投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-02-18 23:20:10 (5 ヒット)
デボーションの友

2018/2/19(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:19-23 賛美 新聖歌 238
 イエスは群集に対して「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」と言われる。5章にはユダヤ人たちがイエスに殺意を抱くようになった次第について、「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」(ヨハ 5:18)と記されている。ユダヤ人たちはイエスの律法違反を根拠に、イエスに対する殺意を抱いたのである。それに対してイエスは「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。」と言われる。律法はイスラエルに生まれた男の子には八日目に割礼を施すことを命じており、一方、安息日に関しては「安息日を心に留め、これを聖別せよ。七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」と命じている。これに関連してラビたちは安息日であっても割礼を施すことを命じていたのである。それ故イエスは安息日であっても癒しの業を行うことの正しいことを語っておられるのである。

2018/2/20(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書22:10-12 賛美 新聖歌38
 ヨシヤ王はバビロンの手でユダが滅ぼされる約40年前のエルサレムにとって大きな望みであった。当時の王とは違って神を信じて、神に忠実に仕えて国内から偶像を取り除いたヨシヤ王の時代に、国は栄え、回復の兆しが見えた。その時突然エジプトとの戦いにおいてヨシヤ王が戦死した。この王に人々は一縷の望みをかけた。しかしエレミヤはその王のために泣くことを禁じ、ヨシヤに代わって立てられたシャルムに目を向けるように語る。しかし、このシャルムの治世は喜ばしいものにはならない。エジプトに連れ去れられたシャルムはそこで死ぬと語られる。
 最後の望みを託せる王が戦死して、次の王も捕囚とされた国民が求めていたのは神の守りの保証と励ましだった。神はそのことをご存知であったが、民が悔い改めて神に立ち帰らない限り、神がエレミヤを通して気休めに過ぎない空想の希望を語られることはない。神のことばは常に人々の信仰の本当の姿を示し、神との正しい関係に連れ帰るものである。私たちも本当の神のことばを聞き分け、従って行こう。

2018/2/21(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:24 賛美 新聖歌 399
 イエスは「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」と語っておられる。律法の専門家が「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と問うたのに対し、イエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタ 22:37-40)と答えておられる。律法には様々な規定が事細かに定められている。それらすべては神と人への愛によって全うされなければならないのである。今日の一日を聖霊によって注がれた神の愛によって生き抜こう。

2018/2/22(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書22:13-19 賛美 新聖歌366
 シャルムに次いで王になるエホヤキムに対する言葉であろう。エホヤキムは外国の壮麗な宮殿に住む王たち同様に、自分のために立派な宮殿を建てた。この華美な建築物によって自分の力を誇示し、外国の強大な王たちと競おうとしたのであろうか。しかしこれに対して神は「災いだ」と語り、この大きな建築プロジェクトの陰で忘れ去られている貧しく、苦しむ者に目を留めておられる。神に選ばれた王のなすべきことは華美な生活を求めることではなく、貧しいものや社会的な弱者を保護することを通して正義と公正を保つことである。イスラエルの歴史を通じて預言者達が語り続けてきたことである。
 神の前で、神に仕えて生きるということは自分の快適な生活を追求し、荘厳な建物、華美な持ち物に囲まれて富を誇示することではない。むしろ弱者に心を留めて助けの手を差し伸べることによってあらゆるときに神の憐れみと愛を人々に分かち合うことである。今日も神と共に生きよう。

2018/2/23(金) 担当 高谷清師  詩 37:1-40 賛美 新聖歌 321
 今回から詩篇37編に入ります。この詩についてA. ヴァイザーは「神を信じない者たちの存在と〔傍若無人な〕ふるまいによって敬虔な者たちの心にさまざまの誘惑と葛藤が生じ、憤りや嫉み、貧窮や苦難、人間への恐れ、神の働きと義への疑い、道徳的服従への倦怠を彼らが覚えようとも、神への信頼と服従をつらぬくように、と。至るところで作者は、いかなる場合にも損なわれることのない、神への正しい信頼に導こうとしている。」(ATD旧約聖書註解詩篇上P411ATD・NTD聖書註解刊行会1983)と述べている。更に「ここに窺われるのは、思慮深い円熟した姿と、数々の苦闘や経験を通して獲得され試された堅忍不抜の信仰であって、その信仰の力が簡潔で明噺な形にもられている。」(同書P412)と述べている。また、北森嘉蔵師は「三七篇は典型的な神信頼の詩で、その恵みの高さは山のごとくだというわけです。」(北森嘉蔵 詩編講話上P142教文館2004)と語っておられる。
 神が全能者であり、義なるお方であるなら神に従う者が繁栄を享受し、神に逆らう者、神を信じない者が苦難を受けることは信仰者の要請である。しかし、世の現実はそれとは逆である。この現実を前にして信仰者の心は揺らぐ。この詩篇はそのような現状の中にあってなお、神の真実を示している。信仰を強められ、最後まで神に従おう。

