投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-12-10 04:30:43 (3 ヒット)
デボーションの友

2018/12/10 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:1-16 賛美 主をほめよP7待ち望め主を
 「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」と記されている。この箇所についてカルヴァンは「わたしたちは、このかれの遅滞から次のことを教えられるのである。神の愛は,わたしたちが目先で見ることから評価されてはならない、と。キリストは,懇望されながら、しばしばその援助をおくらせている。それは、わたしたちのうちに祈る思いと熱意とをさらにかき立てるためである。あるいは、わたしたちの忍酎を試み、同時に、わたしたちを服従に慣れさせるためである。だから、信者たちは、神の助けを願う時、時としてその必要に迫られていると思われるだけ、十分すみやかに神の手がさしのべられないことがあるとしても、同時にそののぞみを持続させることを学び知らなければならない。それというのも、神はたとえおくれるとしても、決して眠ってはいず、自分に属しているひとたちを忘れてはいないからである。かれは、むしろ、愛するひとたちすべてが救われることをのぞんでいる、と確信しよう.」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965P370)と記している。コヘレトの言葉は「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3:1)と述べている。確固たる信仰に立ち、忍耐をもって待ち望むことが求められる。

2018/12/11(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書47:1-7 賛美 新聖歌389
 46章の書き出しとは違って、冒頭にどの国に宛てた言葉であるのかは明言されていない。ただ、洪水のように水が押し寄せて地上のすべてを破壊してしまうという印象的な描写で始められている。人間では太刀打ちできない大きな破壊力に呑み込まれる印象を受けたところで、それがこの国を襲う異国の軍隊であると明かされる。最終的にその滅びを体験しているのがペリシテ人であると明かされる。歴史を知る私たちはこの北からの大水として語られた軍隊がどの国であるかと判別しようとする。しかしここで言われるのは主ご自身が剣を取られ、ペリシテ人を倒されるということである。
 私たちが関心を持つのは、実際にペリシテを滅ぼしたのは具体的にどの国かということである。しかし地上で起こることの背後にあってすべてを導いておられるのは神ご自身であるということをこの箇所を通してもう一度思わされる。すべてを治めておられる神の目に正しく歩もう。

2018/12/12(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:1-16 賛美 新聖歌 354
 二日後、イエスは弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう。」と言われた。弟子たちは驚いて「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と言った。これに対してイエスは「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」と言われた。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。昼の間は太陽の光に照らされているのでつまずくこともなく、迷うこともない。しかし、夜になると光がないために、つまずき、道に迷い、多くの危険に遭遇する。
 イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハ 8: 12)と語られた。世は罪の支配する暗黒の世界であり、つまずきと迷いに満ちている。しかし、イエスを信じる信仰によって歩む時、光のなかを歩むことが出来る。それは迷うこともつまずくことも無く、あらゆる危険から守られる道である。

2018/12/13(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:1-10 賛美 新聖歌438
 48章全体においてユダの東に位置する旧来の敵であるモアブへの預言が述べられている。長年イスラエルを苦しめてきたこの敵に対して厳しい裁きが下されることは驚くに当たらない。モアブが占領されるとき、それは国の北に位置する町から始まる。エレミヤが何度も語っている北からの敵が神に用いられているのである。モアブはなぜ滅ぼされるのか。それは豊かな国土によって得られる富に頼ったからだと言われる(48:7)。さらに10節には主から課せられた務めをおろそかにする者へのさばきが語られている。モアブはイスラエルとは違い、神の契約の中に生きてはいなかったが、それでも主のさばきを逃れることはできないとエレミヤは語る。神がイスラエルの神であると同時に、すべての造られたものと全地を治める方であることがわかる。
 主なる神を信じていない人々、また主なる神との関係の中に生きていない人もまた主の主権のもとに生かされ、導かれている。ペリシテ同様、モアブもまた造り主である神のさばきから逃れることはなかった。今の時代の神を知らない人々も主の御手の中にあることを覚え、その救いのために祈り、伝えよう。

