投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-08-26 23:22:16 (68 ヒット)
デボーションの友

2018/8/27 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:34 賛美 新聖歌 404
 この段落はファリサイ人が「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出したことによって閉じられる。神は、律法をイスラエルが神との関係を正しく保ち、命に歩むために与えられた。しかし、ファリサイ人たちは律法の真意を無視し、文字にこだわり、自己を絶対化し、外形的に律法を守り得ない者を罪人として排除した。このようなファリサイ人に対して主は「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」(マタ 23:13)と述べておられる。明治の時代、当時の教会の状態について厳しく批判し、警告を発した人物がいた。しかし当時の教会はその批判を光として自らを吟味するのではなく、自己保身欲から彼を異端者として退けた。当時、この批判に真摯に向き合っておれば、日本社会における今日ほどの教会の凋落は避けられたのではないだろうか。パウロは「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」(フィリ 2:21)と述べている。謙って自分を捨て、イエス・キリストを求めよう。

2018/8/28(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書34:8-22 賛美 新聖歌396
 債務奴隷の処遇を巡っての出来事が記されている。律法によって同胞であるイスラエルの奴隷を時が満ちたら解放しなければならないと定められていた。この神の命令を民は蔑ろにした。一旦心からの悔い改めをもって解放すべき奴隷を解放したにもかかわらず、態度を翻して再び彼らを奴隷としている。これは神に背く罪であった。神は契約に背く人びとを死に引き渡すことによって解放すると言われる。
 神に従うということは一時の気分によって気が向く時だけ言うことを聞くというようなものではない。生涯かけて従い通すということである。当然そこには心から自発的に従うという姿勢が伴わなければならない。形式だけ整えた、一時的な従順で神の御心に適う者となることはできない。

2018/8/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:35-38 賛美 新聖歌 427
 彼が会堂から追い出されたことをお聞きになったイエスは。再び彼に出会い、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は既にイエスを預言者として(17節)、癒し主であるとして(32節)、神のもとから来られた方であるとして(35節)認識していた。そのような彼にイエスは「あなたは人の子を信じるか」即ち「人となられた神」を信じるかと問うておられる。それに対して彼は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と答えている。するとイエスは「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と答えられた。すると彼は「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた、即ちイエスを神と信じ、礼拝したのである。ヨハネは第一の手紙において「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(汽茱5:5)と述べている。私たちの信仰はイエスを神の御子、唯一の救い主と信じることである。

2018/8/30(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書35:1-19 賛美 新聖歌388
 ここでは突然レカブ人が登場する。主はエレミヤを通して彼らが父祖の命令を守るか否かを試された。エレミヤが彼らの父祖から受け継いできた教えを破るような申し出をしたときに、彼らは躊躇なくエレミヤの申し出を拒んでいる。またその理由も、これまで忠実に守ってきた父祖の教えをバビロンの攻撃を受けてエルサレムに避難しているという非常時においても例外なく守るためであるとはっきりと述べている。突然言及されているこのレカブ人を通してユダの人々は自らの神に対する態度を問われる。レカブ人が父祖の教えに対して忠実である一方、ユダとエルサレムの住民は主である神に従わない、不忠実な者だと示され、災いを告げられる。
 神があらゆる事態において、その民に求めておられるのは「従順」である。神の民やクリスチャンというタイトルを持つことだけでは不十分である。日々神の恵みに応えて神の言葉に従う生き方を選び取っていくことを私たちは求められている。

2018/8/31(金) 担当 高谷清師  詩 38:14-15 賛美 新聖歌 444
 逆境に立たされたダビデを見て、彼を避けて立つ愛する者、遠く離れて立つ近親者、命をねらって罠を仕掛ける者、欺こう、破滅させよう、と決めて一日中それを口にする者、ダビデに災いを望む者達を前にしてダビデは「わたしの耳は聞こえないかのように/聞こうとしません。口は話せないかのように、開こうとしません。わたしは聞くことのできない者/口に抗議する力もない者となりました。」と語る。逆境に陥った時、彼に背を向け、彼の言葉を無視し、陥れようとするのは世の常である。ダビデはこの時、一切聞かず、口を開かず、神に委ねた。イザヤは主イエスについて「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」(イザ 53: 7)と預言している。マタイは裁判の席における主イエスについて「そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」』(マタ 26:62-63a)と記している。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12:19)と述べている。逆境の時、試練の時も主を信頼し主に委ねよう。

