投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-11-19 22:34:52 (2 ヒット)
デボーションの友

2017/11/20(月) 担当 高谷清師 ヨハネ ヨハ 6:28-33 賛美 新聖歌 275
 イエスが「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と答えられたのに対し人々は「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」としるしを求めた。主イエスは自分を試そうとして天からのしるしをもとめたファリサイ派とサドカイ派の人々に「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタ 16:4)と答えておられる。またパウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」(汽灰1:22)と述べている。大宮溥師は「信仰はイエスに対する人格的信頼であり、決断の行為であるのに、なお保証を求めるのは、自己への固執であり、不信仰への安住である。」(説教者のための聖書講解No29P14日本基督教団出版局1979)と述べておられる。全き信頼をもってイエスに従おう。

2017/11/21(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書14:17-22  賛美 新聖歌222
 神はエレミヤに言葉を託される。この言葉のうちには厳しい裁きを告げる神の心が表されている。神は民の滅びという裁きを決断されており、それは避け得ない現実として間近に迫っている。この裁きを下される神は、民の破滅を思い夜も昼も民のために涙を流されるのである。何度預言者を通して警告しても一向に悔い改めない民に対して神は裁きを下すと決断された。エレミヤが取り次いだ神のことばは厳しく、裁きの撤回の余地はないというものであった。この裁きを下すに至った神の心は説明されていないため、冷酷な神の姿を想像するかもしれない。しかし厳しい裁きを語られた神は夜も昼も民のために涙を流されるほど愛しておられるのである。
 罪を裁き、人を懲らしめる神は冷酷で愛のない神であるという短絡的な考えに陥らないようにしたい。神は深く民を愛しておられるが、その民が罪を犯し続けるならば涙を流しつつも裁かれる神なのである。

2017/11/22(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:28-33  賛美 新聖歌 201
 「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と語られた主は「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」と言われる。主イエスは神によって遣わされ、世に命を与えるために天から降って来られたお方である。カルヴァンは「天からくだるということでは、ふたつのことに注意しなければならない。すなわち、わたしたちは、キリストのうちに神的ないのちをもつ。それというのも、かれは、わたしたちにいのちを授ける者であるために、神から来たのだからである、と。次に、天のいのちはわたしたちの近くにある。だから、わたしたちには雲をこえて飛ぶことも、海をこえて行くことも、必要ではない(ローマ10:6)。それというのも、だれもかなたにまでのぼることはできないので、キリストがわたしたちのところにまでくだって来たからである、と。」(カルヴァン新約聖書注解轡茱魯擁_蚕饐綽袈欺佝納1967P206)と述べている。天に上ること、即ち自分の義を打ち立てて命を得ることはできない。信仰によって神の恵みを受け入れることによってのみ、命を得るのである。

2017/11/23(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書15:1-9  賛美 新聖歌378
 重ねて語られる神の裁きは明確であり、それは変更や撤回される兆しがない。神は裁きを受けた後の民がどうなるのかをも明確に伝えておられる。そしてこの神の裁きには明確な理由が伴っている。それは民が神を捨て、背いていったからである(15:6)。イスラエルの民は神の裁きが差し迫ったことを告げられると、主に向って裁きの撤回を求めることには熱心である。神の憐れみにすがろうとする。しかし、これほど裁きが差し迫った窮地に立たされた時にまず神の御前に出て静まり、神がこの様な裁きを決断された理由を知ろうとは求めない。 これが人間の姿である。どの時代のどの人々も神の裁きが身近に迫ったと知ると、自分の心を探り、神の前に正しく生きたか否かを問うことよりもただ神を責めることしかしない。しかし神が求めておられるのは、神の声を聞き分けて裁きを招いた罪を悔い改めることである。

2017/11/24(金) 担当 高谷清師  詩編35: 19-21 賛美 新聖歌 464
 ダビデは「敵」―「無実なわたしを憎む者」が「侮りの目で見ることがありませんように。」と主に求める。そして「敵」―「無実なわたしを憎む者」について「彼らは平和を語ることなく/この地の穏やかな人々を欺こうとしています。わたしに向かえば、大口を開けて嘲笑い/「この目で見た」と言います。」と語る。
 「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。」(マコ 11:9)と、歓呼してイエスを迎えた群衆は、数日後、イエスが捕えられ、裁きの場に着かれ、イエスにとって形勢不利と見えた時「数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。」(マコ 14:57)のである。
 順境の時には多くの人々が称賛し、すり寄るが、いったん逆境に陥ると有ること無いことを申し立て、権力者にすり寄り、陥れようとするのは世の常であり、今日も私たちの目前で展開されている光景である。しかし、すべてを裁くお方はすべてを見ておられる。