2018/12/14(金) 担当 高谷清師  詩 40:6 新聖歌 434
 詩人は「わたしの神、主よ/あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを/わたしは語り伝えて行きます。」と詠う。この箇所を口語訳は「わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても/多くて数えることはできない。」と訳し、岩波訳は「たくさん、あなたは行なった、わが神ヤハウェよ、あなたの不思議な業と/配慮とを、われらに。/あなたに並ぶものは無い。/私が告げ、また語ろう〔にも〕、/おびただしくて数えきれない。」と訳している。
 聖書は「初めに、神は天地を創造された。」(創 1:1)と述べている。そして「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創 1:31)と述べている。
 宇宙万物は、全知全能にして愛であられる神が創造されたのであって有限なる人間はこれを極めることはできない。しかし私たちは、神を、全身全霊をもって賛美し、自らの知り得た神の恵みのすべてを語り伝えて行こう。

2018/12/15(土)担当 高谷由紀子師 マタ 18:1-4 賛美 新聖歌 191
 弟子たちがイエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねるとイエスは人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」と言われました。弟子たちは、自分が偉い人になりたい、人に認められたい、賞賛されて人よりも上になりたいと思っていました。しかし主が教えられたのは、頑張って功績をあげて認められなさいということではありませんでした。逆に、子供のようになり、自分を低くするということでした。ぺトロは「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。」(汽撻5:5)と述べています。日々、神の前にへりくだって歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-12-02 23:15:19 (12 ヒット)
デボーションの友

2018/12/3 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:1-16 賛美 新聖歌 211
 ヨハネによる福音書11章はラザロの復活を扱っている。そして新共同訳聖書は11:1-16に「ラザロの死」という表題を付している。この箇所にはラザロの家族が紹介されている。この家族はマリア、マルタ、ラザロであった。マルタはイエス様を迎えた時、接待のためにいろいろ気を使い、忙しく立ち働く人であった。彼女は各方面に気を配り、落ち度なく物事を進める行動の人であったと言えるであろう。マリアは姉が忙しく立ち働いている時にもイエスの足元に座ってイエスの話に聞き入っていた人であった。また、彼女は「主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と言われている。彼女は物事を深く考え、真理を求める人であった。このように、ここに登場する三人は各々、性格を異にする人々であった。しかし聖書は「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」と記している。
 私たち人間は各々性格、体格、容姿、能力・・・・・等々を異にしている。しかしイエスはそれらの相違を超えて私たちを愛してくださるお方である。私たちは自分の欠点を知らされ、自信を喪失し、自己嫌悪に陥ることがある。しかしそのような時にもイエス様の愛の御手は私たちの上に置かれている。

2018/12/4(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書46:13-26 賛美 新聖歌341
 いつの時代にも強大な軍隊を擁する世界の超大国が、戦争で徹底的に打ち負かされるということを誰が想像するだろうか。しかしエレミヤは明確に、当時の大国エジプトが北からの敵であるバビロン王ネブカドレツァルによって打ち負かされるという。人々が容易には想像できないこの状況を、エレミヤは様々な比喩を用いて豊かな表現で大胆に語る。エジプトは確かに美しい雌の子牛が象徴するように豊かで裕福な国であったが、この平和で穏やかな暮らしは北からの敵の一撃によって奪われると言う。世界がこのような出来事を見るならばなぜこの超大国が敗れたのかと様々な分析をして、兵士の結束力や、武器の性能や、軍隊の規律や情報収集能力など、ありとあらゆる可能性について探る。また、敵がいかに強大か、その敵の背後にあって陰で操っている者たちの力などを考えるかもしれない。しかし神はこのエジプトの敗北もイスラエルの神、万軍の主の支配の中に起こると明言される。
 すべては神の御手にあると告白しながら、私たちの実生活においてはこの確信からどれほどかけ離れ、隔たった態度と信仰をもって歩んでいることだろうか。すべてのことの背後に歴史と世界を導く神が居られることを思い起こそう。

2018/12/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:1-16 賛美 新聖歌 196
 彼らの家族の一人、ラザロが病気に罹った。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。この箇所についてジョン・C・ライルは「この姿は、悩みのうちにあるすべてのキリスト者が見習うベき模範である。マリヤやマルタのように、まず第一にキリストに申し上げるべきである。祈りによって私たちは、彼らと同じことができる。ヨブが試練の中でしたのも、このことだった。何をさておいても彼はまず「礼拝し」、「主の御名はほむべきかな」と語った(ヨブ1:20、21)。ところが、アサ王は病気になった時、「主を求めることをしないで、逆に医者を求めた」(粁鯊1:16:12)と述べられている。(ライル福音書講解ヨハネ3P23聖書図書刊行会1987)」私たちは試練に遭った時、慌てふためき、右往左往することがある。しかし真っ先にすべきことは祈りである。

