デボーションの友
デボーションの友 : 2018/2/12-17
投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-02-11 23:41:43 (116 ヒット)
デボーションの友

2018/2/12(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:16-17 賛美 新聖歌 282
 「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言う問いに対してイエスは「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」と答えておられる。「この方の御心を行おうとする」という言葉についてジークフリート・シュルツは「この場合、倫理的に解釈してはならない。というのは、ヨハネによれば問題は、世の裁きにおいて人の子に受け入れられるための条件として道徳的諸要請を満たすということではなく、信仰以外の何物でもないからである。六章39節の場合と同じくここでも、神の要求する業、つまり神に遣わされた者としてのイエスに対する信仰が、問題にされているのである。信じるということは、ヨハネによれば、神の意思を行うこと以外の何物でもなく、これが信仰の服従である。」(NTD新約聖書註解(4)ヨハネによる福音書P215NTD新約聖書註解刊行会)と述べている。イエスの教えイエスを遣わされた神ご自身の教えであった。それは信仰によらなければ知ることはできない。

2018/2/13(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書21:11-14 賛美 新聖歌166
 王に対する厳しい預言が語られている。ここでエレミヤが「ユダの王家」(21:11)という時、それは国を治める要職に就いている王族ばかりを指しているのではなく、宮廷において政権運営を担っているすべての人々をも含んでいる。当時、ユダの王家は攻め寄せる敵からエルサレムを守るために守りをより強めようとして王宮建築に取り組もうとしていた。国の指導者たちにとって拠り所となっていたのは南東の崖に囲まれた、ほとんど難攻不落な要塞であった。彼らは自分たちの権力と自分たちが作った日常を守る要塞という道具により頼み、神に頼ることをおろそかにしていた。人々を導くことにおいても「正しい裁き」(21:12)は行われてはいなかった。
 主が求められる正しい裁きとは、裁く者にとっての都合の良い裁きではない。それは神と神の戒めを基準とした、搾取され、虐げられている人々を救い出す裁きである。日々の歩みの中で主に頼り、主の基準に従って物事を判断することをこそ、神は喜ばれる。

2018/2/14(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:18 賛美 聖歌 273
 イエスは「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」と語られる。パウロは主イエスの御生涯について「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:6-8)と述べている。主イエスは神に遣わされた者として、自らの栄光を求めず、只管神の御心に従順に歩み、神の栄光のみを求められた。私たちもそのように歩みたい。聖書の預言者の時代と同じく、「神に召された」「神に遣わされた」と言いながら、自分を語り、自らの栄光を求める偽伝道者の如何に多いことか。それは教派、教団と言った所属団体によっては判別出来ない。地位、身分によっても判別できない、聖霊の証によってのみ判別できるのである。「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」(汽茱 2: 18)と言う警告を心に留めよう。

2018/2/15(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書22:1-9 賛美 新聖歌275
 続けてエレミヤは人々が集まっている王の宮殿で神のことばを語る。おそらくエレミヤは毎年行われる王の即位の祭の日に語るよう命じられたのであろう。人々が喜び祝う中で厳しい言葉を語るエレミヤは人々にとっては招かれざる客であった。エレミヤが語ったのは目新しいことではない。イザヤなど他の預言者も語り続けてきたことを、全くそれらを心に留めない人々に再び語っている。栄えていた国が廃墟となる時、人びとは「なぜ主は、この大いなる都にこのようになさったのか」(22:8)と問われると、守りが固められていなかったからとか、外交が下手だったからと答えるだろう。しかし聖書が語る理由は一貫して「彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ」(22:9)という。人は自分の努力によって自分を守ろうとする方がより確実で安心感が得られると考える。しかし神によると、賢く立ち回って保証を得ることは自分自身を救う手段とはならない。
 神のことばを聞き、神にのみ仕えることが私たちの力である。

2018/2/16(金) 担当 高谷清師  詩編詩 36:13 賛美 新聖歌 196
 「神に逆らう者」の悪について語り、それにもかかわらず注がれている神の恵みを明らかにしたダビデは、神を知る人、心のまっすぐな人の上に恵みの御業が常にあるように、また彼らが神に逆らう者の手から守られるように祈った。その祈りの中で確信へと導かれる「悪事を働く者は必ず倒れる。彼らは打ち倒され/再び立ち上がることはない。」と。この箇所についてカルヴァンは「ダビデはその祈りによって確信を抱き、その求めることがすでに得られていることを、少しも疑わない。同様にわれわれは,信仰の確かさが、いかに聖徒らをして祈りへと向かわしめるか、を知るのである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅451新教出版社1970)と述べている。主イエスは枯れたいちじくの木について「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マコ11: 24)と教えておられる。神との対話の中で確信に導かれた祈りは既に聞き入れられているのである。

2018/2/17(土)担当 高谷由紀子師 マタ 19:13-15 賛美 新聖歌 490
 人々がイエスに手を置いて祈っていただくために、子供たちを連れて来ました。イエスの手は、目の見えない人の目を開き、足の不自由な人を立たせ、歩ませ、悪霊に憑かれた人を解放したことを人々は知っていたからです。しかし、弟子たちはイエスを煩わせてはならないと思い、この人々を叱りました。これを知られたイエス様は「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と言い、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られました。イエス様は「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハ 6: 37)と語っておられます。十字架の血潮を仰ぎつつ、主に近く歩みましょう。


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