2017/11/25(土)担当 高谷由紀子師 ヨハネ6:1-14 聖歌273
 イエスが病人たちになさったしるしや教えを聞いた大勢の群衆がいた。主はこの人たちの空腹を知り、フィリポを試すためにパンの必要をどのように満たせばよいかと尋ねられた。フィリポは状況を客観的に見て、常識的に考えた上で「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6:7)と答えた。しかしその時アンデレは「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。」(6:8)と主に伝えた。アンデレも普通に考えると五千人の空腹を満たすためにこのわずかな食料は役に立たないと分かってはいたが、とにかく食べ物がここにあることを主に伝えた。その時主はこのわずかな食べ物を祝福して人々に分け与えたところ、五千人が満腹した。
 少年はわずかな五つのパンと二匹の魚しか持っていなかった。主はそれをもって人々の空腹を満たされた。私たちには無価値なものと見えても主は測り得ないほど価値あるものにして用いてくださる。自分の持てるものを喜んで主に差し出そう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-11-12 22:53:45 (8 ヒット)
デボーションの友

2017/11/13(月) 担当 高谷清師 ヨハネ ヨハ 6:28-33 賛美 新聖歌 240
 27節の「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言うイエスのすすめの言葉を受けて人々は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問うた。これに対してイエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と答えておられる。神の義を求めないで自分の義を追い求める人々は常に神との関係において「自分は何をしたらよいか」と尋ねる。パウロがキリストを信じる信仰のみによる救いを説いたガラテヤ教会に、パウロがガラテヤを去った後律法主義者が入り込んで「イエス・キリストを信じる信仰だけでは救われない。救われるためにはモーセの律法を守り、行い、割礼を受けなければならない」と説いてガラテヤ教会に混乱を引き起こしたことは聖書の告げるところである。しかし、律法は私たちに違反を示し、それによって私たちを罪に定め、死を宣告するものであって、私たちに救いをもたらすことはできない。私たちに救いを得させるのはイエスキリストを信じる信仰だけである。

2017/11/14(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書14:1-12  賛美 新聖歌35
 民はひどい旱魃で苦しんでいる。本来おとなしい雌鹿でさえも産んだ子を捨てるほどの厳しい旱魃である。この状況に直面して、エレミヤは民のためにとりなして祈る。民は自身の罪を認め、自力で救い得ないことを知り、神が救済者としてふさわしく立ち上がって救いを行われることを求める。これらの言葉に感じられるへりくだりと悔い改めを聞く時、私たちは救いが近いことを期待して安心する。しかし意外にも神は、エレミヤに対して民のためのとりなしの祈りを禁じ、民の断食や叫びや献げものなどの一切の宗教的儀式を受け入れないと言われる。
 神は気まぐれで意地悪な方なのだろうか。そうではない。民の言動がどれほど霊的で謙遜に見えても、神はその言動の裏にある、民の相変わらず偶像に頼る定まらない心や、宗教儀式を形式的に行い、本当の悔い改めと謙遜が伴わない態度を見抜いておられた。神が求められるのはいつの時代にもいけにえではなく、悔いた心である(詩篇51:18-19)ことを覚えたい。

2017/11/15(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 6: 28-33  賛美 新聖歌 135
 「人が救われるのは行いによるのではなく、信仰のみによる」と言われる時「わたしはイエス・キリストを信じます」と言えば、良い行いは必要ではない、換言すれば「わたしはイエス・キリストを信じます」と言えば何をしてもよいと言う議論が起こってくる。それについて大宮溥師は「信仰義認はパウロの特有の教理というのではなく、キリスト教信仰そのものの「立ちもし倒れもする条項」なのである。このことは、信仰以外のものを無用とすることではない。むしろ、われわれの全体を信仰によってイエス・キリストにゆだねる時、われわれのすべての生活と行為が、彼の導きのもとにおかれるからである。したがって、信仰なしには、すべての行為は自己義認の企てとしてさばかれるが、信仰に生きる時に、そこから出るすべての行為が「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物」(ロマ12: 1)として受け入れられるのである。「信仰は、慈愛やその他のどんなよいわざも排除するものではなく、それらをすべてふくんでいるものである。それというのも、信仰が神のただひとつのわざと言われるのは、信仰を通じてキリストを所有することによって、わたしたちが神の子供たちとされ、かれの聖霊によって導かれることになるためだからである。(説教者のための聖書講解No29P13日本基督教団出版局1979)と述べておられる。自らを聖霊に委ね、聖霊の導きの内で良き業に励もう。

