デボーションの友
デボーションの友 : 2017/12/18-23
投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-12-17 22:39:06 (26 ヒット)
デボーションの友

2017/12/18(月) 担当 高谷清師 ヨハネ ヨハ 6: 41-51 賛美 新聖歌 201
 イエスの周りに集まっていたユダヤ人たちは律法学者たちの教えと祭司たちの仲介によって神に至ると考えていた。これに対してイエスは「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」と語られる。ヘブライ人への手紙の記者は「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」(ヘブ 1:1-2)と述べている。またパウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ 10:17)と述べている。神は罪によって死んでいた私たちを愛し、御子によって贖いの御業を成し遂げ、キリストによってその恵みを明らかにしてくださった。更に聖霊によって私たちの魂にキリストの言葉を明らかにし、私たちが応答し、キリストとの人格的交わりに導かれることによって信仰が生み出され、永遠の命を受けるのである。御言葉と祈りによって信仰に生き、永遠の命に歩もう。

2017/12/19(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書17:1-4  賛美 新聖歌427
 神殿での贖罪の儀式は贖罪の動物の血を祭壇の角に塗るというものであった。人々はそれによって罪が帳消しにされるという機械的な罪の赦しを期待していた。神が律法によって様々ないけにえを定められた時、それは形式的に手順をたどるだけの関係を求めておられたのではない。手順に従って神にいけにえをささげることを通して、心からの悔い改めを表す祭儀を期待されていた。つまり生ける神との関係は、定められたときだけ行う儀式によって命に満ちた関係が保たれるというものではないのである。
 私たちの信仰も形式主義に陥ってはいないだろうか。毎週欠かさず礼拝を守り、献金をささげているから私たちの罪が赦され、私たちが神との親しい関係にとどまっているのではない。日々神の前に自分を省み、神の前にへりくだって悔い改めることによって赦しを得、生ける神との交わりが保たれるのである。

2017/12/20(水) 担当 高谷清師 ヨハネ6: 41-51  賛美 聖歌 501
 イエスは「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」と語られる。ヨハネはこの福音書の始めの部分で「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)と述べている。この箇所について船本弘毅師は「真に神を見、人々に父を知らせうるのは独子イエスのみである。前節の神から聞いて学ぶということが誤解されないように、神は人間に直接的に異常な体験を通して語るのではなく、その愛する子であり、遣わされた者を通してのみ語ることを明らかにしている。」(説教者のための聖書講解No29P19日本基督教団出版局1979)と語っておられる。今日においても「神様が、聖霊が語られました」と言う人々がある。それを全否定するものではないが、記された神の言葉―聖書―によって検証することが重要である。「霊的深さ」を誇示しようとしてサタンの奸計に陥ってはならない。

2017/12/21(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書17:5-8  賛美 新聖歌282
 詩編1篇を思い出す箇所である。エレミヤは知恵の格言を用いて二種類の人々を描いている。第一に主に信頼することができないがゆえに人間に頼る人である。神への信頼を欠きながら、神の祝福を得ることはない。第二に主に信頼する人である。彼らは水のほとりの木が青々と葉を繁らせ、旱魃の時にも干からびることなくいのちに満ちているように、神の祝福を受けて素晴らしい実を結ぶのである。
 詩編1篇からもよく知られたこのイメージを聞く時、私たちは選択を迫られる―神を信頼しない人生を歩むのか、神を信頼して神に従うのか。この決断は一人一人が毎日行わなければならない。神を信頼する決断を、主の助けにより、正しい選択をしていこう。

2017/12/22(金) 担当 高谷清師  詩編35: 28 賛美 新聖歌 137
 ダビデはサウル王の妬みによって理不尽な迫害を受け、権力者サウルの不正を認識しつつも、自らの保身と栄達のためにサウルに同調した多数の人々からも迫害を受けた。そのような状況下にあってもダビデは「わたしの舌があなたの正しさを歌い/絶えることなくあなたを賛美しますように。」と詠う。同じような状況はいつの時代にも見られ、現代社会においても日常茶飯事である。このような状況におかれる時、人は「神も仏もあるものか」と叫びたくなる。しかし神は生きておられ、すべてを見ておられる。パウロは「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」(ロマ3: 4a)と述べている。神の真実を確信し、ダビデと共に「わたしの舌があなたの正しさを歌い/絶えることなくあなたを賛美しますように。」と詠いつつ日々主の御前に歩もう。

2017/12/23(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 2:1-7 聖歌136
 ルカはこの箇所にイエス様の誕生の様子を記しています。そのころ、皇帝アウグストゥスは全領土の住民に、登録をせよとの勅令を出しました。登録するためにはおのおの自分の町へ行かなければならなかったのです。ダビデの家に属していたヨセフも登録するために、身ごもっていた、いいなずけの妻マリアを伴って自分の町、ベツレヘムにやってきましたが、住民登録のためにやってきた人々で町はごった返し、宿屋にはヨセフたちの泊まる場所はありませんでした。マリアはベツレヘム滞在中に月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。ルカは「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と記しています。
 今日、わが国においてもクリスマスは盛大に行われます。しかし人々の心にイエス様の住まわれる場があるでしょうか。キリスト者である私たちも一年で最も多忙なこの時期、世の働きに押されてイエス様の座がおろそかにされていないでしょうか。降誕の日を前にして心を顧み、イエス様の座を整えたいものです。


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