投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-10-21 23:43:51 (4 ヒット)
デボーションの友

2018/10/22 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:16 賛美 新聖歌 238
 イエスは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と言われる。ファリサイ人や律法学者たちはユダヤ人だけが神に選ばれた民であり、神の約束にあずかる唯一の者であると考えていた。パウロは当時の異邦人について「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」(エフェ 2:11-12)と述べている。ユダヤ人からこのように言われていた異邦人も、イエスにおいては、ご自分の民であり、イエスは彼らのためにも十字架に架かって下さったのである。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」(創18: 18)と語られているように、地のすべての人々はキリストによって神の祝福に入れられるのである。

2018/10/23(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:1-6 賛美 新聖歌345
 エレミヤのもとに民がやって来て今後の対応について神に尋ねてほしいと申し出た。これまでエレミヤが語り続けてきた神の言葉に全く耳を貸さなかった人々がここに願い出ていることは驚きである。彼らは真剣に求めている。最初はエレミヤの神である主に祈ってほしいと語っていたが(42:2)、エレミヤが彼ら自身の神であることを強調するにつれて(42:4)、神が自分たちの神であると言っている(42:6)。神は誰の神なのかという表現はここで起こっている事態の中では取るに足りない小さな出来事であるかのように感じられる。しかし民が神を「我々の神」であると認識することは彼らと神との関係性を示している。信仰がない者に「主は私たちの神です」と告白することはできないからである。
 42章の終わりでは結局民は神の御言葉に従うことはなかった。しかしそれ故にこのひと時、垣間見えた神に従うという意志は単なる演出であったとは断言できない。人の心は絶えず揺れ動き、信仰も不安定になることがある。それゆえ日々聖霊の導きを求めて今日も神の御心を求めて従うことができる者としていただこう。

2018/10/24(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:16 賛美 新聖歌 266
 続いてイエスは「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と語られる。パウロは「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エペ 2:14-18)と述べている。
 人はキリストにおいて互いに平和を得、一つとされるのである。キリストによって歩もう。

2018/10/25(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:1-6 賛美 新聖歌155
 民が神の御心を聞いてほしいと願った時、エレミヤは即座に承諾して神の言葉の一部だけをかいつまんで民に伝えるということはしなかった。エレミヤは彼らの申し出を承諾し、主に祈ると答えたが、絶対に神が確実に民の行くべき道を示されるとの根拠のない確約は与えなかった。ただ、もし主が答えをくださる、ならそのすべての言葉を民に伝えると約束した。罪に満ちた時代に正しく神の言葉を聞き取り、民に伝え続けたエレミヤは当然神の答えを聞くと私たちも期待するが、エレミヤは期待に応えて神が答えられるのは当然だとは考えていない。また神の言葉を聞いたならばそれを余すところなくすべてを伝えるべきことを認識していた。
 神の言葉を聞き取り、語ることの責任の重さを再度考えさせられる。み言葉を取次ぐ説教者達はいつも神の前にへりくだって聖霊に導かれて真理を語らなければならない。今日の時代に様々な預言をするという者は、本当に神の言葉を正しく聞き取って神の言われたことだけを伝えねばならない。神の言葉であると主張しつつ自分の思いを語る誘惑はいつの時代にも存在するのだから。

2018/10/26(金) 担当 高谷清師  詩 39:9-10 新聖歌 384
 詩人は「あなたに背いたすべての罪からわたしを救い/神を知らぬ者というそしりを/受けないようにしてください。」と祈った。彼は自らに降りかかった艱難が自らの罪咎によるものであり、それが神から出たものであることを知った時、「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。」と語る。カルヴァンは「神の力強いみ手のもとに身を低くし、これに逆らって抗弁することなしに、神のさばきに服することが、われわれの信仰の重要な修練のひとつであることを、われわれも知ろうではないか。さらにまた、人間が平静に、また安らかな魂をもって、神に従うのは、彼らが神はその欲せられることすべてを、絶対的な大能をもってなしとげられるだけでなく、正しいさばき主であられることを.きわめて堅固に確信する時である。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑27新教出版社1971)と述べている。ヘブライ人への手紙は「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブ 12:5-11)と述べている。主の鍛錬を、感謝をもって受け入れ、耐え、主の栄光をあらわす器と変えられよう。

