投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-05-20 23:52:33 (6 ヒット)
デボーションの友

2018/5/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:21-24 賛美 新聖歌 282
 「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」と言うイエスの言葉を聞いた人々は「あなたは、いったい、どなたですか」と問うた。これに対して主は「それは初めから話しているではないか。」と答えられた。ヘブルの信徒への手紙は「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」(ヘブ 1:1-2)と記している。またイエスは「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハ 5: 39)と語っておられる。神は律法と預言者によって、御子について語ってこられた。しかしユダヤ人たちはイエスが神の御子であられることを理解出来なかった。信仰によってみ言葉を読むことをしなかったからである。

2018/5/22(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書28:1-11 賛美 新聖歌302
 エレミヤと平和を告げる預言者ハナンヤが直接対決する緊迫した状況である。エレミヤは主が示された通り、軛の横木と綱を首にはめてユダの国を主はバビロンに渡して、三代先に連れ帰られると預言した。同じ形式で、同じ神の名においてハナンヤはすでに奪われた神殿の祭具を二年以内に持ち帰らせると語る。この様な状況が私たちの目の前で起こることを、できるならば避けたいと願う。同じ神の名において正反対のことを告げる預言者が二人現われれば、民は混乱する。いや、混乱する前に、民にとって都合のよい方の言葉だけが耳に入り、偽預言であろうとも従ってしまうだろう。
 このような状況は今の時代でも起こり得る。人々は真実ではないが、自分にとって都合のよい言葉だけを信じてしまうか、あるいは真の神の言葉を見極めることができずに混乱してしまうかもしれない。そのようなときにも、正しく神の言葉を見極めることの大切さを覚えていなければならない。

2018/5/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:25-30 賛美 聖歌 635
 イエスは「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」と語られる。ユダヤ人たちはイエスを捕らえ、イエスを十字架につけることを要求した。ピラトはイエスの内に罪を認めず、イエスを釈放しょうと努めたが、ユダヤ人たちは執拗にイエスを十字架につけることを要求し、それを成し遂げた。ユダヤ人たちは自分の勝利を確信し、喜んだ。しかし神はイエスをよみがえらせ、イエスは天に上り、神の右の座に着かれた。このイエスは終わりの日、再び来られて裁き主の座に着かれる。イエスの十字架はイエスへの裁きではなく、イエスを十字架につける者への裁きである。イエスを十字架につける者は、それによって自らを裁き、死に定めているのである。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:18)と記されているとおりである。

2018/5/24(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書28:5-17 賛美 新聖歌427
 ハナンヤの預言にエレミヤが反論している。「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。」という言葉に驚くが、エレミヤ個人の思いは、やはりバビロンからの解放だったのだ。しかし彼は自分の願望ではなく、神の言葉を語る預言者なのである。それ故に彼は自分の望みに反して民の空想的な平和願望を打ちくだかなければならなかった。かつての預言者達も神の名において災いを告げてきた。さらに、本物の救済預言を見分けるためには時を置いてその言葉が実現することを確認しなければならない。エレミヤが神からの真の言葉を見分けるための土台としたのは、民全体が共有できる、客観的な昔の預言者の言葉であった。預言というものは預言者の内的な確信に基づいて神の言葉として宣言されるものであるがゆえに、客観性を見出しにくい面は確かにある。しかし皆が共有できる土台の上に立って判断する基準を敢えて持とうとするならば、それは歴史上神が用いてこられた預言者の言葉の一貫性に照らし合わせるということが一つの根拠となる。
 様々な「預言」が今日でも語られる。主の名において語られるものも存在すると聞く。それが真の預言であると見分けるためには平和の実現を見ること、また聖書の中に記されている真の神の預言者の言葉と矛盾しないことを確認することが必要である。

2018/5/25(金) 担当 高谷清師  詩 37:21−22 賛美 新聖歌 247
 続いてダビデは「神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「われわれの生命を保存・維持し、他人に対して、互いに、慈善のわざを施すに必要なものすべてが、与えられるのは、天からでも、地からでもなく、ただ神の、恩恵と祝福とからである。もしも神が、その恵みをひとたび取り去られるならば、この世のすべての豊かさも、われわれを満足させることはないであろう」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅311新教出版社1970)と述べている。
 箴言は「財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは/乏しくても主を畏れる方がよい。肥えた牛を食べて憎み合うよりは/青菜の食事で愛し合う方がよい。」(箴 15: 16-17)と述べている。ヨブはサタンの激しい試みにさらされた時、妻が「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(ヨブ 2:9)と言ったのに対し、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(ヨブ 2:10)と語っている。人は、世的に、いかに豊かな環境にあっても満たされることはできない。いかに過酷な環境におかれようとも、神の恵みの中に、愛の御手の中にあるなら、満ち足り、生きる。