2018/12/6(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書46:27-28 賛美 新聖歌315
 46章の最後に見られるこのわずか二つの節はエジプトの敗北と崩壊に新たな視点を与える。エジプトの敗北を目の前にして、イスラエルはエジプト以上に強大な軍隊を誇るバビロンを恐れた。しかし脅えるイスラエルに対して神は「恐れるな」(46:28)と語りかけられる。これは根拠のない気休めなどではなかった。なぜならこの語りかけには確固たる根拠があったからである。それは神が彼らとともにおられるという事実である。そしてこの神がイスラエルを正しく懲らしめ、導いていかれるからである。
 人は戦いのあるところで、その戦局を見て、予測できる結末に一喜一憂する。大きな時代のうねりの中では一人の人の能力や現状に基づいて安心したり不安になったりする。しかし、共に歩んでくださる聖なる神がともにいてくださることにおいて恐れが消え、不安がなくなる。当時のイスラエルに対してだけではなく、今日の私たちにも「恐れるな、私がともにいる」と呼びかけてくださる主の声に頼るところに私たちの平安と力がある。

2018/12/7(金) 担当 高谷清師  詩 40:4-5 新聖歌 38
 詩人は「いかに幸いなことか、主に信頼をおく人/ラハブを信ずる者にくみせず/欺きの教えに従わない人は。」と」詠う。この箇所を新改訳2017は「幸いなことよ 主に信頼を置き、高ぶる者 、偽りに傾く者たちの方を向かない人。」と訳している。また岩波訳は「幸いだ、ヤハウェをおのが頼りとし暴君らにも偽りに与する者らにも向かわなかった男。」と訳し「「暴君ら」は一ラハブ」(89:11)の複数形。この一行の七十人訳は「空しいことにも偽りの狂気にも」。」との注釈を付している。この箇所についてカルヴァンは「ダビデは自分の救いを通じて, どのように確かな望みの根拠が、すべての信仰者に与えられているか、すなわち、この世のすべての誘惑を退けて、彼らはすべて神の保護のうちにみずからを置き、ただ神だけに寄り頼む者が幸いであるということだけでなく、あらゆる反対の望みは、偽りで呪われていることを確信している、とくりかえして語る」と述べ、続けて「高慢に思い上がった人間が、あらゆる幸福の絶頂を、みずからの野心や欺瞞や強奪やたばかりのうちに置いて、神を軽侮するのを目にするとき、彼らに倣おうとする邪曲な嫉妬心が、直ちにわれわれを捕える。ことに、万事が彼らの願い通りに成就するような場合には、同じことを試みようとする空しい望みが、われわれを唆かすのである」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑35新教出版社1971)と述べている。
 悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。これに対してイエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」と言って悪魔の誘惑を退けられたのである。常にイエスを見つめ、誘惑に勝利しょう。

2018/12/8(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 18:9-14 賛美 新聖歌 191
 この箇所はイエス様が自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人々に対して話されたたとえ話が記されています。神様の前でファリサイ派の人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈りました。一方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈りました。主は「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われました。私たちに求められるのは自分の義ではなく、神によって与えられる義であり、自らを低くして神の憐れみにより頼み、福音を信じる信仰によってのみ与えられるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-11-26 08:22:28 (14 ヒット)
デボーションの友

2018/11/26 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:31-39 賛美 新聖歌 165
 イエスが語られた「わたしと父とは一つである。」という言葉はユダヤ人たちには イエスは人間であるのに自分を神とした、神を冒涜する者として受け取られた。その為、ユダヤ人たちはイエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。彼らに対しイエスは「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」と問われた。そして「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。」と問われた。そして「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」と語られる。他の箇所でイエスは「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。」(マタ 7:16)と語っておられる。人にはイエスを知ることが困難な場合がある。しかしイエスの御業、働きの実によって見分けることが出来る。