2018/2/24(土)担当 高谷由紀子師 マタ 16:13-17 賛美 新聖歌 490
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。あらためてイエスが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われるとシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。イエスはこの答えを喜び、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われました。パウロは「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰 12: 3b)と述べています。常に祈り、御霊の光の中で御言葉を聞きましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-02-11 23:41:43 (12 ヒット)
デボーションの友

2018/2/12(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:16-17 賛美 新聖歌 282
 「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言う問いに対してイエスは「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」と答えておられる。「この方の御心を行おうとする」という言葉についてジークフリート・シュルツは「この場合、倫理的に解釈してはならない。というのは、ヨハネによれば問題は、世の裁きにおいて人の子に受け入れられるための条件として道徳的諸要請を満たすということではなく、信仰以外の何物でもないからである。六章39節の場合と同じくここでも、神の要求する業、つまり神に遣わされた者としてのイエスに対する信仰が、問題にされているのである。信じるということは、ヨハネによれば、神の意思を行うこと以外の何物でもなく、これが信仰の服従である。」(NTD新約聖書註解(4)ヨハネによる福音書P215NTD新約聖書註解刊行会)と述べている。イエスの教えイエスを遣わされた神ご自身の教えであった。それは信仰によらなければ知ることはできない。

2018/2/13(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書21:11-14 賛美 新聖歌166
 王に対する厳しい預言が語られている。ここでエレミヤが「ユダの王家」(21:11)という時、それは国を治める要職に就いている王族ばかりを指しているのではなく、宮廷において政権運営を担っているすべての人々をも含んでいる。当時、ユダの王家は攻め寄せる敵からエルサレムを守るために守りをより強めようとして王宮建築に取り組もうとしていた。国の指導者たちにとって拠り所となっていたのは南東の崖に囲まれた、ほとんど難攻不落な要塞であった。彼らは自分たちの権力と自分たちが作った日常を守る要塞という道具により頼み、神に頼ることをおろそかにしていた。人々を導くことにおいても「正しい裁き」(21:12)は行われてはいなかった。
 主が求められる正しい裁きとは、裁く者にとっての都合の良い裁きではない。それは神と神の戒めを基準とした、搾取され、虐げられている人々を救い出す裁きである。日々の歩みの中で主に頼り、主の基準に従って物事を判断することをこそ、神は喜ばれる。

2018/2/14(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:18 賛美 聖歌 273
 イエスは「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」と語られる。パウロは主イエスの御生涯について「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:6-8)と述べている。主イエスは神に遣わされた者として、自らの栄光を求めず、只管神の御心に従順に歩み、神の栄光のみを求められた。私たちもそのように歩みたい。聖書の預言者の時代と同じく、「神に召された」「神に遣わされた」と言いながら、自分を語り、自らの栄光を求める偽伝道者の如何に多いことか。それは教派、教団と言った所属団体によっては判別出来ない。地位、身分によっても判別できない、聖霊の証によってのみ判別できるのである。「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」(汽茱 2: 18)と言う警告を心に留めよう。

2018/2/15(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書22:1-9 賛美 新聖歌275
 続けてエレミヤは人々が集まっている王の宮殿で神のことばを語る。おそらくエレミヤは毎年行われる王の即位の祭の日に語るよう命じられたのであろう。人々が喜び祝う中で厳しい言葉を語るエレミヤは人々にとっては招かれざる客であった。エレミヤが語ったのは目新しいことではない。イザヤなど他の預言者も語り続けてきたことを、全くそれらを心に留めない人々に再び語っている。栄えていた国が廃墟となる時、人びとは「なぜ主は、この大いなる都にこのようになさったのか」(22:8)と問われると、守りが固められていなかったからとか、外交が下手だったからと答えるだろう。しかし聖書が語る理由は一貫して「彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ」(22:9)という。人は自分の努力によって自分を守ろうとする方がより確実で安心感が得られると考える。しかし神によると、賢く立ち回って保証を得ることは自分自身を救う手段とはならない。
 神のことばを聞き、神にのみ仕えることが私たちの力である。

