投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-09-30 23:25:25 (53 ヒット)
デボーションの友

2018/10/1 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10: 10-11 賛美 新聖歌 235
 イエスはご自身が来られた目的について「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われる。更に「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と語られる。罪を犯し、神の前に失われ、死んでいた者に命を得させるためにイエスは世に来てくださり、十字架に架かって血を流し、命を捨ててくださった。このことによって罪に死んでいる者が命を受ける道が開かれた。パウロは「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ロマ 1:16)と述べている。罪に死んでいた者のために命を捨ててくださったイエスを信じる信仰によって命を受けることが出来るのである。

2018/10/2(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書38:14-23 賛美 新聖歌428
 ゼデキヤ王がエレミヤと話すのはこれで三度目である。王はエレミヤと公に会うことができないほど自分の住む場所の安全をも感じていなかった。エルサレムの危機的な状況を知りながら、エレミヤから何度も告げられていた神の言葉に従う決断もできなかった王がここに至ってまだエレミヤの助言を求めている。エレミヤは最初は王に再度神の言葉を告げることを拒否する。しかし王が信仰によって主にかけて誓ったときにエレミヤは同じ言葉を語った。ゼデキヤ王がバビロンに降伏せよという神の言葉に従わなかったのは王が全く神を信じていなかったからではない。王は信仰を持っていたが、それでも彼の弱さと決断力のなさのために神の御言葉に従わなかった。
 心で神を信じていることは神と共に生きる者の基本である。神と共に歩むためには神の言葉に立って決断し、信仰を働かせて行動することが必要である。私たちも与えられた信仰を働かせて主に従う人生を歩もう。

2018/10/3(水) 担当 高谷清師 ヨハ10: 10-11 賛美 聖歌 273
 イエスはご自分が来られた目的について「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と語られた。「羊が命を受ける」ことについては、先日学んだ。しかしイエスはそれだけではなく、「豊かに受けるためである」と言われている。イエスの十字架の御業を信じ、救われ、命を受けたことは素晴らしいことである。しかしイエスは私たちがさらに豊かに受けるために来てくださった。私たちの家庭に新しい命が与えられること、子供が与えられることは大きな喜びである。しかし与えられた子供は成長することが望まれる。そのためには両親が、その家族が子供を愛し、庇護し、サポートすることが必要である。また、子供は両親をはじめ自分を支えている人々の言葉に従うことが求められる。イエスは新しく生まれた命が豊かに成長するために、御言葉を豊かに与えてくださる。新しく命を与えられた者はイエスのみ言葉を信仰によって受け入れ、それを糧としてさらに豊かな命へと進むのである。日々御言葉に親しみ、祈り、聖霊による神との交わりの中で豊かな命に与る者となろう。

2018/10/4(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書38:24-28 賛美 新聖歌345
 王がエレミヤと話し終えた時、何を最も心にかけていただろうか。少なくとも私たちが聖書の言葉から知り得るのは王の最大の関心事はいかに神の言葉に従って正しい決断をするかということではなかった。王はエレミヤの命が守られるために行動しているという体裁をとりながら、二人の会話の内容が高官たちに知られることを恐れている。最後までバビロンと戦うことを望んでいる高官たちが、反対のことを主張するエレミヤと王が会見して対応について話し合っていたことを知れば王自身がその地位を追われるかもしれない状況で、王は自分の身を守ろうとしたというのが真相であった。
 神を信じる人が恐れるべきことは何だろうか。それは神の言葉に従うことを妨げようとする他の人々ではない。その人々がどれほど力を持っているように見えても、私たちが怖れるべきお方はただ神一人であり、従うべきお方もただ神のみである。常に神の導きを聞き分けて、あらゆる恐怖を乗り越えてただ神だけに従おう。