2018/9/1(土)担当 高谷清師 マタ 24:36-39 賛美 新聖歌 372
 主はご自身が再びおいでになる時について語られる。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」それはノアの時と同じであると言われる。神は、地が神の前に堕落し、不法に満ちているのをご覧になって、洪水をもってこの地を滅ぼすことを決意し、ノアに箱舟の建造をお命じになった。ノアは神の命令に従い、命令通りに箱舟を建造した。そして人々に警告し、箱舟に入るように勧告した。しかし人々にはノアの勧告はたわごとにしか響かず、人々は肉欲のままに生活した。一方、ノアを通して語られた神の警告は確実に実現し、箱舟に入ることを拒んだものはすべて滅ぼされた。主が再び来られる時もそれと同じであると言われる。それ故、私たちは今日も神のみ言葉に忠実に歩もう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-08-19 23:18:23 (63 ヒット)
デボーションの友

2018/8/20(月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:26-29 賛美 新聖歌 345
 イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたユダヤ人たちは、癒された元盲人に対して再び「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」と尋ねる。それは15節においてファリサイ派の人々が発した質問であり、その時癒された盲人は「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」と答えている。ユダ人たちが再び同じ問いを発したのは、癒された元盲人に対し自分たちの主張に沿って「イエスは罪人である」と言わせ、神に栄光を帰させないためであった。しかし元盲人は「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。」と答え、更に「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」と語る。ファリサイ人たちは神がモーセに語られたことに基づく宗教的権威を振りかざしてイエスの御業と栄光を否定しょうとする。それによってイエスにおける神の自由な恵みの御業を受け入れることが出来ないのである。しかし神は生きておられるお方であり、自由に働かれるお方である。権威と伝統は重んじなければならないが、それは聖霊による神の自由な恵みな働きを否定するものであってはならない。

2018/8/21(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書33:14-26 賛美 新聖歌247
 将来における神の回復の業が述べられている。ユダの崩壊という差し迫る現実を目の前にしている中で語られたダビデの家が絶えることがないという約束である。これは天地の造り主である神の約束であるがゆえに力がある。しかし厳しい現実の中にある人びとには信じがたい宣言であった。それゆえに19節で、神ご自身が語られた回復を確実に与え、民を憐れむと宣言されている。具体的な神の救済の宣言を信じたくてもなかなか信じることができないほど厳しい現実に直面している民がどのようにして信仰を奮い立たせることができるだろうか。それは現実を見ることや同胞に頼ることにはよらない。そのような中で信仰を奮い立たせる根拠はただ神がどのようなお方であるかというこの一点に尽きる。神はかつて契約を結ばれた神であり、天地万物を創造された神である。だからこそ希望のない現実の中で救いを大胆に語ることがおできになる。
 私たちの信仰が試されるとき、ただ神が創造者であり憐れみ深い神であることを知る時に、疑うことなく再び信仰を奮い立たせることができる。日々神との関係を建て上げ続けたい。

2018/8/22(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:30-34 賛美 新聖歌 346
 ファリサイ人たちの「あの者がどこから来たのかは知らない。」という言葉に対し癒された元盲人は「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。」と答え、更に「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。」と語っている。神は罪人の祈りはお聞きにならない。その罪によって神から断絶しているからである。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きくださる。彼は自分の癒しをイエスの祈りが神によって聞かれた結果とし、更にそれはイエスが神の許からこられたお方の証であると語る。
 主は「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハ14:11)と語っておられる。イエスの御業を通してイエスを神の子と信じるのである。

2018/8/23(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書34:1-7 賛美 新聖歌315
 当時ユダは北方のバビロンと南のエジプトという二つの大国の間でどちらに頼ることが有利であるか画策していた。この時、ユダのゼデキヤ王はエジプトの援助を当てにしてバビロンの支配から逃れようとしていた。しかしバビロンの脅威はユダに差し迫り、ユダの要塞の町々が陥落していった。エルサレムにまで危機が迫る中でエレミヤは主のことばをゼデキヤ王に伝えている。それは気休めの慰めと平穏を語る言葉ではなかった。王自身はバビロンに連行される。しかしその中でも悲惨な死を遂げるとがないという、かすかな憐れみが語られている。この現実的な裁きにおいて、預言者はなお神に主導権があることを伝えており、王が神に服従し、正しい道を歩むよう励ましている。これによって最悪の結末を免れるかすかな希望を与えている。
 神は気分に任せて民に対する裁きと恵みを与えられるわけではない。いかなる時にも神を信じる人びとが神に従い、正しく応答することによって神の憐れみが示されるのである。日々神の前にどのように歩むかが大切である。