2018/10/27(土)担当 高谷由紀子師 マコ 7:24-30 賛美 新聖歌 302
 フェニキアの生まれの女は異邦人であり、神の恵みの約束の外に生きる人であった。この女が汚れた霊に取りつかれた幼い娘を癒していただくために主イエスのところにやって来た。主はこの異邦人の女に対して最初は「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と答え、ユダヤ人が優先であると言われた。ところが、女は、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と言い、ユダヤ人が優先されることは認めながらも、異邦人も心をとめていただくよう、熱心に求めた。主イエスはこの女の熱心な信仰に応えて娘を悪霊から解放された。契約によってユダヤ人に限定されていた神の恵みはイエスキリストによって全世界の人々に及ぼされたのである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-10-15 00:12:27 (10 ヒット)
デボーションの友

2018/10/15 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:14-15 賛美 新聖歌 233
 イエスは「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」と語られる。イエスはご自分の羊を知っておられる。それも―父なる神が御子を知っておられ、御子が父なる神を知っておられるように―である。三位一体の奥義については、到底人間の理解力の及ばない事柄であるが、そのような深さにおいてイエスはご自分の羊を知っていて下さるのである。また「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」(マタ10:30)と語っておられる。
 イエスは私たちが自分を知る以上に、私たちの弱さ、状態、必要としているもの、・・・・・すべてを知っていてくださり、愛と慈しみの御手をもって導いてくださるのである。全幅の信頼をもって従おう。

2018/10/16(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書40:1-12 賛美 新聖歌181
 エルサレムがバビロンの手に落ちた後、エレミヤにはバビロンに行くかユダの地に留まるかどちらかの選択権が与えられた。この時にもはっきりと親衛隊の長の口からエルサレムの現状は主なる神から与えられた災いであり、その原因はユダの人々が罪を犯して神の声に聞き従わなかったからだと告げられる。エルサレムの人々にとっては国が滅ぼされ、町が占拠されるという悲しむべき現実に直面している時ではあったが、それでも聞こえてくるのは同情や憐れみの声ではなく、明確な裁きとしての滅びの宣言であった。しかもそれが皮肉なことにネブザルアダンから告げられる。
 しばしば私たちは自分の誤った行為の結果ひどい体験をしたときにはもうこれだけつらい思いをしたから赦されると考える。しかしここではその中でもなお罪によって起こったと言われ、人々はその言葉によって自らの罪と向き合うよう導かれている。罪を犯したときにすべきことは神の前に告白し、悔い改めることである。

2018/10/17(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:14-15 賛美 新聖歌 449
 この箇所についてなお一つの事柄について見なければならない。神はサムエルに「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(汽汽 16: 7)と語っておられる。またヘブライ人への手紙は「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブ 4:12)と述べている。神は私たちが自分でも気づかない、または心の奥深くに秘める思いを見分けておられるのである。それ故、パウロは「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エペ 4:22-24)と述べている。私たちは神のみ前に悔い改め、常に純なる心をもって歩む者であろう。

2018/10/18(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書40:13-41:18 賛美 新聖歌248
 バビロンが指名したゲダルヤの統治によって情勢が落ち着くかに見えたが、イシュマエルはゲダルヤを暗殺し、さらにサマリアから来た多くの人々を虐殺した。イシュマエルは王族の一人であったから、ダビデ王家の血をひく者であった。神がダビデの裔から指導者を選ばれるとするならば、この人がその者であると、彼につき従っていた人々は期待していたのだろうか。しかしこのエルサレム陥落の混乱した時代において預言者を通して告げられるべき神の言葉は語られていない。神が何度も警告されてきた罪のための滅びの現実を前にして、人びとは今こそ神に祈り、導きを求めるのではなく、彼らの目に良いと映る王家の血筋の者に追従している。
 困難な状況が続くと人間は、神はいないとか、神は死んだとか言い始める。そしていなくなってしまった神を求めても仕方がないから自分の力で歩もうとする。イシュマエルの時代も現代も変わりない。しかし神と共に歩む私たちは、いつも神が共にいてくださることを信じ、あらゆるときに神の導きを聞き分けて進んでいこう。

