた。ヤコブとエサウである。人間的にみればエサウが長子であり、イサクもエサウの方を愛した。相続者はエサウである。しかし神の御心はそうではなかった。二人の誕生に際し『主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる。」(創 25:23)』と言われている。ヤコブは策略によってエサウから長子の特権と祝福を奪っていく。それはヤコブとリベカの奸計と見えるが、その背後には神の御心があった。イサクはヤコブに欺かれたことを知るが、創 25:23を思い起こしよしとしたのであろう。この時イサクが現実に手にしていたのはアブラハムが妻サラを葬るために譲り受けた墓地だけであった。しかしイサクはヤコブに対する祝福で「どうか、神が/天の露と地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒を/お前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え/多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は/祝福されるように。(創 27:28-29)」と述べている。これは神の約束によるあり、信仰に基づくのである。
 


 

2013/1/17(木)担当 高谷満世師 サムエル記下22:36-46 賛美 聖歌543
 ダビデは続けて戦いについて語る。決して敵が倒れるまで引き返すことなく、最終的に敵は屈服する。やはり普通の場合、王が過去の戦いについて語るとき、自分の勝利として語る。しかし、ダビデは自分を強い者としてくださったのも神であると語る(22:36)。そしてダビデを確かに助けてくださる神とは対照的に、敵が助けを見回しても、彼らを助けるものは現れないと語る。すなわち、敵が頼みとしている彼らの神々は助ける者にはなり得ないというのである。
 人は実にさまざまなものを神々とする。そして真剣に自分が神とした者の力を信じて助けを求める。しかし、ダビデが自らの生涯の戦いを振り返って明言するように、ダビデを助ける力ある方、そして今わたしたちを助ける力のある方は、天地を造られた神、救いの盾を与える神ただお一人である。
 


 

2013/1/18(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:13-16  賛美 聖歌508
 続いて著者はヤコブの信仰について語る。信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈った。その様子については創世記48章に記されている。ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。しかし、イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。『そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」(創 48:15-16)』これもまた信仰に基づく祝福の祈りであった。
 


 

2013/1/19(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書10:38-42 賛美 聖歌496
 マルタは主をもてなすために忙しく立ち働いていました。一方、マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていました。マルタもマリアも共に主を愛し、主に仕えていました。主はマルタに「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と語られました。これによって主は、神の言葉を聞くことがすべてのことのなかで最も大切であることを教えてくださったのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-01-06 21:49:52 (682 ヒット)
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2012/1/7(月) 担当高谷清師 マタイによる福音書 7:24-27 賛美 聖歌201
 2013年当地方は厳しい寒さのなかではあるが、穏やかに明け、推移している。北日本では厳しい吹雪と降雪のなか、市民生活への影響と、多くの登山者の遭難が伝えられている。神の守りをお祈りします。世では迫りくる危機回避のために不人気な政策をあえて推進した前総理に代って、国債大量発行、無制限の債務積み増しを掲げて登場した現総理のもと、株価上昇、円安に沸いているなか、心ある人々は忍び寄る財政破綻とインフレの影に心痛めているのではなかろうか。現総理と同じ会派に属し財政再建の必要性を訴え、20年危機を訴えながら高齢のため引退された元財務大臣の心中はどのようなものであろうか。これが2013年を迎えた私たちを取り巻く環境である。聖書は『人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません(汽謄 5: 3)』と言っている。これはもちろん、終末について記された御言葉であるが、日本に迫っている危機についてもいえることではなかろうか。このような中に在って私たちの立つべき土台は岩、即ち神のことば、イエスキリストでなければならない。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない(マタ 24: 35)」からである。
 


 

