デボーションの友
デボーションの友 : 2018/10/15-20
投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-10-15 00:12:27 (30 ヒット)
デボーションの友

2018/10/15 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:14-15 賛美 新聖歌 233
 イエスは「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」と語られる。イエスはご自分の羊を知っておられる。それも―父なる神が御子を知っておられ、御子が父なる神を知っておられるように―である。三位一体の奥義については、到底人間の理解力の及ばない事柄であるが、そのような深さにおいてイエスはご自分の羊を知っていて下さるのである。また「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」(マタ10:30)と語っておられる。
 イエスは私たちが自分を知る以上に、私たちの弱さ、状態、必要としているもの、・・・・・すべてを知っていてくださり、愛と慈しみの御手をもって導いてくださるのである。全幅の信頼をもって従おう。

2018/10/16(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書40:1-12 賛美 新聖歌181
 エルサレムがバビロンの手に落ちた後、エレミヤにはバビロンに行くかユダの地に留まるかどちらかの選択権が与えられた。この時にもはっきりと親衛隊の長の口からエルサレムの現状は主なる神から与えられた災いであり、その原因はユダの人々が罪を犯して神の声に聞き従わなかったからだと告げられる。エルサレムの人々にとっては国が滅ぼされ、町が占拠されるという悲しむべき現実に直面している時ではあったが、それでも聞こえてくるのは同情や憐れみの声ではなく、明確な裁きとしての滅びの宣言であった。しかもそれが皮肉なことにネブザルアダンから告げられる。
 しばしば私たちは自分の誤った行為の結果ひどい体験をしたときにはもうこれだけつらい思いをしたから赦されると考える。しかしここではその中でもなお罪によって起こったと言われ、人々はその言葉によって自らの罪と向き合うよう導かれている。罪を犯したときにすべきことは神の前に告白し、悔い改めることである。

2018/10/17(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:14-15 賛美 新聖歌 449
 この箇所についてなお一つの事柄について見なければならない。神はサムエルに「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(汽汽 16: 7)と語っておられる。またヘブライ人への手紙は「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブ 4:12)と述べている。神は私たちが自分でも気づかない、または心の奥深くに秘める思いを見分けておられるのである。それ故、パウロは「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エペ 4:22-24)と述べている。私たちは神のみ前に悔い改め、常に純なる心をもって歩む者であろう。

2018/10/18(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書40:13-41:18 賛美 新聖歌248
 バビロンが指名したゲダルヤの統治によって情勢が落ち着くかに見えたが、イシュマエルはゲダルヤを暗殺し、さらにサマリアから来た多くの人々を虐殺した。イシュマエルは王族の一人であったから、ダビデ王家の血をひく者であった。神がダビデの裔から指導者を選ばれるとするならば、この人がその者であると、彼につき従っていた人々は期待していたのだろうか。しかしこのエルサレム陥落の混乱した時代において預言者を通して告げられるべき神の言葉は語られていない。神が何度も警告されてきた罪のための滅びの現実を前にして、人びとは今こそ神に祈り、導きを求めるのではなく、彼らの目に良いと映る王家の血筋の者に追従している。
 困難な状況が続くと人間は、神はいないとか、神は死んだとか言い始める。そしていなくなってしまった神を求めても仕方がないから自分の力で歩もうとする。イシュマエルの時代も現代も変わりない。しかし神と共に歩む私たちは、いつも神が共にいてくださることを信じ、あらゆるときに神の導きを聞き分けて進んでいこう。

2018/10/19(金) 担当 高谷清師  詩 39:9-10 新聖歌 449
 詩人は「あなたに背いたすべての罪からわたしを救い/神を知らぬ者というそしりを/受けないようにしてください。」と祈る。この箇所についてカルヴァンは「みずからの罪咎から救い出されるように乞い求めるとき、彼は自分が艱難と耐え忍ばなければならなかった責めは、すべてみずからのうちにあることを認めていることになる。彼は単にあるひとつの罪のゆえに、みずからを咎めるのではなく、多くの罪過のゆえに、罪ありとされるのは当然である、と告白しているのである。これは、われわれが災禍の軽減を求める場合に、保持すべき通則である。根源が根絶やしにされないかぎりは、われわれの災禍は終わることなく、次から次へと速やかに現われるであろう(中略)われわれを悩まし苦しめる艱難の軽減を求めるのではなく、その原因や根源にまで〔遡って〕辿り、神がわれわれの罪をわれわれに帰することなく、われわれが当然受くべき有罪判決を取り去られることを、学ぶのである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑26新教出版社1971)と述べている。
 ヨブは信仰者であったが、神と対面するまでは、自分の義を主張した。人に真の自己の姿を認識させ、悔い改めに導き、平安を得させるのは論理的証明ではなく、祈りにおける神との人格的交わりである。

2018/10/20(土)担当 高谷由紀子師 使 6:1-7 賛美 新聖歌 419
 弟子の数が増えてきた時、使徒たちは「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」と提案し、一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせました。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いたのでした。こうして、召された者たちが祈りと御言葉の奉仕に専念することによって教会は大きく成長していきました。私たちも、召された者たちがみ言葉と祈りの奉仕に専念できるよう、支えていく者になりましょう。


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