デボーションの友
デボーションの友 : 2017/8/7-12
投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-08-06 22:10:15 (70 ヒット)
デボーションの友

2017/8/7(月) 担当 高谷清師 ヨハネ5:19-30 賛美 新聖歌 166
 イエスが「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と語って、御自身を神と等しい者とされたことによってイエスを殺そうと狙うようになったユダヤ人に対して主は「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」と語ってご自身を示された。ヨハネは1章において「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ1: 18)と述べている。まことに、イエスこそ神によって遣わされた神の御子であり、私たちはこのお方においてのみ、神を知るのである。

2017/8/8(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書7:5-6  賛美 新聖歌291
 「神殿説教」と呼ばれる神殿での預言の冒頭で、エレミヤは習慣的に唱える言葉を頼りにしても無意味であると述べた後、具体的なあるべき信仰の姿を描く。正義を行い、愛を実践し、偽りの神々への服従をやめよという命令を実際の生き方を示しながら勧める。エレミヤが要請しているのは言葉に出して語るだけの信仰ではなく、実際に神との生きた関係から生まれる具体的な行為としての信仰である。
 今の時代に『信仰』について考える時、これを概念的なもの、心のありようの問題ととらえているかもしれない。しかしエレミヤの指摘によると、神に対する真の信仰を持ちながら神との活きた関係に生きる人々の信仰は、社会の中で正義を行うこと、道と行いを正すこと、弱者に対して愛を示すことという具体的な行動として現れるのである。私たちの生活の中にこの信仰の実践が見えるだろうか。心のうちに秘めた信仰だけではなく、言葉で語らずとも生き方として現れる信仰生活を送ろう。

2017/8/9(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 5:19-30 賛美 聖歌 273
イエスは「これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」と語っておられる。さらに「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」と述べておられる。これらの言葉から、ご自分が与えたいと思う者に命を与えることの出来るお方であり、「与えたいと思う者」とは、イエスを信じる者であることが分かる。それ故、ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)と述べているのである。御子イエスを信じ、永遠の命に生きよう。

2017/8/10(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書7:5-11  賛美 新聖歌236
 心から神に信頼し、神が求めておられる生き方を忠実に実践する者にはなおも神の赦しの用意があることをレミヤは信じている。神の約束は変わらない。この約束こそがまことに信頼できるものである。しかし現実には民はむなしい言葉により頼み、十戒をことごとく破りながらも空しい言葉をもって神に助けを求めている。そして実際には与えられていない、目の前に迫る敵の脅威から「救われた」と語る。神は彼らの生き方を見て神殿が強盗の巣窟にされたと、激しい言葉で非難なさる。
 このような神の厳しい言葉は他人事ではない。何事も長く続けていれば習慣化する。習慣となった動作は体が覚えているのでいちいち細心の注意を払わなくても行動できる。私たちの信仰もそうなっていないだろうか。最初の救いの体験の恵みの喜びが薄れ、力ある神に頼ることが自分の中での過去の歴史を思い起こさせる記念碑のようになり、それを見ても無感動になり、信仰が形骸化し、神の臨在の場が強盗の巣窟になってはいないだろうか。エレミヤが語る神との生き生きとした関係に生きる生き方が私たちのうちにあるか、今一度顧みて本来のあるべき関係の中で歩み続けよう。

2017/8/11(金) 担当 高谷清師  詩編33:20-22 賛美 新聖歌 172
 神の恵みの御業を振り返りつつ「見よ、主は御目を注がれる/主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い/飢えから救い、命を得させてくださる。」と詠ったダビデは、「我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。我らの心は喜び/聖なる御名に依り頼む。」と、信仰を告白する。そして「主よ、あなたの慈しみが/我らの上にあるように/主を待ち望む我らの上に。」と祈る。また、ダビデは「わたしの魂は満ち足りました/乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい/わたしの口は賛美の声をあげます。」(詩 63:6)と詠っている。ヨハネは「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」(汽茱3:1)と述べている。信仰の弱さを覚えた時、これまでの歩みの中に注がれた主の恵みを数え、賛美と感謝をささげよう。

2017/8/12(土)担当 高谷由紀子師 マタ 7:24-27 賛美 新聖歌316
 イエスが十字架に架かられた時、イエスと一緒に二人の犯罪人が、一人は右に、もう一人は左に十字架に架けられていました。そのうちの一人は自分の罪を悔い改めることをせず、議員たちと同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」とイエスを罵っていました。しかしもう一人の犯罪人は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」と言ってたしなめ、更に「この方は何も悪いことをしていない。」と言い、イエスに向って「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。これに対しイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。この記事から私たちが御国に受け入れられるために求められるのは信仰であることが分かります。パウロは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ロマ 1:17)と述べています。日々、信仰によって歩みましょう。


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