投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-03-11 23:03:59 (93 ヒット)
デボーションの友

2018/3/12(月) 担当 高谷清師 ヨハネ7:32-36 賛美 新聖歌 178
 31節には、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いたことが記されている。群衆がイエスについて「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」とささやいているのを耳にしたファリサイ派の人々は、祭司長たちと共に、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」と言われた。この言葉は、イエスの時――十字架の時――がまだ来ていない、しかし目前に迫っていることをあらわしている。イエスは神によって遣わされ、神のご計画――贖いの御業――を成し遂げた後神の許に帰られる。イエスが神の御許に帰られた後は、イエスを信じない者たちはイエスを捜しても、見つけることが出来ず、イエスの許に行くこともできない。
パウロは「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(競灰6:1-2)と述べている。神のご計画のうちに人となられたイエスが地上を去られたように「恵みの時、救いの日」も閉じられる。その時まで固く信仰に立とう、御言葉を伝えよう。

2018/3/13(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:7-8 賛美 新聖歌19
 イスラエルの長い歴史の中で彼らを支えてきた救いの体験が出エジプトであった。奴隷の地での呻きを聞いた神が、指導者を送り、神の奇跡の業をもって当時の大国であったエジプトから導き出してくださった。これによって彼らは主こそが真の神であると知った。後ろから追ってくるエジプト軍を紅海で壊滅させ、その後の旅路で恵みを与えてくださった神を知った人々は、シナイ山で神に従うという契約を結び、神の民となり、何百年も歩み続けてきた。しかしエレミヤの時代に国を失い、神を信じる人々が契約に基づいて細々と民として生き延びている時代に、神はかつての大きな救いの経験以上のさらに大きな主の救いの御業を与えて彼らを導き上られるという。
 人々が希望の見出せない状況に陥り、そこから抜け出す方策もすべてなくなった時、彼らを救い出すことができるのはただ神だけである。そして神は神に従う者を決して見捨てられることはない。希望がなく行き詰まった時にこそ希望を与えてくださるのが私たちの神である。

2018/3/14(水) 担当 高谷清師 ヨハネ7:37-39 賛美 新聖歌 408
 ヨハネは『祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と記している。仮庵の祭りは八日間に亘って行われた。この祭りはユダヤの三大祭の一つであり、しかも一年の祭の最後の祭りであった。離散のユダヤ人をはじめ、多くの人々を集めて連日儀式が盛大に、秩序正しく、行われた。この祭りを企画し、執行した人々は何の落ち度もなく成し遂げた。それは申し分のないものであった。しかし、参加した人々の心には一抹の虚しさ、満たされない渇きがあった。イエスもこの祭りに参加しておられた。イエスは人々のこの渇きを見て大声で叫ばれたのである。イエスの心情は如何なるものであっただろうか。私たちの渇きを癒し、心を満たし、命に溢れさせ、愛と喜びと感謝の歩みに導くのは生きた水、聖霊の満たし以外に無いのである。

2018/3/15(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:9-12 賛美 新聖歌446
 続いて預言者達について記されている。神のことばを取り次ぐ指導者である彼らが主に忠実に仕えることを人々は期待する。しかし彼らについての主のことばを聞いたエレミヤは喜ぶのではなく、彼の心臓は破れ、骨は力を失う。エレミヤが預言者について聞いた現実とは姦淫が満ちているということであった。現実的な姦淫の罪であるかも知れないし、また偶像礼拝を指すのかもしれない。いずれにせよ彼らの間に蔓延する罪はとどまることなく、国中に広がり、国土や自然も破壊されるほど甚だしい。聖別されるべき神殿にさえ悪が満ちている。神殿は神の臨在の場所であり、真の神・主を礼拝する場所であった。その場所が姦淫その他の罪に満ちている。まさに心臓部が罪によって汚されている。さらにそれを主が宣言されている。当然それに対する報いは主から受ける罰である。
 罪を犯しても神の罰を受けない限り安心しきってはいないだろうか。罪を犯しても裁きを受けていないからと言って神が罪を許容しておられるわけではない。神は罪人が悔い改めて立ち帰るのを待っておられる。私たちの内に告白し悔い改めるべき罪があるなら、今主に告白し、赦しを得よう。