2017/11/16(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書14:13-16  賛美 新聖歌385
 神の容赦ない裁きが下されようとしている中、預言者達は相変わらず民に平安を告げている。この預言者達は歴史において幾たびも民を救ってくださった救いの神が今回も彼ら自身のとりなしを通して同じように平安を与えてくださると純粋に考えていたのかもしれない。しかしそれに対して神はこの預言者達を拒まれた。神の目から見れば、預言者達もまた神が民のうちに見出している偽りの悔い改めのポーズを見抜かず、民と同じ土俵に立って根拠のない神の救いの業を確信してしまっている人々となっていた。預言者達の動機がどうであろうと、正義と神への本当の献身と悔い改めを求められる神の御心を知らずして、裁きが続く時に救いを軽々に語るものはもはや神のことばを民に取り次ぐものではなくなっている。
 人は苦境に立たされると慰めと平安を求め、神からの言葉ではなくても平安を伝える言葉にだけ耳を傾ける。神のことばを取次ぐ者がこの様な偽預言者になってしまわないよう、注意しよう。また、神を信じる人々も偽りの平安を宣言する言葉に惑わされることがないよう、本当に神が求められる真の悔い改めと正しい神との関係を日々求めて歩もう。

2017/11/17(金) 担当 高谷清師  詩編35:17-18 賛美 新聖歌 5
 神に捨てられ、世の権力者となったサウルは、妬みと権力欲のためにダビデを亡き者としょうとして執拗につけねらった。その為ダビデは命がけの逃避行を続けなければならなかった。ダビデは主に訴え祈ったが、ダビデには、主は静観しておられるように思われた。そこでダビデは「主よ、いつまで見ておられるのですか。彼らの謀る破滅から/わたしの魂を取り返してください。多くの若い獅子からわたしの身を救ってください。」と祈る。それは「優れた会衆の中であなたに感謝をささげ/偉大な民の中であなたを賛美できる」為である。
 私たちが祈るのは、自分が裕福な生活をするためであってはならない、自分の力を誇示するためであってはならない、神に感謝をささげ、神を賛美するためであるべきである。ヤコブは「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコ4: 3)と述べている。常に、一切の栄光を主に帰し、賛美しつつ歩もう。

2017/11/18(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 19:1-10 新聖歌 340
 ザアカイは徴税人の頭で、金持ちでした。しかし、友も無く孤独で寂しい生活を送っていました。そんなある日、イエス様がザアカイの住んでいる町を通られ、彼の家にお泊りになりました。イエス様との親しい交わりの内で悔い改めに導かれ、ザアカイの心は変えられました。強欲一点張りであったザアカイが「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と告白したのです。この告白を聞いてイエス様は「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と語られました。イエス様こそ、神無く望み無き者を救ってくださるお方です。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-11-05 22:55:24 (10 ヒット)
デボーションの友

2017/11/6(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:22-27 賛美 新聖歌 452
 イエスのパンの奇跡によって満腹したことに味を占めた群衆が再びイエスのもとにやってきた。この群衆に対しイエスは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と語られる。この箇所について大宮溥師は「「満腹する」は(中略〉元来は動物が餌を十分にとって満足している様子をあらわすものであり、「人はパンだけで生きるものではない」(マタイ四・四〉ことを知らずに、肉の糧だけで満足している人間の「満足した豚」の姿をあらわしたものとも思われる。神の恵みのしるしは、信仰をもって受けとられ、恵みを与えたもう神に導くものとなるとき、「恵みのしるし」となるが、それ自体が関心の的になるとき、神への道を閉ざすつまずきとなるのである。」(説教者のための聖書講解No29P12日本基督教団出版局1979)と述べておられる。恵み深い主の奇跡の御業に与る時、信仰をもって受け止め、その背後におられる主ご自身に目を注ごう。