2018/5/26(土)担当 高谷由紀子師 マタ 18:1-4 賛美 新聖歌 316
 弟子たちがイエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねるとイエスは一人の子どもを呼び寄せて「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」と言われました。弟子たちは、自分が偉い人になりたい、人に認められ、賞賛されて人よりも上になりたいと思っていました。しかし主が教えられたのは、頑張って功績を残して認められなさいということではなく、子供のように自分を低くするということでした。ぺトロは「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」(汽撻5:5)と述べています。日々、神様の前に、謙遜に歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-05-13 23:44:06 (13 ヒット)
デボーションの友

2018/5/14(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:12-20 賛美 新聖歌 247
 ヨハネは7:30に続いて「イエスの時がまだ来ていなかったからである」と述べている。この箇所について斎藤正彦師は「ユダヤの最も大切な祭りの目、多くの礼拝者の集まる神殿の婦人の庭のさいせん箱のそばで語られたこの一言によって、イエスは直ちに捕えられても不思議ではなかった。しかし福音書記者は、ここでかれが直ちに捕えられなかった理由を、『イエスの時がまだきていなかった』。神の子の受難の、神によって定められた時がまだ来ておらず、誰も神の計画にさからって行動することはできなかったからであると説明することによって、このテキストを締め括るのである。」と述べておられる。(説教者のための聖書講解No30P14日本基督教団出版局1980)主イエスは「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタ 10:29)と語っておられる。悪を含め、すべては神のみ手の中にあり、神の許しなしには何事も起こらないのである。愛の御手の中にあることを感謝しょう。

2018/5/15(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書27:12-15 賛美 新聖歌166
 周辺諸国からエルサレムに来た王の使者たちに語ったと同じことを、同じように軛を背負いながらユダの王ゼデキヤにも語っている。エレミヤのメッセージは神から託された言葉であり、それは誰を目の前にしても変わらない。ユダの民が命を保つための唯一の方法はバビロンの王に仕えることである。このことはユダの民にとっては不満であっただろう。それ故に偽預言者達は人びとの思いに迎合してバビロンの王に仕えてはならないと語る。ゼデキヤ王にとってもエレミヤ以外の人びとの意見の方が好ましかった。しかしエレミヤは好ましい意見に飛びついて行動を起こすのではなく、偽預言を見抜き、滅びの道を歩むことはしないように呼びかける。
 神の御心を受け取ってそれを語る時、神のご計画が時代の潮流と必ずしも一致しているわけではない。そのような時に時代の勢いに流されることなく、また地位ある人の前だからと言って恐れてメッセージを変えるのではなく、祈りと御言葉を通して神の御心を聞き分け、主に信頼し、人を恐れず、真の言葉を語れるよう、主に祈り求めよう。

2018/5/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:21-24 賛美 新聖歌 265
 イエスは再び口を開き「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」と語られる。これを聞いたユダヤ人たちは、イエスの言葉を理解できない。彼らは下のものに属しており、イエスは上のものに属しておられる、ユダヤ人たちは世に属しているが、イエスは世に属してはおられないからである。イエスは「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」と語られる。『わたしはある』と言う語を口語訳聖書は「わたしがそういう者である」と訳し、新改訳聖書(2017年版)は「わたしはある」と訳している。フランシスコ会訳聖書は『わたしはある』と訳し「出エジプト3:14の『わたしはあるものである』という旧約聖書的へブライ語表現(「ヤーウェ」という神の名に関速する表現)に基づくものであり、イエズスの神性を表わす固有名詞のようなものである。」との注釈を付している。
 人が、イエスが神であられることを信じないなら、イエスの命に与ることは出来ない。主は「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マコ 16:16)と宣告しておられる。固く信仰に立って歩もう。