2018/2/16(金) 担当 高谷清師  詩編詩 36:13 賛美 新聖歌 196
 「神に逆らう者」の悪について語り、それにもかかわらず注がれている神の恵みを明らかにしたダビデは、神を知る人、心のまっすぐな人の上に恵みの御業が常にあるように、また彼らが神に逆らう者の手から守られるように祈った。その祈りの中で確信へと導かれる「悪事を働く者は必ず倒れる。彼らは打ち倒され/再び立ち上がることはない。」と。この箇所についてカルヴァンは「ダビデはその祈りによって確信を抱き、その求めることがすでに得られていることを、少しも疑わない。同様にわれわれは,信仰の確かさが、いかに聖徒らをして祈りへと向かわしめるか、を知るのである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅451新教出版社1970)と述べている。主イエスは枯れたいちじくの木について「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マコ11: 24)と教えておられる。神との対話の中で確信に導かれた祈りは既に聞き入れられているのである。

2018/2/17(土)担当 高谷由紀子師 マタ 19:13-15 賛美 新聖歌 490
 人々がイエスに手を置いて祈っていただくために、子供たちを連れて来ました。イエスの手は、目の見えない人の目を開き、足の不自由な人を立たせ、歩ませ、悪霊に憑かれた人を解放したことを人々は知っていたからです。しかし、弟子たちはイエスを煩わせてはならないと思い、この人々を叱りました。これを知られたイエス様は「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と言い、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られました。イエス様は「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハ 6: 37)と語っておられます。十字架の血潮を仰ぎつつ、主に近く歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-02-04 23:22:29 (18 ヒット)
デボーションの友

2018/2/5(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:14-15 賛美 新聖歌 40
 兄弟たちが祭りに上って行ったあと、人目を避け、隠れるようにして上って行かれたイエスは、祭りも既に半ばになったころ、神殿の境内に上って行って、教え始められた。これを見たユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うとイエス「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」と答えられた。ルカは十二歳のイエスについて「イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。」(ルカ 2:46-47)と記している。これらのことはイエスが神からこられたお方であることを示しているが、世はそれを認めないのである。

2018/2/6(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書21:1-7 賛美 新聖歌427
 ゼデキヤ王はバビロンという敵を主が離れ去らせてくださることを期待して神の御心を問う。自分がへりくだって神の御心を聞くことによって神が思いを変えて敵の手からユダを救ってくださるようにという算段なのだろうか。これに対してエレミヤは「伸ばした手と強い腕と」(21:5)によってという表現を用いて答える。通常この表現はかつて神がイスラエルを奴隷の地エジプトから救い出してくださった時に用いられた言葉であり、この表現からは救いが期待される。しかしエレミヤは、この時には救いではなく、神の激怒による民の死を告げる。
 私たちが神の前にへりくだりさえすれば神が必ず赦してくださるなどと考えていないだろうか。誰一人神をコントロールして救いを強要することはできない。神はご自身の自由な決定において人の祈りと願いにこたえられる。信仰者であることは神を思い通りに動かせるということではない。私たちは大胆に願うことが許されているが、最終的に決断をなさるのは神である。願いと求めを主に訴えることによって、祈ったことを主の主権のもとに委ねるという姿勢を学びたい。

2018/2/7(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:14-15 賛美 新聖歌 38
 イエスが教えられた時ユダヤ人たちは「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言って驚いた。この箇所について関茂師は「教えかつ論ずることができるのは、ラビの学校を修了し、公認の教師より正規の伝授を受けた者に限られた。そういう者だけが、教えのためにまた各地を「巡回」(一節)することが許されていた。この壁は厚く、ある意味で絶対的であった。にもかかわらず、今、無免許・無資格のイエスの語る教えは、明らかに公認教師のそれであるか、あるいはそれをはるかに陵駕している。「この世」は、つねに教えそれ自体に耳傾けることはない。その由来をたしかめずには安心しない。エルサレムの名門ガマリエル校ともまったく無縁のイエスが、「どうして律法の知識をもっているのだろう」・・・こうして、真理を伝える声は、由来をたずねる疑惑の前で、ひとたびもふたたびもさまたげられる。」(説教者のための聖書講解No29P43)と述べておられる。
 人々は御言葉が語られる時、その語る人の学歴、地位などによって軽重を判断しょうとする。しかし御言葉は聖霊によって語られているか否かによって判断されるべきである。