2018/11/27(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書45:1-5 賛美 新聖歌396
 バルクはエレミヤが語った預言を書き記してきた。エレミヤが人々に対して災いの言葉を語る時も、彼はエレミヤの傍にいて主の言葉を書き記し続けてきた。これはエレミヤにとっても苦難の道のりであったが、バルクも例外ではなかった。改めて災いの言葉を思い、現実に起こっていることを見た時に、バルクの心は悲しみと恐れに満たされた。そのとき、同じ苦しみと嘆きを経験しながら主に従ってきたエレミヤの口を通して神はバルクに語られた。バルク自身の状況にのみ目を向ける狭い視野から解放されて、神のなさる業を見ることを求められた。神が民に対してなさる審きは変わらないけれども、その中でバルクの命を守るという神の約束が与えられる。
 苦難の中にあってなお神に信頼し、希望をもって歩み続けることは困難である。神はそのような困難の中に、主に仕えるものを置かれることがある。しかし、そこには神の語りかけと、臨在と守りが伴う。主に忠実な者を主は顧みてくださる。

2018/11/28(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:40-42 賛美 新聖歌 434.
 石で打ち殺そうとするユダヤ人たちの手を逃れて、去って行かれたイエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所にやって来て、そこに滞在された。この場所はイエスの宣教の出発点であった。ジョン・C・ライルは「主がこの場所に、宮きよめの祭から十字架につけられる最後の過越の祭まで三、四か月にわたって滞在されたことは確実である。それは冬からイースターにかけてであった。(ライル福音書講解ヨハネ2P537聖書図書刊行会1987)」と述べている。多くの人がイエスのもとに来て「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」と言った。
 ヨハネはイエスの道備えをするために神によって遣わされた預言者であった。彼は何のしるしも行わなかったが、来るべき救い主について宣べ伝えた。ヨハネのメッセージを聞いていた人々はイエスを見てそのメッセージが真実であったことを悟り、イエスを信じたのである。権力者は預言者の首をはねることはできる。しかし、神の言葉はつながれてはいない。ここに主を証しし、宣べ伝える者の慰めがある。

2018/11/29(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書46:1-12 賛美 新聖歌354
 エレミヤ書の最後の部分に諸国に対する預言が収められている。ここではまずエジプトに対する預言が語られる。ファラオ・ネコの軍隊がカルケミシュに出陣していたのは紀元前605年にヨシヤ王が命を落とした戦いであっただろう。この時、ファラオが軍事拠点としていたカルケミシュにバビロンの王ネブカドネツァルが攻撃をしてエジプト軍が敗北を喫したのである。強大な軍隊を誇ったエジプト軍にとってこの戦いの結末は驚きであった。敗北によって軍はパニックに陥った。ギレアドで乳香を手に入れよと言われているが、エジプトでは医学も発達しており薬である乳香は十分に賄えただろう。それでもこのように勧められているのはエジプトが大きな痛手を受け、ここから回復することの難しさを伝えている。
 エレミヤはこの予想外のエジプトの敗北を主の業であるとしている。それは「主なる万軍の日/主が敵に報いられる報復の日」(46:10)であった。様々な面で力を誇る国々が永遠に栄えるように見えても、すべては主の御心に服するのである。

2018/11/30(金) 担当 高谷清師  詩 40:4-5 新聖歌 302
 苦難の中で信仰と忍耐を持って祈り続ける作者に神は救いを与えてくださった。滅びの穴、泥沼から引き上げ、岩の上に立たせ、しっかりと歩ませてくださった。作者の口からは神への賛美があふれ出た。この賛美について作者は「わたしの口に新しい歌を/わたしたちの神への賛美を授けてくださった。」と詠っている。この箇所についてA. ヴァイザーは「作者は、単に神の全き救いの経験だけでなく、彼が救いに対する感謝として歌った神への讃美の歌そのものもまた神の贈物であると見なす。人間が現にあるところの自分および自分の所有のいっさいを賜物として神の手から受けるこのことのうちに、信仰の真のへり下りの姿が示されている。」(ATD旧約聖書註解詩篇上P440ATD・NTD聖書註解刊行会1983)と述べている。パウロは「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」(汽灰 4: 7)と述べている。私たちの全存在は神に拠っているのである。謙虚な信仰に生きよう。

