デボーションの友
投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-09-03 22:36:59 (36 ヒット)
デボーションの友

2017/9/4(月) 担当 高谷清師 ヨハネ5:31-32 賛美 新聖歌 137
 新共同訳聖書は5:31−47に「イエスについての証し」と言う見出しを付している。「ベトザタ」と呼ばれる池においてなされたイエスによる癒しの御業に端を発したイエスとユダヤ人の論争は、ユダヤ人にイエス殺害の決意をさせるものとなった。イエスが安息日に病人を癒し、その病人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と命じられたこと、更に「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と語られたことによる。それは律法を破ることであり、更に自分を神とすることによって神を冒涜する行為としてユダヤ人の目に映ったからである。イエスは神によって遣わされた御子であり、神であられたが、ユダヤ人にはただの人としか認識できなかったからである。そこでイエスはご自身を証しする者について語られる。第一には神ご自身である。マタイは「そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」(マタ 3:17)と記している。私たちは信仰によって受け入れるのである。

2017/9/5(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書8:8-9  賛美 新聖歌38
 自分を「賢者」と認識している人が批判されている。彼らは「主の律法を持っている」と思っている。すなわち、自分に知恵があり、律法を知っていると思う時、その人はもはや自分は教えを受ける必要はないと思い込む。本来神から与えられ、神の御心が示されている律法を自己流に解釈し、自分の思いのままに神のことばを書き換え、人々を正しい道からそらしていくことになる。この「賢者」は結局神のことばを侮る者となるのである。
 私たちは「神のことばを知り尽くした」と言えることはないだろう。どれほど真剣に神のことばを学び、探求しても、そこに示された神の愛と御心を完全に汲み尽くすことはできない。それゆえ、日々謙虚にみ言葉の前に座し、神のことばを聞くのである。心からみ言葉に聞く姿勢をもって日々聖書を読みたい。

2017/9/6(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 5:33−38  賛美 新聖歌 202
 イエスを証しするものの第二はイエスご自身が行っておられる業である。それは「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業」である。イザヤは「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。」(イザ 53:10)と述べている。イエスはゲッセマネの園において「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタ 26:39)と祈っておられる。イエスの十字架の見張りをしていた人々は「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」(マタ 27:54)と記されている。イエスの御業はイエスが神であられたことを証ししているのである。

2017/9/7(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書8:10-13  賛美 新聖歌155
 預言者から祭司まで、すなわちイスラエルの民を導くべき人々は神のことばを自己流に解釈して人々に教えていた。神のことばを通して神の御心を求めず、様々な教えを形通りに習慣的に実行した。この様にふるまう指導者たちへの神のことばは厳しかった。敵が迫り来るときに安易に実態のない「平和」を語り、そのことによって民から悔い改めの機会を奪う指導者たちには神の裁きが迫る。
 神のことばを自己流に解釈して、自分は「知っている」と考えると、自らが神に背くだけではなく、人々をも神から遠ざける。教会で神の御言葉を取りつぐ牧師はもとより、信徒の立場で子どもたちを教え、また大人を教える立場にある者、教会のリーダーである者も含めて、神の御言葉を日々謙虚に聞き、教えを聞く姿勢を持たなければならない。

2017/9/8(金) 担当 高谷清師  詩編34:9-11 賛美 新聖歌 355
 ダビデは「主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。」と詠う。かつてダビデは自らの力を頼んでイスラエルに挑戦するペリシテ軍の兵士に、万軍の主の名によって応戦し、勝利を得た。その後、ダビデの戦績を妬むサウルからの逃避行を続けなければならなかった。サウルの死後王となったダビデは、周辺諸国との戦いに明け暮れた。このような歩みにおいて幾度か絶体絶命の危機に直面し、欠乏に陥った。しかし「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」(23:1-5)と詠っているように、主は常にダビデと共に居てくださり、守り、支え、満たしてくださった。まことに、主は主を畏れる者に対し常に御手を差し伸べ、守り、満たしてくださるのである。

2017/9/9(土)担当 高谷由紀子師 競灰螢鵐 11:16-31 賛美 新聖歌 302
 パウロの伝道生涯を見ていくとき、当時は教団組織もなく、権力もなく、人間的には孤軍奮闘、神様だけを頼りとするものでした。23節〜28節に記されているような厳しい苦難の連続の中に在って「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」(競灰1:9)と述べているように、神様以外に頼りとするものは無かったのです。このような苦難の中に在って神様の豊かな慰めを受けたパウロは「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(競灰1:4)と語ることが出来たのです。私たちの生涯においても試練の連続のような時を過ごさなければならない時があります。そのような中にあっても神の恵みのみ手は伸べられているのです。一人子さえも与えてくださった神の愛のみ手にすがりつつ信仰をもって歩みましょう。


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