2018/10/22-27

投稿日時 2018-10-21 23:43:51 | カテゴリ: デボーションの友

2018/10/22 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:16 賛美 新聖歌 238
 イエスは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と言われる。ファリサイ人や律法学者たちはユダヤ人だけが神に選ばれた民であり、神の約束にあずかる唯一の者であると考えていた。パウロは当時の異邦人について「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」(エフェ 2:11-12)と述べている。ユダヤ人からこのように言われていた異邦人も、イエスにおいては、ご自分の民であり、イエスは彼らのためにも十字架に架かって下さったのである。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」(創18: 18)と語られているように、地のすべての人々はキリストによって神の祝福に入れられるのである。

2018/10/23(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:1-6 賛美 新聖歌345
 エレミヤのもとに民がやって来て今後の対応について神に尋ねてほしいと申し出た。これまでエレミヤが語り続けてきた神の言葉に全く耳を貸さなかった人々がここに願い出ていることは驚きである。彼らは真剣に求めている。最初はエレミヤの神である主に祈ってほしいと語っていたが(42:2)、エレミヤが彼ら自身の神であることを強調するにつれて(42:4)、神が自分たちの神であると言っている(42:6)。神は誰の神なのかという表現はここで起こっている事態の中では取るに足りない小さな出来事であるかのように感じられる。しかし民が神を「我々の神」であると認識することは彼らと神との関係性を示している。信仰がない者に「主は私たちの神です」と告白することはできないからである。
 42章の終わりでは結局民は神の御言葉に従うことはなかった。しかしそれ故にこのひと時、垣間見えた神に従うという意志は単なる演出であったとは断言できない。人の心は絶えず揺れ動き、信仰も不安定になることがある。それゆえ日々聖霊の導きを求めて今日も神の御心を求めて従うことができる者としていただこう。

2018/10/24(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:16 賛美 新聖歌 266
 続いてイエスは「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と語られる。パウロは「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エペ 2:14-18)と述べている。
 人はキリストにおいて互いに平和を得、一つとされるのである。キリストによって歩もう。

2018/10/25(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:1-6 賛美 新聖歌155
 民が神の御心を聞いてほしいと願った時、エレミヤは即座に承諾して神の言葉の一部だけをかいつまんで民に伝えるということはしなかった。エレミヤは彼らの申し出を承諾し、主に祈ると答えたが、絶対に神が確実に民の行くべき道を示されるとの根拠のない確約は与えなかった。ただ、もし主が答えをくださる、ならそのすべての言葉を民に伝えると約束した。罪に満ちた時代に正しく神の言葉を聞き取り、民に伝え続けたエレミヤは当然神の答えを聞くと私たちも期待するが、エレミヤは期待に応えて神が答えられるのは当然だとは考えていない。また神の言葉を聞いたならばそれを余すところなくすべてを伝えるべきことを認識していた。
 神の言葉を聞き取り、語ることの責任の重さを再度考えさせられる。み言葉を取次ぐ説教者達はいつも神の前にへりくだって聖霊に導かれて真理を語らなければならない。今日の時代に様々な預言をするという者は、本当に神の言葉を正しく聞き取って神の言われたことだけを伝えねばならない。神の言葉であると主張しつつ自分の思いを語る誘惑はいつの時代にも存在するのだから。

2018/10/26(金) 担当 高谷清師  詩 39:9-10 新聖歌 384
 詩人は「あなたに背いたすべての罪からわたしを救い/神を知らぬ者というそしりを/受けないようにしてください。」と祈った。彼は自らに降りかかった艱難が自らの罪咎によるものであり、それが神から出たものであることを知った時、「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。」と語る。カルヴァンは「神の力強いみ手のもとに身を低くし、これに逆らって抗弁することなしに、神のさばきに服することが、われわれの信仰の重要な修練のひとつであることを、われわれも知ろうではないか。さらにまた、人間が平静に、また安らかな魂をもって、神に従うのは、彼らが神はその欲せられることすべてを、絶対的な大能をもってなしとげられるだけでなく、正しいさばき主であられることを.きわめて堅固に確信する時である。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑27新教出版社1971)と述べている。ヘブライ人への手紙は「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブ 12:5-11)と述べている。主の鍛錬を、感謝をもって受け入れ、耐え、主の栄光をあらわす器と変えられよう。

2018/10/27(土)担当 高谷由紀子師 マコ 7:24-30 賛美 新聖歌 302
 フェニキアの生まれの女は異邦人であり、神の恵みの約束の外に生きる人であった。この女が汚れた霊に取りつかれた幼い娘を癒していただくために主イエスのところにやって来た。主はこの異邦人の女に対して最初は「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と答え、ユダヤ人が優先であると言われた。ところが、女は、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と言い、ユダヤ人が優先されることは認めながらも、異邦人も心をとめていただくよう、熱心に求めた。主イエスはこの女の熱心な信仰に応えて娘を悪霊から解放された。契約によってユダヤ人に限定されていた神の恵みはイエスキリストによって全世界の人々に及ぼされたのである。




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