2018/10/19(金) 担当 高谷清師  詩 39:9-10 新聖歌 449
 詩人は「あなたに背いたすべての罪からわたしを救い/神を知らぬ者というそしりを/受けないようにしてください。」と祈る。この箇所についてカルヴァンは「みずからの罪咎から救い出されるように乞い求めるとき、彼は自分が艱難と耐え忍ばなければならなかった責めは、すべてみずからのうちにあることを認めていることになる。彼は単にあるひとつの罪のゆえに、みずからを咎めるのではなく、多くの罪過のゆえに、罪ありとされるのは当然である、と告白しているのである。これは、われわれが災禍の軽減を求める場合に、保持すべき通則である。根源が根絶やしにされないかぎりは、われわれの災禍は終わることなく、次から次へと速やかに現われるであろう(中略)われわれを悩まし苦しめる艱難の軽減を求めるのではなく、その原因や根源にまで〔遡って〕辿り、神がわれわれの罪をわれわれに帰することなく、われわれが当然受くべき有罪判決を取り去られることを、学ぶのである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑26新教出版社1971)と述べている。
 ヨブは信仰者であったが、神と対面するまでは、自分の義を主張した。人に真の自己の姿を認識させ、悔い改めに導き、平安を得させるのは論理的証明ではなく、祈りにおける神との人格的交わりである。

2018/10/20(土)担当 高谷由紀子師 使 6:1-7 賛美 新聖歌 419
 弟子の数が増えてきた時、使徒たちは「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」と提案し、一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせました。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いたのでした。こうして、召された者たちが祈りと御言葉の奉仕に専念することによって教会は大きく成長していきました。私たちも、召された者たちがみ言葉と祈りの奉仕に専念できるよう、支えていく者になりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-10-07 23:05:34 (19 ヒット)
デボーションの友

2018/10/8 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10: 10-11 賛美 新聖歌 225
 イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と語られる。ダビデは「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」(汽汽17:34-36)と語っている。良い羊飼いであったダビデは命を懸けて羊を守ったのである。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(汽茱1:7)と述べている。イエスは私たちの罪を清め、救うために命を捨ててくださったのである。

2018/10/9(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書39:1-14 賛美 新聖歌170
 ついにエルサレムが陥落するときが来た。エレミヤは何度もこのことを告げてきたが、人びとはエレミヤを通して語られる神の言葉に耳を傾けなかった。ゼデキヤ王も何度もエレミヤとの会見を重ね、そのたびにバビロンに降伏することが神の御心であると聞いてきたが、彼自身の決断力のなさと高官を恐れる心の故に最後まで神の言葉に聞き従わなかった。神は滅びを目前にした人々に対して明確にその罪を指摘し、救いのために神に従う道を示された。しかし皆それぞれの言い分を主張して従わない。最終的に彼らに臨むのは主のことばの成就である。神の言葉の通りエルサレムは滅ぼされた。ゼデキヤは捕えられた。神は憐れみの故に、罪びとに対してでも間近に迫る裁きを警告し、救いの道を備えられる。それを受け取るか否かは聞いた人の応答次第である。
 私たちは神に対してどのように応答しているであろうか。喜ばしいメッセージだけを受け取り、悔い改めを迫る言葉は無視していないだろうか。神が従順であれと語ってくださる間に神に従おう。