2018/3/16(金) 担当 高谷清師  詩37:5-6 賛美 新聖歌 394
 人生の成熟期を迎えた詩人が、悪事を謀る者や不正を行う者の理不尽な行いによって苦難の歩みを強いられた生涯の前半をふり返りつつ、「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。」と詠う。苦難の日々にも、信仰によって自らの歩みを主に委ねる時、主は御心に従う者の歩みを導き、全うさせてくださる。更に、彼の真実な歩みは不正を行う者の塵芥に埋もれているとしても、時至れば主は彼の義を明らかにし、輝かせてくださるのである。主に信頼し、常に真実に歩もう。

2018/3/17(土)担当 高谷由紀子師 マコ14:3-9 賛美 新聖歌 391
 イエス様がべタニアの重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたときのことでした。突然、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけました。居合わせた人々の何人かが「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と言って彼女を厳しくとがめました。それに対してイエスは「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」言われました。この女は信仰によって行動し、愛と誠をもって仕えました。それがはからずもエスの葬りの備えになったのです。自らの損得勘定ではなく、愛と誠こそがイエスに仕える道なのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-03-04 23:42:16 (88 ヒット)
デボーションの友

2018/3/5(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7: 25-31 賛美 新聖歌 344
 議論を重ねていたエルサレムの人々は「わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」と言っていた。これに対してイエスは「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」と語られる。エルサレムの人々はイエスの出身地と地上を歩まれるイエスについて知っていた。しかしイエスが神から遣わされたお方であることと、イエスを遣わされた神を知らなかった。ぺトロにイエスが「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われた時ぺトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。これに対してイエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタ 16:17)と言われた。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰12:3)と述べている。真にイエスを知ることが出来るのは祈りと聖霊によるのである。イエスを深く知ろう。

2018/3/6(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:1-4 賛美 新聖歌38
 22章の最後の部分ではユダの王が罪を指摘され、最終的に神に追放されると述べられ、23章はその王に対する言葉を受けて書かれている。この冒頭の箇所では牧者が厳しく叱責されている。彼らは羊を追い散らすだけで世話をしなかった、すなわち本来の職務を果たさないどころか、真逆のことを行っているという。ここでは牧者と呼ぶことによって王個人だけではなく、王周辺にいた指導者たちをも指している。神に指導者として立てられた者には、神の御心に従って与えられた職務を遂行するという責任が伴う。しかしユダの指導者たちはそのことに失敗した。彼らは権力と名誉を満喫しながら、神の僕であることを忘れて神の御心を行うよりも、自分たちの持つ能力と資源によって民を誤った方向に導いた。その結果国を失って苦しんだのは民であった。それ故に神は民を救済されるのである。
 神によって立てられて責任を与えられているということは権力を味わい、名誉欲が満たされることを喜ぶことではない。神の御心を知り、民を正しく導くという大任を果たすために日々神の前にへりくだって神に従うということである。今日も神に仕えるリーダーたちは折に触れてこのことを思い起こさなければならない。

2018/3/7(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7: 25-31 賛美 新聖歌 166
 「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」というイエスの言葉を受けて人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。それは「イエスの時はまだ来ていなかった」からである。祭りに登って行くよう促した兄弟たちに対しイエスは「わたしの時はまだ来ていない。」(ヨハ 7: 6)と答えておられる。そして12:23では「人の子が栄光を受ける時が来た。」と語っておられる。ヨハネは「過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハ 13: 1)と記している。また、ゲッセマネの園での祈りを終えられた主は「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」(マコ 14: 41)と語っておられる。「わたしの時」とはイエスが十字架に上られる時、イエスが栄光を受けられる時である。その「時」は神の支配下にあり、神の許しなしには人はイエスを捕らえることも十字架につけることもできない。それは、イエスの十字架は神の御業であることを示している。

