デボーションの友
デボーションの友 : 2018/8/13-18
投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-08-12 23:10:54 (68 ヒット)
デボーションの友

2018/8/13(月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:24 賛美 新聖歌 222
 癒された元盲人の両親から期待した手応えを得られなかったユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」と言った。ユダヤ人たちはイエスが安息日に業を行われたことを根拠にイエスを罪人と断定したのである。イエスはご自分を試そうとして「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と尋ねた律法の専門家に対して「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタ 22:35-40)と答えておられる。イエスは愛によってこの盲人を癒された。パウロは「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(競灰 3:6)と述べている。霊により、愛によって歩もう。

2018/8/14(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書33:1-5 賛美 新聖歌165
 神はまずエルサレムの荒れ果てた状況から語り始められる。エルサレムの人々が、敵の侵入を防ぐために自らの手で打ち壊した都の家屋が、努力も空しく敵に攻撃され、打破されてその結果犠牲者たちの亡骸がこの廃墟に溢れるという、皮肉な現実である。ユダの人々にとってこれは大いなる災いであった。神を信じる人びとに災いが起こる時、神を信じているのになぜこんなことが起こったのかと混乱する。あるいは、神は無力であったから自分が信じてきた神は死んでしまったと考える。しかし神はこの都の荒廃は神ご自身が怒りの故に民に対して行われたことであると考える。
 神を信じているなら必ず神の守りの内にあると考えることが間違いなのではない。神を信じているという事実、一度信仰告白をしたという事実をお守りや呪文のように考え、日々の歩みの中で神の御声を聞いて従うことを怠り、神を信じていると言いながら罪を犯し続ける者の罪を神はご覧になり、裁かれる。日々主を愛して主に仕えることを主は求めておられる。

2018/8/15(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:25 賛美 新聖歌 359
 ユダヤ人たちの言葉に対して癒された盲人は「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と答えている。この箇所について大宮溥師は「信仰は教条主義的に、ある信仰命題を他律的に受け入れることではない。信仰は生きた経験である。それは生ける神との出会いにもとづくものであり、この出会いは自分のうちにある変化を生ぜしめる。もちろん信仰は、そのような信仰の経験そのものを拠点とするのではなく、その経験を与えた神ご自身によりたのむものである。『信仰は経験において成立するが、経験から生じたものではない』(フォーサイス〉。しかしそれは、他人の言葉に盲従するのではなく、自分の神との出会いの経験から出発するのである。したがって信仰は証言として伝達される。このかつての盲人は、この神との出会い、救いの現実に固執して、その証人でありつづけようとしているのである。」(説教者のための聖書講解No30P48−49日本基督教団出版局1980)と述べておられる。神との出会いの経験に立って神により頼み、証人として歩もう。

2018/8/16(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書33:1-13 賛美 新聖歌263
 神ご自身の怒りの故にエルサレムを破壊されたことを語られる神はさらに回復について語られる。現実にはまだ回復されておらず、ただ荒廃の中にある都に対して神はご自身の怒りについて認められた同じ時に癒しと治癒と回復を宣言される。怒りと赦しがこの様に同居することを私たち人間はなかなか理解できない。しかし神は罪に対する裁きを受けた人々に対していつまでも怒り続けておられるのではなく、怒りを越えて余りある民に対する愛の故に彼らを赦し、建て直すと言われる。かつて絶たれると宣言された花婿のよろこびの声が回復され、人びとが死に絶えた都に再び声が響き、羊が再び草を食み、憩う場所となる。
 徹底的に荒廃した地を見る時、人びとは将来に対する希望を抱くことができず、闇に包まれた気持ちになる。唯一このような状況から回復させることができるのは神のみである。ここに希望と回復の源である神を見ることができる。救済と回復の源である神を見上げつつ歩もう。

2018/8/17(金) 担当 高谷清師  詩 38:11 賛美 聖歌 602
 ダビデはここで「心は動転し、力はわたしを見捨て/目の光もまた、去りました。」と詠う。ダビデは信仰に立って歩んでいた。しかし、長引く苦難は心に苦悩と不安を引き起こした。心は動揺し、彷徨い、力はダビデを見捨てて離れ去ったように失われ、目もまた、命の光を見失ったようになった。信仰の父と言われているアブラハムも、神から「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」(創15:4)との約束を与えられていたにもかかわらず、10年経ってもその約束が成就されず、約束の成就が人間的に見て不可能と思われた時、サラの勧めに従ってエジプト人の女奴隷ハガルによって後継ぎを得ようとした。しかし神はその子をアブラハムの跡を継ぐ者とはせず、サラとの間にイサクを授け、後継ぎとされた。
 人は試練が長引くとき、心に不安を覚え、動揺し、彷徨う。しかし神の約束は不変である。しっかりと御言葉に立って歩もう。

2018/8/18(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 16:33 賛美 新聖歌 459
 イエスはご自分が十字架に架かり世を去る時の近づいたことを知り、世に残される弟子たちが主の弟子である故の苦難に遭遇することを思い、彼らの励ましとなるご自分の勝利を語られました。パウロは「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(競謄3:12)と述べています。そして競灰11:23-28に自分の遭遇した数々の苦難を記し、「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:37-39)と記し、キリストにある信仰による勝利を語っています。すべてに勝利された主を見上げ、苦難に立ち向かって歩みましょう。


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