2018/5/17(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書27:16-22 賛美 新聖歌340
 さらにエレミヤは祭司たちと民のすべてに向けて語る。何度も同じメッセージを、あらゆる人々にあらゆる機会を捉えて語っている。その際、今まだ神殿と宮殿とエレサムに残っている祭具に言及していることから、既に最初の小規模な捕囚が起こり、ユダの国の危機的状況が目の前にあることを、エレミヤは冷静に認識し、対処していることが分かる。バビロンによる略奪は続くという預言は将来の先行きが決して安泰ではないことを感じ取っている人々に歓迎されるはずがないばかりか、敵意の的となるだろう。それでもエレミヤは危機感をもって真剣に語り続けた。人々の目には侵略者バビロンに服従することがあり得ない選択に見えたけれども、エレミヤは確信をもってこれを勧めた。
 エレミヤが大胆にこれを勧めることができたのは、神との親しい関係において神の言葉を聞き分けていたからである。加えて、神に従ってバビロンに仕えるならば、たとえそれが人間的に愚かで恐ろしい道に見えても、神がバビロンを用いて守ってくださるという主へのゆるぎない信頼を持っていたからである。主への信頼は危機における振舞いに表れる。

2018/5/18(金) 担当 高谷清師  詩 37:21-22 賛美 新聖歌 340
 ダビデは「主に逆らう者は、借りたものも返さない。主に従う人は憐れんで施す。神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「神はその民に対し豊かに与えられるので、彼らは他の人々に善を施すことができるが、悪しき者らは常に飢えており、その貧しさが彼らを駆り立てて、たばかりと強奪に訴えさせるほどである」 と。(中略)たとえ不信者が、よきものを豊かに手にしているとしても、彼らの貧欲はけっして飽くことなく、何を手に入れようとも、満ち足りることのない海賊のごとく、あちらこちらと強奪して回ることを止めないのである。」と。更に「神の子らが貧しい人々の生活を支え、彼らに対し寛大な施しをするに足るものを持つのはどこからか、そして悪しき者らが絶えず借財し、けっしてそこから抜け出すことができないのはなにゆえか、と問うならば、ダビデはこう答える『前者は神によって祝福されているのに,後者はその呪いによって覆滅されているからである』と。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅466−467新教出版社1970)と述べている。パウロは「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(競灰6:10)と述べている。キリストを信じる者は御国の相続者とされている。

2018/5/19(土)担当 高谷由紀子師 マタ 7:24-27 賛美 新聖歌 316
 これは主が語られた山上の説教と呼ばれる個所の一部分です。ここで主は私たちの人生の二種類の土台について譬えを用いて教えておられます。その一つは砂です。この土台は、雨が降り、川があふれ、風が吹くと崩れてしまうのです。もう一つの土台は岩です。岩を土台としている家はたとえ雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかっても崩れ去ることはありません。
 岩を私たちの人生の土台とするということは、御言葉を聞いて行うことだと言われています。砂を土台とするということは、御言葉を聞いてもそれを行うこと無く忘れてしまい、世のもの―健康・財産・権力・地位など―のうえに人生を築くことです。それは危機に遭遇すると崩れ去るのです。御言葉を聞いたなら、それを心に留め、思い巡らし、実行していくことが大切です。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-05-06 23:09:28 (20 ヒット)
デボーションの友

2018/5/7(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:12-20 賛美 新聖歌 231
 イエスは「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。」と語られる。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)と記されているように、神の御子が肉をとってこの世に来てくださったのは、罪を犯し死に定められている人間を愛し、死から救うためであって、審判を行うためではなかった。しかし「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:18)と述べられているように、神が愛によって遣わしてくださった救い主を信じない者は救いに与ることが出来ない、それが裁きである。信仰によってイエスを受け入れよう。

2018/5/8(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:20-24 賛美 新聖歌396
 エレミヤと同時代に生きた真の主の預言者ウリヤの死の突然の報告から、エレミヤの命を狙う者は祭司と預言者だけではなかったことが分かる。王もまた耳の痛い、真の神の預言を疎んじ、それを語る預言者を殺そうとしていた。ヨヤキム王のウリヤへの敵意は、エジプトに逃れたウリヤを追跡して連れ戻してまで殺すほどであった。同じ時代に生きていたエレミヤはアヒカムという、ヨシヤ王のもとで大臣を務めていた後見人を通して守られていた。ウリヤもエレミヤも真実の主のことばを語ったが、一人は王の手に堕ち、一人は守られた。これを不公平だと感じるだろうか。客観的にはそうかもしれない。しかし、ウリヤもエレミヤも真の神に仕える中で主の御心によって用いられ、生かされ、また命を落とすことも許されていることを理解していただろう。
 同じ神に同じ時代に同じ場所で仕える人びとでも、預言者個人の生涯はそれぞれ異なる。人間的には不公平であっても、神は一人一人に使命を与え、それを遂行させ、御心の時に召される。他の人と比べて良いか悪いかと考える必要はない。ただ、神の前に誠実に、力の限りに仕えたい。

