デボーションの友
デボーションの友 : 2017/3/13-18
投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-03-12 22:56:46 (84 ヒット)
デボーションの友

2017/3/13(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 2:3-4 賛美 待ち望め主を
 この婚礼においてぶどう酒が足りなくなった。これは重大な事態である。ユダヤの婚礼の宴は数日間続くのが常であり、客はその間飲み食いした。途中でぶどう酒がなくなる事態は新郎新婦の面目を大いに損なうことであったからである。そこで母マリアはイエスに「ぶどう酒がなくなりました」と言ったのである。マリアはイエスについて、懐妊は聖霊によることを告げられ、「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と告げられていた。イエスの誕生に際し羊飼いが天使たちに告げたメッセージを聞いていた。聖書は「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(ルカ 2:19)と述べている。この時は30年間にわたって両親に仕えられた主イエスが公生涯に入られ間もない頃であった。これらを併せ考えると、マリアの心にイエスに対するいくばくかの期待があったかもしれない。しかしイエスの答えは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と言うものであった。聖書は「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(伝 3: 1)と教えている。
 聖書には多くの祝福の約束が記されており、そのために祈るべきことが教えられている。それによって、祈るならば、あたかも自動販売機にコインを投入した時のように自動的に与えられるものと思い、そうならないと失望したり不信仰に陥ったりする者がある。しかし神はご自身の御心に従い、業を行われる。信仰によって待ち望むことが大切である。

2017/3/14(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書66:15-24 賛美 新聖歌 2
 イザヤ書の最後にも神の裁きとその後に顕される神の栄光について語られる。神は神に背く者を公平に裁かれる。しかし神はいつまでも怒り続けてはおられない。裁きが行われた後には神の栄光、神の支配がこの地に顕される。そのときにはもはや神の民と異邦人の区別は取り払われ、地上のすべての民が神を認め、神のもとに来るならば、神はその礼拝を受け入れてくださるのである。
 神はイスラエルに対して常に彼らの罪をはっきりと示し、その裁きを語られ、実行された。しかし怒り続けてはおられず、裁きの後になお深い愛を持って、神に立ち返り心からの礼拝を捧げる人を受け入れてくださった。もはや選民と異邦人の区別は取り除かれ、すべての人が受け入れられるのである。しかしイザヤ書の最後に至ってなお神に背く者らは確実に死ぬことが宣言されている。今、神の救いと愛は全世界の神を受け入れて神を信じ、神を礼拝する民に開かれている。しかし私たちはイザヤの最後の警告、神に背く者には死という裁きがあることを忘れず、神を心から愛し、神との正しい関係を保ち、主の愛のうちに生かされよう。

2017/3/15(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 2:5-9  賛美 新聖歌 282
 マリアは召使たちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っている。この言葉を聞いていた召使たちは、イエスが「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちはそのとおりにした。更にイエスが「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われると、そのとおりに行った。いきさつを知らない世話役が味見するとそれは上質のぶどう酒であった。マリアはイエスを信じ、召使たちはマリアの命に従い、イエスの言われるとおりに行った。その時、私たちの常識では考えられない事柄が起こったのである。
 イザヤは「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」(イザ 53:1)と述べ、パウロは「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。」(汽灰 2:9)と述べている。御言葉を信じ、従う時、主の栄光を拝することが出来る。

2017/3/16(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書1:1-3  賛美 新聖歌259
 今日からエレミヤ書を読み進めていく。エレミヤが預言した時代は紀元前8世紀の預言者イザヤよりもさらに新しい時代、紀元前627年頃からである。この時代既に北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされてから約100年が経過していた。そして南王国ユダはこの後わずか40年程でバビロンによって滅ぼされる。とはいえ、エレミヤが最初の預言を始めたとされるヨシヤの治世第13年といえば、ユダの国内は束の間安定していた時であった。ヨシヤ王は国内の偶像礼拝を取り除く宗教改革を行い、神に良しとされた王であった。ところがヨシヤ王が突然戦死したことにより、ユダの情勢は一気に悪化し、わずか数十年で滅ぼされてバビロン捕囚を経験することになった。
 このような時代の中でエレミヤは何を語ったのだろうか。それは国が滅ぼされるのは他ならぬ神に対する背きの罪の故であると語り、民に悔い改めを迫った。同胞に対して神の厳しい裁きを告げる預言者の孤独と苦悩が随所にみられる。この書物を通して神が今日の信仰者に対して語られることを聞き取っていきたい。

2017/3/17(金) 担当 高谷清師  詩編30:12-13 賛美 新聖歌 269
 試練の中で罪を悟り、悔い改めたダビデに対し、神は再び祝福を注ぎ、ダビデの心は再び喜びに満たされた。その喜びの中でダビデは「わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。」と言い、「わたしの神、主よ/
とこしえにあなたに感謝をささげます。」と述べている。パウロはコリントの教会に対し「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(競灰7:10)と書き送っている。
 人間は弱い存在である。人生の歩みが順調である時、それが神の恵みと祝福の故である言いながらも、自分の力量によると錯覚して神に頼ることを忘れる。その時試練が押し寄せるが、それは滅ぼすためではなく、立ち帰らせるためである。祝福を受けた者たちの務めは神をほめたたえることである。私たちが神をほめたたえる時、世人は私たちに注がれた神の恵みを見て、彼らも神をほめたたえるようになるのである。

2017/3/18(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 12:13-17  新聖歌391
 この箇所はイエス様が、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して話されたたとえ話が記されています。神様の前でファリサイ派の人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈りました。一方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈りました。そして主は「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と語られました。求められるのは自分の義ではなく神によって与えられる義です。それは行いによってではなく、私たちの贖いのために十字架に架かり、血を流し、死んで葬られ、甦られた主イエスを信じる信仰によってのみ、与えられるのです。


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