デボーションの友
デボーションの友 : 2017/10/9-14
投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-10-08 23:16:10 (53 ヒット)
デボーションの友

2017/10/9(月) 担当 高谷清師 ヨハネ6:1-9 賛美 新聖歌 156
 ガリラヤにおいて役人の息子を癒されたイエスは、その後、ガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた時であった。そして、山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。弟子たちを教え、しばしの安息の時を望まれたからかもしれない。しかし状況はそれを許さなかった。イエスが病人たちになさったしるしを見た群衆がイエスの後を追ってきたのである。イエスは、どんなに疲れておられても飼い主のいない羊のように弱り果てている群衆を見捨てることはなさらなかった。この群衆を見てフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた。この言葉を聞いたフィリポは当惑した。フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と言い、アンデレは「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と言った。しかしヨハネは「御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。」と述べている。
 私たちの歩みには予期せぬ必要が突如、起こることがある。そのような時、人々は日ごろ「主はわたしの必要を満たしてくださるお方」と言っている信仰告白などすっかり忘れて右往左往する。しかし主は備えていて下さる。御自分では何をしようとしているか知っておられるのである。どんな時にも主に信頼して歩もう。

2017/10/10(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書10:12-22  賛美 新聖歌21
 「天と地を造らなかった神々は/地の上、天の下から滅び去る」(10:11)が、ご自身の力によって世界を創造された神は賛美を受けられる。それは歴史の主であり、また自然を支配される方である。神ご自身の力は雲や稲妻や風の中に顕されている。私たちはこの神をどれほど知り、体験しているだろうか。そしてエレミヤが語るように「万軍の主」として礼拝をささげているだろうか。当時のイスラエルのように神の前に歩んでいながら、神を知らず、神に背く人々に対して語られるのは破滅と嘆きである。神の前に歩んでいながら、神を見失わないように、神から離れないように、常に主を知り、主の力を認め、主に礼拝をささげつつ歩もう。

2017/10/11(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:8-12  賛美 新聖歌 392
 そこには大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいた。大麦のパンと言うのは質素な食事を意味していると言われる。その大麦のパン五つと魚二匹――少年一人分の食物――はイエスの手に委ねられた。イエスは「人々を座らせなさい」と言われ、男たちはそこに座った。その数はおよそ五千人であったと言われている。イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。「人々が満腹した」と記されている。
 主は天に帰られるに先立って弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マコ 16:15-16)と命じられた。み言葉を宣べ伝える務めは重く、私たちはその任に耐え得ない。しかし主に自らを献げ、主の御手に握られる時、それは可能となる。

2017/10/12(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書10:23-25  賛美 新聖歌340
 預言者は再び北からユダに向かってやってくる敵の襲来の音を聞く。そしてユダの置かれた状況を見極め、とりなしの祈りを主にささげる。人は自分で歩む道を定めることはできない。自分の力では正しく歩む道を知ってはいても、その道からそれずに歩み続ける力もない。それゆえに預言者ができることはやはり神に祈り、正しい裁きと懲らしめによって自分たちの歩みを正していただくように求めることだけであった。さらに神の正しい裁きがユダを苦しめる敵に対しても注がれることによって、ユダの民を超えて世界中で主の公正な裁きが行われることを求めるのみであった。
 人は自分の道を常に正しく、間違わずに歩み続ける力を持たない存在である。正しい道へと導くことができるのはただ主だけである。私たちも自分の力だけで正しく歩もうとせず、神の力に頼って正しい道に導いていただき、既に犯した罪に関しては神の赦しを求めて行こう。

2017/10/13(金) 担当 高谷清師  詩編35:1 賛美 新聖歌 458
 新共同訳はこの詩篇に「ダビデの詩」と言う表題を掲げる。サウルはダピデに何らの罪もないのに、ダビデの人気が上昇するのを見て、妬みによってダビデを殺そうとした。カルヴァンは「サウルはダビデの敵だったので(追従は王の宮廷ではどこでもつきものである)、司らや権力の座にあった他の者はすべて寄り集まって、無実なダビデに対し陰謀をたくらみ、彼を亡き者にしようとした。また一般民衆も、同じ憎悪と残忍の仲間となるように取り計ったので、身分の上下を問わず、彼に向かって飽くことのない激怒に燃え立たない者は、ひとりもいないほどであった。しかしダビデは大部分の人々が、誤りと愚かさとから、無思慮にも押し流されていることを知っていたので、サウルの寵愛を得ようとして、悪意と邪曲とから、サウルの意に従う者だけを、その敵と見なす。このような者に対して、神が報復されることを彼は求める。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅424新教出版社1970)と述べている。権力者が自己の権益を守ろうとするとき、正しい者を不義なものと宣伝し、亡き者としょうとする。大衆はそれが権力者の言葉である故、検証なしに受け入れる。権力の中枢にある者は、その事柄が間違いであることを知っていても自己保身のため、権力者に同調する。イエスの十字架の場面もそうであった。「祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。」(マタ 27:20)のである。その結果、数日前には「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」と叫んでイエスを迎えた群衆は「十字架につけろ」と叫び続けたのである。このようなことは今日も起こる。それ故パウロは「――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェ 5:9-10)と述べている。主との深い交わりの中にあって導かれ、真理に歩もう。

2017/10/14(土)担当 高谷由紀子師 マタ 4:18-22 賛美 新聖歌 177
 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、湖で網を打っている二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレを御覧になり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。すると二人はすぐに網を捨ててイエスに従いました。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり、彼らをお呼びになりました。すると、この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従いました。この人たちは福音宣教のために特別な能力や権威を持った人たちではなく、普通に日常生活を送っていた漁師たちでした。このような人々に主は、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのです。彼らはイエスに従い、立派な弟子となり、宣教者となりました。主のみ声を聞くとき、すべてを委ねて従う者となりましょう。


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