2018/8/24(金) 担当 高谷清師  詩 38:12-13 賛美 新聖歌 205
 ダビデは「疫病にかかったわたしを/愛する者も友も避けて立ち/わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。わたしに災いを望む者は/欺こう、破滅させよう、と決めて/一日中それを口にしています。」と訴える。ダビデが順風満帆の時には彼を誉めたて、周囲に集まってきた者たちも、一旦逆境に陥ると彼らはダビデから距離を置くようになり、親族さえも離れて立つようになったのである。そればかりではなく、今まで鳴りを潜めていた敵対者たちは罠を仕掛け、破滅させようと日夜談合を繰り返すのであった。このような状況は世の常であり、今日も変わることはない。しかし、主は「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハ14: 18)と約束しておられる。いかなる時にも主は信じる者と共にいてくださるのである。

2018/8/25(土)担当 高谷由紀子師 マコ 2:13-17 賛美 新聖歌 311
 イエスは通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。この招きに応じてレビはイエスに従った。ある日、レビはイエス様一行を招いて食事の席を設けた。そこにはイエスと弟子たちと共に、レビの同僚であった徴税人や罪人が席に着いていた。これを目にしたファリサイ派の律法学者は、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。世の人々は自分の正しさを示すために罪人との交わりを断とうとする。しかし主は罪人を招いて悔い改めさせ、義とするために来てくださった。イエスに来る人はすべて彼によって義とされるのである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-08-12 23:10:54 (81 ヒット)
デボーションの友

2018/8/13(月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:24 賛美 新聖歌 222
 癒された元盲人の両親から期待した手応えを得られなかったユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」と言った。ユダヤ人たちはイエスが安息日に業を行われたことを根拠にイエスを罪人と断定したのである。イエスはご自分を試そうとして「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と尋ねた律法の専門家に対して「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタ 22:35-40)と答えておられる。イエスは愛によってこの盲人を癒された。パウロは「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(競灰 3:6)と述べている。霊により、愛によって歩もう。

2018/8/14(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書33:1-5 賛美 新聖歌165
 神はまずエルサレムの荒れ果てた状況から語り始められる。エルサレムの人々が、敵の侵入を防ぐために自らの手で打ち壊した都の家屋が、努力も空しく敵に攻撃され、打破されてその結果犠牲者たちの亡骸がこの廃墟に溢れるという、皮肉な現実である。ユダの人々にとってこれは大いなる災いであった。神を信じる人びとに災いが起こる時、神を信じているのになぜこんなことが起こったのかと混乱する。あるいは、神は無力であったから自分が信じてきた神は死んでしまったと考える。しかし神はこの都の荒廃は神ご自身が怒りの故に民に対して行われたことであると考える。
 神を信じているなら必ず神の守りの内にあると考えることが間違いなのではない。神を信じているという事実、一度信仰告白をしたという事実をお守りや呪文のように考え、日々の歩みの中で神の御声を聞いて従うことを怠り、神を信じていると言いながら罪を犯し続ける者の罪を神はご覧になり、裁かれる。日々主を愛して主に仕えることを主は求めておられる。

2018/8/15(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:25 賛美 新聖歌 359
 ユダヤ人たちの言葉に対して癒された盲人は「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と答えている。この箇所について大宮溥師は「信仰は教条主義的に、ある信仰命題を他律的に受け入れることではない。信仰は生きた経験である。それは生ける神との出会いにもとづくものであり、この出会いは自分のうちにある変化を生ぜしめる。もちろん信仰は、そのような信仰の経験そのものを拠点とするのではなく、その経験を与えた神ご自身によりたのむものである。『信仰は経験において成立するが、経験から生じたものではない』(フォーサイス〉。しかしそれは、他人の言葉に盲従するのではなく、自分の神との出会いの経験から出発するのである。したがって信仰は証言として伝達される。このかつての盲人は、この神との出会い、救いの現実に固執して、その証人でありつづけようとしているのである。」(説教者のための聖書講解No30P48−49日本基督教団出版局1980)と述べておられる。神との出会いの経験に立って神により頼み、証人として歩もう。