2013/1/8 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下22:21-25 賛美 聖歌 591
 驚くほどのダビデの確信に満ちた言葉である。「罪を犯したことのあるダビデが、どうして自分の清さを主張できるのか」と驚きを禁じえない。ダビデは罪を犯したにもかかわらず、神に救われ、赦されたことを確信している。「清い」と主張するその言葉は、ダビデが過去において一切罪を犯さなかったという意味ではない。むしろこの言葉は、ただ神の憐れみにより過去の罪を乗り越えて、今ダビデと神との関係が本来あるべき秩序にかなったものだというのでる。神はダビデに目を留める義務はなかった。しかし神は、ただ憐れみにより、ダビデを神とのあるべき関係に立ち返らせてくださった。
 私達は自分が過去において罪を犯したことを知っている。そして今、赦されて、神との関係を回復されていることも体験している。にもかかわらず、義とされ、神の子とされ、御国の約束を与えられていることを忘れてしまうことがある。ダビデのように、恵みによって「御目の前にわたしは清い」(22:25)ことを確信しよう。
 


 

2013/1/9 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11:13-16 賛美 聖歌514
 アブラハム、イサク、ヤコブは彼らに与えられた神の約束に堅く立って、その信仰によって歩んだ。現実にその約束の実現を手にすることはなかったが、生涯にわたって信仰に立ち続けた。わたしたちは神が約束された御子によるあがないの御業の成就によってもたらされた救いに与かり、約束された豊かな恵みのなかに生かされている。しかし父祖たちはその恵みを体験してはいなかった。神の約束を信じてはいたが現実には寄留者であり、彼らはそれを自覚していた。アブラハムは「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです(創 23:4)」と語っている。アブラハムの信仰について主は「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである(ヨハ 8:56)」と語っておられる。
アブラハムは、約束されたものを手に入れることはできなかったが、信仰によって、はるかにそれを見て喜びに生きたとすれば、贖いの約束の成就によって恵のなかに生かされている私たちが不信仰に陥るならその責任はより重く問われるのである。恵みを感謝し堅く信仰に立とう。
 


 

2013/1/10(木)担当 高谷満世師 サムエル記下22:26-31 賛美 聖歌 423 
 神と人との関係は決して一方通行ではない。心を込めて神を愛し、いつくしむ人には、神は慈しみをもって応えてくださる。しかし、神を認めず、逆らい続ける者には、神もまた策略をもって応えられる。神は砕かれた心で、へりくだって主の前に出る者を憐れみ、救い上げてくださる。神の義は、神に逆らう者への裁きとして表される厳しい一面を持つだけのものではなく、心から罪を悔いて、へりくだるものを憐れんでくださる恵みとしても表される。
 私たちは義なる神の前に立つとき、厳しい神の義を見るだろうか。それともダビデのように、恵みに満ちた憐れみ深い神の義を見るだろうか。今日、神の前に、どのような心で歩むのか。それを神は見ておられる。
 


 

2013/1/11(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:13-16  賛美 聖歌622
 父祖たちが自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのは、彼らが故郷を探し求めていることを明らかにしている。彼らが捜し求めていた故郷は自分たちが出て来た土地のことではなかった。それは神の約束されたものであり、更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのである。この信仰によって仮住まいの者の受ける苦難に勝利したのである。
 主の十字架と復活によって主を信じる者は神の国の民とされた。この神の国について聖書は、主によって地上にもたらされたとともに、その完成は未来に属するものとして伝えている。即ち私たちの住む今の地上においては「空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」と言われるサタンの支配する領域と神の国とが混在し、キリスト者はそのはざまで苦しみを受けている。しかしパウロが「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています(フィリ 3: 20)」と述べているように、私たちは神の定められた日に御国に入れられるのである。その日を望み、信仰に立ち、忍耐をもって歩もう。
 


 

2013/1/5(土)高谷由紀子師 コヘレトの言葉3:10−11 賛美 聖歌472
 「人生不可解なり」と言って自殺した青年がいました。人生は複雑であり、混乱しており、不可解であり、それ故無意味なもののように思えます。ここでは「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」と言われています。神は人をご自身に似せて造られました。それ故、人には永遠を思う心が与えられていました。神への似姿は堕落によって失われましたが、完全に消滅したわけではありません。人の心には依然として永遠を思う心が存在しています。しかしそれは不完全であり、神のみ業、御計画のすべてを理解することはできません。しかし神は私たちのために、ご自身の性格により、愛と善に基づくご計画をもって導いていてくださるのです。パウロは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ロマ 8: 28)」と言っています。わたしたちは神の計画のすべてを理解することはできませんが善にして愛なる神を信じて歩みましょう。


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