2018/10/5(金) 担当 高谷清師  詩 39:3−5 賛美 新聖歌 321
 詩人は「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」と決意した。しかし、神に逆らう者を前にして、沈黙を守ることは困難であった。「わたしは口を閉ざして沈黙し/あまりに黙していたので苦しみがつのり、 心は内に熱し、呻いて火と燃えた。」のである。そこで彼は舌を動かして話し始めた。「教えてください、主よ、わたしの行く末を/わたしの生涯はどれ程のものか/いかにわたしがはかないものか、悟るように。」と。この時、彼が話したのは神に逆らう者に向ってではなく、神に向ってであった。日々の生活において「神に逆らう者」を目にして私たちの心は義憤を覚える。しかし、その目を自分の内に向ける時、同じことが、程度の差こそあれ、自分の内に存在するのを見る時、その言葉は「神に逆らう者」への非難と裁きではなく、神への祈りとなるのである。パウロは「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」(ガラ 6:4)と述べている。常に、人の前にではなく、神の前に歩もう。

2018/10/6(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 1:40-42 賛美 新聖歌 302
 アンデレはイエスの十二弟子の一人です。ここにアンデレが始めてイエスに出会った時のことが書かれています。彼は兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言いました。また彼は後に大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年をイエスのもとに連れて来ました。このように、アンデレは日常生活の中で身近にいる人々をイエスのもとに連れてきています。アンデレは目立って行動する人ではありませんでしたが、謙遜に、忠実に証をし、仕えた人でした。もしアンデレが兄弟ぺトロをイエスのもとに連れて来なかったら、聖書に記された素晴らしい主の御業の幾つかは見ることはできなかったかもしれません。アンデレのように日常生活の中で忠実に証をする人を通して神は働かれます。私たちも身近な人に忠実に福音を証しする人になりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-09-23 23:11:15 (67 ヒット)
デボーションの友

2018/9/24 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10: 7-9 賛美 新聖歌 427
 イエスは「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。この箇所についてライルは先人たちの解釈を紹介しながら「この文章の意味は恐らく次のように言い換えることができるであろう。「およそ教会の教師と称する者のうち、キリストの栄光にもまして自分に栄光を帰し、あるいはキリストにもまして他のものを優先していく者がいるならば、そのような者はあなたがたパリサイ人と同じく盗人また強盗であって、真の牧者ではない。」私はこれ以上の解釈を見出すことはできないが、確かにこの文章が難解であることも認めざるを得ない。(ジョン・C・ライルは「(ライル福音書講解ヨハネ2P473聖書図書刊行会1987))」と述べている。ぺトロは「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」(汽撻5:1-3)と述べている。盗人であり、強盗に従ってはならない。彼が如何に絶大の権力を持ち、かっこ良くても・・・。

2018/9/25(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書37:17-21 賛美 新聖歌427
 ゼデキヤ王が捕らわれの身であるエレミヤを呼び寄せ、主のことばがエレミヤに与えられたかと尋ねている。おそらく再びバビロンの包囲を受けて行き詰まった状況にある王が最後の奇跡を求めてエレミヤを呼び寄せたのだろう。王はこの国の支配者でありながら堂々とエレミヤを呼び寄せたのではなく、ひそかに彼に尋ねている。ゼデキヤは王の位にありながら人々を恐れ、不自由な中で神の真実の言葉を求めた。対照的にエレミヤは大胆に神の言葉を語ったがゆえに捕えられていたにも拘らず、王がひそかにエレミヤに与えられた神の言葉を求めた時、エレミヤはひるむことなく前と同じバビロンの手に王は渡されるという言葉を語り、さらに王が耳を傾けた偽預言者たちについて間違いを指摘し、王に牢獄へ戻さないように大胆に求めた。
 囚われの身でありながら大胆で揺らぐことのない確信に立つエレミヤと、王でありながら高官たちを恐れてひそかにしか行動できない王の姿は対照的である。エレミヤが落ち着いていられたのは世俗的な地位の故ではなく、主のことばをしっかりと握り、揺らぐことのない神との関係に立っているからである。私たちの土台は真の神にしっかりつながる揺らぎない土台としての信仰である。