2018/10/10(水) 担当 高谷清師 ヨハ10: 12-13 賛美 聖歌 502
 ここでイエスは羊飼いと自称するが、自分の羊を持たない雇い人について語られる。彼は託されている羊が自分のものではないので狼が来ると、危険が迫ると、また羊を飼うことによって自分の上に不利が降りかかりそうになると羊を捨てて逃げ去る。彼が心にかけているのは羊のことではなく、自分のことだからである。まことの羊飼いは羊のために命を捨てられたイエスご自身である。そしてよい羊飼いはイエスの心を自分の心として羊を愛する者である。ぺトロは「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」(汽撻5:1-3)と述べている。各々が聖霊の導きを求めつつ判断しょう。

2018/10/11(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書39:15-18 賛美 新聖歌248
 エベド・メレクはかつてエレミヤがユダの高官たちの手によって監視の庭にある水だめに投げ込まれて命を落としそうになった時にエレミヤを助けた人である(38:7-13)。39章ではエルサレムが敵の手に落ちた時にゼデキヤ王が経験した周りの人々の死と自身のバビロンへの連行とが記されており、それに続いてエベド・メレクの救いの約束が語られている。エベド・メレクはバビロンと戦い破滅へと突き進んでいく時代のうねりの中にあって預言者の苦境を目の当たりにし、大胆にも優柔不断な王に願い出てエレミヤを助けた。大きな時代のうねりの中で彼の行動はこの国の神への不従順を変えるほどの影響力は持たなかったが、この小さな信仰の行為を神は見ておられた。そして彼に国の混乱と滅びとの渦中で救いの約束が与えられた。
 大きく時代が変わり、一人の正しい行動が社会に何の影響も及ぼさないだろうという希望が見えない中でも、神は正しい一人の行動を見ておられる。そしてその信仰に報いてくださる。あらゆる状況において正しく歩むことの大切さをここに見ることができる。

2018/10/12(金) 担当 高谷清師  詩 39:6-8 新聖歌 302
 詩人は「御覧ください、与えられたこの生涯は/僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも/すべて空しいもの。〔セラ ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし/だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。」と詠う。小畑進師は日本文学における人生の虚しさを語るものとして『徒然草』の一段「蟻のごとくにあつまりて、東西に急ぎ、南北にわしる。高きあり、賎しきあり、老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕にいねて、朝に起く。いとなむところ何事ぞや。生を食り利を求めてやむ時なし。身を養ひて何事をか待つ。期する所、ただ老と死とにあり、その来ること速やかにして、念々の聞にとどまらず。これを待つあひだ、何のたのしびかあらむ。まどへるものはこれをおそれず。名利におぼれて先途の近きことを顧みねばなり。愚かなる人は、またこれを悲しぶ。常住ならむことを思ひて、変化の理を知らねばなり」(第七十四段)。」(小畑進 詩篇講録上P511−512いのちのことば社2007))という文章を引用しておられる。人は自己の存在を示そうとしてあくせくする。しかし人の存在は永遠から見る時、一瞬でありすべての労苦は空しい。私たちの存在を意味あらしめるもの、それは神だけである。

2018/10/13(土)担当 高谷由紀子師 マコ 6:17-29 賛美 新聖歌 459
 ヘロデは自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しょうとしたときバプテスマのヨハネに「あの女と結婚することは律法で許されていない」と指摘されたことに腹を立て、ヨハネを捕らえさせ、牢につないでいました。ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいました。ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからでした。ヘロデが、高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて自分の誕生日の祝いの宴会を催した時、ヘロディアの娘が踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせました。ヘロデは娘に「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言いました。娘はヘロディアにそそのかされて「洗礼者ヨハネの首を」と言ったのでヘロデは当惑し、非常に心を痛めましたが、自分の体面を保つため、娘の要求を聞き入れました。ヤコブは「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコ 1:15)と述べています。人の歓心を買おうとするなら、真理に歩むことはできないのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-09-30 23:25:25 (24 ヒット)
デボーションの友

