デボーションの友
デボーションの友 : 2018/1/29-2/3
投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-01-28 23:50:49 (25 ヒット)
デボーションの友

2018/1/29(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:1-9 賛美 新聖歌 344
 生きたパンの教えによって弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった現実を前にしてイエスの兄弟たちはイエスに「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」と忠告した。いわばイエス集団の教勢衰退を懸念した兄弟たちがイエスに、都に上って、即ち、表舞台に立って奇跡を行い、天下にその真価を問えと言ったのである。これについてヨハネは「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」と述べている。 イエスの兄弟たちはイエスに最も近く在る者として肉においてイエスを知っていた。しかしそれは人に救いを得させることはできない。ヘブル書の記者は「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」(ヘブ 4: 2)と述べている。主イエスを信仰によって知ろう。

2018/1/30(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書20:7-13 賛美 新聖歌361
 先週木曜日には7-10節を中心に読んだ。11-13節には神の働きに携わった故に受けた苦しみや苦悩を経験したにもかかわらず、揺るがないエレミヤの信仰と神への賛美が記されている。苦悩と葛藤からこれほど突然に賛美へと転換した背景には、エレミヤ自身の葛藤を通してあらゆる疑問や不安を神に委ねたからに他ならない。エレミヤがすべてをゆだねた神は「恐るべき勇士」(20:11)である。神に敵対する者に対しては審判をもって臨まれる恐るべき方であり、あらゆる苦境において神に信頼して立つ者に対しては勝利を与える勇士である。エレミヤの賛美は苦境においても「勇士」として正しく裁かれる神の臨在を求めた時にあふれ出た。決して今日を一瞬にして覆し、降り注ぐ恵みを確認した時ではなかった。
 神への確かな信頼に根差した揺るぎない賛美は、あらゆる状況において変わらない義なる神、真実なる神を信仰によって認識したときに生まれる。そしてそれは個人の賛美にとどまるのではなく、神を信じる人々の群れに共有される賛美となる。

2018/1/31(水) 担当 高谷清師 ヨハネ7:10-13 賛美 新聖歌 458
 仮庵祭に集まった群衆はイエスについていろいろとささやき合っていた。ある人々はイエスを「良い人だ」と言い、ある人々は「いや、群衆を惑わしている」と言っていた。しかし、福音書記者は「ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」と記している。ジークフリート・シュルツは「ここではユダヤの群衆とは無責任に放言する大衆を意味するものでしかなく、一方ユダヤ人とは世の代表的なもろもろの宗教的権威のことなのである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書P212−213 NTD新約聖書註解刊行会1975)と言っている。ルターは聖書の内に真理を見出し、宗教的権威に抗して真理に歩もうとして多くの辛苦を経験した。エレミヤも然り、いつの時代にも宗教的権威は存在するが、それが真理を具現しているとは限らない。聖霊との密なる交わりの中で導きを得て常に御言葉の真理に歩もう。

2018/2/1(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書20:7-13 賛美 新聖歌420
 エレミヤ書を読むとしばしば私たちは困惑する。堅く揺るぎない信仰に立つエレミヤの姿と、絶望しきった姿が交互に現われるからである。13節までは苦難のさなかでしっかりと神を見上げていたエレミヤがここでは生まれた日を呪うほどに打ちのめされている。預言者としての務めの厳しさと失望が吐露されている。さらにエレミヤがそのような状態から抜け出す気配すら全く感じられない。あまりに異なる姿に、別人について語られているように感じる。しかし信仰に堅く立てる時もあれば、絶望に陥る時もある。後になって振り返るならばあらゆるときに神が共にいて見捨てることなく、最終的にはこの絶望の時期を乗り越えさせてくださったことが分かる。
 最も苦しい信仰の歩みに一人で捨て置かれているような時でも、神は確かに私たちに目をそそいでいてくださる。安心して従おう

2018/2/2(金) 担当 高谷清師  詩編詩 36:10 賛美 聖歌 273
 ダビデは「命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。」(詩 36:10)と詠う。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14: 6)と語っておられ、更に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハ 7:37-38)と語っておられる。更にヨハネは「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ 1:4-5)と述べている。イエスこそ真の命であり、私たちを照らす光であり、暗闇の中で、即ち、罪の支配する世において輝いている。しかし罪の支配下にある者は光を理解できない。恵みにより、信仰を与えられ、信仰に立つ者だけが光を理解でき、命を与えられるのである。神の恵みを感謝し、更に光の証人として歩もう。

2018/2/3(土)担当 高谷由紀子師 汽灰3:1-9 賛美 新聖歌 341
 コリントの教会はパウロの宣教によって成立した教会でした。パウロはいつものように、自分の宣教によって群れが形成されると、その群れを群れの中の指導的な人に委ねて次の宣教地へと進んでいきました。勿論、その地を去った後もその教会のことを心にかけ、日々祈っていました。後日彼はコリントの教会の様子を耳にしました。教会の中に派閥対立があるというのです。そのようなコリントの人々をパウロは肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子であると言っています。パウロは、彼らが一日も早くキリストに結び付いた成長したクリスチャンになることを求めているのです。「這えば立て、立てば歩めの親心」という言葉があります。神様はわたしたちが成熟したキリスト者になることを望んでおられるのです。


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