デボーションの友
投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-09-02 23:08:01 (171 ヒット)
デボーションの友

2018/9/3 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:39 賛美 新聖歌 282
 イエスは「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と語られる。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハ 3:16-17)と述べている。それに続いて「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:18)と述べている。イエスは世を裁くために来られたのではなく、世が救われるために来られた。しかし、イエスの御名が伝えられる時、彼を受け入れる者に救いを得させ、拒む者を死に定める。私たちの宣教はこのように重大な意味を持つ。故に、宣教においては、御名以外に、十字架以外に躓きとなるものがあってはならない。

2018/9/4(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書36:1-4 賛美 新聖歌35
 36章にはエレミヤの言葉がどのようにして書き記されたかが記録されている。これが書き記されたのはヨヤキムの第四年、すなわち紀元前605年であった。この年にはパレスチナの支配権が南のエジプトから北のバビロンに移った。エレミヤにとっては最初から語り続けてきた「北からの敵」が姿を表してきたという時であった。神の言葉の実現が目に見えて迫ってきたときにエレミヤは危機感をもって神の指示の通りにこの言葉を書き記した。神が既に語ってこられた言葉をあらためて記録し、人びとに読める形で伝えられたことには明確な期待と目的があった。それはこの災いの預言を聞いた人々がそれぞれの悪の道から立ち帰ることへの期待であった。
 神の言葉は迫り来る危機を神が取り除くことによって人々の恐怖を拭い去ることを目的として書かれたのではなく、人びとの罪の結果としての避け得ない裁きを告げられた時に、自分の罪を認識して立ち帰る―悔い改める―ために書かれている。義に導くのに有益な神の言葉(競謄皀3:16)である聖書をこのようなものとしてもう一度読み直したい。

2018/9/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:40-41 賛美 新聖歌 38
 39節のイエスの言葉を受けてファリサイ派の人々は、「我々も見えないということか」と言った。それに対してイエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と言われた。ファリサイ人たちは、律法とその知識に精通していることを誇り、それをもって十全とし、謙虚に真理に耳を傾けることが出来なくなっていた。それによって彼らは「見える」と主張しながら盲目になったのである。
 20世紀から現代にいたる時代は科学万能の時代である。20世紀半ばに少青年時代を過ごしたわたしは、科学が発達した時代においては科学によって証明されないものは無いと考え、神秘的なもの、霊的なものはすべて迷信として退けた。科学によって、人間の知恵・知識によっては解決できない問題に遭遇するまでは。
 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」これは現代に対する神の警告の言葉でもある。

2018/9/6(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書36:5-10 賛美 新聖歌38
 エレミヤの預言がバルクの手で書かれた時、エレミヤはバルクにそれを主の神殿で朗読するように命じた。朗読の日は断食が布告される日であった。この日にはエルサレムの住民だけではなく、ユダの町々の民も神殿に集まっていた。神の言葉は一部の祭司たちやエルサレムの限られた人数の人々のためにだけ朗読されたのではなかった。多くの人々が読み上げられた神の言葉を聞くことができるようにこの日が選ばれた。そしてこの断食の日に読み上げられたということは断食の日が示す通り、これを聞いた人々がそれぞれこの言葉に応答して立ち帰り、悔い改めることが期待されていたのであった。
 神の言葉は解釈されて宣言された説教を通して人々に届けられ、また、記された文書、書物を読むことによって人々に届けられる。限られた権力者にだけ伝えられるものではなく、すべての人に語られ、それを聞いた人々に言葉への応答を促すものであった。私たちも主の御言葉に応答して主と共に歩もう。

2018/9/7(金) 担当 高谷清師  詩 38:14-15 賛美 新聖歌 279
 16節を新改訳(15節)は「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。」と訳し、カルヴァンは「なぜならば、主よ、わたしはあなたを待ち望むからです。わが主、わが神、あなたはわたしに筈えられるでしょう。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑14新教出版社1971)と訳している。逆境に立たされたダビデを見て、彼を避けて立つ愛する者、遠く離れて立つ近親者、命をねらって罠を仕掛ける者、欺こう、破滅させよう、と決めて一日中それを口にする者、ダビデに災いを望む者達を前にしてダビデは沈黙を守った。ダビデが沈黙を守ることの出来た力の源泉は、神がダビデの祈りに答えてくださると言う信仰であった。神は「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩 50: 15)と約束しておられる。またパウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:3-5)と述べている。主に信頼して歩もう。

2018/9/8(土)担当 高谷清師 マタ 8:5-10 賛美 新聖歌 347
 一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。これを聞かれたイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。これに対して百人隊長は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と答えた。この答えを聞かれたイエスは感心して「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と言われた。
 主は「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタ 7:21-23)と語っておられる。神の求められる信仰は御言葉を聞いてそれを行うことである。


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