2018/11/12-17

投稿日時 2018-11-11 22:37:32 | カテゴリ: デボーションの友

2018/11/12 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:22-30 賛美 新聖歌 361
 冬、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた時、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられたイエスをユダヤ人たちが取り囲んで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と言った。19節には「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた」と記されている。ある者たちは「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。」と言い、ほかの者たちは「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」と言っていたのである。これらのことから、ユダヤ人たちの心は「イエスはメシヤではないか」という、一抹の想いがあったことがうかがえる。ユダヤ人たちの問いに対してイエスは「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。」と答えておられる。ヘブル書の記者は「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」(ヘブ 4: 2)と述べている。御言葉は信仰によって受け入れられるべきものである。常に信仰によって歩もう。

2018/11/13(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書43:8-13 賛美 新聖歌254
 エルサレムの陥落を生き残った人々が遂にエジプトへと逃げ延びた。彼らの土地に留まれと言われた神の言葉に従わず、自らの考えに従って安全であると思われたバビロンと並び立つ強国のエジプトについに逃れた人々には、これでようやく安全が保障されるとひとまず安どした瞬間であっただろう。しかしこの時エレミヤが語った主の言葉は彼らの気持ちを逆撫でするものであった。大胆にもエレミヤはエジプトの中心地であるファラオの神殿がバビロンの王のものとなると語った。ユダの人々が逃れて来たあの廃墟エルサレムと同じことがこのエジプトにも起こる主は語られた。並び立つ大国であったエジプトが上着のしらみを払い落とすようにいとも簡単に滅ぼされると言う。
 人びとは状況が表面上好転すれば神がなんと言われようと自分の望む通りにことが進み、神の言葉は現実的ではなくなると考える。神の言葉は一貫している。神が定め、行うと言われたことを神は実現される。私たちに神は何を語り、どのような態度で歩むことを求めておられるだろうか。正しく聞き分けたい。

2018/11/14(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:19-21 賛美 聖歌 501
 ユダヤ人たちの言葉に対してイエスは「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」と答えられた。そしてご自分の羊について語られる。「羊」という言葉についてジョン・C・ライルは「主が最も言わんとされたのは、羊が全面的に羊飼いに依存しているということである。羊がその羊飼いの声を聞き、従って行くように、信者もキリストに従うのである。彼らは信仰によってキリストの呼び声を聞き、その導きに従い、彼により頼んで自分の魂を無条件的にゆだねている。羊と羊飼いの表徴的表現は、キリストと真の信者との関係を最もよく表しているものである。(ライル福音書講解ヨハネ2P502聖書図書刊行会1987)」と述べている。キリストとキリスト者の関係は信仰である。キリストの言葉、神の言葉はそのまま信じられるべきである。しかし今の時代は日々報道される詐欺事件などのように単純に信じることの危険な時代である。このような事例だけではなく、聖書の言葉を用いて語られるものさえもその危険をはらむ。そこで常に聖霊に満たされることが重要である。パウロは「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(汽灰2:14-15)と述べている。常に聖霊に満たされ、導かれて歩もう。

2018/11/15(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書44:1-13 賛美 新聖歌369
 エジプトに逃れた人々はこれでもう安全だと胸をなでおろしていただろう。しかしそこでも神は以前と同じメッセージを語り続けられる。どんなにエルサレムから遠くに逃れようとも、神は彼らにエルサレムが陥落した現実と向き合い、それが起こった理由から目を背けないように導かれる。神は怒りの故に町々を破壊された。その怒りの原因は民が異教の神々に礼拝をささげたからである。すなわち民の偶像礼拝こそが町々の破壊を引き起こした。この民が悲劇的な出来事を体験したとしても、そしてどれほど遠くにこの惨状から逃げ出したとしても、彼らが心から悔い改めて偶像礼拝から離れない限りどこまで行っても同じように神を怒らせ続けるのである。
 犯した罪を棚に上げて、苦しい体験に不平を述べ続けたり、苦境に立たせた神を責め続けるようなことを私たちもしていないだろうか。み言葉と聖霊の導きによって正しく状況を判断し、神との関係を吟味し、神に喜ばれないものがあるならばそれを悔い改めることによって神との関係が正されていこう。

2018/11/16(金) 担当 高谷清師  詩 40:1-18 新聖歌 172
 この詩編は大きく二つの部分に分かれている。1―12節は感謝の歌に分類されるが、13―18節は嘆きの歌に分類される70編とほとんど同じである。このことからこの詩編を二つの詩に分ける見解が広まっている。しかし鍋谷尭爾師はヴァイザーの文章を引用しつつ「ヴァイザーは、これを深い信仰体験として十分にありうると統一性を擁護して、次のように言います。「このかつての(救いの)信仰体験を頼みの網とし、これによってはじめて彼の祈願は正しい確かなものとなり、純粋な祈りに変えられてゆくのである。彼は早急に自分の苦難から救い出して欲しいという利己的な動機をまず退けることによって、目と心をひたすら神に集中し、神とのつながりがまだ失われていなかった過去の経験に思いをこらす。この点にこそ、真実な信仰によってのみ与えられる謙虚な服従の姿が示されているのである。すでに与えられている信仰と、信仰の確証を求めようとする苦闘――この両者の間の緊張は、最後の一句」に至るまで、この詩篇を貫いている。この歌詞を複数の作者と状況に分けて解釈することにより、こうした緊張を骨抜きにしてしまってはならない。むしろこの緊張こそは信仰の本質に属するものであり、聖書における祈り手が示す純粋な、生きた信仰の証なのである。彼は信仰の生涯の山を越え、谷を越え、経験から希望へと歩みを進めていく。作者の内面的状況を以上のようにとらえることによって、この詩を人生の真実に即した統一あるものとして理解することが可能になる」(鍋谷尭爾 「詩篇を味わう」335―336Pいのちのことば社 2005)と述べていられる。私たちの信仰生活には順風の時があり、試練の時がある。試練の時には「神は私を見捨てられたのか」との思いが頭をよぎることがあるかも知れない。しかし神は順風の時にも試練の時にも共にいてくださる。順風の時の信仰体験は試練の時の支えである。

2018/11/17(土)担当 高谷由紀子師 マタ 16:13-20 賛美 新聖歌 342
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。これに対して弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。イエスが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」とお尋ねになるとペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。イエスはこの答えを喜び「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われました。
 イエスを偉大な宗教家、尊敬すべき教師、指導者と認めるだけでは十分ではありません。「メシア、生ける神の子」と認めることこそ大切です。それは神の啓示によってのみ、可能なのです。




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