2018/12/1(土)担当 高谷由紀子師 マコ 1:29-34 賛美 新聖歌 127
 シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは主に召され、弟子として仕えていました。主は彼らと共にシモンとアンデレの家に行かれました。その時シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていることが主に伝えられました。それを聞かれた主はその病気を癒してくださいました。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来ました。主は彼らの病を癒し、多くの悪霊を追い出してくださいました。主は病に対しても、悪霊に対しても権威を持っておられるお方です。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-11-18 23:07:39 (17 ヒット)
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2018/11/19 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:22-30 賛美 新聖歌 224
 「わたしの羊」がどのような者であるかを語られたイエスは、続いて彼らの特権について「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」と語られる。この箇所についてカルヴァンは「わたしたちの救いが確固として確実なものであるのは、それが神の手のうちにあるからである。それというのも、わたしたちの信仰は虚弱なものであり、またわたしたちはあまりにも動揺しやすい性質をもっているからである。しかし、わたしたちをその庇護のもとにうけ入れた神は、その息吹きだけで、わたしたちの敵どもの気ちがいじみた好計や謀略を、すべて消滅させることができるほどに力強く、揺ぎない者である。わたしたちはそこに目をむけ、さまざまな誘惑の恐怖に、勇気を失うことのないようにしなければならない。それというのも、わたしたちの主イエス自身、わたしたちに、狼どものあいだにとどまっていながら、どうして羊たちが安心していられるか、その方法を明示しようとしたからである。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965上P360)と記している。私たちに与えられている永遠の命は私たちに依拠しているのではなく、全能にして永遠なる方に依拠しているのである。全幅の信頼をもって歩もう。

2018/11/20(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書44:14-19 賛美 新聖歌178
 人びとは明確にエレミヤに反論している。偶像礼拝を止めてただ主だけを礼拝しなければ、主が災いをくだされると語ったエレミヤに対して、人びとは全く対立する主張を行った。驚くことに、彼らは天の女王への礼拝を止めたからこそ災いが降りかかったと語る。神の民であるイスラエルの人々が、主に信頼して歩むことよりも偶像礼拝に信頼を置いてしまっている。人々は主を礼拝することを拒んだという意識はなかったかもしれないが、同時に災いから逃れているのは偶像礼拝のおかげだと考えている。どれほど真の神だけを礼拝しなさいという十戒からほど遠く隔たっているかと驚きを隠せない。
 真の神を否定するのではなく、それに加えて偶像礼拝の真っただ中で、人びとが罪を犯していることに気付くことが難しい。この現状を指摘されたときに素直に悔い改めることも、なおさら困難になる。しかし主の戒めはただ主だけを礼拝せよと教えることを心に留めたい。

2018/11/21(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:22-30 賛美 新聖歌 236
 イエスは「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」と語られる。この箇所についてジョン・C・ライルは「|主は今語られた力強い約束をさらに強めるために、御自分の羊がただ御自分のものだけではなく父のものでもあると言われた。父が彼らを子・キリストにくださったのである。「わたしの父は力があり、すべてにまさって偉大なすべての権威を持っておられるお方です。誰もわたしの父の手から「どんなものも」取り去ることはできません。だからわたしの羊の安全は二重に守られています。(ライル福音書講解ヨハネ2P517聖書図書刊行会1987)」と述べている。そしてイエスは「わたしと父とは一つである。」と語られる。この言葉について岩波訳は「31-33節の反応を見ると、5:18と同様、敵対者はこれを自分を神と等しいものにしたととっているが、意志の一致、全き従順ととることも可能。」との注釈を付している。私たちに永遠の命を賜るのは御子イエスの御心であり、父なる神の御心である。私たちの賜った恵は神の御心の確かさを感謝しょう。

2018/11/22(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書44:20-30 賛美 新聖歌253
 エレミヤと民は真っ向から対立する。人々はエレミヤの言葉に全く耳を傾けない。これほど頑なな人々に対してエレミヤはもはや説得する言葉を語らない。ただ神の裁きが迫っていることを譲歩なく、もう一度告げるだけである。人びとが天の女王への誓いと犠牲の義務に縛られているときに、預言者ははるかに大切な神の律法と教えに従うことを再び語る。その上で、全く心を開かない人々に対して自分勝手に生きればよいと述べて、罪を犯し続けるままにさせる。
 神はそれぞれの時代において神を信じて従う人々が正しい歩みに留まることができるようにみ言葉を通して警告し、愛情をもって正しい道へと導かれる。しかし人びとがその言葉に一切耳を貸さず、従わないならば、最終的に裁きが告げられるだけである。私たちも心を頑なにして主の導きを拒みつづけることがないよう、祈りとみ言葉の生活の中で主に導かれて歩もう。