2018/5/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8: 12-20 賛美 新聖歌 344
イエスが「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」と語られたのに対し、ファリサイ派の人々は「あなたの父はどこにいるのか」と問うた。イエスは「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」とお答えになった。ヨハネは「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」(ヨハ 6: 46)と述べている。またフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うのに対しイエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(14:8)と答えておられる。更に主は「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハ 17: 21)と祈っておられる。人は神を見ることはできない。御子イエスにおいて神を見、知るのである。

2018/5/10(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書27:1-11 賛美 新聖歌343
 ユダの王のもとに近隣諸国王から使者が送られて会議を開いているところにエレミヤは象徴行為と共に預言することを命じられる。これらの国々は共謀してバビロンに反旗を翻そうと画策していたが、主なる神はこのような方法で平和を得るのは神のみ心ではなく、むしろ諸国民をバビロン王の支配下に置くことであると告げられる。バビロンに対する反乱を起こすように勧める者たちは神のみ心を伝えていないという。エレミヤは同じことをユダの王に対しても語るが、特に諸外国の使者に語る時にはイスラエルの神、万軍の主が創造者であるということを強調している。なぜなら周辺諸国もそれぞれ世界を創造したのは神であると考えていたからである。これは真の創造者の言葉であるがゆえにユダのみならず諸国もこの言葉に聞き従わなければならないと示された。
 語る相手によって神はご自身を顕す表現も変えられる。それは聞く人びとが神を知り、理解できるためである。私たちも神の言葉、福音を伝える時に聞く人びとにとって理解できる言葉を用いて語る知恵を求めよう。

2018/5/11(金) 担当 高谷清師  詩 37:20 賛美 新聖歌 449
 ダビデは従う人を虐げ、不法行為によって得た世の繁栄によって傲慢にふるまう者について「主に逆らい敵対する者は必ず滅びる、献げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「悪しき者らがみずからに寄り頼む間に、神は隠れた方法で、彼らを無に帰せしめられる、というのである。彼らを神の敵と呼ぶことによってダピデは、みずからの悪行のゆえに、彼らの頭上に降りかかる神の報復によって、彼らが打ち砕かれるのは、正当なことであると教えている.」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅4661新教出版社1970)と述べている。ヤコブは「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(ヤコ 5:4-6)と述べている。罪の快楽をほしいままにしたソドムとゴモラは一夜にして滅ぼされた。神を畏れ、真実に歩もう。

2018/5/12(土)担当 高谷由紀子師 ロマ 1:16-17 賛美 新聖歌 276
 パウロは『福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』と言っています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創 15:6)と記されているとおり、アブラハムが義と認められたのは彼の行いによったのではなく、信仰によったのでした。ダビデは行いによらず、信仰によって義と認められた者の幸いについて「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(詩 32:1-2)と詠っています。私たちが義とされるのは私たちの罪のために十字架に架かって下さった主を信じる信仰によってだけです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-04-29 22:53:53 (21 ヒット)
デボーションの友

2018/4/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:12-20 賛美 新聖歌 420
 イエスが「わたしは世の光である」と語られたことに対してファリサイ派の人々が「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」と言った。律法に「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」(申 19:15)と記されていることに基づく反論であった。これに対してイエスは「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」と語られる。ファリサイ派の人々はイエスのことばを理解できない。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰 12:3)と述べている。イエスの言葉は霊である故、霊によらなければ理解できないのである。宣教も霊によらなければ不可能であり、絶えざる祈りを要するのである。

2018/5/1(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:11-15 賛美 新聖歌505
 神殿で神のことばを語ったエレミヤは捕えられ、責め立てる人々と法廷で対峙する。自らの死刑を求める人びとを目の前にして、驚くことに、エレミヤは全く動揺していない。エレミヤは神が共におられることを知っており、全くその信頼は揺るがないが故にこのような切羽詰まった状況において、冷静かつ自制心のある姿勢を貫くことができた。エレミヤ自身が神のことばを語っている確信があるからこそ、自分を殺そうとする人びとに対して『「わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい。」』(26:14)と言うことができた。
 神様と親しい関係に生きるクリスチャンが主に従う時、各方面から思わぬ拒絶や妨害や攻撃を受けることがある。程度の差こそあれ、信仰者からさえ無理解を得ることすらある。この様な時に私たちは心傷つき、動揺する。しかしいかなる時にもエレミヤのように確信をもって一つのメッセージを語り続ける源は神との生き生きとした親しい関係によって支えられる。常に神の御心を、み言葉と霊の交わりを通して確かに知っていると断言できる日常のクリスチャン生活を歩みたい。