2018/3/8(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:5-6 賛美 新聖歌254
 神は民が連れ帰られたときにダビデの家系から新たな王を起こされる。ユダ王国を長きにわたって治めてきた王権が主に取り除かれた後、神は民を放置されることなく、責任をもって新しい王を立てられる。たとえユダの王権が倒れたとしても、遥か昔、神がダビデに与えられた契約は破棄されていない。新しい王は正義と恵みをもって治める。ユダ王国滅亡期の王ゼデキヤの名は「主は正義」であったが、彼は主ではなくバビロンが自由に操るために据えた王であった。その王を神が取り除かれた後に、本来彼が行うはずであった正義の執行を遂行する王を神ご自身が選ばれる。この神に選ばれた王だけが本当の意味で正義と恵みの業を行い、救いをもたらすのである。
 人は神の御心からそれて自分勝手に歩み、その結果神のご計画をゆがめてしまう。神は忍耐強く人を正しい道に連れ帰ろうとされるが、人がそれを拒む時、神はご自身の権威をもって悪を行う者を排除し、ご自身の正しい計画を再度行われる。ここに正しく歩む人々の希望がある。時々の状況に迎合するのではなく、常に神の御言葉を通して神の御心を知り、正義を行おう。

2018/3/9(金) 担当 高谷清師  詩 37:3-4 賛美 新聖歌 281
 悪事を謀る者や不正を行う者が権力を掌握し、神に従う者を圧迫し、繁栄を謳歌する現実を前に心揺れる信仰者に対し詩人は「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。」と語る。この箇所をフランシスコ会訳聖書は「ヤーウェにたよって善を行ない、地に住んで豊かさを楽しめ。」と訳し、「地」に『「地」は「約束の地」のこと。特に、神がご自分の民に与える恵みの象徴、また、神が民とともに住む所をさす。山上の説教では、「天の国」、「神を見る」、「神の子と呼ばれる」 などの並行語となっている』と注釈を付している。詩人は更に4節で「主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」と詠う。「主に自らをゆだねよ」と訳された箇所を口語訳は「主によって喜びをなせ」、新改訳は「主をおのれの喜びとせよ」岩波訳は「ヤハウェを喜びとせよ」フランシスコ会訳は「ヤーウェゆえに喜べ」としている。
 主イエスは「神の国はいつ来るのか」と尋ねるファリサイ派の人々に「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ 17:21)と答えておられる。人が主イエスに対する信仰によって歩むとき罪赦され、救われ、御国の民とされているのである。常に信仰によって歩もう。

2018/3/10(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ16:33 賛美 新聖歌 459
 イエスは十字架に架かり世を去る時が近づいたことを思い、世に残される弟子たちが苦難に遭うことを知って弟子たちを励まし、ご自身がすでに勝利されたことを示されました。
 キリスト者として忠実に歩もうとする者は誰でも信仰の故の苦難に直面するのです。その時私たちはイエス様を見上げましょう。イエスは私たちの罪の故に苦難に遭い、十字架に架かり、死んで葬られました。しかし神はイエスを甦らせてくださいました。イエスは最後の敵である死に勝利されたのです。それは私たち信じる者に対する勝利の保証です。如何なる苦難に遭遇する時にも勝利者であるイエス様を見上げつつ、勝利の歩みをしましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-02-25 23:14:29 (79 ヒット)
デボーションの友

2018/2/26(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7: 25-31 賛美 新聖歌 344
 この箇所には祭りのためにガリラヤから登ってきた群衆とは違う「エルサレムの人々」が登場する。彼らは指導者たちがイエスを殺そうとしていたことを知っていた。しかしイエスが神殿の境内で公然と教えておられるのに何も言われないのを見て「議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」と考える者も現れ始めた。そして彼らの間で議論が始まった。ユダヤの人々にとってのメシアは、ダニエルが「夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み」(ダニ 7:13)と記しているように、超自然的に現れるものであり、マラキ書が「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(マラ3:1)と記しているように突如としてあらわれるものであった。しかし彼らはイエスの出自を知っていた。それによって彼らはイエスをメシアと認めることが出来なかった。
 イエスは彼らに「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。」と言われる。エルサレムの人々はイエスを肉において知っていたが、霊において知らなかったのである。イエスのまことの姿は信仰によってのみ、知ることが出来る。