2017/11/7(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書13:12-17  賛美 新聖歌170
エレミヤは酒宴にふける人々に語り掛けているのであろう。皮肉を込めてエレミヤがさらに酒を満たせと語っても、彼らはエレミヤの警告に心を留めない。それに対してエレミヤは「酔いで満たす」という言葉を比喩的に用いて神の裁きが下されることを述べる。酒に酔っ払う人々は互いを道徳的な堕落へと導き、最終的に神の裁きを招くというかのようである。快楽にふけり、神のことばを受け止めない人々には最終的に神の裁きが宣言される。その裁きにもさらに警告が伴う。主の言葉に耳を傾け、主に栄光を帰せと。
 神を認めず、傲慢に歩む人々の罪を神は放置なさらない。しかし、裁きによって民が滅びることがないようにと、神は最後まで警告を与えられる。悔い改めへの招きを聞き取り、へりくだって歩む者となろう。

2017/11/8(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:22-27  賛美 聖歌 273
 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と語られた主は「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」と語られる。それは、父である神が、人の子を認証されたからである。イエスが洗礼を受かられた時の様子をマルコは「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(マコ 1:9-11)と伝えている。またヨハネは「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハ 3:36)と述べている。イエスこそ、父なる神によって遣わされた神の御子であり、信じる者は永遠の命を持つのである。

2017/11/9(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書13:18-27  賛美 新聖歌176
 預言者は王や太后など、身分の高い人に対しても分け隔てなく厳しい言葉を語る。社会的身分にかかわらず、すべての人が神の前に高ぶりを捨ててへりくだらなければならない。民が悔い改めない限り、北からの敵は彼らを襲い、彼らは辱めを逃れ得ないのである。さらに23節以降は罪に染まった民が自分の力ではそのしみを取ることはできないとはっきりと語られる。ひとたび神を離れ、力の無い偶像に依り頼み、そこに安住してきた民は自分の力で罪を洗うことはできない。人間の罪の深刻さを思い知らされる。
 人間は罪の深さと、その罪が自分の力では清められないことを深く認識しなければ本当の悔い改めへと導かれることはない。罪を認識するためには厳しい言葉も語られ、聞かれなければならない。悔い改めに導く厳しい言葉を語ること、聞くことを恐れてはならない。

2017/11/10(金) 担当 高谷清師  詩編35:11-16 賛美 新聖歌 205
 主に油注がれたダビデは、万軍の主の名によってゴリアトに立ち向かい、石投げ紐をもって打ち倒した。それを見たイスラエルとユダの兵士たちは鬨の声を上げてペリシテ軍を追撃し、勝利を収めた。サウルはその日、ダビデを召し抱えた。ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣して勝利を収めた。サウルは彼を戦士の長に任命した。このことは、すべての兵士にも、サウルの家臣にも喜ばれた。しかしこの目覚ましいダビデの働きは、サウルの心に、ダビデに対する妬みを生じさせ、サウルはダビデに対し殺意を抱くようになっていく。このサウルの心の変化は周りの人々の間にも影響を及ぼす。世の権力者におもねる者たちはダビデに敵対するようになり、不実をもってまでもダビデを訴えるようになる。順風の時にダビデが愛を注いだ人々も同じであった。このような状況は主イエスの裁判の場においても起こったことであり、罪ある人間社会の常であり、今日も起こり続けていることである。しかし主は、そのすべてを見ておられる。

2017/11/11(土)担当 高谷由紀子師 マタ11:28-30 新聖歌 281
 戦国の武将徳川家康は「人生とは重き荷を負うて遠き道を行くがごときなり」と言ったと伝えられています。イエス様の周りにも重荷を負い、疲れた人々があふれていました。このような人々を目の当たりにされたイエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と招かれました。イエス様は神の御子であられましたが、父なる神の御心に従い、罪の重荷に苦しむ人に救いを与える為に、自分を低くして人となり、十字架に架り、救いの御業を成し遂げてくださいました。このイエス様を救い主と信じることによってすべての罪の重荷から解放されるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-10-29 22:37:10 (10 ヒット)
デボーションの友

2017/10/30(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:22-27 賛美 新聖歌 369
 イエスが大麦のパン五つと魚二匹とによって男たちだけでおおよそ五千人に食物を与え満腹させられた奇跡を体験した群衆は、翌日再びその場所にやってきた。しかし、イエスも弟子たちもそこにいないと知った群衆は小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけた。主は「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ 11:9-10)と教えておられる。神は探し求める者に対して、必ずご自身をあらわしてくださる。それが如何なる雑踏の中においてであっても、いかなる辺境の地にあっても。神を求め続けよう。

