デボーションの友
デボーションの友 : 2017/2/27-3/4
投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-02-26 23:04:48 (154 ヒット)
デボーションの友

2017/2/27(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:45-49 賛美 新聖歌
 御自分の方へ来るナタナエルを見てイエスは、彼のことを「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われた。「この人には偽りがない。」という表現についてジョン・C・ライルは『主はこの表現を用いつつ、敬度な者の特徴を描いている詩篇三二篇に言及しておられるようにみえる。このような者は、不義がゆるされている者というだけではなく、「そのくちびるには、偽りがない」者でもある。この表現は、真実の心、真に回心した人、肉におけるアブラハムの子であるのみならず、信仰によるアブラハムの真の子であることを意味している。
ハッチソンは、次のように言う。「霊における真のイスラエル人が備えている本物のしるしは、罪がないことや完全なことではなく、真心からの誠実である」と。(ライル福音書講解ヨハネ1P132−聖書図書刊行会1987)』またカルヴァンは「キリストはナタナエルを賞賛しているが、それはなにもナタナエルのためではなく、ただかれという人間に託して、一般的な教えを説いているのである。それというのも信者であると自負しながら、およそ信者とは言えないひとたちが多いので、真のよい信者たちと、十分な資格がないのに信者であるひとたちとを区別する、なんらかのしるしが必要だからである。(カルヴァン新約聖書注解轡茱魯擁_蚕饐紕19新教出版社1967)」と述べている。主もまた「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタ 7: 21)と語られた。常に真実をもって従おう。

2017/2/28(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書65:17-19 賛美 新聖歌258
 65章の終わりまで、喜ばしい詩が記されている。特に17-19節の短い数節において三回も「創造する」と言われている。創世記の最初で使われているこの言葉を用いて、イスラエルを回復されるのはただ神の御業であることを明確に伝えている。そして神が新しい創造の業としてすべてを一新されるとき、人々は過去の経験―罪を犯して神から離れ、裁きを受けて苦しんだこと―を思い起こすことはないと言われる。新しい創造の御業の中に生かされるとき、人々は新しい時代に生きることを求められている。神が赦しを与え、前進されるときには人々もまた過去にとらわれ、こだわることを止めて共に前進するのである。
 しばしば主を信じて新しくされてからも過去の罪を思い起こして、救いを失ってしまったかのように感じることがある。しかし私たちが覚えていなければならないことは、罪は赦されて新しく生きる者とされたということである。神は信じる人々を「喜び楽しむもの」として新たにつくり変えてくださったことを覚えて前進しよう。

2017/3/1(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:45-49  賛美 新聖歌 259
 主が一面識もないナタナエルについて「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われたのを聞いたナタナエルは「どうしてわたしを知っておられるのですか」と問うた。それに対して主は「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と答えられた。外見的な行動のみならず、心のうちをも見通し、知られるお方に対してナタナエルは「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と告白する。それはイエスが神であられることの証だからである。人には隠されていることも神にはすべて知られているのである。それ故、私たちは常に真実と誠をもって御前に歩まなければならない。人が秘かに謀を為し、それが発覚しないとしても、神の目には明らかであり、その報復は神から来るからである。

2017/3/2(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書65:20-25 賛美 新聖歌156
 神が新たに創造なさる時、民がどのように変えられるのかが美しく語られている。この新たな状態こそが、民が永遠の喜びを持つ理由である。第一に人々は長寿を全うする。第二に平和と安全と成功がある。自分の家に住み、自分の耕したブドウ園の実りを楽しみ、敵に侵略されることも財産を争うこともなくなる。恵まれた環境の中に生きている私たちにはそれほど心に響かないかもしれないが、この言葉を最初に神から約束として受け取ったイスラエルの民は神に背いた報いとして外国によって祖国を滅ぼされて異国に捕囚として連れ去れられた人々であった。そのような痛みの中にある人々に対して、神は回復と平和を約束されたのである。どれほど大きな喜びであっただろうか。
 新約の時代にあって私たちは神がイスラエルに対する約束を成就されたことを見ることができる。私たちもまた別の状況において神の新たな創造の業を必要としている。イスラエルを赦して彼らの必要に応じて新たな創造を約束され、成就された神はまた私たちにも同じ約束を与えて必ず成就してくださる。信仰によってその約束を受け取り、神のゆえに喜び楽しもう。

2017/3/3(金) 担当 高谷清師  詩編30:7-8 賛美 新聖歌 346
 主に油注がれたダビデの生涯は厳しい試練の内に始まった。ダビデが神の祝福を受けて成果を上げると、初期にはそれを喜んでいたサウロ王は、やがて、ねたみと恐怖れからダビデの命を狙い始める。そのような中でダビデは神により頼み、神に祈り、神の守りによって命を保つ。王となってからも、近隣諸国との絶え間ない戦いは続くが、神により頼むことによって勝利を与えられる。それによって平安と繁栄を得た時、それらが神のものであることを忘れ、神により頼むよりも神が祝福として与えてくださったものにより頼むようになっていく。心が祝福の与え主である神から祝福として与えられたものに移っていく時、神の御顔を見失い、平安は心から去り、恐怖に陥るのである。パウロは終末を見据えつつ「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(汽灰7:29-31)と勧めている。神の祝福によっていかなる富を得ようとも、いかなる地位につけられようとも、いかなる名誉に与ろうとも、それらに頼らず、常に神を求め、神により頼んで歩もう。

2017/3/4(土) 担当 高谷由紀子師 マタイ21:12-13  新聖歌190
 イエスは過越しの食事の場所を出ていつものようにオリーブ山に行かれたので弟子たちも従って行った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ、ご自分は更に少し進んで、ひざまずいて「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈られた。十字架の苦しみを前にしたこの祈りは真剣なものでその様子をルカは「汗が血の滴るように地面に落ちた。」と記している。主は十字架の苦しみを前にしても「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈っておられるのである。私たちの祈りは「病をいやしてください」「○○をしてください」「○○が成功しますように」といった、自分の願望の満たしを求める祈りのなんと多いことであろうか。主は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタ 6:33)と教えておられます。日々、御心に適う祈りをもって従いましょう。


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