2018/2/27(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書22:20-23 賛美 新聖歌396
 ここでは王個人の将来ではなく、エルサレム全体の将来が見通されている。20節にはこの町の北、東、南にある地域の名があげられている。これらの地はかつてイスラエルに与えられると約束された土地であったが、エレミヤの時代にはもはや彼らが足を踏み入れることができない場所であった。エルサレムが栄えていたころには彼らは神の警告や律法に耳を貸さなかった。自分の力で何でもできると思っていた彼らは、自由を奪うように見える神の導きに耳を貸さなかった。その結果、彼らには避けられない罰としての恥が待っている。
 物事が調子よく進むときには神に頼らず、神の導きに耳を傾けず、戒めを蔑ろにする。神を自分の王とするのではなく、自分が自分の人生の主となってしまう。その結果最終的には罰を受ける。はるか昔のイスラエルだけにかかわる話ではない。祝福を受けているときも、私たちは常に主の御手で守られている者であり、主に仕えて従うべきことを忘れずに歩もう。

2018/2/28(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7: 25-31 賛美 新聖歌 201
 イエスは「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。」と語ってご自分をあらわされる。先ず、イエスは遣わされた者であることを明らかにされる。遣わされた者であるイエスは「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。(ヨハ 5: 19)と語っておられるように常に父なる神の御心を行われた。またゲッセマネの園で「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マコ 14: 36)と祈られたように、父なる神の御心に従順であられた。パウロが「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:6-8)と述べているとおりである。私たちも御子の血潮によって贖われ、神の子とされた者として常に神に従順な者でありたい。

2018/3/1(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書22:24-30 賛美 新聖歌343
 ユダの王は神に選ばれて立てられた。しかし24節では指輪の比喩を用いて神がコンヤ(エホヤキン、ヨヤキン、エコンヤなどとも呼ばれる)を選ぶのではなく、捨て去ると言われる。民の目にはこの王こそ神に選ばれた者であったから、他国に捕らわれることなど考えられなかった。しかし実際の歴史において彼は家族ともども捕囚の地に連れられて行き、彼の子孫は誰一人としてダビデの王座についてユダを治めた者はいなかった。神が「捨て去る」と言われた言葉は成就したのである。
 神の選びとは何だろうか。一度選ばれたらそれが永遠に続くと私たちは考えたい。もちろん神は気まぐれによってころころと変わるような方ではない。しかし神の者とされていながら神を無視して自分の思うままにことを進め、神の御心にかなわないことを行い続けるなら、神はその者を「見捨てる」という選択もなさるのである。私たちは神との関係の中で生かされている。この関係を正しく保つためには私たちが神の声と導きに耳を傾け、日々応答することが必要である。

2018/3/2(金) 担当 高谷清師  詩 37:1-2 賛美 新聖歌 281
 神が全能者であり義なるお方であるなら、神に従う者が繁栄を享受し、神に逆らう者、神を信じない者が苦難を受けることは信仰者の要請である。しかし、世の現実はそれとは逆である。ダビデは人生半ばにして不条理な現実から解放された。しかしヘブライ人への手紙が記すように、不条理な現実のもとで、悪事を謀る者や不正を行う者たちの手によって、世においては報われること無く非業の死に追いやられた信仰者も多い。このような現実を前にして信仰者に二つの誘惑が忍び寄る。その第一は「いら立ち」である。この箇所を口語訳とカルヴァンは「心を悩ますな」、新改訳は「腹を立てるな」A.ヴァイザー(ATD)は「憤るな」と訳している。第二は「うらやむ」ことである。この語を口語訳と新改訳は「ねたみ」、カルヴァンは「嫉妬」ATDは「嫉むな」と訳している。「神なぞいるものか」と豪語して生きる者の繁栄を見て、彼らに苛立ち、憤りを覚え、彼らをうらやみ、彼らに倣おうとして秘かに信仰を捨てることがあってはならない。何故なら「彼らは草のように瞬く間に枯れ、青草のようにすぐにしおれる。」からである。ルカが記すラザロの物語は、彼らが繁栄の内にこの世の生涯を終えたとしても、滅びに至ることを示している。固く信仰に立って歩もう。