2017/10/31(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書12:14-17  賛美 新聖歌251
 神がイスラエルと近隣諸国に対して行われることが記されている。ここでは神がイスラエルに与えた土地を奪い取る近隣諸国民である異邦人と神の民ユダヤ人が等しく神に抜き取られ、再び元の土地に連れ帰られると言われる。なぜ神が御自分の民とその他の民を同じように扱われるのかと驚く。ここで神は回復の条件としてすべての民が偶像礼拝を離れて主に従うことを求められている。神はすべての人にご自身だけを神として受け入れ、従うならば回復してくださると約束された。
 神の選びの民であることが神に赦される条件ではない。時代を超え、地域を越え、すべての人が天地を造られた真の神を信じ、受け入れ、従うならばその出身や時代に関わりなく、神に赦され、導かれる。常に信仰にとどまり続けよう。

2017/11/1(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:22-27  賛美 新聖歌 201
 イエスを見つけた群衆が「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と問うたのに対しイエスは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と言い、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言われた。群集がイエスを探したのはパンを食べて満腹したからであった。イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタ 7:7-8)と語っておられる。たしかに私たちは主に祈り求め、世における必要を満たされ、癒しを体験してきた。ある人々はこれを殊更に強調し、イエスを肉欲充足の手段、自らの奴隷、打出の小槌としょうとする。しかし私たちが真に求めるべきもの、そしてイエスが私たちに与えられるのは永遠の命に至る食べ物である。

2017/11/2(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書13:1-13  賛美 新聖歌396
 ここでエレミヤは言葉だけでなく行動によっても神のメッセージを伝える。彼が身に着けた麻の帯は神とイスラエルの近い関係を示す物であった。ユーフラテスの岩の裂け目に帯を隠すことはユダが捕囚を経験することを示しているのであろうか。そうならば、この帯が再び取り出されたときに腐ってしまったようにユダも捕囚によって全く無意味な存在、神を忘れ去り、神から離れたものになってしまうということであろう。この不可避な裁きが宣言され、それは民が逆らい、傲慢であった結果だと言われる。民は全く希望の持てない存在である。
 預言者は希望に満ちた将来だけではなく、不従順な民を目の前にして希望を持てない裁きの現実だけをこのように語ることもあった。この様なメッセージを聞く時、私たちはそれでも神は愛の神であるという私たちに都合のよい言葉を使って裁きの厳しさとそこまでの状況を作った不従順の罪の深刻さに向き合って悔い改めることを拒否してしまう。時には厳しい言葉にも耳を傾けよう。

2017/11/3(金) 担当 高谷清師  詩編35:4-10 賛美 新聖歌 165
 ダビデは「彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張り/わたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。どうか、思わぬ時に破滅が臨み/彼らが自ら張った網に掛かり/破滅に落ちますように。」と祈る。ダビデは、そのうちに悪がないにもかかわらず、サウルの妬みによってダビデを滅ぼすために張られた網と掘られた穴から、神によって守られ、助けられた。その恵みに対して『わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から/貧しく乏しい人を搾取する者から/助け出してくださいます。」』と詠い、神を賛美し、栄光を主に帰している。私たちが危機に直面する時、私たちは祈る。そして主の導きに従って行動し、危機を脱する。その時、行動したのは自分であると考え、すべての栄光を主に帰さないことがある。しかし、導かれたのは主である。栄光のすべてを主に帰すものとなりたい。

2017/11/4(土)担当 高谷由紀子師 ヘブ 12:1-3 新聖歌 281
 著者は11章において偉大な信仰の先達について述べました。更に私たちには、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった、信仰の創始者また完成者であるイエスが与えられているのです。それを受けて「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と語りかけています。著者はキリスト者の歩みを競技者にたとえています。競技者は身にまとわりつく不要なものを捨て、障害物を乗り越えて忍耐強く、只管ゴールを目指します。私たちも約束されている御国を目指し、それにふさわしくない一切のものを捨て、只管歩み続けましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2017-10-22 22:15:09 (19 ヒット)
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2017/10/23(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:16-21 賛美 新聖歌 323
 この記事に新共同訳聖書は「湖の上を歩く」と言う表題を掲げている。この記事はマタイによる福音書、マルコによる福音書が記しており、共に「湖の上を歩く」と言う表題が掲げられている。弟子たちはイエス様不在でカファルナウムに向って船出した。この間の事情をヨハネは「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」と言い、マタイは「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。(マタ 14:22-23)と記し、マルコは「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」(マコ 6:45-46)と記している。彼らが進んでいくと、やがて強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。弟子たちはガリラヤ湖の漁師であり、ガリラヤ湖における操船ではベテランであった。しかし、イエス様不在では荒れるガリラヤ湖を進むのは困難であった。すでに老境に達し、人生の達人と言われる人々であっても、主の導きなくしては、正しい目的地に達するのは困難である。主は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 6:15)と語っておられる。常に主と共に歩もう。