2018/8/16(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書33:1-13 賛美 新聖歌263
 神ご自身の怒りの故にエルサレムを破壊されたことを語られる神はさらに回復について語られる。現実にはまだ回復されておらず、ただ荒廃の中にある都に対して神はご自身の怒りについて認められた同じ時に癒しと治癒と回復を宣言される。怒りと赦しがこの様に同居することを私たち人間はなかなか理解できない。しかし神は罪に対する裁きを受けた人々に対していつまでも怒り続けておられるのではなく、怒りを越えて余りある民に対する愛の故に彼らを赦し、建て直すと言われる。かつて絶たれると宣言された花婿のよろこびの声が回復され、人びとが死に絶えた都に再び声が響き、羊が再び草を食み、憩う場所となる。
 徹底的に荒廃した地を見る時、人びとは将来に対する希望を抱くことができず、闇に包まれた気持ちになる。唯一このような状況から回復させることができるのは神のみである。ここに希望と回復の源である神を見ることができる。救済と回復の源である神を見上げつつ歩もう。

2018/8/17(金) 担当 高谷清師  詩 38:11 賛美 聖歌 602
 ダビデはここで「心は動転し、力はわたしを見捨て/目の光もまた、去りました。」と詠う。ダビデは信仰に立って歩んでいた。しかし、長引く苦難は心に苦悩と不安を引き起こした。心は動揺し、彷徨い、力はダビデを見捨てて離れ去ったように失われ、目もまた、命の光を見失ったようになった。信仰の父と言われているアブラハムも、神から「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」(創15:4)との約束を与えられていたにもかかわらず、10年経ってもその約束が成就されず、約束の成就が人間的に見て不可能と思われた時、サラの勧めに従ってエジプト人の女奴隷ハガルによって後継ぎを得ようとした。しかし神はその子をアブラハムの跡を継ぐ者とはせず、サラとの間にイサクを授け、後継ぎとされた。
 人は試練が長引くとき、心に不安を覚え、動揺し、彷徨う。しかし神の約束は不変である。しっかりと御言葉に立って歩もう。

2018/8/18(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 16:33 賛美 新聖歌 459
 イエスはご自分が十字架に架かり世を去る時の近づいたことを知り、世に残される弟子たちが主の弟子である故の苦難に遭遇することを思い、彼らの励ましとなるご自分の勝利を語られました。パウロは「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(競謄3:12)と述べています。そして競灰11:23-28に自分の遭遇した数々の苦難を記し、「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:37-39)と記し、キリストにある信仰による勝利を語っています。すべてに勝利された主を見上げ、苦難に立ち向かって歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-08-05 23:12:40 (76 ヒット)
デボーションの友

2018/8/6(月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:13-17 賛美 聖歌 304
 人々は前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。ファリサイ派の人々は改めて、どうして見えるようになったのかと尋ねた。そこで彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」と。イエスが子の御業を行われたのが安息日であったのを知ってファリサイ派の人々一部の者たちは「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と断じ、他の者たちは「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言った。こうして、彼らの間で意見が分かれたのである。ヨハネは「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:17-18)と述べている。キリストのみ名は裁きをもたらすのである。

2018/8/7(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書32:16-25 賛美 新聖歌325
 今まさに敵の手に堕ちようとしているエルサレムに土地を購入せよという神の命令に従ってエレミヤは土地を購入し、続いてこの祈りを捧げている。エレミヤがこの祈りにおいて神に問いかけていることは25節に凝縮されている。なぜ陥落寸前の土地を購入するなどという不合理なことをしなければならないのか。エレミヤは神の言葉に従っているが、心は混乱している。その時にもエレミヤは長々と歴史において保たれてきた信仰告白を述べている。17節から22節まではイスラエルの神殿での礼拝で繰り返し告白されてきた信条である。神がなさっていることを理解できないもどかしさや不安がありながら、エレミヤは信仰の土台を確認するためにこの伝統的な礼拝の場で用いられてきた信仰告白を述べる。
 教会にも歴史を通じて教会が受け継ぎ、告白し続けてきた信条がある。時にこれらはあまりに儀式的で、ダイナミックな霊性をそぐと言われる。しかし信仰告白は、信仰が揺らぐときに信仰の土台を確認するために有効である。これもまた神が与えてくださった信仰の財産である。心を込めて告白し信仰を確認したい。