2018/2/8(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書21:8-10 賛美 新聖歌165
 神からゼデキヤ王への言葉に続いて、民全体への言葉が語られる。神が御自分の意志によって裁きを撤回なさらないという状況においてなお民の前には二つの道が置かれているという。命の道と死の道である。この選択肢を目の前にして民は主に従って命を得るのか、神を拒んで死に至るかを決断しなければならない。国は滅ぼされるとしてもなおも個人の選択肢は取り去られてはいない。神はあくまで個々人の応答を求められる。ある集団に属しているからと言って、その人が神の前に命か死かという決断を自主的に選び取る権利がはく奪されるのではない。どのような時代であれ、状況であれ、一人一人がどのように神に応答するかは個人の決断にゆだねられている。それは新約聖書のメッセージにおいても与えられている選択肢である。
 命か死か。私たちも個人の責任において神に従う道か、逆らう道か、応答していくのである。

2018/2/9(金) 担当 高谷清師  詩 36:11-12 賛美 新聖歌 89
 ダビデは1−5節において「神に逆らう者」について語った。そして6−10節において神の偉大さと地上のすべての被造物は神によってのみ、生きる得ることを述べた。この箇所において祈りを記している。11節では「あなたを知る人の上に/慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に/恵みの御業が常にありますように。」と祈っている。「恵みの御業」を口語訳聖書は「救」と訳し、新改訳・カルヴァンは「義」、フランシスコ会訳は「豊かな恵み」と訳している。即ち、神を知る人、神を愛する人、信仰者の上に神の救いと豊かな恵みがあるよう、祈っているのである。12節では「神に逆らう者の手が/わたしを追い立てることを許さず/驕る者の足が/わたしに迫ることを許さないでください。」と祈る。神を知る者、神を愛する者が神に逆らう者の暴虐に対して直接復讐せず、神によって守られるよう、神に祈り求めている。パウロは「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(ロマ12: 17)と述べている。これが信仰者の生き方である。

2018/2/10(土)担当 高谷由紀子師 マタ 22:34-40 賛美 新聖歌 208
 律法の専門家が、イエスを試そうとして「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と質問しました。旧約聖書には「何々をしなさい」「何々をしてはならない」と言う掟が613も存在すると言われています。それらの掟一つ一つは等しく重要なものでした。しかしそれらの全部を正確に記憶し、守り行うことは律法の専門家にとって至難の業であり、優先順位をつけることもできませんでした。
 この質問に対してイエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とお答えになりました。すべての律法の心は神を愛し、人を愛することです。
愛に生きる者となりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-01-28 23:50:49 (24 ヒット)
デボーションの友

2018/1/29(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:1-9 賛美 新聖歌 344
 生きたパンの教えによって弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった現実を前にしてイエスの兄弟たちはイエスに「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」と忠告した。いわばイエス集団の教勢衰退を懸念した兄弟たちがイエスに、都に上って、即ち、表舞台に立って奇跡を行い、天下にその真価を問えと言ったのである。これについてヨハネは「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」と述べている。 イエスの兄弟たちはイエスに最も近く在る者として肉においてイエスを知っていた。しかしそれは人に救いを得させることはできない。ヘブル書の記者は「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」(ヘブ 4: 2)と述べている。主イエスを信仰によって知ろう。

2018/1/30(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書20:7-13 賛美 新聖歌361
 先週木曜日には7-10節を中心に読んだ。11-13節には神の働きに携わった故に受けた苦しみや苦悩を経験したにもかかわらず、揺るがないエレミヤの信仰と神への賛美が記されている。苦悩と葛藤からこれほど突然に賛美へと転換した背景には、エレミヤ自身の葛藤を通してあらゆる疑問や不安を神に委ねたからに他ならない。エレミヤがすべてをゆだねた神は「恐るべき勇士」(20:11)である。神に敵対する者に対しては審判をもって臨まれる恐るべき方であり、あらゆる苦境において神に信頼して立つ者に対しては勝利を与える勇士である。エレミヤの賛美は苦境においても「勇士」として正しく裁かれる神の臨在を求めた時にあふれ出た。決して今日を一瞬にして覆し、降り注ぐ恵みを確認した時ではなかった。
 神への確かな信頼に根差した揺るぎない賛美は、あらゆる状況において変わらない義なる神、真実なる神を信仰によって認識したときに生まれる。そしてそれは個人の賛美にとどまるのではなく、神を信じる人々の群れに共有される賛美となる。