2018/11/23(金) 担当 高谷清師  詩 40:2-4a 新聖歌 445
 表題においてこの詩はダビデに帰されている。2節の「主にのみ、わたしは望みをおいていた」と訳されている部分を新改訳は「私は切なる思いで主を待ち望んだ」ヴァイザーは「切なる思いで、わたしは主を待ち望んだ。」カルヴァンは「わたしは耐えに耐えて(あるいは「忍耐強」1)主を待ち望みました」と訳している。この箇所についてカルヴァンは「たとえ主が、その助けを遷延されたとしても、ダビデの勇気が苦悩のゆえに冷却することはなかったので、その忍耐の証左を示したのちには、ついに聴き入れられたのである」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑33教出版社1971)と述べている。長引く苦難にも関わらず、神に望みを置く忍耐強い祈りを神は聞き入れ、滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、岩の上に立たせくださったのである。主イエスは「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ 11:9-10)と教えておられる。長引く試練のうちにある時にも忍耐強く祈り続けよう。主は必ず聞いてくださる。

2018/11/24(土)担当 高谷由紀子師 箴 30:25 賛美 新聖歌 321
 夏真っ盛りの暑い時、キリギリスは声高らかに歌い、楽しい毎日を過ごしていました。その足元で蟻は汗を流して自分の体より大きい荷物を運んで働いていました。そうしているうちに冬がやってきました。蟻は夏の間一生懸命働いて貯えておいた食べ物があったので困ることなく、厳しい寒さにも命を保ち続けることが出来ました。キリギリスは食べ物が無くてとうとう死んでしまいました。蟻は歌って遊ぶこともなく、力もありません。しかし、夏の間、冬に備えて働いていたことで命を長らえました。蟻は「暑いから」「また後で」「明日に」と、今日為すべきことを明日に延しませんでした。聖書は「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレト 3:1)と告げています。今の時の為すべきことを怠ることなく日々を過ごしましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-11-11 22:37:32 (29 ヒット)
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2018/11/12 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:22-30 賛美 新聖歌 361
 冬、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた時、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられたイエスをユダヤ人たちが取り囲んで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と言った。19節には「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた」と記されている。ある者たちは「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。」と言い、ほかの者たちは「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」と言っていたのである。これらのことから、ユダヤ人たちの心は「イエスはメシヤではないか」という、一抹の想いがあったことがうかがえる。ユダヤ人たちの問いに対してイエスは「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。」と答えておられる。ヘブル書の記者は「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」(ヘブ 4: 2)と述べている。御言葉は信仰によって受け入れられるべきものである。常に信仰によって歩もう。

2018/11/13(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書43:8-13 賛美 新聖歌254
 エルサレムの陥落を生き残った人々が遂にエジプトへと逃げ延びた。彼らの土地に留まれと言われた神の言葉に従わず、自らの考えに従って安全であると思われたバビロンと並び立つ強国のエジプトについに逃れた人々には、これでようやく安全が保障されるとひとまず安どした瞬間であっただろう。しかしこの時エレミヤが語った主の言葉は彼らの気持ちを逆撫でするものであった。大胆にもエレミヤはエジプトの中心地であるファラオの神殿がバビロンの王のものとなると語った。ユダの人々が逃れて来たあの廃墟エルサレムと同じことがこのエジプトにも起こる主は語られた。並び立つ大国であったエジプトが上着のしらみを払い落とすようにいとも簡単に滅ぼされると言う。
 人びとは状況が表面上好転すれば神がなんと言われようと自分の望む通りにことが進み、神の言葉は現実的ではなくなると考える。神の言葉は一貫している。神が定め、行うと言われたことを神は実現される。私たちに神は何を語り、どのような態度で歩むことを求めておられるだろうか。正しく聞き分けたい。