2018/9/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ10: 7-9 賛美 新聖歌 316
 続いてイエスは「羊は彼らの言うことを聞かなかった。」と語られる。この箇所についてジョン・C・ライルはプレンティウスの見解を紹介している。「プレンティウスの見解では、私たちは主の「羊は彼らの言うことを聞かなかったのです」ということばから、神の民は一時的にせよ、決して偽りの教師に導かれゆくことはないと簡単に結論してはならない。時として彼らも欺かれたり誘惑されたりすることはあるが、ついには真理に立ち返るのである。」(ジョン・C・ライルは「(ライル福音書講解ヨハネ2P475聖書図書刊行会1987))と。前世紀中葉から奇跡を伴う信仰運動が盛んである。しかしイエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタ 7:21-23)と語っておられる。またヨハネ福音書9章の生まれつき盲人であった人の癒しの記事においては、その奇蹟を見てイエスを信じた人も、論争の中では不信仰な人々に数えられている。更にヨハネは黙示録13章において「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。」(黙13:8)と述べている。謙虚に、聖霊の証に従い、現象ではなく御言葉に生きよう。

2018/9/27(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書38:1-13 賛美 新聖歌291
 エレミヤは監視の庭にありながら民に対して公に主の裁きの預言を語ることができた。国際情勢がエレミヤの語る通りになり、エルサレムもまたバビロンの脅威にさらされる中、エレミヤを次第に尊敬する人々が増えてきたときであった。同時にエレミヤに激しく敵対してきた偽預言者と役人たちはエレミヤに対する敵意を深めていった。彼らは王の弱点を利用してエレミヤを捕え、水だめに釣り下ろすことで不当にエレミヤを殺そうとしたのである。しかしその企てを知ったエベド・メレクがゼデキヤ王に訴えてエレミヤを助けた。ここでもゼデキヤ王の弱点、優柔不断さ、そして正義にしっかりと立って明確な行動を起こせない姿が描かれる。
 ゼデキヤ王を見て私たちは何を知るのだろうか。神の前に歩む者が正義を行うために必要なことは地位や権力ではない。絶えず神の声を聞き分け、たとえどのような状況にあろうともその正しい御声に従ってぶれずに行動することである。この様な歩みを実践できるクリスチャンでありたい。

2018/9/28(金) 担当 高谷清師  詩 39:2 賛美 新聖歌 444
 この詩の作者は「わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」と語る。作者の前には「神に逆らう者」が立っている。彼らは不義によって権力を握り、富み栄え、時を得顔に振舞い、人々からほめたたえられ、有頂天になっている。このような状況を前にして作者は「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。わたしの口にくつわをはめておこう。」と決心する。この点について小畑進師は「いたずらに悪の横行に激昂することは、主の御支配をわきまえない点において、悪の道に通じるとわきまえれば、詩人は自戒して、特に身体のどこの部分よりも真っ先に火を吹き出しそうなおのれの口舌にくつわをかけて制御しました。」(小畑進 詩篇講録上P508いのちのことば社2007))と述べておられる。また、カルヴァンは「舌を抑制するのはきわめて困難であったので、その実例に即して、何かの災厄がわれわれを悩ますときには、いつでもわれわれの情念を抑えようと努力することを、学ぽうではないか。それは,神に対して不敬な不満を、うかつにも発することがないためである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑21新教出版社1971)と述べている。

2018/9/22(土)担当 高谷由紀子師 マコ 11:15-17 賛美 新聖歌 197
 イエス様はエルサレムに到着し、神殿の境内に入られました。そこでイエス様が目にされたのは両替人や鳩を売るって暴利をむさぼる人々でした。彼らが、聖なる場所を自分の肉の欲を追及する場として利用しているのをご覧になったイエスは、彼らを追い出し、「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」と言われました。
 神殿は神が臨在なさる聖なる場所であり、神を礼拝する場所でした。今日の教会も神を礼拝する場所であり、神との交わりの場所です。教会においては、肉の欲の追求ではなく、神と交わり、神の栄光を求めましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-09-16 22:59:27 (77 ヒット)
デボーションの友