2018/10/1 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10: 10-11 賛美 新聖歌 235
 イエスはご自身が来られた目的について「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われる。更に「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と語られる。罪を犯し、神の前に失われ、死んでいた者に命を得させるためにイエスは世に来てくださり、十字架に架かって血を流し、命を捨ててくださった。このことによって罪に死んでいる者が命を受ける道が開かれた。パウロは「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ロマ 1:16)と述べている。罪に死んでいた者のために命を捨ててくださったイエスを信じる信仰によって命を受けることが出来るのである。

2018/10/2(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書38:14-23 賛美 新聖歌428
 ゼデキヤ王がエレミヤと話すのはこれで三度目である。王はエレミヤと公に会うことができないほど自分の住む場所の安全をも感じていなかった。エルサレムの危機的な状況を知りながら、エレミヤから何度も告げられていた神の言葉に従う決断もできなかった王がここに至ってまだエレミヤの助言を求めている。エレミヤは最初は王に再度神の言葉を告げることを拒否する。しかし王が信仰によって主にかけて誓ったときにエレミヤは同じ言葉を語った。ゼデキヤ王がバビロンに降伏せよという神の言葉に従わなかったのは王が全く神を信じていなかったからではない。王は信仰を持っていたが、それでも彼の弱さと決断力のなさのために神の御言葉に従わなかった。
 心で神を信じていることは神と共に生きる者の基本である。神と共に歩むためには神の言葉に立って決断し、信仰を働かせて行動することが必要である。私たちも与えられた信仰を働かせて主に従う人生を歩もう。

2018/10/3(水) 担当 高谷清師 ヨハ10: 10-11 賛美 聖歌 273
 イエスはご自分が来られた目的について「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と語られた。「羊が命を受ける」ことについては、先日学んだ。しかしイエスはそれだけではなく、「豊かに受けるためである」と言われている。イエスの十字架の御業を信じ、救われ、命を受けたことは素晴らしいことである。しかしイエスは私たちがさらに豊かに受けるために来てくださった。私たちの家庭に新しい命が与えられること、子供が与えられることは大きな喜びである。しかし与えられた子供は成長することが望まれる。そのためには両親が、その家族が子供を愛し、庇護し、サポートすることが必要である。また、子供は両親をはじめ自分を支えている人々の言葉に従うことが求められる。イエスは新しく生まれた命が豊かに成長するために、御言葉を豊かに与えてくださる。新しく命を与えられた者はイエスのみ言葉を信仰によって受け入れ、それを糧としてさらに豊かな命へと進むのである。日々御言葉に親しみ、祈り、聖霊による神との交わりの中で豊かな命に与る者となろう。

2018/10/4(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書38:24-28 賛美 新聖歌345
 王がエレミヤと話し終えた時、何を最も心にかけていただろうか。少なくとも私たちが聖書の言葉から知り得るのは王の最大の関心事はいかに神の言葉に従って正しい決断をするかということではなかった。王はエレミヤの命が守られるために行動しているという体裁をとりながら、二人の会話の内容が高官たちに知られることを恐れている。最後までバビロンと戦うことを望んでいる高官たちが、反対のことを主張するエレミヤと王が会見して対応について話し合っていたことを知れば王自身がその地位を追われるかもしれない状況で、王は自分の身を守ろうとしたというのが真相であった。
 神を信じる人が恐れるべきことは何だろうか。それは神の言葉に従うことを妨げようとする他の人々ではない。その人々がどれほど力を持っているように見えても、私たちが怖れるべきお方はただ神一人であり、従うべきお方もただ神のみである。常に神の導きを聞き分けて、あらゆる恐怖を乗り越えてただ神だけに従おう。