2018/3/3(土)担当 高谷由紀子師 マコ 14:66-72 賛美 新聖歌 32
 ぺトロは力を込めて「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(マコ 14:31)と言い張りました。しかし主が捕えられ、裁判の席に着かれる事態に至ると「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と言う人々の言葉に狼狽して三度もイエスを「知らない」と言いました。人間の決心はこのようにもろいものです。しかしその後ぺトロは本心を取り戻し、悔い改めました。それによってイエスに留まることが出来ました。ぺトロと同じ弱さを持っている私たちも罪を知ったならすぐに悔い改めて主に立ち返りましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-02-18 23:20:10 (73 ヒット)
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2018/2/19(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:19-23 賛美 新聖歌 238
 イエスは群集に対して「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」と言われる。5章にはユダヤ人たちがイエスに殺意を抱くようになった次第について、「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」(ヨハ 5:18)と記されている。ユダヤ人たちはイエスの律法違反を根拠に、イエスに対する殺意を抱いたのである。それに対してイエスは「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。」と言われる。律法はイスラエルに生まれた男の子には八日目に割礼を施すことを命じており、一方、安息日に関しては「安息日を心に留め、これを聖別せよ。七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」と命じている。これに関連してラビたちは安息日であっても割礼を施すことを命じていたのである。それ故イエスは安息日であっても癒しの業を行うことの正しいことを語っておられるのである。

2018/2/20(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書22:10-12 賛美 新聖歌38
 ヨシヤ王はバビロンの手でユダが滅ぼされる約40年前のエルサレムにとって大きな望みであった。当時の王とは違って神を信じて、神に忠実に仕えて国内から偶像を取り除いたヨシヤ王の時代に、国は栄え、回復の兆しが見えた。その時突然エジプトとの戦いにおいてヨシヤ王が戦死した。この王に人々は一縷の望みをかけた。しかしエレミヤはその王のために泣くことを禁じ、ヨシヤに代わって立てられたシャルムに目を向けるように語る。しかし、このシャルムの治世は喜ばしいものにはならない。エジプトに連れ去れられたシャルムはそこで死ぬと語られる。
 最後の望みを託せる王が戦死して、次の王も捕囚とされた国民が求めていたのは神の守りの保証と励ましだった。神はそのことをご存知であったが、民が悔い改めて神に立ち帰らない限り、神がエレミヤを通して気休めに過ぎない空想の希望を語られることはない。神のことばは常に人々の信仰の本当の姿を示し、神との正しい関係に連れ帰るものである。私たちも本当の神のことばを聞き分け、従って行こう。

2018/2/21(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:24 賛美 新聖歌 399
 イエスは「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」と語っておられる。律法の専門家が「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と問うたのに対し、イエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタ 22:37-40)と答えておられる。律法には様々な規定が事細かに定められている。それらすべては神と人への愛によって全うされなければならないのである。今日の一日を聖霊によって注がれた神の愛によって生き抜こう。