2018/1/31(水) 担当 高谷清師 ヨハネ7:10-13 賛美 新聖歌 458
 仮庵祭に集まった群衆はイエスについていろいろとささやき合っていた。ある人々はイエスを「良い人だ」と言い、ある人々は「いや、群衆を惑わしている」と言っていた。しかし、福音書記者は「ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」と記している。ジークフリート・シュルツは「ここではユダヤの群衆とは無責任に放言する大衆を意味するものでしかなく、一方ユダヤ人とは世の代表的なもろもろの宗教的権威のことなのである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書P212−213 NTD新約聖書註解刊行会1975)と言っている。ルターは聖書の内に真理を見出し、宗教的権威に抗して真理に歩もうとして多くの辛苦を経験した。エレミヤも然り、いつの時代にも宗教的権威は存在するが、それが真理を具現しているとは限らない。聖霊との密なる交わりの中で導きを得て常に御言葉の真理に歩もう。

2018/2/1(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書20:7-13 賛美 新聖歌420
 エレミヤ書を読むとしばしば私たちは困惑する。堅く揺るぎない信仰に立つエレミヤの姿と、絶望しきった姿が交互に現われるからである。13節までは苦難のさなかでしっかりと神を見上げていたエレミヤがここでは生まれた日を呪うほどに打ちのめされている。預言者としての務めの厳しさと失望が吐露されている。さらにエレミヤがそのような状態から抜け出す気配すら全く感じられない。あまりに異なる姿に、別人について語られているように感じる。しかし信仰に堅く立てる時もあれば、絶望に陥る時もある。後になって振り返るならばあらゆるときに神が共にいて見捨てることなく、最終的にはこの絶望の時期を乗り越えさせてくださったことが分かる。
 最も苦しい信仰の歩みに一人で捨て置かれているような時でも、神は確かに私たちに目をそそいでいてくださる。安心して従おう

2018/2/2(金) 担当 高谷清師  詩編詩 36:10 賛美 聖歌 273
 ダビデは「命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。」(詩 36:10)と詠う。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14: 6)と語っておられ、更に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハ 7:37-38)と語っておられる。更にヨハネは「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ 1:4-5)と述べている。イエスこそ真の命であり、私たちを照らす光であり、暗闇の中で、即ち、罪の支配する世において輝いている。しかし罪の支配下にある者は光を理解できない。恵みにより、信仰を与えられ、信仰に立つ者だけが光を理解でき、命を与えられるのである。神の恵みを感謝し、更に光の証人として歩もう。

2018/2/3(土)担当 高谷由紀子師 汽灰3:1-9 賛美 新聖歌 341
 コリントの教会はパウロの宣教によって成立した教会でした。パウロはいつものように、自分の宣教によって群れが形成されると、その群れを群れの中の指導的な人に委ねて次の宣教地へと進んでいきました。勿論、その地を去った後もその教会のことを心にかけ、日々祈っていました。後日彼はコリントの教会の様子を耳にしました。教会の中に派閥対立があるというのです。そのようなコリントの人々をパウロは肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子であると言っています。パウロは、彼らが一日も早くキリストに結び付いた成長したクリスチャンになることを求めているのです。「這えば立て、立てば歩めの親心」という言葉があります。神様はわたしたちが成熟したキリスト者になることを望んでおられるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-01-21 23:37:13 (27 ヒット)
デボーションの友

2018/1/22(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 6: 60-71 賛美 新聖歌 390
 「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」と言われたイエスの言葉についてヨハネは「イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」と記している。マタイはイエスが最後の晩餐の席で裏切るものについて語られた時の様子をマタ 26:21-25に記している。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」すると、弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。最後にユダが「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」と語られた。マルコは「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。」(マコ 14:10)と記している。
 ユダはイエスに選ばれた十二弟子の一人であり、重要な役割を委ねられていた。他の弟子たちの信頼も厚かったであろう。しかしその裏でユダはイエス引き渡す計画を進めていたのである。聖書は「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」(マコ 4:22)と述べている。何事も、人には隠すことが出来ても、神に隠すことはできない。常に真実に歩もう。