2018/10/5(金) 担当 高谷清師  詩 39:3−5 賛美 新聖歌 321
 詩人は「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」と決意した。しかし、神に逆らう者を前にして、沈黙を守ることは困難であった。「わたしは口を閉ざして沈黙し/あまりに黙していたので苦しみがつのり、 心は内に熱し、呻いて火と燃えた。」のである。そこで彼は舌を動かして話し始めた。「教えてください、主よ、わたしの行く末を/わたしの生涯はどれ程のものか/いかにわたしがはかないものか、悟るように。」と。この時、彼が話したのは神に逆らう者に向ってではなく、神に向ってであった。日々の生活において「神に逆らう者」を目にして私たちの心は義憤を覚える。しかし、その目を自分の内に向ける時、同じことが、程度の差こそあれ、自分の内に存在するのを見る時、その言葉は「神に逆らう者」への非難と裁きではなく、神への祈りとなるのである。パウロは「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」(ガラ 6:4)と述べている。常に、人の前にではなく、神の前に歩もう。

2018/10/6(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 1:40-42 賛美 新聖歌 302
 アンデレはイエスの十二弟子の一人です。ここにアンデレが始めてイエスに出会った時のことが書かれています。彼は兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言いました。また彼は後に大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年をイエスのもとに連れて来ました。このように、アンデレは日常生活の中で身近にいる人々をイエスのもとに連れてきています。アンデレは目立って行動する人ではありませんでしたが、謙遜に、忠実に証をし、仕えた人でした。もしアンデレが兄弟ぺトロをイエスのもとに連れて来なかったら、聖書に記された素晴らしい主の御業の幾つかは見ることはできなかったかもしれません。アンデレのように日常生活の中で忠実に証をする人を通して神は働かれます。私たちも身近な人に忠実に福音を証しする人になりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-09-23 23:11:15 (24 ヒット)
デボーションの友

2018/9/24 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10: 7-9 賛美 新聖歌 427
 イエスは「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。この箇所についてライルは先人たちの解釈を紹介しながら「この文章の意味は恐らく次のように言い換えることができるであろう。「およそ教会の教師と称する者のうち、キリストの栄光にもまして自分に栄光を帰し、あるいはキリストにもまして他のものを優先していく者がいるならば、そのような者はあなたがたパリサイ人と同じく盗人また強盗であって、真の牧者ではない。」私はこれ以上の解釈を見出すことはできないが、確かにこの文章が難解であることも認めざるを得ない。(ジョン・C・ライルは「(ライル福音書講解ヨハネ2P473聖書図書刊行会1987))」と述べている。ぺトロは「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」(汽撻5:1-3)と述べている。盗人であり、強盗に従ってはならない。彼が如何に絶大の権力を持ち、かっこ良くても・・・。

2018/9/25(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書37:17-21 賛美 新聖歌427
 ゼデキヤ王が捕らわれの身であるエレミヤを呼び寄せ、主のことばがエレミヤに与えられたかと尋ねている。おそらく再びバビロンの包囲を受けて行き詰まった状況にある王が最後の奇跡を求めてエレミヤを呼び寄せたのだろう。王はこの国の支配者でありながら堂々とエレミヤを呼び寄せたのではなく、ひそかに彼に尋ねている。ゼデキヤは王の位にありながら人々を恐れ、不自由な中で神の真実の言葉を求めた。対照的にエレミヤは大胆に神の言葉を語ったがゆえに捕えられていたにも拘らず、王がひそかにエレミヤに与えられた神の言葉を求めた時、エレミヤはひるむことなく前と同じバビロンの手に王は渡されるという言葉を語り、さらに王が耳を傾けた偽預言者たちについて間違いを指摘し、王に牢獄へ戻さないように大胆に求めた。
 囚われの身でありながら大胆で揺らぐことのない確信に立つエレミヤと、王でありながら高官たちを恐れてひそかにしか行動できない王の姿は対照的である。エレミヤが落ち着いていられたのは世俗的な地位の故ではなく、主のことばをしっかりと握り、揺らぐことのない神との関係に立っているからである。私たちの土台は真の神にしっかりつながる揺らぎない土台としての信仰である。