2018/9/17 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:7-9 賛美 新聖歌 238
 7節においてイエスは「わたしは羊の門である」と語られる。イエスはまた「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ14: 6)と語っておられる。ぺトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と語っている。この箇所についてジョン・C・ライルは「イエスが宣言されたことは、ご自身が門であり、羊も羊飼いも神の囲いに入ろうとするなら、信仰によってこの門を通らねばならないということである。『もし神の群れに加わろうとするならば、すべての羊は例外なく私を通らねばならない。また神の群れの牧者のなろうとする者は誰でも、わたしを見てその職務につかなければならない。』(ライル福音書講解ヨハネ2P472聖書図書刊行会1987)」と述べている。
 イエスを信じる以外に救いはない。イエスを知るだけではなく、イエスを信じる信仰によって救いの恵みの内を歩もう。

2018/9/18(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書37:1-10 賛美 新聖歌282
37章からゼデキヤ王の時代に入るが、この時からエレミヤがエジプトに連れて行かれるまでの彼の苦難が客観的に記されている。バビロン王ネブカドレツァルによって王に据えられたゼデキヤはエレミヤの預言を聞く耳を持ち、二人の高官を送っている。当時バビロン軍は南からの支援軍であるエジプトを見て一時エルサレムの包囲を解いた。一時的に好転した状況でエレミヤに二人の使者を送ったゼデキヤ王は見通しの明るい預言を聞くことを期待していたかもしれないが、神は一時的に好転した様な状況が続くことはないと語られた。
 人は目の前の刻々と変わる状況に一喜一憂し、少しでも状況が好転すれば神の裁きが撤回されるという楽観的で根拠のない肯定的な期待を持つ。しかし裁きはそれによって変更されない。重要なのは刻々と変わる戦況ではなく、心からの悔い改めである。神の前にへりくだって罪を悔い改めることを神は求めておられる。

2018/9/19(水) 担当 高谷清師 ヨハ10: 7-9 賛美 新聖歌 252
 イエスは更に「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」と語られる。この箇所についてジョン・C・ライルは「「わたしは神に近づく道である。すべてわたしによって父のもとに来る者は、牧者であれ信徒であれ、わたしを通して平安と自由を見出し、魂のために尽きることのない食物を得ることができる。」(中略)「出入りし」という表現は、住居として自由に用いるという慣習を表しており、囲いを家のように使っていることを示す。これがヘブル人の考え方である。それは言うなれば、真の信者が喜びとする、キリストとの絶えざる交わりを美しく描写しているものと言える(ライル福音書講解ヨハネ2P475−476聖書図書刊行会1987)」と述べている。イエスを通って、イエスを信じて神のもとに行くとき、神との深い交わりに入れられ、神の満ち満ちる祝福に与ることが出来るのである。

2018/9/20(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書37:11-16 賛美 新聖歌165
 カルデヤ軍、すなわちバビロン軍がファラオの援軍を見て一時的にエルサレム包囲を解いて撤退した時、エレミヤには少しの自由が与えられた。郷里で必要な手続きをするために出かけて行ったエレミヤはすぐさま捕えられてしまう。これがエレミヤを捕えるための言いがかりだったのか、本当に彼が敵に投降することを恐れての措置であったのかは語られていない。しかし監禁されたエレミヤが受けた扱いは厳しいものであった。高官たちに痛烈な批判をしてきたエレミヤに、彼らは今敵意を露わにして彼を長期間拘束した。
 私たちは「神はどうしてエレミヤを即座に救出されず、苦しみの中に放置されているのか」と問いたくなる。たとえ神に従っている人であっても、神はこのような苦しみの状況にしばらく置いておかれることもある。神に従うことは常に人が求める最高の安全が約束される道ではない。それでも神に対して忠実であり得る秘訣は神への信頼である。

