デボーションの友
デボーションの友 : 2016/8/22-27
投稿者 : takatani 投稿日時: 2016-08-21 23:02:08 (542 ヒット)
デボーションの友

2016/8/22(月) 担当 高谷清師  汽撻4:15-16  賛美 新聖歌 394
ぺトロは「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。」と述べる。小畑進師は「本来、神の家・教会は救われた者の集い、信ずる者の集いなのですが、麦畑には毒麦がまじり、網には悪い魚もまじっている。心から神により頼む神の子と共に、いかにもキリスト者然としていながら、真底神に従っていない者もまじっている・・・・・。それを選別する場が、まず教会だという意味合いとなります。迫害・苦難の試練によって、本物のダイヤモンドか、イミテーションかを選別し、贋ものを捨てる、と。背中が寒くなります。やがての日を待たずとも、審きはまず教会から始められている。教会に来ていながら、世俗の快楽に流れて姿を消してゆく者。洗礼まで受けながら、安逸を求めて脱落していく者。古参であれば、神への畏れも失い、自分に都合のよい自家製キリスト教にアグラをかいて大口叩き消えていく者。真贋弁別の坩堝としての教会・・・・・。はたして、このような了見で教会生活を重ねていただろうか。」(小畑進著作集第5巻ペテロの手紙第一講録P410いのちのことば社)と述べておられる。私たちは自らの信仰を世の基準ではなく、御言葉に在って顧み、裁きに耐える信仰を確立しょう。

2016/8/23(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書45:14-25 賛美 新聖歌437
 イスラエルの神として民にご自身を顕してこられた神が、イスラエルを越えて国々に向かってご自身こそが唯一の神であると宣言される。真の神だけが天地を創造し、あらゆる民が理解し、認識できるようにご自身を示し、語り続けてこられた。エジプトの人々は自分たちの国家神を信じ、その国家神の他にも多くの神々があらゆる形で生活にかかわっていたと考えていた。
 様々な土着の宗教と信仰を持つ人々に向かって、全世界を創造した唯一の神がおられるからこの方だけが信じるに値する神であると語ることの難しさは私たちの日々の経験において体験している。それはイザヤ書の時代にも同じであった。それでもなお神はご自身だけが神であると宣言し、救いを受けよと語られる。私たちも宣教が難しいと感じ、いくら福音を語っても心から真の神を受け入れて従おうとしない人々に語り続けることに難しさを感じることがあるだろう。それでも神ご自身が唯一の神であるから救いを得なさいと語られる神に倣い、日々唯一の救いの神を伝えていこう。

2016/8/24 (水) 担当 高谷清師  汽撻4: 15-16 賛美 新聖歌 369
 「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。」と言う文言についてウェイン・A・グルーデム師は「神の民を破壊せずにきよめる「燃えさかる火の試練」もしくは「精錬する火」への言及は、二番目の旧約聖書の筒所(マラキ書3章)を思い起こさせる」(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P205いのちのことば社)」と述べておられる。マラキ書には「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を/正しくささげる者となるためである。そのとき、ユダとエルサレムの献げ物は/遠い昔の日々に/過ぎ去った年月にそうであったように/主にとって好ましいものとなる。」(マラ 3:1-4)と記されている。またパウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:3-5)と述べている。贖われた者たちに臨む苦難は製錬し、清め、真に神の民にふさわしいものとするのである。

2016/8/25(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書46:1-4 賛美 新聖歌345
 1節のベルとネボはバビロンの偶像であった。バビロンの人々は神としてこれらの像を拝み、熱心に仕えていた。人々とベルやネボとの関係は、人々がこれらの像を担ぎ、苦労しながら動かし、手入れをしていくというものであった。にもかかわらず人々は最終的にこの像を守り切ることはできず、像が彼らを守ることもない。この姿を示した後、神はイスラエルの民に対してご自身がイスラエルの民を歴史の最初から、そして彼ら一人一人が生まれた時から背負い、運び、彼らを守ってこられたと言われる。そしてそれはいつか途絶える守りではなく、人々が年老いて生涯を全うするまで続くという。荒野でイスラエルが神に背負われて40年の旅路を全うしたように。
 ともすれば私たちは頑張って信仰を守り、頑張って神に仕えようとする。もちろん最善を尽くして主に対する愛を示していくことは大切であり貴い。しかしそれは自分たちの能力と力によってなすことではなく、神が私たちを担い、背負い、救い出してくださったという恵みの真只中にあって感謝しながら力を与えられてなしていくものである。喜びに満ち溢れて歩む秘訣がここにある。

2016/8/26(金) 担当 高谷清師  詩編25:22 賛美 聖歌 254
 ダビデは自分の内から起こった苦難について前節まで神と自分の関係において語ってきた。しかし本節においてはイスラエルとの関係において語る。この箇所についてカルヴァンは「ダビデが万事において自分を信仰者のすべての群れと結びつけて考え、彼が耐え忍んだすべての貧しさ、悲惨、不満は、すべての信仰者に共通であると考えたことは、彼の信仰を確かにする上で、大きな意義のあることであった。われわれもまた、自分自身の禍悪や苦悩を嘆き悲しむに際して、教会全体を心に留め、そのために祈る、というこの通則に従うことが大切である。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅311新教出版社)と述べている。私たちが苦難にあう時私たちはそこからの救いを求めて必死に神に祈る。その時私たち近視眼的になって自分の事しか目に入らなくなることがある。しかし私たちは教会全体、神の民全体、この国全体、そして全世界を覚え、愛し、祈る者となろう。

2016/8/27(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 1:14-15 賛美 新聖歌 32 
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」これは主が宣教を始められた時の最初のことばです。主はピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜたことを告げた人々に対して「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ 13:2-5)と語られました。パウロも「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ 3:23)と述べています。生まれながらの人はすべて罪人であり、悔い改めを必要としています。人を悔い改めに導く福音を伝えましょう。


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