2018/9/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ10: 7-9 賛美 新聖歌 316
 続いてイエスは「羊は彼らの言うことを聞かなかった。」と語られる。この箇所についてジョン・C・ライルはプレンティウスの見解を紹介している。「プレンティウスの見解では、私たちは主の「羊は彼らの言うことを聞かなかったのです」ということばから、神の民は一時的にせよ、決して偽りの教師に導かれゆくことはないと簡単に結論してはならない。時として彼らも欺かれたり誘惑されたりすることはあるが、ついには真理に立ち返るのである。」(ジョン・C・ライルは「(ライル福音書講解ヨハネ2P475聖書図書刊行会1987))と。前世紀中葉から奇跡を伴う信仰運動が盛んである。しかしイエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタ 7:21-23)と語っておられる。またヨハネ福音書9章の生まれつき盲人であった人の癒しの記事においては、その奇蹟を見てイエスを信じた人も、論争の中では不信仰な人々に数えられている。更にヨハネは黙示録13章において「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。」(黙13:8)と述べている。謙虚に、聖霊の証に従い、現象ではなく御言葉に生きよう。

2018/9/27(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書38:1-13 賛美 新聖歌291
 エレミヤは監視の庭にありながら民に対して公に主の裁きの預言を語ることができた。国際情勢がエレミヤの語る通りになり、エルサレムもまたバビロンの脅威にさらされる中、エレミヤを次第に尊敬する人々が増えてきたときであった。同時にエレミヤに激しく敵対してきた偽預言者と役人たちはエレミヤに対する敵意を深めていった。彼らは王の弱点を利用してエレミヤを捕え、水だめに釣り下ろすことで不当にエレミヤを殺そうとしたのである。しかしその企てを知ったエベド・メレクがゼデキヤ王に訴えてエレミヤを助けた。ここでもゼデキヤ王の弱点、優柔不断さ、そして正義にしっかりと立って明確な行動を起こせない姿が描かれる。
 ゼデキヤ王を見て私たちは何を知るのだろうか。神の前に歩む者が正義を行うために必要なことは地位や権力ではない。絶えず神の声を聞き分け、たとえどのような状況にあろうともその正しい御声に従ってぶれずに行動することである。この様な歩みを実践できるクリスチャンでありたい。

2018/9/28(金) 担当 高谷清師  詩 39:2 賛美 新聖歌 444
 この詩の作者は「わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」と語る。作者の前には「神に逆らう者」が立っている。彼らは不義によって権力を握り、富み栄え、時を得顔に振舞い、人々からほめたたえられ、有頂天になっている。このような状況を前にして作者は「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。わたしの口にくつわをはめておこう。」と決心する。この点について小畑進師は「いたずらに悪の横行に激昂することは、主の御支配をわきまえない点において、悪の道に通じるとわきまえれば、詩人は自戒して、特に身体のどこの部分よりも真っ先に火を吹き出しそうなおのれの口舌にくつわをかけて制御しました。」(小畑進 詩篇講録上P508いのちのことば社2007))と述べておられる。また、カルヴァンは「舌を抑制するのはきわめて困難であったので、その実例に即して、何かの災厄がわれわれを悩ますときには、いつでもわれわれの情念を抑えようと努力することを、学ぽうではないか。それは,神に対して不敬な不満を、うかつにも発することがないためである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑21新教出版社1971)と述べている。

2018/9/22(土)担当 高谷由紀子師 マコ 11:15-17 賛美 新聖歌 197
 イエス様はエルサレムに到着し、神殿の境内に入られました。そこでイエス様が目にされたのは両替人や鳩を売るって暴利をむさぼる人々でした。彼らが、聖なる場所を自分の肉の欲を追及する場として利用しているのをご覧になったイエスは、彼らを追い出し、「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」と言われました。
 神殿は神が臨在なさる聖なる場所であり、神を礼拝する場所でした。今日の教会も神を礼拝する場所であり、神との交わりの場所です。教会においては、肉の欲の追求ではなく、神と交わり、神の栄光を求めましょう。


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