2018/9/21(金) 担当 高谷清師  詩 38:22-23 賛美 新聖歌 233
 ダビデは「主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。わたしの救い、わたしの主よ/すぐにわたしを助けてください。」と祈る。彼は自らが犯した過ちの故に神に打たれ、負わされた傷は膿んで悪臭を放っていた。そのような彼を、愛する者も友も避けて立ち、彼に近い者も、遠く離れて立つ有様であった。このような状況のなかでも彼は神に近付き、神の助けを求める。この箇所についてルターは「神は捨てられた者でないと、受けいれない。病人でないと、健康にしない。盲人でないと見えるようにしない。死人でないと、生かさない。罪人でないと、救わない。愚者でないと、賢者にしない。要するに、神は悲惨な者でないと、あわれまない。不遇のうちにいる者でないと、恵まない。それゆえ高慢な聖徒や賢者、あるいは義人は、神の仕事の材料になりえない。彼らは神のわざを自分のうちに受けいれないで、自分自身のわざにとどまり、自分自身を、外観上の、偽りの色づけをして捏造した聖徒、すなわち偽善者にする。」(マルティン・ルター 詩篇講解抄P187新教出版社1961))と述べている。真実に悔い改め、自らを低くする者を神は受け入れられる。

2018/9/22(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 21:20-23 賛美 新聖歌 337
死から復活された主は弟子たちに会い、三度「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。ぺトロが主に従って行き、振り向くと、共に主に仕えてきたエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えたので「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言いました。これに対して主は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われました。私たちが信仰生活を送っていくとき、周りの人のことがいろいろ気になります。あの兄弟はなぜ集会を休むのか、あの姉妹はなぜ奉仕をしないのか・・・。しかし主は「あなたは、わたしに従いなさい。」と言われます。周囲の人々に関係なく、自分と主との関係において全身全霊をもって主に従いましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-09-09 23:13:03 (68 ヒット)
デボーションの友

2018/9/10 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:1-6 賛美 新聖歌 389
 ファリサイ人たちが「我々も見えないということか」と言ったのに対してイエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と語られた。それに続いてイエスは「はっきり言っておく。」と言って語り始められる。この言葉を口語訳は「よくよくあなたがたに言っておく。」と訳しており、新改訳は「「はっきり言っておく。」と訳している。イエスが重大な事柄を話される時に語られる言葉である。この箇所では羊飼いと盗人・強盗についてである。当時のユダヤにおいては、牧羊は日常見られる光景であった。羊飼いたちは自分の羊を大切にし、一匹一匹名前を付け、朝、羊を囲いの門を通って連れ出し、先頭に立って導き、草を食べさせ、水を飲ませ、その間、あらゆる危険から守り、夕べには囲いの中に導き帰した。羊飼いたちは羊があらゆる危険から守られ、豊かに命を得る為に必要な、あらゆることを行ったのである。これが真の牧者の姿である。

2018/9/11(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書36:11-20 賛美 新聖歌436
 エレミヤ書を読んでいると同時代の真の預言者が命を奪われたり、エレミヤ自身も歓迎されなかったりということからエレミヤが完全に四面楚歌の状況にあったという印象を受ける。確かにエレミヤ自身、敵対する人々から様々な迫害を受けたり、語ることを妨げられたりするということを経験した。その中で、今日のテキストは驚くべき状況を伝えている。バルクがエレミヤを通して与えられた神のメッセージを聞いた高官の中に、この言葉を真剣に受け止めて王に伝えようとした人々がいた。更に彼らはエレミヤとバルクに危険が迫ることを予測して二人の安全を確保しようとした。
 これを読む時、最悪の時代、最悪の状況で真実を語ることについての一つの希望を見出す。誰一人神の言葉を真剣に受け取らないような状況、いやそれどころか真実を語ることによって身の危険にさらされるような時代でも、神が言葉を伝えようとされるならばそのために立てられた奉仕者が守られ、神の言葉が確かに聞くべき人に向けて語られる。私たちもこのことを信じてたゆまず福音を伝えて行こう。

2018/9/12(水) 担当 高谷清師 ヨハ10:1-6 賛美 聖歌 501
 一方、この箇所では盗人であり、強盗である者の姿も描かれている。彼らは門を通らないでほかの所を乗り越えて来る。彼らの目的は、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするため、つまり、羊の利益のためではなく、自分の利益のためである。イエスは羊について「ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」と言われる。ヨハネは真の羊飼いと盗人であり、強盗である者の見分けについて「しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。」(汽茱2:20)と述べている。ジョン・C・ライルは「真のキりスト者は霊的な直観力を持っており、それによって真の教えと偽りの教えとを識別することができる。彼らは健全でない教えを耳にすると、「これは間違っている」という内なる声を聞き、真理が語られる時には、「これは正しい」という声を聞くのである。鈍感な世の人々は、それぞれの牧師たちや説教に、どのような違いがあるかはわからない。これに対して、一般に、どんなに愚かなキリストの羊であっても、なぜ違うのかその理由は説明できないとしても、「違いを識別する」ことができるであろう。(ライル福音書講解ヨハネ2P459−460聖書図書刊行会1987)」と述べている。常に聖霊の証に耳を傾け、聖霊の導きによって歩もう。

