デボーションの友
デボーションの友 : 2018/11/5-10
投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-11-04 22:52:52 (18 ヒット)
デボーションの友

2018/11/5 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:18 賛美 新聖歌 127
 「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。」と語られたイエスは「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」と語られる。この福音書の2:19においてもイエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と語っておられる。また使 2:24-32においてはキリストの復活が父なる神の業に帰されている。更に汽撻3:18 は「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」と述べて、キリストの復活が聖霊なる神の業に帰されている。ジョン・C・ライルは「これらすべてから結論できることは、キリストの仲保者としてのすべての働きの場合と同様に、復活も三位一体の各位格の共同のわざであるということである。(ライル福音書講解ヨハネ2P498聖書図書刊行会1987)」と述べている。イエスは命を捨てることもでき、それを再び受けることもおできになるのである。

2018/11/6(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書42:18-22 賛美 新聖歌390
 さらに強い言葉でエジプトに行ってはならないと警告されている。主のことばは明確である。神の言葉に従わず、またもやエジプトに頼ろうとするならば、今度はエルサレムの陥落を経てそこに住むことを許されたこの残された人々もまた二度とエルサレムを見ることがなくなると言われる。彼ら自身が主へのとりなしの祈りを求め、主のことばを求めたにもかかわらず、また主のことばに聞き従おうとしない。うんざりするほど不従順な姿である。しかしこれが現実であった。
 同じ過ちを私たちも犯していないだろうか。口では主のことばを求めると言いつつ、自分の意に沿わない御心が示されたならば絶対に主に聞き従おうとしない。そこに待ち受けているのは死である。神を侮るうわべだけの信仰者になってはならない。主を求めるということは主に聞き従うという姿勢があってこそ、私たちを主にあって成長させる信仰の歩みとなる。

2018/11/7(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:19-21 賛美 新聖歌 316
 ヨハネは「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。」と記している。ある者たちは「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」と言い、ほかの者たちは「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」と言ったのである。イエスは「「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(マタ 10:34-36)と語っておられる。真理が掲示される時、その真理にどう応答するかについて人びとの間に対立が生じる。私たちは、たとえそれが少数派であっても、真理の言葉にアーメンをもって応答する者でありたい。聖霊の導きと助けを祈る。

2018/11/8(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書43:1-7 賛美 新聖歌185
 主のことばが伝えられた時、民はこれに聞き従わなかった。彼らは神の言葉を真っ向から否定する代わりに、預言者が神の言葉を受け取ってはいない偽預言者だと非難した。どれほど人びとの心が罪深いかと、驚かされる。しかし既に自分たちの思いに従ってエジプト行きを決定した民は、決してもう一度立ち止まって注意深く考え、本当の主のことばを吟味することをしなかった。影響力の強い指導者の言葉に引きずられるように民は神の言葉を蔑ろにしてエジプトへ行った。
 神の言葉に従うことの難しさがここにも見て取れる。神の愛を知り、神に罪赦され、神に感謝し、賛美して歩む,神を信じる人びとが、この神の言葉に喜んで従うことはごく自然なことである。にもかかわらず現実にはやはり多くの場合、人は神の導きよりも自分の都合を優先する。本当に神の言葉を聞き分ける者をも否定し、攻撃し、排除してまでも。そのような状況に陥らないために、私たちは日々聖霊の導きを謙虚に求めて主と共に歩ませていただかなければならない。

2018/11/9(金) 担当 高谷清師 詩 39:13-14 新聖歌 458
 自らに降りかかった艱難が自らの罪咎によるものであり、それが神から出たものであることを知った詩人は、「わたしは御もとに身を寄せる者/先祖と同じ宿り人。」と告白し、先祖たちと同じように、永遠者の前には、自らが儚い存在であることを告白する。「あなたの目をわたしからそらせ/立ち直らせてください/わたしが去り、失われる前に。」と祈る。この箇所についてA. ヴァイザーは「この信仰の苦闘を物語った貴重な証言が重苦しい気分を残すのは、僅かな例外を除いて旧約聖書の考え方が死の壁という制約を持っていることからきている。作者もこの制約を越えて展望することはできなかった。(中略)われわれにとってはこれこそキリストの死と復活による全き救いの必然性を示す、沈黙の、しかも雄弁な証なのである。キリストの復活を通して初めて人間は、罪と死の力からの解放を与えられたのである。」(ATD旧約聖書註解詩篇上P433ATD・NTD聖書註解刊行会1983))と述べている。恵みの時代に生かされていることを感謝し、堅く立って信仰の歩みを全うしょう。

2018/11/10(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 17:11-19 賛美 新聖歌 172
 イエスがエルサレムに上って行かれる途中、ある村に入られた時、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言いました。イエスは彼らを見て「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。彼らは、そこへ行く途中で清くされました。自分がいやされたのを知った彼らのなかの一人が、大声で神を賛美しながら戻って来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝しました。この人はサマリア人でした。イエスは「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われました。そしてその人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。イエス様から受けた恵みに心から感謝する者となりましょう。


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