2018/5/2(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8: 12-20 賛美 新聖歌 201
 イエスが「わたしは世の光である。」と語られたのに対しファリサイ派の人々は「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」と語り、イエスを裁いた。それについてイエスは「あなたたちは肉に従って裁く」と言われる。ファリサイ派の人々は霊的、天的な事柄を人間的次元において判断しょうとしていたのである。パウロは「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(汽灰2:10-15)と述べている。尊い神の恵みを受けた私たちは、霊によって歩もう。

2018/5/3(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:16-19 賛美 新聖歌20
 法廷でエレミヤは冷静に力強く、自分の預言は神のことばであると述べた。それに対してこれまでの経緯を踏まえてエレミヤに怒りを持っている祭司と預言者達は感情的になっている。しかしこの法廷での主張を聞いていた人々は感情的な死刑求刑に流されてはいない。本来宗教指導者であるはずの祭司と預言者の声が受け入れられないというのは何とも皮肉な話である。高官たちと民は緊迫した対立の中で、数と権威に勝る祭司と預言者達の言葉ではなく、エレミヤの言葉が神の真実であると見極めた。さらに過去の歴史から、預言者の真実な言葉を人々が受け入れた時に主が救ってくださったことをも思い起こして、神がエレミヤを通してこの時代に警告を与えておられることを聞き分けた。
 神の言葉が人を通して語られるとき、それを聞く人びともまた社会状況や損得勘定によって先入観を排除しきれない。だからこそ聞く人びとにも神の言葉を霊的に聞き分ける耳が必要とされる。それを求め続けたい。

2018/5/4(金) 担当 高谷清師 詩 37:18-19 賛美 新聖歌 209
 ダビデはここで「無垢な人の生涯を/主は知っていてくださる。」と詠う。主に逆らう者、権力ある者が絶大な権力を持ち、莫大な富を持つとしても、主は彼の腕を折られる。しかし主に従う者の生涯を主は知っていてくださり、自分のこととして深く関わってくださる(岩波訳参照)のである。彼らは神の内にその嗣業を持ち、それは永遠である。主に従う者も主に逆らう者と共に地上を歩んでいる以上、災いが降りかかる時、それと無関係ではありえない。阪神淡路大震災の時、周囲の家はすべて倒壊したが、クリスチャンの家だけは無傷であったかと言うと、そうではない。東日本大震災の時、主に従う人が被害を受けなかったかと言うとそうではない。主に逆らう者と同様に被害を受けたとしても、生ける神を信じるが故にくじけないのである。主に従う者は神の慈しみと愛を知っている故に、強い信頼をもって苦難に立ち向かうことが出来るのである。今日一日、主にあって雄々しく歩もう。

2018/5/5(土)担当 高谷由紀子師 マコ 12:13-17 賛美 新聖歌 391
 ファリサイ派やヘロデ派の数人がイエスのところにやってきて「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」と述べたうえでイエスを陥れようとして「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」と質問した。イエスは、彼らの下心を見抜いたうえで「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。
 イエスはピラトの裁きの座において「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」(ヨハ 19:11)と語られた。パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(ロマ 13:1)と述べている。「皇帝」もまた神立てられ、神の支配下にある権威として、皇帝に属するものは皇帝に帰するべきである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-04-22 22:34:21 (25 ヒット)
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2018/4/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:1-11 賛美 新聖歌 369
 訴える者たちが去った後、イエスは「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と問われた。それに対し婦人は「主よ、だれも」と答えている。ここに一つ、大きな見落としがある。主は「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」(マタ 25:31-33)と述べておられる。私たちの罪を負い、十字架に架かり、救いの御業を成し遂げ、甦り、天に帰られた主は、やがて再び裁き主としておいでになる。その時にはすべてのものが裁かれるのである。イエスはこの婦人を解放するにあたり「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われた。ヘブライ人への手紙は「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。」(ヘブ 10: 26)と述べている。救いの恵みに与った私たちは、罪を犯し続けることがあってはならない。