2018/9/13(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書36:21-32 賛美 新聖歌389
 王に仕えていた役人たちの中にはエレミヤの預言を真剣に受け止めて王に伝えた人々がいた。しかしようやく王の耳に届いたこの言葉も王の心に届くことはなかった。王はこの言葉を聞きながら、読まれた巻物を破り、火に焼いた。これは王がどれほど神の言葉と神ご自身を軽んじていたかを雄弁に物語っている。王は書き記された言葉が成就するわけはないと侮っていたのだろうか。あるいは巻物を燃やすことによって語られた絶望的な将来が取り消されると考えたのであろうか。しかしどれほど人間が神の言葉を拒んだところで神の言葉はその力と権威を失うことはない。主は巻物を燃やしてしまった王に対してさらに具体的に彼自身の死と子孫についての災いを告げられる。そしてそれが歴史において成就する。
 人が何を企てようとも、神が権威をもって語られた主のことばはそれによって廃止されることはない。神の言葉は必ず成就するのである。怖れと真実をもって神の言葉に聞き従おう。

2018/9/14(金) 担当 高谷清師  詩 38: 17-21 賛美 新聖歌 394
 ダビデは「わたしは今や、倒れそうになっています。苦痛を与えるものが常にわたしの前にあり、わたしは自分の罪悪を言い表そうとして/犯した過ちのゆえに苦悩しています。」と告白する。この箇所についてカルヴァンは「信仰者が世俗的な人間と異なるのは、逆境を通じてみずからの罪咎を知らせられると、へりくだって、神のさばきの座に出頭する点にある。かくのごとく、しるしと結果とによって原因を思い見て、ダピデはふたつの事柄を一緒に包括する。すなわち、打ち倒され・転倒して、禍の重荷のもとに足が滑るということ、しかして、これらの災厄は正当な処罰であるということ、のふたつをひとつに結びつける。(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑16新教出版社1971)」と述べている。それに対して敵対者たちは、この機会をとらえて、強大になり、偽りを重ね、善意に悪意をもってこたえる。このような状況にあってダビデは「わたしの足がよろめくことのないように」祈る。
 この時点のダビデのような境遇に立たされると人は敵対者たちを非難し罵り彼らの不当を暴き、非難しょうと言う思いに駆られる。しかしダビデは神の御心を受け入れ、祈り、御手に委ねる。これが信仰者の道である。

2018/9/15(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 18:18-23 賛美 新聖歌 427
 金持ちの議員は財産も地位もあり、この世においては不測の無い、豊かな生活をしていました。しかし、自分の内で何か足りないものを感じていました。そこで主を訪ね、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。財産はこの世の生活においては安全と快楽をもたらすでしょう。道徳は栄誉と信頼を得させるでしょう。しかし、それらは永遠の命を受け継ぐ保証とはならないのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハ 14:6)と言われた主を信じる信仰だけが私たちに永遠の命に得させるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-09-02 23:08:01 (189 ヒット)
デボーションの友

2018/9/3 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:39 賛美 新聖歌 282
 イエスは「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と語られる。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハ 3:16-17)と述べている。それに続いて「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:18)と述べている。イエスは世を裁くために来られたのではなく、世が救われるために来られた。しかし、イエスの御名が伝えられる時、彼を受け入れる者に救いを得させ、拒む者を死に定める。私たちの宣教はこのように重大な意味を持つ。故に、宣教においては、御名以外に、十字架以外に躓きとなるものがあってはならない。

