デボーションの友
デボーションの友 : 2017/12/25-30
投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-12-24 23:18:45 (87 ヒット)
デボーションの友

2017/12/25(月) 担当 高谷清師 ヨハネ ヨハ 6: 41-51 賛美 新聖歌 201
 イエスは「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と語られる。この箇所について船本弘毅師は「創世記の創造物語は、善悪を知る木の実を取って食ベ、罪を犯した人間が、さらに「いのちの木の実」を食べないように、エデンの園から追放されたという物語を記している(創世記3:22−23〉。しかし今、ヨハネは、イエスが「いのちのパン」であり、それを食することが許されていることを告げるのである。イエスが「天から下って来たパン」であり、「いのちのバン」であるということは、このバンは、死を超えて生きぬく復活の生命を与えることを宣言しているのである。イエスは十字架の死を死んでご自身をささげ、人を神に和解させ、よみがえって死に勝利し、我らをあたらしく永遠の生命に生きる者としてくださったのである。」(説教者のための聖書講解No29P20日本基督教団出版局1979)と述べておられる。先日、私たちはクリスマスを祝った。クリスマスに顕された神の恵みのすばらしさにあらためて感謝をささげよう。

2017/12/26(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書17:9-12  賛美 新聖歌341
 エレミヤは何度か人の「心」について語っている。他の数カ所と同様に、ここでは人の心が正しくあり得ない状況について述べている。5:23では明確に「この民の心はかたくなで、私に背く。彼らは背き続ける。」と語られている。人間の心は自分の意志によって正すことができず、その罪の汚れを洗い流すことはできない(2:22)。その上さらに人々はとらえ難く病んでいることにも気づいてはいない。表面上生活が何とか平穏を保っている間、民は自分の罪を知ることなく、それ故に罪に向き合って悔い改めることもなかった。しかし神は罪をご存じであり、その罪には裁きをもってのぞまれる。
 裁きの御座の前に立った時にようやく罪に気付くことがないよう、今語られている、神に従えと言う呼びかけに日々答え、受けた救いにふさわしく神と共に歩む者になりたい。

2017/12/27(水) 担当 高谷清師 ヨハネ6: 6:52-59  賛美 新聖歌 202
 イエスが「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と語られたことを受けてユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。これに対してイエスは「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」と語られる。弟子たちに対する決別説教においても主は「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(ヨハ 14:20)と語っておられる。私たちは信仰によって人の子の肉を食べ、その血を飲む。その信仰とは観念的なものではなく、愛といのちにおける生きた交わりである。

2017/12/28(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書17:13-18  賛美 新聖歌201
 エレミヤの苦しい心情が吐露されている。神のことばをとりつぐ奉仕の中で、エレミヤ自身が癒しを必要としていた。神のことばを語っても人々はそれを受け入れないばかりか、使者として立てられた預言者エレミヤをも拒む。神のことばを語る時、人びとは神のことばを嘲笑し、ひいてはそれを伝える預言者自身をも嘲笑った。口先だけの平和を語る偽預言者が多い時代において神の厳しい裁きを語り続けたエレミヤは孤独であった。しかし預言者は人々にその孤独と怒りをぶつけることはせず、神に訴えた。神こそが避け所だと告白した。
 いつの時代にも世は罪に満ち、人びとは真の神とその言葉を拒む。それゆえ神を信じて忠実に歩む人々の行動と言葉はしばしば直接的に、間接的に拒まれ、クリスチャンは孤独と痛みを体験する。しかしその怒りを、神を知らず、罪に気付かない人々に向けるのではなく、神に癒しを求めて人びとの悔い改めと赦しのために祈ろう。主が我らと共におられる。

2017/12/29(金) 担当 高谷清師  詩編詩 36:2-5 賛美 新聖歌 354
 この箇所でダビデは「神に逆らう者」について語っている。神に逆らう者の前には、神への恐れがなく、自分の悪を認めることも/それを憎むこともできない。彼の口が語ることは悪事、欺き。床の上でも悪事を謀り/常にその身を不正な道に置き/悪を退けようとしないのである。私たちが注意しなければならないのは、彼らの多くは、世に在っては決して悪人として見られていない、むしろ立派な人と見られている人々があり、信仰を口にする人々も含まれる場合があることである。パウロが「信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。」(競謄 3: 5)と警告している言葉を忘れてはならない。更に聖書は「人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。」(箴 16: 25)と述べている。このような状況に対処する道として聖書は「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」(黙 3: 18)と述べている。「目に塗る薬」それは自分を捨て、聖霊に服従しつつ、御言葉を聞くことである。

2017/12/30(土)担当 高谷由紀子師 汽謄5:16-18 聖歌195
パウロは厳しい迫害にさらされていたテサロニケの教会に対し「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と書き送っています。迫害の故に悲しみと苦しみのただなかにあって、人間的には喜ぶに喜べない、感謝しようにもできない状況下にあるテサロニケの人々にこのように書き送ったのです。それはパウロが「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ロマ 8:34-35)と述べているように、キリストにある喜びは、世の如何なるものも取り去ることが出来ないからです。
多くの厳しい自然災害、予期せぬ病、不慮の事故、過労死、人の醜い心から発するいじめによる自殺・・・・・痛ましい出来事の多かった2017年も暮れようとしています。この痛ましい傷をいやすことの出来るお方、それは私たちの罪を負って十字架に死んで、甦られた主イエス・キリストだけです。主のみ前に心を注ぎ出し、新しい喜びに満たされ、感謝をささげましょう。


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