デボーションの友
投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-04-01 23:28:38 (85 ヒット)
デボーションの友

2018/4/2(月) 担当 高谷清師 ヨハ 7:45-52 賛美 新聖歌 344
 下役たちの「今まで、あの人のように話した人はいません」と言う答えに対してファリサイ派の人々は「律法を知らないこの群衆は、呪われている。」と言っている。「下役たち」と言われている人々は当時「地の民」と呼ばれており「律法を知らない、呪われている人々」とされていた。一方、祭司長たちやファリサイ派の人々は、律法を正しく知っており、行い、それによって自からの義を主張していた。彼らの考えによればメシアは「メシアの律法をもたらす者であると同時に、イスラエルを異国による支配のくびきから解放し、自ら世界統治の座にすえられるべき強大な王」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書P229 NTD新約聖書註解刊行会1975)でなければならなかった。彼らの知識が、救い主を正しく知ることを妨げたのである。
 今の時代を生きる私たちにとって神について学ぶことは大切である。それは光の天使に偽装した悪魔による霊的な誤りへの誘惑から私たちを守る。一方、神は自由に働かれるお方である。神についての知識に固執すれば祭司長たちやファリサイ派の人々と同じような誤りに陥る危険を伴う。私たちに求められるのは、神について学ぶと共に、常に祈り、聖霊に導かれ、神の御心をわきまえ、従うことである。

2018/4/3(火) 担当 ラウジー満世師 )エレミヤ書23:30-32 賛美 新聖歌373
 エレミヤの時代の預言者は互いに言葉を盗み合い、その言葉を託宣と称して―すなわち神のことばでない言葉を神のことばとして語り―、神の民を惑わした。神のことばを与えられた者と自称して、神の権威を利用して自分の夢を語り、民を惑わしている。大変厳しい言葉である。この様な預言をしていた者が自身の欺瞞を自覚していたか否かは分からない。しかし神はご自身の権威を歪めて悪用し、自己の欲求を満たし、民を偽りへと導く自称預言者達をしっかり見ておられた。そしてこの短い箇所で三度も彼らに「立ち向かう」と宣言されたように、神は彼らを放ってはおかれない。
 自らが神に仕えているという立場を利用して神の権威を悪用していないだろうか。クリスチャンであることを口実にして人々を自分の都合に合うように偽りの道へと導いていないだろうか。神に仕えること、神のメッセージを取り次ぐこと、証しすることのめぐみと同時に責任の重さを認識しつつ、主の導きによって語る者であるようにと祈り求めよう。

2018/4/4(水) 担当 高谷清師 ヨハ 7:47-49 賛美 聖歌 196
 議員やファリサイ派の人々は、イエスが安息日に「ベトザタ」と呼ばれる池のほとりで行われた癒しと、それに続いて語られた「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」という言葉によってイエスを殺そうと図るようになった。そして仮庵祭の時にイエスを捕らえるために下役たちを遣わした。しかし下役たちはイエスを捕らえることが出来ず、空手で帰ってきた。議員やファリサイ派の人々は下役たちを「律法を知らないこの群衆は、呪われている。」と罵った。その時、ニコデモが議員やファリサイ派の人々の矛盾を指摘して「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」と言った。律法を知っている議員やファリサイ派の人々が律法に反することを行っていたからである。今日、「聖書は誤りなき神の言葉であって、信仰と生活の唯一の規範である」と告白しながら、実務において聖書をないがしろにする指導者が無きにしも非ず、である。しっかりと御言葉に立って見極めよう。

2018/4/5(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:33-40 賛美 新聖歌361
 ここでは新共同訳聖書に示されているようにヘブル語の語呂合わせを用いた厳しい言葉が語られている。主の託宣(マッサ)は何かと問う人々に対してこの民こそが重荷(マッサ)だと答えられる。この強烈な皮肉を聞くと私たちは驚く。この皮肉は人々を驚かせるためだけに用いられたのではない。それに続く神の裁きが重要である。自分勝手に神のことばを作り出して自分の思いを神のメッセージとして脚色して語る人々は、神にとって喜びではありえない。そしてこの重荷となる人々を神は投げ捨てることもおできになる。偽りの神のことばを語る者が預言者であれ、民であれ、祭司であれ、その立場に関わりなく神の御心に従ってその罪に対する裁きを受ける。
 今日でも軽々しく神のことばを自分に与えられた取り次ぐべきメッセージとして語ろうとする人々は多い。その時に預言をすることに対する憧れによって動機づけられて簡単に語ってはならない。本当に神からのメッセージであるかどうか、神の前にへりくだって祈り、聖霊の臨在の中で確認し、語ることに対する神に対する責任を自覚しつつ語るべきである。

2018/4/6(金) 担当 高谷清師  詩 37:9-11 賛美 新聖歌 225
 神を信じない人々について主は「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」(ルカ 13:34-35)と語っておられる。またパウロは「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)と述べている。彼らは滅びに定められているのである。にもかかわらず、彼らが繁栄の道を歩んでいることについてぺトロは「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(競撻 3: 9)と述べている。神を信じない人々が繁栄の道を歩んでいるのは、彼らの滅びを悲しまれる神の忍耐によるのである。それ故、わたしたち求められるのは彼らを愛し、彼らのために祈り、救いの言葉を伝えることである。

2018/4/7(土)担当 高谷由紀子師 マルコ 16:9-11 賛美 新聖歌 127
 復活の主はまずマグダラのマリアに御自身を現されました。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人です。悪霊から解放されたマリアはその後、復活された主に最初に出会ったのです。イエスを拝したマリアはすぐに、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせました。マリアは復活の主を拝した時に、その事実を自分の心のなかだけにとどめず、他の弟子たちに伝え、復活の証人となりました。


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