2018/9/4(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書36:1-4 賛美 新聖歌35
 36章にはエレミヤの言葉がどのようにして書き記されたかが記録されている。これが書き記されたのはヨヤキムの第四年、すなわち紀元前605年であった。この年にはパレスチナの支配権が南のエジプトから北のバビロンに移った。エレミヤにとっては最初から語り続けてきた「北からの敵」が姿を表してきたという時であった。神の言葉の実現が目に見えて迫ってきたときにエレミヤは危機感をもって神の指示の通りにこの言葉を書き記した。神が既に語ってこられた言葉をあらためて記録し、人びとに読める形で伝えられたことには明確な期待と目的があった。それはこの災いの預言を聞いた人々がそれぞれの悪の道から立ち帰ることへの期待であった。
 神の言葉は迫り来る危機を神が取り除くことによって人々の恐怖を拭い去ることを目的として書かれたのではなく、人びとの罪の結果としての避け得ない裁きを告げられた時に、自分の罪を認識して立ち帰る―悔い改める―ために書かれている。義に導くのに有益な神の言葉(競謄皀3:16)である聖書をこのようなものとしてもう一度読み直したい。

2018/9/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:40-41 賛美 新聖歌 38
 39節のイエスの言葉を受けてファリサイ派の人々は、「我々も見えないということか」と言った。それに対してイエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と言われた。ファリサイ人たちは、律法とその知識に精通していることを誇り、それをもって十全とし、謙虚に真理に耳を傾けることが出来なくなっていた。それによって彼らは「見える」と主張しながら盲目になったのである。
 20世紀から現代にいたる時代は科学万能の時代である。20世紀半ばに少青年時代を過ごしたわたしは、科学が発達した時代においては科学によって証明されないものは無いと考え、神秘的なもの、霊的なものはすべて迷信として退けた。科学によって、人間の知恵・知識によっては解決できない問題に遭遇するまでは。
 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」これは現代に対する神の警告の言葉でもある。

2018/9/6(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書36:5-10 賛美 新聖歌38
 エレミヤの預言がバルクの手で書かれた時、エレミヤはバルクにそれを主の神殿で朗読するように命じた。朗読の日は断食が布告される日であった。この日にはエルサレムの住民だけではなく、ユダの町々の民も神殿に集まっていた。神の言葉は一部の祭司たちやエルサレムの限られた人数の人々のためにだけ朗読されたのではなかった。多くの人々が読み上げられた神の言葉を聞くことができるようにこの日が選ばれた。そしてこの断食の日に読み上げられたということは断食の日が示す通り、これを聞いた人々がそれぞれこの言葉に応答して立ち帰り、悔い改めることが期待されていたのであった。
 神の言葉は解釈されて宣言された説教を通して人々に届けられ、また、記された文書、書物を読むことによって人々に届けられる。限られた権力者にだけ伝えられるものではなく、すべての人に語られ、それを聞いた人々に言葉への応答を促すものであった。私たちも主の御言葉に応答して主と共に歩もう。

2018/9/7(金) 担当 高谷清師  詩 38:14-15 賛美 新聖歌 279
 16節を新改訳(15節)は「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。」と訳し、カルヴァンは「なぜならば、主よ、わたしはあなたを待ち望むからです。わが主、わが神、あなたはわたしに筈えられるでしょう。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑14新教出版社1971)と訳している。逆境に立たされたダビデを見て、彼を避けて立つ愛する者、遠く離れて立つ近親者、命をねらって罠を仕掛ける者、欺こう、破滅させよう、と決めて一日中それを口にする者、ダビデに災いを望む者達を前にしてダビデは沈黙を守った。ダビデが沈黙を守ることの出来た力の源泉は、神がダビデの祈りに答えてくださると言う信仰であった。神は「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩 50: 15)と約束しておられる。またパウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:3-5)と述べている。主に信頼して歩もう。

2018/9/8(土)担当 高谷清師 マタ 8:5-10 賛美 新聖歌 347
 一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。これを聞かれたイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。これに対して百人隊長は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と答えた。この答えを聞かれたイエスは感心して「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と言われた。
 主は「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタ 7:21-23)と語っておられる。神の求められる信仰は御言葉を聞いてそれを行うことである。


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