デボーションの友
デボーションの友 : 2017/6/5-10
投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-06-04 22:54:41 (102 ヒット)
デボーションの友

2017/6/5(月) 担当 高谷清師  ヨハネ4:7-9 賛美 新聖歌 369
正午ごろ、イエスは疲れを覚えて一人で井戸のそばに座っておられた。そこに一人のサマリアの女が水を汲みに来た。この女にイエスは、「水を飲ませてください」と言われた。この女について考えると正午ごろ水を汲みに来たのである。この時刻は通常サマリアの女性たちが水を汲みに来る時刻ではないと言われている。彼女は世間を憚って生きていたのである。それは「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」(18節)と言う主の言葉からもうかがい知ることが出来る。更に『「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。』と記されていることから彼女は社会から二重に排除されていたことが知られる。このような女にイエスは語りかけ、近づかれたのである。主は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マコ 2:17)と教えておられる。

2017/6/6(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書4:5-8  賛美 新聖歌 359
 エレミヤはユダとエルサレムに対して、敵が襲ってくるという警告を告げる。依然としてこの敵の正体は具体的に語られない。どの国が襲ってくるからどのような備えをせよということよりも、どこから来るにせよこの災いは神から出たものであると語られる。ライオンが獲物を捕らえようとしてその不気味な姿を表す比喩が語られる。その迫り来る敵から逃れるために人々はエルサレムの中に逃れようとするが、根本的にこの敵から逃れるために粗布をまとい、泣き叫ぶことである。すなわち神の前に悔い改めることである。
 私たちにも困難や問題が立ちはだかる時、目の前にある問題を解決しようと必死になる。しかし目の前で起こっている現象にとらわれるのではなく、その背後にある神のメッセージを見極める必要がある。常に神の前にある自分を見つめ、神の御心に背いたならば悔い改めて神に立ち帰りつつ前進しよう。

2017/6/7(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 4:10-15 賛美 聖歌 273
 イエスとサマリアの女との対話は更に進む。イエスは女に「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と語られる。しかし女はイエスが語られた水を物質的な水と考え「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」と言う。それに対し主は「「この水を飲む者はだれでもまた渇く。」と語られる。「この水」は生命維持に不可欠なものである。生命維持に必要なものは数多く存在する。人間の歴史はそれらをより多く獲得するための歴史であった。その欲望の追求の作り出したものが今、人類を滅亡の危機に立たせている。核兵器であり、地球温暖化である。地上のものの追求は更に渇きを倍加しついに滅びに導く。しかしイエスが与える水は永遠の命を与える。私たちの歩みは世の水に向っているだろうか、それとも主イエスの与えてくださる水に向っているだろうか。

2017/6/8(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書4:9-15  賛美 新聖歌 35
 5-8節に記されている裁きがエルサレムに来るとき、民の指導者である王、祭司、預言者たちはどのように応えるであろうか。彼らはなすすべもなく途方に暮れ、慌てふためく。そして「約束が違うではないか」と、神に向かって抗議する。神が幾度も預言者を送って悔い改めを促したにもかかわらず全く聞く耳を持たなかった彼らが、この裁きの責任を神に求めようとする。しかしこの期に及んで神は彼らの言い分を聞き入れてはくださらない。荒野からの熱風や激しい嵐は神が現われるときに伴う現象として旧約聖書では知られている。この時、神は民を守り、赦すためではなく、彼らを裁くために来られるのである。
 神は常に私たちと共におられ、私たちを導いておられる。目に見えない神は、み言葉を通して、聖霊によって私たちに語り掛けて正しい道に導いておられる。既に手遅れにならないうちに、神の御声を聞き分け、神に従おう。

17/6/9(金) 担当 高谷清師  詩編32:10-11 賛美 新聖歌 225
 ダビデは「神に逆らう者は悩みが多く」と詠う。彼は先に「わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。」と述べた。人は内に罪を隠してその上に繁栄を築いたとしても、平安はない。それは良心の呵責と言われ、信者、不信者を問わず、味わうものである。更にダビデは「わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。」と述べた。その体験をもとに「主に信頼する者は慈しみに囲まれる」と語る。ヨハネは「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(汽茱1:8-9)と述べている。私たちが神を信頼して罪を告白するとき、神は御子の血潮によって罪を清め、義なる者としてくださる。それは私たちに喜びと感謝を満たす。義とされた人々、共に主を讃えよう。

2017/6/10(土) 担当 高谷由紀子師  マルコ 14:3-9 賛美 新聖歌 337
 イエスが弟子たちと共に重い皮膚病の人シモンの家で食事の席に着いておられたときのことであった。突然、一人の女が立ち上がり、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。これを見た何人かの人たちが彼女を厳しくとがめて「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と言った。これは打算的な常識主義者の常識的な言葉であった。これに対して主は「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と言われた。この婦人はイエスの死を知らなかったが、聖霊に迫られ、彼女の出来る限りの愛を示した。愛は常識と打算を超える。愛と真実をもって主に仕えよう。


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