2018/4/24(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:1-6 賛美 新聖歌263
 先に7章でエレミヤが神殿で語った預言を読んだ。ここには再度同じメッセージが記されている。エレミヤが神殿の庭に立って語ったことは変わっていない。エレミヤは忠実に神のことばを語っており、それは民が神の律法に背き続けるならば主が災いを下され、人びとが信頼を置いている神殿を荒廃させるというものであった。
 人々の心は変わりやすい。人々はいつも変わらず神に仕えていると考え、そのように行っていたとしても、日々移り変わる時代や政治状況の中で彼らにとって神に仕えるとはどういうことかということが主観的に判断されているがゆえに常に一貫して正しく神に仕えるということができない。しかし神が求められることはあらゆる状況において、変わることのない神の律法と神のことばに従うことであった。私たちも刻々と変わりゆく状況を考慮したり、特定の人々について忖度したりするのではなく、常に変わらない神のことばに従って主に忠実に歩もう。

2018/4/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8: 12-20 賛美 新聖歌 201
 イエスは「わたしは世の光である」と語られる。ヨハネは1章において「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハ 1:1-9)と述べている。まことに、主イエスは真の光であられ、命であられる。このお方を離れては、命はない。

2018/4/26(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:7-11 賛美 新聖歌195
 エレミヤの預言を聞いた人々の反応が記されている。預言を聞いた時に考えられる、預言を受け入れて悔い改めるか、預言を拒んで不従順であり続けるかという反応にはとどまらなかった。エレミヤの言葉を聞いた祭司と預言者たちとすべての民が彼を捕えて主の名によってこのような預言をしたエレミヤを裁判にかけた。かつてエレミヤに厳しく批判された祭司と預言者達は死刑を求刑している。エレミヤがこの都に敵対する預言をしたからだという。感情的になっている人々の共感を得やすい理由であろう。しかし冷静に考えると、おかしな理由である。エレミヤが偽預言をしたから、あるいは神のことばを正しく取り次がなかったからというのであれば、預言者に対する罰を求めるには正当であろう。しかしここでは聞く人々の都合に合わないことを語る「預言者エレミヤ」を死刑にしようとしている。これこそが神のことばを軽視し、拒む人々の罪である。自我がむき出しになった姿である。
 神のことばに向き合う時、聞く者の心に心地よく響かないことがある。それは神のことばが人々を教え、戒め、正しくし、義に導く(2テモテ3:16)からである。しばしば人の感情に逆らうことが語られる。その時に語る人を排除するのはへりくだった応答であろうか?

2018/4/27(金) 担当 高谷清師  詩 37:16-17 賛美 新聖歌 282
 16節についてカルヴァンは「ダビデがここで語っているのは、外的な富というよりはむしろ、正しい者たちを真実に富める者とする、神の密かな祝福についてである、とわれわれは結論する。というのは,たとえ彼らはその日暮しを強いられるとしても、しかもあたかもマナをもってするごとく、その養いを天から受けているからである。しかるに、悪しき者は常に飢えており、あるいは財宝の中に埋もれつつも、朽ち果てる。」・・・「神のみ手によって支えられるのでないかぎり、この世には何の確かさも存しない」・・・もしわれわれが信仰によって、神がわれわれを、その父らしきみふところに抱かれることを、確信しないならば、われわれの貧しさは、常にわれわれにとって悩みであることになろう。・・・信仰者は神の祝福に寄りすがることを学んだのちには、彼らはその卑小で低俗な立場に留まることを喜び、これに満足することなく悪しき者らが誇りとする大いなる宝を、まるで足の下に踏みつけるように、大胆にも軽侮することであろう。(カルヴァン旧約聖書註解詩篇毅463―464新教出版社1970)と述べている。パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰15:50)と述べている。世の価値観ではなく、御国の価値観に生きよう。

2018/4/28(土)担当 高谷由紀子師 マタ 19:23-26 賛美 新聖歌 397
 イエス様は弟子たちに「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われました。主はかつて「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタ 6:21)と教えられました。また、パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰15:50)と述べています。金持ちはその富に心を捕われがちです。しかし、地上の富は神の国を受け継ぐことはできないのです。富が与えられるなら感謝して受けましょう。しかし、与えられた富に捕われないで、常に神に目を注ぎ、御心の内を歩みましょう。


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