2018/8/8(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:18-23 賛美 新聖歌 425
 ユダヤ人たちは盲人であったのに目が見えるようになった人の証言を信じなかった。彼らはこの人の両親を呼び出して「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」と尋ねた。それに対して両親は「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」と答えている。ヨハネはその理由を「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。」と記している。「会堂からの追放は日常生活に重大な支障を及ぼすものであり、両親はそれを恐れたのである。
 今日、私たちの社会では信教の自由が広く認められており、迫害などあり得ないと考えられている。しかしそれは表面上のことであり、イエスキリストを信じる時、実際には様々な困難が伴う。しかし私たちは固く信仰に立って御名を告白しつつ歩もう。

2018/8/9(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書32:26-44 賛美 新聖歌275
 神がエレミヤの祈りに答えられる。最初に神は御自分が命あるすべてのものの神であり、全能であると言われる。エレミヤ自身が何故このタイミングで、どうして自分が土地を買わなければならないのかという疑問を神に投げかけた時、それを問うたことを叱責なさらなかった。しかし同時に神が全能であり、人には納得できないこともすべて御心に従って行われることを教えておられる。人の目には回復の希望が全く見えないときにも神は眼前の大きな災いを越えて与えられる繁栄の回復を見ておられる。
 エレミヤの問いが最悪の状況において土地を買うことへの疑問であるなら、それに対して答えは与えられた。しかしそれが何故エレミヤ自身が選ばれたのかということであれば、その答えは与えられていない。神は私たちが自由に祈り、訴えることを許しておられるが、すべてにおいて私たちが満足するように答えられるという保証は与えておられない。それゆえ主がゲッセマネで祈られたように、自分の願いを申し述べつつ「神の御心がなるように」と願う信仰を持ち続けたい。

2018/8/10(金) 担当 高谷清師  詩 38:10 賛美 新聖歌 282
 ダビデは重い病に罹って激しい苦痛の中にある。その原因が自らの愚かな行いであることを知っている。今、彼の心は肉体の苦痛と自らの愚かな行いへの悔恨の思いに圧迫されて、もう立てないほど打ち砕かれ、心は呻き、うなり声をあげるだけである。そのような中に在ってダビデは目を上げて主を仰ぎ見る。そして「わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり/嘆きもあなたには隠されていません。」と告白する。
 私たちは、自ら罪を犯した時、あれほどまで愛してくださった神を裏切った今「もはや神の前に出ることもできない」と言った思いに囚われ苦悶する。しかし、私たちが言いつけに背いた子を叱責する時のように、罪を犯した者の上に神の愛の御手は伸べられているのである。パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリ 4:6-7)と述べている。

2018/8/11(土)担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44 賛美 新聖歌 391
 神への献げ物は献げた分量の多少によって判断されるものではない。人にはそれぞれ能力の違いがあり、貧富の差がある。貧しいが故に多く献げられなくてもそれを悲しんだり卑下したりする必要はない。また、富んでいるが故に多く献げたとしても、それによって高慢になってはならない。貧しいが故に多く献げられない人を見下してはならない。大切なことは自分に与えられているものを信仰により、神のみ旨に従って献げることである。イエス様は貧しいやもめの献げたものを、額の多少ではなく、生活費を全部入れた、神への感謝と信仰を見られた。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-07-29 23:05:47 (72 ヒット)
デボーションの友

2018/7/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:6-7 賛美 新聖歌 40
 この箇所には、イエスが通りすがりに遭遇された、生まれつき目の見えない人をイエスが癒された出来事が記されている。弟子たちとの会話を終えられたイエスは、生まれつきの盲人に近寄り、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになり、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来たのである。彼が帰って来た時、イエスはもうそこにはおられなかった。
 この記事を読むと、盲人はイエスに癒しを求めてはいない。一方的にイエスが彼に近寄り、地面に唾をし、その唾で泥をつくり、盲人の目に塗り、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われ、盲人はその言葉に従った結果、その目が開かれたのである。ヤコブは「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」(ヤコ 1: 21)と述べている。

