デボーションの友
投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-06-03 23:07:16 (98 ヒット)
デボーションの友

2018/6/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 316
 ヨハネは8:30において「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」と伝えた。イエスを信じた人々は厳しい状況の中で信じたのである。しかしイエスは彼らに対して「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」と語っておられる。この箇所についてカルヴァンは「福音書の著者が信仰と名づけているのは、その本来の意味のものではなく、単に信仰の準備にすぎないものである。」(カルヴァン新約聖書注解轡茱魯擁_蚕饋袈欺佝納1967上P289)と言っている。イエスはマタ 13:1-9において、信仰について教えておられる。イエスが求められる信仰は百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ信仰である。それはイエスの言葉を聞いてそれにとどまることによるのである。

2018/6/05(火) 担当 ラウジー満世師 )エレミヤ書29:8-14 賛美 新聖歌345
 到底希望など持てるはずがない捕囚民に対して神はこの言葉を語られた。故郷から引き離され、神を礼拝するための神殿を奪われ、信仰の危機にある人びとに対して語られたこのメッセージは、捕囚民の根本的な怖れを拭い去り、力を与える言葉であった。神は呼んでも答えて下さらない、エルサレムから遠く離れた地に神を見いだせない、と思っていた人々は、たとえバビロンにいたとしても神が聞いてくださり、彼らを心に留めてくださっているという驚くべき愛に満ちた言葉を聞いた。
 長く苦境に置かれているとき、私たちは神に見捨てられたのかと不安になり、それでも神の助けを求める。私たちが求めて叫んでも助けが得られないときには、神に頼ること、神を信じることを拒んでしまうこともあるだろう。しかし神は時と場所に関わらず私たちと共にあり、私たちを愛し続け、神の御心に従って助け、支えてくださる。変わらない神の愛を心に留めて歩もう。

2018/6/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8: 25-30 賛美 新聖歌 201
 イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」と語っておられる。また、イエスは「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハ 17:21)と祈っておられる。イエスは十字架に架かり、血を流し、死んで葬られ、父なる神によって与えられた贖いの御業を成し遂げ、死に勝利して甦り、40日に亘って弟子たちに現れ、天に上り、約束に従って聖霊をお遣わしくださった。聖霊は「イエスの霊」(使 16: 7)と呼ばれている。イエスの弟子となる為には聖霊に満たされ、イエスとの不断の交わりを持ち、イエスの心が私たちの心となる歩みをすることが大切である。どんな時にも聖霊によって祈り、イエスとの深い交わりに生きよう。

2018/6/7(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書29:15-23 賛美 新聖歌302
 再び偽りの預言をする人々について語られている。ユダの民に対して繰り返して偽預言者の言葉を聞いてはならないと警告される。エレミヤ書を読んでいる私たちも「またか」と思うほどである。しかしこれほど何度も警告しなければならないほど、偽預言は人びとにとって魅力的であった。実際、神の言葉を正しく聞き取って語っているエレミヤの言葉よりも、偽預言者達の言葉の方が人々にとっては喜ばしい。そこには厳しさがなく、人びとの願いをすぐさまかなえてくれるという都合のよい宣言が満ちていた。
 人びとにとって喜ばしく、都合のよい言葉が、必ずしも真正の神の言葉であるとは言い切れない。神の言葉は私たちを喜ばせるためだけのものではなく、教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益(競謄皀3:16)な言葉である。誤りなく神の言葉を聞き分けられるよう、聖霊の導きを求めよう。

2018/6/8(金) 担当 高谷清師  詩37:23-24 賛美 聖歌 296
 ダビデは「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」と詠う。神は全知全能のお方であり、その独り子を与えるほどに、私たちを愛してくださっているお方である、と知ってイエスを信じた者は、自分たちの前途には安楽と繁栄の実が待ち受けていると期待する。しかし多くの人々が遭遇する人生の試練は信仰者の前途にも待ち構えている。更に、今回世界遺産登録の候補になっている長崎を中心とするキリシタン遺跡が示すように、信仰者故に遭遇する試練も存在する。しかし、信仰者は常に神の保護のもとにおかれている者である。それ故パウロはコリントの人々に「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(汽灰10:13)と書き送っている。そして「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(汽灰10:13)と述べている。順風の時にも試練の時にも常に神の御手の中に留まることこそ、勝利の道である。

2018/6/9(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 9:1-12 賛美 新聖歌 358
 イエス様の一行は通りすがりに、生まれつき目の見えない人に出会いました。そこで弟子たちはイエス様に「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と問いました。それに対してイエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。そしてイエス様は地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになり、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われました。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来ました。神の御業があらわされたのです。
 人は困難や試練に遭遇すると、だれが犯した罪によるのだろうか、本人の犯した罪によるのだろうか、それとも、両親の犯した罪によるのだろうか、などと考えます。しかしそこには大きな神の計画が秘められているのです。これを知る時、私たちは困難の中にあっても、試練の中にあっても、神により頼み、平安の内に歩むことが出来るのです。


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