2018/2/22(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書22:13-19 賛美 新聖歌366
 シャルムに次いで王になるエホヤキムに対する言葉であろう。エホヤキムは外国の壮麗な宮殿に住む王たち同様に、自分のために立派な宮殿を建てた。この華美な建築物によって自分の力を誇示し、外国の強大な王たちと競おうとしたのであろうか。しかしこれに対して神は「災いだ」と語り、この大きな建築プロジェクトの陰で忘れ去られている貧しく、苦しむ者に目を留めておられる。神に選ばれた王のなすべきことは華美な生活を求めることではなく、貧しいものや社会的な弱者を保護することを通して正義と公正を保つことである。イスラエルの歴史を通じて預言者達が語り続けてきたことである。
 神の前で、神に仕えて生きるということは自分の快適な生活を追求し、荘厳な建物、華美な持ち物に囲まれて富を誇示することではない。むしろ弱者に心を留めて助けの手を差し伸べることによってあらゆるときに神の憐れみと愛を人々に分かち合うことである。今日も神と共に生きよう。

2018/2/23(金) 担当 高谷清師  詩 37:1-40 賛美 新聖歌 321
 今回から詩篇37編に入ります。この詩についてA. ヴァイザーは「神を信じない者たちの存在と〔傍若無人な〕ふるまいによって敬虔な者たちの心にさまざまの誘惑と葛藤が生じ、憤りや嫉み、貧窮や苦難、人間への恐れ、神の働きと義への疑い、道徳的服従への倦怠を彼らが覚えようとも、神への信頼と服従をつらぬくように、と。至るところで作者は、いかなる場合にも損なわれることのない、神への正しい信頼に導こうとしている。」(ATD旧約聖書註解詩篇上P411ATD・NTD聖書註解刊行会1983)と述べている。更に「ここに窺われるのは、思慮深い円熟した姿と、数々の苦闘や経験を通して獲得され試された堅忍不抜の信仰であって、その信仰の力が簡潔で明噺な形にもられている。」(同書P412)と述べている。また、北森嘉蔵師は「三七篇は典型的な神信頼の詩で、その恵みの高さは山のごとくだというわけです。」(北森嘉蔵 詩編講話上P142教文館2004)と語っておられる。
 神が全能者であり、義なるお方であるなら神に従う者が繁栄を享受し、神に逆らう者、神を信じない者が苦難を受けることは信仰者の要請である。しかし、世の現実はそれとは逆である。この現実を前にして信仰者の心は揺らぐ。この詩篇はそのような現状の中にあってなお、神の真実を示している。信仰を強められ、最後まで神に従おう。

2018/2/24(土)担当 高谷由紀子師 マタ 16:13-17 賛美 新聖歌 490
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。あらためてイエスが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われるとシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。イエスはこの答えを喜び、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われました。パウロは「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰 12: 3b)と述べています。常に祈り、御霊の光の中で御言葉を聞きましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-02-11 23:41:43 (90 ヒット)
デボーションの友

2018/2/12(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:16-17 賛美 新聖歌 282
 「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言う問いに対してイエスは「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」と答えておられる。「この方の御心を行おうとする」という言葉についてジークフリート・シュルツは「この場合、倫理的に解釈してはならない。というのは、ヨハネによれば問題は、世の裁きにおいて人の子に受け入れられるための条件として道徳的諸要請を満たすということではなく、信仰以外の何物でもないからである。六章39節の場合と同じくここでも、神の要求する業、つまり神に遣わされた者としてのイエスに対する信仰が、問題にされているのである。信じるということは、ヨハネによれば、神の意思を行うこと以外の何物でもなく、これが信仰の服従である。」(NTD新約聖書註解(4)ヨハネによる福音書P215NTD新約聖書註解刊行会)と述べている。イエスの教えイエスを遣わされた神ご自身の教えであった。それは信仰によらなければ知ることはできない。