2018/7/31(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書32:1-5 賛美 新聖歌323
 エレミヤが預言したのは、ユダはバビロンに攻撃されて国は存亡の危機にある、大変な時代であった。この混乱した時代に神からエレミヤに託された言葉は、喜ばしく民に受け入れられるメッセージではなかった。実際にエレミヤは既に敵に投降したという疑いをかけられて投獄されていた。その時にもなおエレミヤはユダの民がバビロンに捕囚とされ、敵に勝つことはできないという、明らかに人びとの反感を買う言葉を語った。
 神の言葉を聞きたいと願う時、人びとは励ましと祝福の宣言を期待する。しかしエレミヤに託された言葉のように、神の言葉は民を励ますだけではなく、現状を認識させ、裁きを宣言し、なおも悔い改めを迫る言葉でもあり得る。神の言葉を期待するとき、自分の聞きたい言葉を期待するのではなく、何が語られてもそれを受け入れるという姿勢をもって聞く者でありたい。

2018/8/1(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:8-12 賛美 聖歌 265
 生まれつき目の見えなかった彼が、見えるようになって帰って来たのを見て、近隣の人々は大騒ぎになった。前に彼が物乞いであったのを見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。それに対して「その人だ」と言う者もあり、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。しかし、本人が「わたしがそうなのです」と言ったことによってこの問は決着した。そこで人々が「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と尋ねると、「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」と答えた。更に人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。彼は、このように事実をありのままに答えている。私たちが自らの救いの証をする時、脚色する必要はない。事実をありのままに語ることが大切である。

2018/8/2(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書32:6-15 賛美 新聖歌384
 エレミヤのいとこであるハナムエルがエレミヤのもとに来て土地購入を依頼した。ハナムエルが来たとき、エレミヤはこの申し出が神の御心であることをすぐに確信することができた。それは神が前もってエレミヤに起こることを告げておられたからである。それ故に、エレミヤ自身が捕囚を預言している、滅びが目前に迫ったこの国のこの土地を買い取ることを決断した。神の言葉であると知って土地購入契約を進めていくが、それがいかなる意味を持つかを明かされるのは一連の手続きが完了してからである。預言者といえどもエレミヤは信仰をもって神の言葉に従うことを求められた。エレミヤがそのように神に従ったときに主のことばが臨み、将来捕囚を経験したのちに再び民がこの土地に住まう日が来るというこの契約によって明らかにされる神のご計画が語られる。
 時として神はご計画全体を明らかにされる前に私たちに従うことを求められる。その時、エレミヤのようにためらいなく従うことができる秘訣は確かにこれが神から出たものであると知ることである。聖霊の導きの中に歩み、常に神の御声を聞き分けよう。

2018/8/3(金) 担当 高谷清師  詩 38:1-9 賛美 聖歌 556
 ダビデは今、重い病気に罹っている。それを、自らが犯した過ちのためであると告白している。それにしても、重い病気に伴う苦痛は甚だしいものであったので、信仰によって「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。」と祈りながらも、肉体のみならず、心も消沈し、発する言葉もない。彼は「もう立てないほど打ち砕かれ/心は呻き、うなり声をあげるだけです。」と告白する。
 パウロは「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ロマ 8:23)と述べ、更に「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ロマ8: 26)と述べている。失意の底に在って神に向って言葉を発することさえできない時、御霊は私たちを助け、執り成してくださる。

2018/8/4(土)担当 高谷由紀子師 競灰1:3-7 賛美 新聖歌 416
 パウロは主から受けた福音宣教の使命を遂行していくうえで、競灰11:23-28に記しているように、数々の試練と苦難に遭遇しました。その試練と苦難に勝利させたのは十字架で死に、復活されたイエスキリストでした。パウロはこのお方を「忍耐と慰めの源である神」(ロマ 15:5)と呼んでいます。パウロはキリストの故に受けた苦難に、キリストから与えられた慰めによって勝利し、同じ苦難にある人々をも慰めることが出来たのです。私たちもキリストに結び付くことによって人々の慰めとなる聖徒になりましょう。


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