2018/11/14(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:19-21 賛美 聖歌 501
 ユダヤ人たちの言葉に対してイエスは「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」と答えられた。そしてご自分の羊について語られる。「羊」という言葉についてジョン・C・ライルは「主が最も言わんとされたのは、羊が全面的に羊飼いに依存しているということである。羊がその羊飼いの声を聞き、従って行くように、信者もキリストに従うのである。彼らは信仰によってキリストの呼び声を聞き、その導きに従い、彼により頼んで自分の魂を無条件的にゆだねている。羊と羊飼いの表徴的表現は、キリストと真の信者との関係を最もよく表しているものである。(ライル福音書講解ヨハネ2P502聖書図書刊行会1987)」と述べている。キリストとキリスト者の関係は信仰である。キリストの言葉、神の言葉はそのまま信じられるべきである。しかし今の時代は日々報道される詐欺事件などのように単純に信じることの危険な時代である。このような事例だけではなく、聖書の言葉を用いて語られるものさえもその危険をはらむ。そこで常に聖霊に満たされることが重要である。パウロは「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(汽灰2:14-15)と述べている。常に聖霊に満たされ、導かれて歩もう。

2018/11/15(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書44:1-13 賛美 新聖歌369
 エジプトに逃れた人々はこれでもう安全だと胸をなでおろしていただろう。しかしそこでも神は以前と同じメッセージを語り続けられる。どんなにエルサレムから遠くに逃れようとも、神は彼らにエルサレムが陥落した現実と向き合い、それが起こった理由から目を背けないように導かれる。神は怒りの故に町々を破壊された。その怒りの原因は民が異教の神々に礼拝をささげたからである。すなわち民の偶像礼拝こそが町々の破壊を引き起こした。この民が悲劇的な出来事を体験したとしても、そしてどれほど遠くにこの惨状から逃げ出したとしても、彼らが心から悔い改めて偶像礼拝から離れない限りどこまで行っても同じように神を怒らせ続けるのである。
 犯した罪を棚に上げて、苦しい体験に不平を述べ続けたり、苦境に立たせた神を責め続けるようなことを私たちもしていないだろうか。み言葉と聖霊の導きによって正しく状況を判断し、神との関係を吟味し、神に喜ばれないものがあるならばそれを悔い改めることによって神との関係が正されていこう。

2018/11/16(金) 担当 高谷清師  詩 40:1-18 新聖歌 172
 この詩編は大きく二つの部分に分かれている。1―12節は感謝の歌に分類されるが、13―18節は嘆きの歌に分類される70編とほとんど同じである。このことからこの詩編を二つの詩に分ける見解が広まっている。しかし鍋谷尭爾師はヴァイザーの文章を引用しつつ「ヴァイザーは、これを深い信仰体験として十分にありうると統一性を擁護して、次のように言います。「このかつての(救いの)信仰体験を頼みの網とし、これによってはじめて彼の祈願は正しい確かなものとなり、純粋な祈りに変えられてゆくのである。彼は早急に自分の苦難から救い出して欲しいという利己的な動機をまず退けることによって、目と心をひたすら神に集中し、神とのつながりがまだ失われていなかった過去の経験に思いをこらす。この点にこそ、真実な信仰によってのみ与えられる謙虚な服従の姿が示されているのである。すでに与えられている信仰と、信仰の確証を求めようとする苦闘――この両者の間の緊張は、最後の一句」に至るまで、この詩篇を貫いている。この歌詞を複数の作者と状況に分けて解釈することにより、こうした緊張を骨抜きにしてしまってはならない。むしろこの緊張こそは信仰の本質に属するものであり、聖書における祈り手が示す純粋な、生きた信仰の証なのである。彼は信仰の生涯の山を越え、谷を越え、経験から希望へと歩みを進めていく。作者の内面的状況を以上のようにとらえることによって、この詩を人生の真実に即した統一あるものとして理解することが可能になる」(鍋谷尭爾 「詩篇を味わう」335―336Pいのちのことば社 2005)と述べていられる。私たちの信仰生活には順風の時があり、試練の時がある。試練の時には「神は私を見捨てられたのか」との思いが頭をよぎることがあるかも知れない。しかし神は順風の時にも試練の時にも共にいてくださる。順風の時の信仰体験は試練の時の支えである。

2018/11/17(土)担当 高谷由紀子師 マタ 16:13-20 賛美 新聖歌 342
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。これに対して弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。イエスが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」とお尋ねになるとペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。イエスはこの答えを喜び「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われました。
 イエスを偉大な宗教家、尊敬すべき教師、指導者と認めるだけでは十分ではありません。「メシア、生ける神の子」と認めることこそ大切です。それは神の啓示によってのみ、可能なのです。


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