2018/1/23(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書20:1-6 賛美 新聖歌18
 パシュフルは神殿警備長官を務めていた祭司であった。神殿の秩序を維持する責任者であった彼は、神殿で厳しい裁きの預言を語ったエレミヤを処罰した。本来エレミヤが語る神のことばを真っ先に聞き分けてへりくだるべき祭司であったが、彼らもまた世の宗教権力に堕するとき、あるべき姿とは正反対に、神のことばとそれを語る預言者に敵対し、エレミヤを苦しめる者となった。このパシュフルに対して神はエレミヤを通して答えられる。パシュフルは神殿での権力を行使して神のことばを否定したが、神は神殿内での権力だけではなく外国であるバビロンの王をも用いて敵対する権力となってしまった祭司たちを罰せられる。
 エレミヤは数において神殿勢力に対抗し得ず、語る言葉も人々に受け入れられ、歓迎される言葉ではなかった。世の強大な権力に対立する言葉を語る時には人間的な恐れを感じる。しかし、神が語れと言われる言葉を忠実に語っているならば、堕落した権力よりもさらに正しく偉大な権力を持っておられる神がご自身の力を表し、主に仕える者を守られる。

2018/1/24(水) 担当 高谷清師 ヨハネ6: 6:60-71 賛美 新聖歌 384
 イエスはガリラヤに滞在し、御業を行っておられた。イエスがガリラヤに行かれたいきさつをヨハネは「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。」(ヨハ 4:1-3)と記している。そしてガリラヤに滞在しておられたのは「ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」からである。ガリラヤにおいてイエスが「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(6:51)」と語られたことによって弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。この状況を見たイエスの兄弟たちは「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」と勧めた。メシヤとして認知される為には仮庵祭のため多くの人々が集まるユダヤに上ってしるしを行うことが最上の方法であると兄弟達は考えたのである。しかしイエスは「わたしの時はまだ来ていない。」と言って兄弟たちに勧めを拒まれた。
 世的に最上の時、最適の方法であると判断されてもそれが神の時、方法であるとは限らない。常に神に聴き、御心に従おう。

2018/1/25(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書20:7-13 賛美 新聖歌434
 パシュフルの行為に屈せず大胆に神のことばを語ったエレミヤの言葉としてはあまりに対照的で、驚きを隠せない7-10節の言葉である。しかしこれは詩篇におさめられている様々な嘆きの詩と比較すれば11-13節と併せて読まれるべき言葉であると分かる。7-10節の嘆きの部分を通してエレミヤ自身が置かれていた危機的な状況を人々に伝えている。しかしこの危機的な状況もエレミヤを打ちのめすことはなく、続く11-13節の感謝へと変えられていくのである。エレミヤは現状を通して神のことばを語ったからこそあざけりを受け、苦しんでいると理解していた。口を閉ざせば苦しみから逃れられることも分かっていながら、彼のうちから神の言葉がほとばしる。人びとがエレミヤの語る言葉を神のことばとして受け入れなかったという表面的には不成功の預言者としての職務を前にしても神の召しを疑ったり、神の召しから逃げたりすることはなかった。
 現状を憂える言葉は不信仰に聞こえるかもしれない。しかしこの客観的な現状認識に基づいてこれに続く感謝と賛美、神への揺るぎない信頼が語られる時、この否定的に聞こえる7-9節は人々に対する力強い証しの基礎になる。

2018/1/26(金) 担当 高谷清師  詩編詩 36:8-9 賛美 新聖歌 325
 ダビデは限りある人間が言い表しきれない、神の恵みとまことと義の測り知れない大きさや広がりを、力の限り讃美した。この箇所ではそのような神の恵みの中で生きる人の子らの喜びを詠っている。信仰者は神の翼のもとに身をよせることによってすべての危険と災いから守られる。パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:35-39)と述べている。与えられている神の恵みに感謝し、賛美を献げつつ、日々歩もう。

2018/1/27(土)担当 高谷由紀子師 マコ 5:18-20 賛美 新聖歌 264
 イエスは悪霊に取りつかれていた人を解放された。彼はイエスと一緒に行きたいと願ったが、イエスはそれを許さないで、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われました。彼は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。イエスはある人には「わたしに従ってきなさい」と言い、ある人には「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われる。彼らは各々、神の御心に従って、置かれた場所において主を証しし、仕えるのである。今日、召されて伝道者としてフルタイムで、主に仕える者もあれば、自分の町、自分の家族の中で主を証しするために遣わされる者もある。いずれの働きも尊い働きである。主が遣わしてくださったところで主を証ししよう。


(1) 2 3 4 ... 62 »

メインメニュー

Smart phone

私たちの教会は…

聖書信仰に立つ正統的
キリスト教会です
日本アッセンブリーズ
・オブ・ゴッド教団
関西教区
http://ag-kansai.com/

ログイン

ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

毎日の聖書のことば(デボーション)

アクセスカウンタ

今日 : 2020
昨日 : 4242
総計 : 118504118504118504118504118504118504