デボーションの友
デボーションの友 : 2017/11/20-25
投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-11-19 22:34:52 (27 ヒット)
デボーションの友

2017/11/20(月) 担当 高谷清師 ヨハネ ヨハ 6:28-33 賛美 新聖歌 275
 イエスが「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と答えられたのに対し人々は「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」としるしを求めた。主イエスは自分を試そうとして天からのしるしをもとめたファリサイ派とサドカイ派の人々に「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタ 16:4)と答えておられる。またパウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」(汽灰1:22)と述べている。大宮溥師は「信仰はイエスに対する人格的信頼であり、決断の行為であるのに、なお保証を求めるのは、自己への固執であり、不信仰への安住である。」(説教者のための聖書講解No29P14日本基督教団出版局1979)と述べておられる。全き信頼をもってイエスに従おう。

2017/11/21(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書14:17-22  賛美 新聖歌222
 神はエレミヤに言葉を託される。この言葉のうちには厳しい裁きを告げる神の心が表されている。神は民の滅びという裁きを決断されており、それは避け得ない現実として間近に迫っている。この裁きを下される神は、民の破滅を思い夜も昼も民のために涙を流されるのである。何度預言者を通して警告しても一向に悔い改めない民に対して神は裁きを下すと決断された。エレミヤが取り次いだ神のことばは厳しく、裁きの撤回の余地はないというものであった。この裁きを下すに至った神の心は説明されていないため、冷酷な神の姿を想像するかもしれない。しかし厳しい裁きを語られた神は夜も昼も民のために涙を流されるほど愛しておられるのである。
 罪を裁き、人を懲らしめる神は冷酷で愛のない神であるという短絡的な考えに陥らないようにしたい。神は深く民を愛しておられるが、その民が罪を犯し続けるならば涙を流しつつも裁かれる神なのである。

2017/11/22(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:28-33  賛美 新聖歌 201
 「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と語られた主は「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」と言われる。主イエスは神によって遣わされ、世に命を与えるために天から降って来られたお方である。カルヴァンは「天からくだるということでは、ふたつのことに注意しなければならない。すなわち、わたしたちは、キリストのうちに神的ないのちをもつ。それというのも、かれは、わたしたちにいのちを授ける者であるために、神から来たのだからである、と。次に、天のいのちはわたしたちの近くにある。だから、わたしたちには雲をこえて飛ぶことも、海をこえて行くことも、必要ではない(ローマ10:6)。それというのも、だれもかなたにまでのぼることはできないので、キリストがわたしたちのところにまでくだって来たからである、と。」(カルヴァン新約聖書注解轡茱魯擁_蚕饐綽袈欺佝納1967P206)と述べている。天に上ること、即ち自分の義を打ち立てて命を得ることはできない。信仰によって神の恵みを受け入れることによってのみ、命を得るのである。

2017/11/23(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書15:1-9  賛美 新聖歌378
 重ねて語られる神の裁きは明確であり、それは変更や撤回される兆しがない。神は裁きを受けた後の民がどうなるのかをも明確に伝えておられる。そしてこの神の裁きには明確な理由が伴っている。それは民が神を捨て、背いていったからである(15:6)。イスラエルの民は神の裁きが差し迫ったことを告げられると、主に向って裁きの撤回を求めることには熱心である。神の憐れみにすがろうとする。しかし、これほど裁きが差し迫った窮地に立たされた時にまず神の御前に出て静まり、神がこの様な裁きを決断された理由を知ろうとは求めない。 これが人間の姿である。どの時代のどの人々も神の裁きが身近に迫ったと知ると、自分の心を探り、神の前に正しく生きたか否かを問うことよりもただ神を責めることしかしない。しかし神が求めておられるのは、神の声を聞き分けて裁きを招いた罪を悔い改めることである。

2017/11/24(金) 担当 高谷清師  詩編35: 19-21 賛美 新聖歌 464
 ダビデは「敵」―「無実なわたしを憎む者」が「侮りの目で見ることがありませんように。」と主に求める。そして「敵」―「無実なわたしを憎む者」について「彼らは平和を語ることなく/この地の穏やかな人々を欺こうとしています。わたしに向かえば、大口を開けて嘲笑い/「この目で見た」と言います。」と語る。
 「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。」(マコ 11:9)と、歓呼してイエスを迎えた群衆は、数日後、イエスが捕えられ、裁きの場に着かれ、イエスにとって形勢不利と見えた時「数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。」(マコ 14:57)のである。
 順境の時には多くの人々が称賛し、すり寄るが、いったん逆境に陥ると有ること無いことを申し立て、権力者にすり寄り、陥れようとするのは世の常であり、今日も私たちの目前で展開されている光景である。しかし、すべてを裁くお方はすべてを見ておられる。

2017/11/25(土)担当 高谷由紀子師 ヨハネ6:1-14 聖歌273
 イエスが病人たちになさったしるしや教えを聞いた大勢の群衆がいた。主はこの人たちの空腹を知り、フィリポを試すためにパンの必要をどのように満たせばよいかと尋ねられた。フィリポは状況を客観的に見て、常識的に考えた上で「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6:7)と答えた。しかしその時アンデレは「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。」(6:8)と主に伝えた。アンデレも普通に考えると五千人の空腹を満たすためにこのわずかな食料は役に立たないと分かってはいたが、とにかく食べ物がここにあることを主に伝えた。その時主はこのわずかな食べ物を祝福して人々に分け与えたところ、五千人が満腹した。
 少年はわずかな五つのパンと二匹の魚しか持っていなかった。主はそれをもって人々の空腹を満たされた。私たちには無価値なものと見えても主は測り得ないほど価値あるものにして用いてくださる。自分の持てるものを喜んで主に差し出そう。


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