2018/2/13(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書21:11-14 賛美 新聖歌166
 王に対する厳しい預言が語られている。ここでエレミヤが「ユダの王家」(21:11)という時、それは国を治める要職に就いている王族ばかりを指しているのではなく、宮廷において政権運営を担っているすべての人々をも含んでいる。当時、ユダの王家は攻め寄せる敵からエルサレムを守るために守りをより強めようとして王宮建築に取り組もうとしていた。国の指導者たちにとって拠り所となっていたのは南東の崖に囲まれた、ほとんど難攻不落な要塞であった。彼らは自分たちの権力と自分たちが作った日常を守る要塞という道具により頼み、神に頼ることをおろそかにしていた。人々を導くことにおいても「正しい裁き」(21:12)は行われてはいなかった。
 主が求められる正しい裁きとは、裁く者にとっての都合の良い裁きではない。それは神と神の戒めを基準とした、搾取され、虐げられている人々を救い出す裁きである。日々の歩みの中で主に頼り、主の基準に従って物事を判断することをこそ、神は喜ばれる。

2018/2/14(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:18 賛美 聖歌 273
 イエスは「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」と語られる。パウロは主イエスの御生涯について「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:6-8)と述べている。主イエスは神に遣わされた者として、自らの栄光を求めず、只管神の御心に従順に歩み、神の栄光のみを求められた。私たちもそのように歩みたい。聖書の預言者の時代と同じく、「神に召された」「神に遣わされた」と言いながら、自分を語り、自らの栄光を求める偽伝道者の如何に多いことか。それは教派、教団と言った所属団体によっては判別出来ない。地位、身分によっても判別できない、聖霊の証によってのみ判別できるのである。「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」(汽茱 2: 18)と言う警告を心に留めよう。

2018/2/15(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書22:1-9 賛美 新聖歌275
 続けてエレミヤは人々が集まっている王の宮殿で神のことばを語る。おそらくエレミヤは毎年行われる王の即位の祭の日に語るよう命じられたのであろう。人々が喜び祝う中で厳しい言葉を語るエレミヤは人々にとっては招かれざる客であった。エレミヤが語ったのは目新しいことではない。イザヤなど他の預言者も語り続けてきたことを、全くそれらを心に留めない人々に再び語っている。栄えていた国が廃墟となる時、人びとは「なぜ主は、この大いなる都にこのようになさったのか」(22:8)と問われると、守りが固められていなかったからとか、外交が下手だったからと答えるだろう。しかし聖書が語る理由は一貫して「彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ」(22:9)という。人は自分の努力によって自分を守ろうとする方がより確実で安心感が得られると考える。しかし神によると、賢く立ち回って保証を得ることは自分自身を救う手段とはならない。
 神のことばを聞き、神にのみ仕えることが私たちの力である。

2018/2/16(金) 担当 高谷清師  詩編詩 36:13 賛美 新聖歌 196
 「神に逆らう者」の悪について語り、それにもかかわらず注がれている神の恵みを明らかにしたダビデは、神を知る人、心のまっすぐな人の上に恵みの御業が常にあるように、また彼らが神に逆らう者の手から守られるように祈った。その祈りの中で確信へと導かれる「悪事を働く者は必ず倒れる。彼らは打ち倒され/再び立ち上がることはない。」と。この箇所についてカルヴァンは「ダビデはその祈りによって確信を抱き、その求めることがすでに得られていることを、少しも疑わない。同様にわれわれは,信仰の確かさが、いかに聖徒らをして祈りへと向かわしめるか、を知るのである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅451新教出版社1970)と述べている。主イエスは枯れたいちじくの木について「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マコ11: 24)と教えておられる。神との対話の中で確信に導かれた祈りは既に聞き入れられているのである。

2018/2/17(土)担当 高谷由紀子師 マタ 19:13-15 賛美 新聖歌 490
 人々がイエスに手を置いて祈っていただくために、子供たちを連れて来ました。イエスの手は、目の見えない人の目を開き、足の不自由な人を立たせ、歩ませ、悪霊に憑かれた人を解放したことを人々は知っていたからです。しかし、弟子たちはイエスを煩わせてはならないと思い、この人々を叱りました。これを知られたイエス様は「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と言い、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られました。イエス様は「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハ 6: 37)と語っておられます。十字架の血潮を仰ぎつつ、主に近く歩みましょう。


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