2017/10/24(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書12:1-6  賛美 新聖歌346
 「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い/裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え/欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。」(12:1)―このエレミヤの言葉に私たちも共感できるのではないだろうか。生きている場所や環境に関わりなく、神に従わない人々が祝福を受けているにも関わらす、正しい人が苦しんでいる現実に神の正しい導きがあるのかと疑うような現実に直面し、納得のいく説明を神に求めることは今日でもクリスチャンが経験することではないだろうか。不条理な現実の中で神が私たちの歩みを見ておられることを信じられなくなってしまうこともある。その時に神はエレミヤに語られたように、私たちにも疑問に丁寧に答えられるのではなく、この程度の現実で疲れるなら、さらに厳しい事態に直面した時にあなたはどうするのか?と問い返され、私たちに信仰者としての覚悟を求められることもある。
 時として信仰によって歩むことは知性で理解し、納得するという願いを満たすものではないかもしれない。すべての説明を神が与えて下さらない中でも神に信頼して委ねる信仰もまた必要なのである。

2017/10/25(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:16-21  賛美 新聖歌 344
 強風と荒波に翻弄され難渋する弟子たちのもとに、イエスは湖の上を歩いて舟に近づいて来られた。それを見た弟子たちは恐れた。マタイは「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」(マタ 14:26)と記し、マルコは「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。」(マコ 6:49-50)と記している。この記事は弟子たちのイエスに対する不信仰を示している。これに気付かれたイエスは「わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられた。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」のである。私たちの歩みには、そして教会の歩みには試練に遭遇し、主イエスが見えなくなる、不安と混乱を覚えることがある。しかし主がおられなくなったのではない。主は常に「わたしだ。恐れることはない。」と声をかけ、導いてくださる。いかなる時にも御声に耳を傾けよう。

2017/10/26(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書12:7-13 賛美 新聖歌372
 エレミヤに代わって神が語られている。神は神の嗣業を見放して敵の手に渡されたことを認められる。神の選びの民であるイスラエルをも神は敵の手に渡し、憎まれることがあるという事実を否定なさらない。しかし、神は感情的に自分本位でこのようなことをなさるわけではない。最初に民が神を捨てて神に背いたのである。神は御自分の民を選び、愛された。その愛に応えることを望み、求められた。それにもかかわらず不誠実である民に対して何度も警告し、立ち帰るように呼びかけられた。それでも聞き従わない民に対して、神は最終的に敵の手に渡すという決断もなさるのである。
 神は神である。神を信じて従う者を深く愛してくださる。それと共に信仰を告白して神に従うと決断した者に変わりない真実と従順を求められる。主の目に適う信仰者として歩みたい。

2017/10/27(金) 担当 高谷清師  詩編35:1-3 賛美 新聖歌 216
 ダビデは無実な者を滅ぼそうとする者たちに対し、自ら報復をするのではなく、彼らへの裁きを神に祈っている。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12:19)と述べている。ハマンは自分にひざまずいて敬礼することを拒むハマンとユダヤ民族を滅ぼそうと画策し、モルデカイをつるそうとして立てた柱に自らがつるされた。世には、信仰深く歩もうとする人々を故なく陥れようと画策する人々が数多く存在する。そのような人々に報復したく思うのは人の常の感情である。しかし、信仰者はこれらのすべてを主の手に委ね彼らのために祝福を祈るべきである。主は「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」マタ(5:43-45)と語っておられる。

2017/10/28(土)担当 高谷由紀子師 マルコ4:26-29 聖歌322
 人は種を蒔き、水を注ぎ、雑草を取り除き、害虫を除いて世話をしますが、その種がどのようにして成長し、実を結ぶのかという科学的な仕組みも知らず、植物を成長させる能力も持っていません。しかし種は確かに成長し、実を結び、収穫の時が来ます。創造主なる神が、人が休んでいる間にも働き続け、成長させてくださっているからです。
 約束された神の国がどのように、いつ来るのかは、私たちは知りません。しかし神の国は確実に到来するのです。望みをもって神のことばである種を蒔きましょう。


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